彼の名は
「何じゃ、こりゃ」
若者を見据えて、老人はそう言った。
……ように、聞こえた。
さびのきいた声は低くかすれて、はっきりとは聞きとれなかった。
沈黙の中、若者がどう反応してよいか迷っているうちに、
「何じゃ、こりゃ」
老人は、やや声を張り、わざわざもう一度言った。
今度は、誰の耳にもはっきりと聞こえた。
「おい」
言いながら、老人は一歩、また一歩と前に出てくる。
近くで見ると、胸板の厚みが若者の二倍くらいあった。
あまりの「圧」に若者は思わずロバからずり落ちそうになったが、老人が詰め寄ったのは若者本人にではなく、彼を連れてきた三人の戦士たちのうちの一人、金髪の男にである。
「こりゃ、何じゃ?」
眉をつりあげ、語順を変えただけで、同じことを言った。
詰め寄られた金髪の男のほうは、直立不動のまま微動だにしない。
スパルタ人は、年長者を非常に尊敬し、その言葉にはきわめて従順である……と話には聞いていたが、これほどまでとは思っていなかった。
つい先ほど、仲間の妹に向かって容赦なく槍を振り回した男と同一人物であるとは信じがたいほどの神妙さで、金髪の男は答えた。
「はい。この者は、我らがアテナイより連れ帰った男です」
「男?」
老人は目を細くし、ゆっくりと左右を見回した。
「どこにおる?」
「ここに」
金髪の男はゆっくりと手を伸ばし、ロバの上の若者をさししめした。
態度こそ丁重だが、すさまじく度胸のある行為だ。
この状況で、なかなか並の男にできることではない。
さししめされた若者は、息を止めて長老を見返していた。
この時点で、さすがに、自分が歓迎されていないことには気づいていた。
だが、なぜだ?
「おまえたちに与えられた任務は、いかなるものであったか」
と、長老は金髪の男を見すえて問うた。
「はい。自分たちの任務は、輝けるアポロン神が下された神託に従い、アテナイ市から、ひとりの男を伴って戻ることでした」
「その神託とは、いかなるものであったか」
「はい。……『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』です」
「え!?」
声をあげたのは、むろん若者である。
将軍。
聞いていない。
そんな単語、まったく、一度たりとも聞かされていない。
『デルフォイにおわす遠矢の神が、おまえを、スパルタに呼んでおられるというのだ』
父親は間違いなく、そう言っていた。
俺が、呼ばれた。
そのはず、だった。
「さよう、将軍をな」
長老は、再びゆっくりとあたりを見回した。
「どこにおる?」
誰も、何も言わなかった。
その静けさが異様に怖い。
もはや、尻の痛みなどは忘却の彼方だ。
事情はまったく飲みこめなかったが、ただひとつだけ、はっきりしていることがある。
(今、俺が、下手にものを言ったら、殺られる――)
今となっては、先ほどからのスパルタ人たちの視線に込められていたものが興味ではなく、驚愕と不信、怒りであることがはっきりと分かった。
もしも今、彼らが激昂していっせいに飛びかかってきたら、自分はディオニュソス神の信女らに引き裂かれる犠牲獣のように、生きたままばらばらにされてしまうだろう。
(おい、あんた、何か言ってくれ! あんたたちが、俺を、ここに連れてきたんだろうがっ!?)
若者の祈るような思いが通じたのか、金髪の男が、再び若者を示し、口を開いた。
「はい。将軍は、ここにおります」
「阿呆か。……おまえは、阿呆かっ!? こんな生白い、ひょろひょろの、棒切れのような若造が、戦場でいったい何の役に立つと言うんじゃっ!?」
(うわあ)
ついに唾を飛ばして怒鳴りはじめた老人に、若者は思わず天を仰ぎたくなった。
事実なので否定できないのが悲しいところだが、あまりといえばあまりな言いようだ。
だが、飛び散る老人の唾をまともに浴びてなお、金髪の男は落ち着いていた。
「どうか、お気持ちをしずめられ、私の言葉をお聞きください。……アテナイ人がこの男を推挙したとき、私は、アポロン神に供儀を捧げ、この人選が神意にかなうものであるかどうか、うかがいをたてました」
「なにっ?」
「私も、我が目を疑いましたので」
疑っていたのか。
無表情すぎて、まったく分からなかった。
道理でスパルタへと旅立つ前に、真夜中だったにもかかわらずアポロン神の社に連れていかれたはずだ。
金髪の男は、神域の番をする神官を叩き起こし、供犠を捧げに行った。
自分は、後の二人とともに残って待っていたのだが――
思い返せば、そのとき二人に話しかけて、よく事情をたずねておけばよかったのだ。
戦士たちのあまりの無口ぶりに、つい話しかけるのを遠慮したのだが、そんな場合ではなかった。
もしも今、あの時に戻れるものなら、ぼんやり待っていた自分を思いきり殴りたい。
「アポロン神は『この男をスパルタに伴うことを嘉する』というしるしを、私が捧げた犠牲獣の肝臓のかたちに、はっきりとあらわしておられました」
金髪の男は、従順な態度を崩さず、淡々と答えた。
「スパルタの命運を左右するこのたびの任務に、個人的な意見をさしはさむことは許されぬと判断し、私は、アポロン神の下された啓示にしたがうことにしたのです。この判断は、間違っていたでしょうか?」
つまり、個人的な意見としては、連れて来たくはなかった、ということか。
いや、それどころではない。
(スパルタの命運を、左右する……?)
ただならぬその言葉は、若者の意識にしっかりと引っかかった。
先ほど話に出てきた『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』という言葉といい、どうも、予想を超えた事態に巻き込まれつつある気がする。
いや、「巻き込まれつつある」どころか、すでに「巻き込まれてしまった」のではないか――?
スパルタの男たちは顔を見あわせ、ざわざわと声を上げはじめた。
誰ひとりとして、納得していない様子である。
だが、アポロン神の意志に真っ向から逆らうことのできる人間など、いるはずがない。
神々の意思は絶対であり、人の運命も、市の運命も、他ならぬ神々によって紡がれ、いかようにも引き回されるものなのだ。
かのイリオンの歌も、他の名高い詩もみな、そのように語っているではないか。
(良かった……)
きな臭い雰囲気を感じる一方で、若者は、心の底から安堵してもいた。
これで筋肉男たちにぶん殴られずに済みそうだから、というだけではない。
(俺が、スパルタまで来たことは、まちがいではないんだ)
想像とはかなり異なった展開になりつつあるものの、輝けるアポロン神は、確かに、俺のスパルタ行きを嘉してくださったという。
ならば、何ひとつ、恐れることはない。
勇気を出して、胸を張ろう。
「本物の詩人になる」という志をまっとうするつもりなら、人相の悪い筋肉男たちに取り囲まれたくらいのことで、慌てていてはだめだ。
いつかは、この連中がみんな、俺のまわりに集まってくる。
俺の詩を聴くために。
そして、俺の詩の中に自分の名が織り込まれることを至上の誇りと思い、俺の詩を声に出して歌うことを何よりの喜びとするようになるのだ――
「ふん。……なるほど。そういう次第ならば、致し方ない。神々の深遠なる御考えは、時として、まったく計りがたいことがあるものよ」
老人は見るからに不満げな様子で言い、そこから、不意に調子をあらためた。
「この客人の処遇については、ひとまず保留とする。我ら長老会で話しあい、その結果を、民会において、諸君らに諮る。――男たちよ! それでよいか!?」
『おう!!』
百人以上の返答が、完璧にそろった。
腹の底まで響いた声にたまげた若者は、思わず、ロバの背から飛び上がり、
「うぎゃっ」
どすんとつけた尻から発した電撃のような痛みに、またもや飛び上がり、
「あががっ! うぐ……」
ずるずると横ざまにロバの背から滑りおち、どてんと地面に転がった。
周囲の男たちが、再び静まり返る。
ほこり一粒、地面に落ちても、聴き取れそうなほどの静けさだ。
やがて、若者が呻きながら起き上がり、ひょこひょこと独特の足取りで二、三歩よろめくと、
「カッ……」
ぶはっ、と誰かが吹き出したのを皮切りに、男たちのあいだから、すさまじい哄笑が湧き起こった。
「蟹だ!」
一番間近にいた男が指さして叫び、その呼び名は、あっという間に広場じゅうに伝播していった。
カルキノス! カルキノス! カルキノス!
男たちは大声で叫び、互いに肘でつつき合い、背中を叩き合って、げらげらと笑い転げた。
さっきまでの無口さは何だったんだと思いたくなる狂騒ぶりである。
見れば、長老たちまでもが腹を抱え、身をよじって爆笑していた。
年甲斐のないじじいどもである。
(何だ、おまえら……何だ!)
あまりの尻の痛みと周囲のやかましさに、言い返すこともできず、若者は涙目になってきょろきょろしながら男たちをにらみつけるばかりであった。
(おまえらなんか、そろいもそろって岩石の親類の、脳筋腕力馬鹿どものくせに! おまえらの変な歌を作って広めるぞ、こらっ!? 誰が蟹だっ!?)
こうして若者は、まだ一言も名乗らないうちから、「カルキノス」という名で呼ばれることになってしまったのである。
※主人公の身体的特徴を人々が揶揄する描写がありますが、無論、このような行為を肯定する意図をもって書いているものではありません。