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骨の海

 グラウコスは、必死に目を凝らしながら、暗い山道を駆け下りていた。


「うおッ」


 浮き石を踏みつけ、ごろりと足が滑る。一瞬、息が止まった。

 だが、勢いがついていたことが幸いし、体勢が崩れるより先に次の一歩が出て、辛うじて転倒を免れた。

 一拍おいて、全身に冷汗が噴き出した。


「危ないッ! くそッ!」


 足を止めぬまま大声で叫び、自分自身に気合いを入れ直す。

 手にした松明は足取りにつれて激しく揺れ、光が踊り回り、足元の凹凸を見極めることが難しい。

 うかうかしていると、一瞬後には足首を折るか、頭から斜面を転げ落ちることになりかねなかった。


 グラウコスはいつの間にか、他の戦士たちを遥かに引き離し、男たちの先頭を走っている。

 だが、一番速く走っているというわけではない。

 松明の光が届くぎりぎりのところに、先ほどからずっと、白っぽい布切れのようなものがひらひらと翻るのが見えている。

 アクシネがまとう衣だ。


 足元も定かでない夜の山道を駆け下りるという、この上なく神経をすり減らす状況であるにも関わらず、アクシネの速度は人間離れしていた。

 こちらが鎧を身に着けていることを考え合わせても、男が女に追いつけないなどということは、普通は考えられない。

 しかも、先をゆくアクシネは、灯りさえ手にしていないのだ。

 その姿は、少しずつ、小さくなっていた。

 まるで、乙女たちの守り神にして野獣たちの女主人、アルテミス女神が彼女の先に立ち、導いておられるかのような走り。


「人妻になってもッ……アルテミス女神の御加護があるとはッ、あいつは、獣かッ、まったくッ!」


 毒づきながらも、飛び出さんばかりに目を見開き、アクシネの背中を必死に追う。

 息が上がり、喉の奥に血の味がした。

 粉袋でもくくりつけているように、腕も足も重い。

 もしも、次に足が滑ったら、今度は立て直せないかもしれない。

 もう駄目だ。苦しい。もう、走れない――


「うおおおおァ! らああッ! だぁらあァァァッ!」


 最後の力をふりしぼって雄叫びをあげ、グラウコスは、山から、飛び出した。

 一気に視界がひらける。

 折しも、朝日が昇った。

 まばゆい光がグラウコスの目を射る。

 広がる農地を照らし出す黄金の光の中を、遠く、アクシネが走ってゆく。


「カルキノス! カルキノスうううう!」


 これほど離れていても届くほどの大声で、叫んでいるのが聞こえた。


「ばかたれィッ……」


 グラウコスは、顔を歪めた。

 怒鳴りつけたかったが、喉は荒い呼吸のために乾ききって、大声が出せなかった。

 日の出だ。そろそろ起き出す者たちもいるだろう。

 あんなふうに騒ぎたてていては、カルキノスが姿を消したことが、この辺り一帯に知れ渡ってしまう。


 アリストメネスが死んだとはいえ、反乱者たちの残党はまだまだ残っているのだ。

 そこへ、スパルタの将軍が失踪したなどという噂が広まれば、それに乗じて、もう一波乱起こそうと企む連中が現れるかもしれない。


 足を止め、何度も唾を飲みこみ、深呼吸をした後で、


「……アクシネェ!」


 喉も破れよとばかりに声を張り上げ、呼んだ。

 それが耳に入ったのか、すでに豆粒ほどの大きさになっていたアクシネの姿が、立ち止まったように見えた。

 農地の中を伸びてゆく細い道の真ん中で立ち止まったアクシネは、しばらくじっとしていたかと思うと、不意に横に折れて、背の高い茂みの中へ駆け込み、見えなくなった。


「だあああァ! くそッ!」


 そちらへ行けば、だんだんと地勢が高くなり、やがては再び山へと踏み入ることになる。

 もう一度山に入られたら、もう、追いつくことはできないかもしれない。


(何のあてがあって、あんな……)


 犬が、人間の耳には聞き分けられない物音を感じとり、頭をもたげたり、駆け出したりすることがよくある。

 アクシネは、ちょうどそういう獣のように、グラウコスには分からない何かを聞きつけているのかもしれない。


 鎧のふちに激しくこすれた肌が、ひりひりと痛みはじめる。

 グラウコスは歯を食い縛って走り、ちょうどアクシネが姿を消したあたりまで来ると、枝葉のかき分けられた痕跡を見つけ、思い切って茂みの中へと踏み込んでいった。


「うおッ!」


 十歩も行かないうちに、棒立ちになったアクシネの背中にぶち当たりそうになり、つんのめるように立ち止まる。

 危ないだろうがッ! と怒鳴りつけようとして、できなかった。

 アクシネの全身が緊張している。

 彼女は少し背中を丸め、振り向きもしないまま、こちらに手のひらを向けていた。

 動くな、静かに、という仕草だ。


 グラウコスはぐっと眉を寄せ、あたりの物音に耳を澄ました。

 かさ、という音。自分が体重移動したために、足元の草が動いてこすれたのだ。

 鳥の鳴き声。

 そして――

 ほんのかすかな、だが、はっきりと、自然界のものとは違う音色。


(竪琴の音!?)


 アクシネが、ばっと振り向いてくる。二人は、顔を見合わせた。


「カルキノスかッ!?」


「わたしも、そうとおもった。……でも、なんか……」


 アクシネは言葉を切り、首を傾げて耳を澄ました。

 竪琴の音は、とぎれとぎれに響き続けている。

 知っている曲ではなかった。

 曲を奏でているというよりも、まるで独り言でも呟くように、そぞろに弦をかき鳴らしているといった風情だ。

 やがて、


「こっち!」


 出し抜けにそう叫び、アクシネは茂みの中に駆け込んでいった。


「とうっ!」


「――うわあぁ!?」


 アクシネの声に続いて、素っ頓狂な悲鳴が聞こえてくる。

 グラウコスが慌てて駆けつけると、茂みの中の、少し高くなってひらけた場所に出た。

 わずか数歩分の、その空間の真ん中に、地面に引っくり返った男の脚と、男の上に馬乗りになったアクシネの姿がある。


「やっぱり、ちがってた……カルキノスじゃないやつだった。ざんねんだー」


「テル・パン・ド・ロス!」


 アクシネがうなりながら男の上からどき、金の髪をぼさぼさに乱した詩人が、叫びながら起き上がってくる。

 彼は吹き飛んだ竪琴を草の上から抱き上げ、心配そうにあちこち撫でまわして確かめると、ふと顔を上げ、そこでようやくグラウコスの存在に気付いたようだった。


「やあ、君まで。どうして、こんなところに?」


「先生こそ……」


 グラウコスは、漠然と手を振って辺りを指し示した。

 一面の草と、広がる畑しかないこんな場所に、なぜ詩人のテルパンドロスが朝っぱらから座っているのかが分からない。


「ああ」


 テルパンドロスはグラウコスの疑問に気付いたようで、ふっと笑った。


「僕は、詩想を得るために、ここにいたのさ。つまり、歌の源泉から水を汲もうとしていたんだよ。

 ほら、見たまえ。ここは、一段高くなっていて、東に向いて土地がひらけているだろう? 風の音と鳥の声を聴きながら、夜明けのはじめから終わりまでを見つめることができる。そうすることで――」


「カルキノスは?」


 出し抜けに、アクシネが言った。テルパンドロスの言葉を、何ひとつとして聞いていない。


「……カルキノス将軍を、お見かけになりませんでしたか」


 きょとんとしているテルパンドロスに、グラウコスが、辛抱強く言葉を補う。


「彼を? ああ、見」


「みた!?」


 みなまで言わぬうちに、アクシネが目にも止まらぬ速さで飛びかかり、テルパンドロスを再び地面に引き倒した。


「カルキノスみた? みた!? いつ!? どこ!?」


「ぐぐぐぐぐぐぐ」


 アクシネの力強い腕にぎゅうぎゅう絞めあげられ、テルパンドロスは激しく脚をばたつかせてもがいた。


「つっ、つい、さっき……いや、ちょっと前だな。夜明け前だよ。夜明けの、直前。

 黒々とした空が青みを帯び、そこに黄金の――」


「どこ!?」


「どっ……どこって、君たちが来たのと同じ、そこの道だ。ほら、そこで伸び上がれば、下の道が見下ろせるだろう?

 彼は、一人で歩いてきたんだが、何だか、ひどく取り乱していたな。うん、様子がおかしかった。おう、おう、と嘆きの声を上げながら、通り過ぎていった。僕がここにいることには、まったく気付いていないみたいだった。

 こちらからも、声はかけなかったよ。ああいうときには、そっとしておいてもらいたいものだろう?」


 ぽかんとしているアクシネの手の下からどうにか抜け出し、テルパンドロスはまた竪琴の様子を確かめながら、グラウコスに向かって頷いてみせた。


「本物の詩人は、必ず、魂の苦悩を経験するものだ。僕にも経験があるよ」


「カルキノス、どっちへいった?」


 アクシネは、もう、今にも走り出しそうにしている。

 彼女に詩人の苦悩について説明することは諦めたのか、テルパンドロスは、眼下にのびる細い道をなぞるようにして指を動かした。


「あっちへ、歩いていったよ」


「あっち!」


 アクシネはその場で飛び上がり、それから、道のほうへ駆け下りていった。

 テルパンドロスはその背中を呆れたように見送っていたが、ふと、怪訝そうに視線を戻した。


「君は、行かないのかい?」


 グラウコスは、その場に立ち止まったまま、テルパンドロスが指し示した方角を見つめている。

 その道ののびる先には、ひときわ高く険しい峰が聳えていた。


「あの山は……」


 グラウコスの表情がかげった。


「どうか、したのかい?」


 テルパンドロスの口調には、あくまでも屈託がない。


「……先生は、ご存じないか」


 呟いたグラウコスは、急に面持ちを改め、テルパンドロスに向かって姿勢を正した。


「詩作のお邪魔をして、申し訳ありませんでした。ありがとうございました。では、これで!」


「──君!」


 駆け出そうとしたところを呼び止められ、振り向いたグラウコスの表情には、隠そうとしても隠しきれないもどかしさが滲み出ていた。

 それに気付いていないのか、気付いても、気にしていないのか。


「カルキノスに伝えておいてくれたまえ。僕はまだ、君と歌で競うのを待っているって」


 そう言って、テルパンドロスは、力強く頷いてみせた。



     *      *      *



 空が、見える。

 青い空だ。

 雲ひとつなく、どこまでも広がっている。

 その澄みきった青は、ただ、見えているというだけで、それが何を意味するのかは分からなかった。

 頭がぼうっとして、何も考えられない。

 何が起こったのか、分からなかった。

 自分は、どうしたのだったか。


 ――落ちた。――そう、落ちた。崖の上から。地面が、崩れた。

 ――木だ。灌木をつかんだ。その木が、折れて――


(死んだ?)


 体が動かない。

 そもそも、動かすべき体など、もう存在しないのかもしれない。

 自分はもう死んで、何を為すこともなく、永久に影の国にとどまる亡霊になってしまったのかもしれない。


(でも、ここは、明るい……)


 冥府にしては奇妙なことだった。

 青い空が、ある――


 乾ききった地面にわずかずつ雨水がしみこむように、ゆっくりと、自分が今どういう状況に置かれているのかが飲みこめてきた。

 青い空。

 本物の、空。

 自分は、落ちたはずだ、崖の上から。

 だが、それでも、目が見える。まばたきができる。

 息も、できる。


(生きている?)


 そう感じた瞬間、自分の心を貫いた衝撃を、何と呼べばいいのか、カルキノスには分からなかった。


(体は)


 自分の体は、どうなってしまったのだろう。

 痛みは感じなかった。

 もう、痛みすら感じることもできないような状態なのだろうか。


 首を起こして様子を見ようとしたが、頭が持ち上がらなかった。

 それだけではない、体のどこも、ぴくりとさえ動かせない。

 体の両側が、ひどく窮屈だった。

 自分は、何か、狭い隙間のような場所にはまりこんでいるようだ。


 そのときになって、やっと、視界の端にずっと見えていたものに気付いた。

 緑の葉。枝。


(木……)


 勇気を出して、力を入れ、体をひねってみる。

 まわりから、がさがさ、ぱきぱきと音がした。葉が折れ、枝がこすれ合う音。

 ここは、木の上なのだろうか。


 腕が、ある。動く。

 どうやら自分は今、両腕を振り上げた姿勢でいるようだ。

 足も、動く。左脚も、曲がらない右脚も。


「ふうんっ!」


 声を出して、腹筋に力を入れ、起き上がろうとしたが無理だった。

 ふと気付き、カルキノスは、頭上で固く握っていた両手を、苦労しながらゆっくりと開いた。

 落ちる瞬間につかんだ灌木の折れた枝を、彼は、渾身の力で握りしめたままだったのだ。

 自由になった両手で、周囲の葉を押し分け、体を起こす。


 そこは、森の中だった。

 あのとき、崖の下に広がっているのがちらりと見えた、あの森だろう。

 カルキノスは、木の上ではなく、地面の上にいた。

 なぜ自分がこうして生きているのか、わけが分からなかった。

 だが、見下ろすと、かなりの太さがある木の枝が何本も折れて、自分の下敷きになっていた。

 いずれの神の助けか、自分は、まさにちょうど木々の枝が体を受け止めてくれるような場所に落ちたのだ。

 次々と枝が折れて、落下の勢いを殺し、最後には、地面に叩きつけられる衝撃を和らげてくれた。

 カルキノスは、夢の中にいるような気分で重なり合う枝葉を押しのけ、地面に降りた。


 ぱりり、と、卵の殻を踏み割ったような感触があった。

 見下ろして、カルキノスは、言葉を失った。

 踏みつけたものは、白いもの。

 骨だ。

 地面は、一面の、骨の海だった。


 折れたもの、割れたもの、形を保ったもの。

 小指の先ほどの小さなかけら、手のひらほどの大きさのもの。

 目の届くかぎりの地面に散らばる、白いものすべてが、骨だ。

 きのこの傘のように、ぽこぽこと白く丸いものが見えているのは、頭蓋骨だ。

 人間の、頭蓋骨だ。

 頭上に、生命力に満ちて生い茂る森の木々の葉があり、その下の地面に、一面の死が広がっている。


(ここ、は……)


 冥府か。

 やはり、自分は、すでに死んでいたのか?

 一度、死のうと心に決めた。

 本当に死ぬと感じたとき、生きたいと思った。

 そう思った刹那に、死を覚悟させられた。

 そして、死んだと思ったら、生きていた。

 それなのに、生きていたと思ったら、死んでいた――


 意識が二重、三重にねじれてゆくような感覚におそわれ、カルキノスはその場にへたり込んだ。

 自分は、死んだのだ。

 もう・・取り返しが・・・・・つかない・・・・

 その事実が、じわじわと意識に浸透してくる。

 この感覚を、絶望と呼ぶのだろうか。

 もう、取り返しがつかない――


 ピイッ! と、鋭い音が響いた。

 カルキノスは、反射的に顔を上げた。

 頭上の梢のどこか、右手の方から、続けざまに甲高いさえずりがいくつも湧き起こった。

 軽い羽ばたきの音が聞こえた。

 姿は見えなかった。

 鳥だ。


(鳥が……いる……)


 カルキノスは、呆然としながら、震える両手で地面に触れた。

 湿っている。

 指を鼻に近づけると、むんと土のにおいが鼻をついた。

 振り向き、自分を受け止めてくれた木の枝から、葉を一枚むしりとった。

 口に入れ、噛んだ。

 何とも言えない苦みと、青臭さと、清涼感のある香りが広がった。


(湿り気が、ある。においも、味もある。……感覚がある……)


 それでは――

 自分は、やはり、生きているのではないか?


 だとすると、目の前に見えている一面の骨は、何なのだ。

 ここは、いったい、どういう場所なのだ。


 懸命に気を落ちつかせながら、目を凝らす。

 散らばっているのは、ひどくかぼそい骨ばかりだった。

 風雨にさらされて傷んだから、というばかりではなさそうだった。

 脆くなって壊れたというふうではなく、もともとのかたちが細すぎたり、奇妙にねじれたりした骨がたくさんあった。


 カルキノスは、不意に、何かを思い出しそうになった。

 このことと関係のありそうな、何か。

 だが、それが何なのか、はっきりと名指しすることができなかった。


(何だ)


 かぼそい骨の海。

 よく見れば、転がっている頭蓋骨はどれも、大人のそれより遥かに小さい。


(何だ……)


 赤ん坊・・・だ。

 それに気付いたとき、心臓が鼓動を飛ばしたような気がした。



『スパルタでは、足の不自由な男はそんなに珍しいですか?』


『いいや、そんなことは、ないですな。戦で傷を負う者は、いつでも、おりますのでな』


『はあ。まあ、そうでしょうね』


『しかし、生まれつき脚が不自由だという者は、スパルタにはおりませんな』



 思い出した。

 いつだったか、戦場で、老予言者と交わした会話。

 あのときは、その言葉の意味を確かめることができなかった。

 今になって、ようやく分かった。

 スパルタに、生まれつき脚が不自由だという者がいないわけ。

 道を歩いていて、自分と同じような小さな子供を、これまで一度も見なかったわけ――


 この場所に横たわっているのは、生まれてきて、生きることを許されなかった子供たちの骸だ。

 強健な体を授からなかったために、胎内から出て間もないうちに捨てられた赤子たちだ。


『戦うこと、それも勇敢に戦うことは、スパルタの男の義務だ。それができない者は、スパルタの男じゃない』


 いつだったか、グラウコスが言っていた言葉を思い出した。

 戦うことのできない者は、スパルタでは、生きることを許されない――


 スパルタにやってきてすぐの頃、足の不自由な自分が、曲がりなりにも排斥されることなく受けいれられたのは、輝けるフォイボス・アポロン神アポローンの神託に守られていたからだ。

 もしも、自分がひとりの赤ん坊としてスパルタに生まれていたなら、きっと、名を付けられることもなく、ここに散らばる物言わぬ骨たちにまじって、誰にかえりみられることもなく永久に横たわることになっていたのだ。

 力が、抜けた。


『戦うこと、それも勇敢に戦うことは、スパルタの男の義務だ。それができない者は、スパルタの男じゃない』


 戦士の存在価値が、戦うことにあるとすれば、詩人の存在価値は、歌をつくり、歌うことだ。

 だが、もう、死を讃えるような歌は歌いたくない。

 戦の歌を歌うことのできない自分には、もはや、スパルタで生きる価値はないのではないか。

 たとえ、ここから生きて戻ったとして、自分を迎え入れてくれる場所はもうないのではないか。


 一瞬、誰かの顔が浮かびそうになったが、目の前に散らばる骨の海と、そこからひたひたと押し寄せてくる虚無的な感情が、その面影をかき消してしまった。


 一度捨てようとした命を、こうして奇跡のように拾ったことにも、意味はなかったのか。

 ああ、中途半端に、木の上などに落ちたことが悪かったのだ。

 気を失ったまま、地面に叩きつけられて、一思いに死んだ方が良かったのだ。

 そうすれば、こんな思いをすることもなかった。


(もう、いい……)


 そう考えたとたん、骨の海がぼうっとかすみ、目の前が真っ白になった。

 このところ、ろくに食事もとっていなかったのだ。

 肉体を突き動かしていた気力の糸が切れたとたん、速やかに意識が遠のき、カルキノスは、骨の海に沈みこむようにして倒れ伏した。




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