勇気
まばゆい朝の光が、背中にぶつかるのを感じた。
同時、目の前に、自分自身のひょろりとした影が伸びてゆく。
その行く先に、細い道が続いている。
ほとんど見落としてしまいそうなほどに細い、しかし、確かに何人もの人間がそこを踏みしめていったと分かる道が。
「おお……」
頻繁に往来のある道ではない。
その証拠に、勢いよくはびこる野草が左右からかぶさり、路面を覆い尽くしそうになっている。
それらの野草の中には、かたい枝葉を持つものもあったが、そういったものを踏みつけても、いつの間にか、傷を負うことはなくなっていた。
スパルタで過ごしてきた年月のあいだに、少なくとも足の裏だけは、スパルタで生まれ育った男たちに劣らず鍛えられたようだった。
「おお、おお」
涙を零し、声を発しながら、杖をついて歩いてゆく。
目の見えない者のように、片手を前に突き出し、頼りなく動かしながら。
そうやって声を出していないと、壊れてしまいそうだった。
手を宙に動かし続けていないと、自分の頭をかきむしってしまいそうだった。
「おお」
腕を動かすたびに、道の先に伸びる影が、人形めいてゆらゆらと揺れた。
自分は、おかしくなったのではない。
わかっている。
なにもかも、わかっている。
気が狂ったかのようにふるまったのは、そうしていなければ、本当に気が狂ってしまいそうだったからだ。
じっと動かずにいると、まぶたを閉じていても、開いていても、目の前に彼らの顔が浮かんでくる。
生きていた頃の彼らが見せた、なにげない表情、仕草。
そのときの空の色、背後にひろがっていた風景。
それらが、まるで神の手で描き出される絵のように、くっきりと目の前に浮かぶ。
そして、声がきこえる。
『では、パンクラティオンで』
『うっす……自分、脚には……走りには、自信あるんで……』
『俺はスパルタのために歌い、戦う!』
「おおお……」
涙があふれた。
もう、どうすることもできない。
彼らは、死んでしまった。
『スパルタを、頼む』
カルキノスにスパルタの未来を託して。
『この機会、絶対、無駄にはしません。訓練はきついけど、乗り越えてみせます。戦場で手柄を立てて、自由になるっす!』
カルキノスが自分たちを自由へと導いてくれると信じて。
『頼んだぞ、テュルタイオス』
カルキノスが作った歌を歌いながら、死んでいった。
ああ、ああ、あの歌だ。
きこえてくる。
死は美しい――
「おおおおお」
無駄と知りながらてのひらを両耳に当て、うずくまって、カルキノスは大声を出した。
あの日、風の吹く丘の上で、
『お前が、妹を娶ってやってくれるなら、俺は歌う』
そんなふうに文字をなぞったナルテークスが、一体、何を考えていたのか。
『歌に終わりがなければ、その人の命にも、終わりはない。
お願いだ。スパルタの男たちのために、歌ってくれ!』
そんなことばで彼を説得しようとした自分自身が、どうしても許せなかった。
『もう歌いたくない』
そう言ったナルテークスの心が、今になって、分かった。
いつでも人は、何もかも手遅れになってから、一番大切なことに気付くのだ。
(もう、歌いたくない――)
だから、館を抜け出した。
はっきりと目指す場所があったわけではない。
ただ、西へ、西へと歩いた。
タユゲトスの山々の聳えるほうへ。
(もう、歌いたくない)
自分は詩人だ。
神託に導かれ、スパルタを勝利へと導いた偉大な詩人。
スパルタの人々は彼に名誉を与え、賞賛し、そして求めてくるだろう。
あの歌を歌うことを。
死は美しい――
そして自分は、人々の喝采に囲まれて、一生を送るのだ。
死を讃える歌を、歌い続けて。
(できない)
それは、もう、できない――
だいぶ前からゆるやかな上り坂となっていた道は、とうとう、山道と呼ぶべき険しさを見せはじめた。
山道というよりも、獣道と呼ぶほうがふさわしい。
だが、生い茂る野草の中に、風化し、ほとんど形のなくなった道標が埋もれていた。
それが、自分の行き先を示しているような気がして、カルキノスは登り続けた。
「おお、おお」
突き出した杖が、灌木の茂みに引っかかった。
引き抜こうとしたとたんに、おかしな具合に曲がった枝が元に戻ろうとしたせいか、杖は大きく跳ね上がり、重なり合う緑の中に消えた。
「おお、おお、おお……」
カルキノスは、両手をついて獣のように這いながら、険しい斜面をよじ登っていった。
足の裏と違って、手の皮はすぐに傷つき破れて、血が流れた。
鋭い痛みが走ったが、そんなことはもうどうでもいい。
彼らは、死んでしまった。
もう、血を流すことも、痛みを感じることもできないところへ行ってしまった。
「おお、おお、おお」
一心不乱に登り続けて、どれほどの時が経っただろうか。
道を閉ざすかのように目の前をふさいでいた緑が、不意に途切れた。
カルキノスは血だらけになった手足の動きを止め、汗の流れこむ両目を瞬いて、目の前に広がる光景を見た。
そこは、高い崖の上だった。
数歩ほど行ったところで、急に地面が切れ落ちて、その先には青い空が広がっている。
這いつくばった姿勢からでは、その下がどうなっているのか、見ることはできなかった。
ふと、首をひねって見ると、自分のすぐ隣に身長を優に越えるほどの大きな岩があり、その横に、名前を知らない木が生えていた。
「おお……」
カルキノスは、血まみれの手で、その大岩に触れた。
岩肌に頬を、体全体をぴたりと押しつけて、しばらく、そのままじっとしていた。
火照った体に、岩の冷たさがしみとおってくる。
やがて、カルキノスは、岩に手をついて立ち上がった。
岩肌の出っ張っているところやくぼんでいるところに手足をかけながら、ゆっくりと、大岩によじ登っていった。
岩の一番上まで登り、見下ろすと、崖のずっと下のほうに、緑の森が広がっているのが見えた。
見上げると、隣に生えている木の枝が、先ほど見上げたときよりもずっと近いところに見えた。
カルキノスは、岩の上で慎重に体のつりあいをとりながら、腰にしめた帯を解いた。
その片方の端を持ち、もう一方の端を、木の枝に投げかけた。
(ゼノン、アイトーン、ナルテークス……そして、俺の歌を歌いながら死んでいったみんな……
俺も、同じところへ行く)
自分がここで縊れて死んだからといって、彼らへの詫びになど、なりはしないことも、ましてや彼らが生き返るわけでもないことも、わかっている。
だが、彼らは死んでしまったのだ。
どうして、自分だけが生きていられるだろう。
死を讃え、多くの男たちを死に送り出した者は、自らも死ななければならない。
そうだ。
それが、物事の道理だ。
(怖がるな)
枝にかけた帯の両端を結び、ぐいと強く引いてみた。
(俺が怖がったら、俺は、嘘つきの詩人になる。
歌ったじゃないか。
死の闇も 陽の射す道も
前を 向いて歩く――)
かすかに、ぱき、と乾いた音がしたが、枝は折れなかった。
腰が引けた。
息が荒くなった。
(俺は……!)
帯の輪の両側をつかみ、そのあいだに首を突っ込み、一思いに岩を蹴った。
ぐんと両腕に体重がかかり、曲げていた両肘ががくんと伸びた。
顎が、帯の輪の一番下にぶち当たり、首が仰け反ってもぎとられそうになった。
反射的に歯を食い縛っていなければ、舌を噛み切っていただろう。
バキバキ、と激しい音がして、頭上の枝が折れる。
体が後ろ向きに回転し、一瞬後、地面に叩きつけられる衝撃が背中から腹側に突き抜けた。
「ぐううう!? ぐううぅぅう!」
背中と、腰と、後頭部と、両腕と、左脚の踵を打った。
あまりの痛さに、まともに声を出すこともできず、潰された虫のように手足を動かしてもがく。
まさか、飛び降りた瞬間に、枝が折れるとは。
誰かに、手ひどく殴りつけられたような気がした。
『愚か者め』
誰かに、そう怒鳴られたような気がした。
『死ぬな!』
目を見開くと、青い空が見えた。
澄んだ朝の陽光が、まともに顔に当たり、その熱を伝えてきた。
目を閉じる。
まぶたを透かして、みどりの残影と、赤い色彩が見えた。
まだ、痛みはひどい。
まるで慰めるように、吹き抜ける風が、肌を撫でていった。
耳に、囁くような音が聴こえた。
やわらかな葉ずれの音。
鼻をくすぐる、青々とした野草のにおい――
ゼノン、アイトーン、ナルテークスの顔が、かわるがわる脳裏に浮かんだ。
彼らは、望むだろうか。
果たして、この俺が死ぬことを、望むだろうか?
「……言い訳だ」
カルキノスは、ぽつりと呟いた。
閉じた両の目の端から、涙がこぼれ落ちた。
陽の光も、風も、音も香りも、この世に生きて在る者だけが受け取ることのできる恵みだ。
だから、こんなにも心地好く、自分をつなぎ止めようとする。
自分は、それに惹かれて、生きるための言い訳を探そうとしている。
――彼らだって、そうだったに違いないのだ。
『生きたい』
そう、思っていたに違いないのだ。
「ごめんよ」
呟きながら、起き上がる。
自分も、彼らのように、勇気を持たなくてはならない。
光に満ちた生を捨てて、死に向かって進む勇気を。
死の闇も 陽の射す道も
前を 向いて歩く
自分は、そう歌ったではないか。
視線を、崖のほうに向けた。
だが、足は動かなかった。
(勇気を出せ)
できるはずだ。
さっきは、覚悟を決めて、岩の上から飛び降りたじゃないか。
(本当に?)
内心の囁きは、どんな告発者の糾弾よりも鋭く、真実を指摘する。
本当のことを言えば、さっき、強く帯を引いたとき、微かに枝にひびの入る音を聞いて、こう思ったのだ。
もしかしたら、枝が折れるかもしれない……と。
自分は、死ぬ覚悟を決めていたのではなく、もしかしたら助かるかもしれないという可能性に賭けただけだったのではないか?
一度は、首を吊ろうとして、本当に飛び降りた。
自分には、死ぬ覚悟があったのだ――
そんなふうに、言い訳をしたかっただけではないのか。
確かに死のうとしたのだが、神々の思し召しによって助かったのだ、と。
そうだ、そして、いつの日か、歳をとって、あたたかい日の光の中でうたた寝をしながら、こんなふうに思うのだ。
数々の友との別れは、哀しい出来事だった。
だが、スパルタのためには、必要なことだったのだと――
「できない」
そんなふうに、自分自身をごまかし、嘘をつきながら生きていくことは、できない。
(彼らのように……自分が、歌ったように、勇気を)
死の闇も 陽の射す道も
前を 向いて歩く
呼吸を整え、一歩、前に出た。
崖の縁が邪魔になって、崖の底は、見えない。
一歩。もう一歩。
呼吸が速く、浅くなった。
我知らず視線が上がり、下を見ることができなくなった。
それでも、わかる。
あと一歩だ。
あと一歩、踏み出せば、落ちて死ぬ。
思い切り地面を蹴ろうと、足の指に力を込めた。
左脚の膝を曲げた。
だが、そこから、少しも動けなくなった。
(勇気を)
もはや、涙は乾いている。
まっすぐ前に向けて両目を見開きながら、カルキノスは奇妙な姿勢で崖の縁に立ち続けた。
再び、ゼノンの、アイトーンの、ナルテークスの顔が浮かんだ。
(勇気だ)
彼らは、こんなふうに立ち止まらなかったではないか。
いや……待て。
『スパルタを、頼む』
ゼノンは、俺に、こう言い残した。
『頼んだぞ、テュルタイオス』
ナルテークスは、俺に、こう言い残した。
あれは……
お前は、死んではいけない、ということだったのではないか?
ゼノンは、俺の命を救うためにこそ、命を投げ出してくれたのではなかったか。
彼らの声は、最期の姿は、こう言っていたのではなかったか。
生きて、スパルタのために戦ってほしい、と。
頬を、涙が伝った。
まただ。
「臆病者……」
この期に及んで、自分は、まだ言い訳をしている。
『お前は、死んではいけない』
――自分が、そう言ってほしいと思っているだけだ。
『お前は、死んではいけない』
確かに、彼らは、そう言っていたのかもしれない。
今、ここで死んではいけない、と。
だが、もはや朝日が昇っている。
夜のうちに、処刑は終わったはず。
アリストメネスは死に、いまや、スパルタの勝利は確実となった。
もう、自分の役目は終わったのだ。
もう、自分は、死んでもいいのだ。
(勇気を出せ)
死を恐れるなと、歌ったではないか。
ならば、自分も、恐れてはいけない。
曲がらない右脚を上げて、一歩、踏み出した。
がらり、と音がきこえた。
「えっ」
反射的に、声が出た。
まだその場に残していた、左脚。
その左脚一本で、体を支えようとした。
だが、踏みしめる地面がなかった。
風化し脆くなっていた崖の縁が、カルキノスの体重に耐えかね、割れて崩れたのだ。
(ア……!)
宙に投げ出されながら、カルキノスは本能的に体をひねり、指を曲げて腕を振り回した。
その瞬間、死ぬべきか生きるべきかなどという問題は、完全に吹き飛んでいた。
頭にあったのは、ただ、何かをつかむということだけだった。
浮遊感。
いろいろなものが一瞬のうちに見えた。
何もかもが、焼きついたかのように、止まって見えた。
崖の壁面。落ちてゆく石のかけら。自分の血だらけの手――
一瞬後、体が何かに触れ、痛みと共にがさがさと凄まじい物音が上がった。
視界に、あざやかなみどりの色彩が飛び込んでくる。
(木!?)
滑り落ちる!
両手を突き出し、無我夢中でつかんだ。
次の瞬間、肩からもぎ取られそうな衝撃が襲い、カルキノスは、崖の壁面に宙づりになった。
手のひらの皮が激しくこすれ、肉が削れていたが、そのことに気付く余裕はなかった。
両手で引っ掴んだのは、崖の壁面から突き出して生えた、何の種類とも分からない灌木の幹だった。
こんなところに、鳥が種子でも運んだのだろうか。
崖の割れ目に辛うじて食い込んだ灌木は、カルキノスの全体重を託されて根元から大きくしなり、みしみし言っている。
「誰か……!」
とっさに口から出た言葉に、唖然とした。
自分は、生きようとしている。
どれほどの後悔、自責の念に苛まれようと、どんな理屈をつけようと、今、自分は、生きようとしている。
頼りない灌木の枝葉をわしづかみにしている、この両手の力強さはどうだ。
この二本の手だけで自分の体重を支えることができるなどとは、今このときまで、考えたこともなかった。
それが今、自分自身の手だとは信じ難いほどの握力を発揮して、落下を食い止めている。
離すか? この手を?
――嫌だ。
絶対に、そんなことはしない。
死にたくない。
「誰かあ! 助けてくれぇ!」
声を嗄らして叫んだ。
死にたくない。
グラウコスの、メギロスの、アナクサンドロス王の顔が脳裏をよぎった。
アクシネの笑顔が、浮かんだ。
「だ……あッ」
めきめきめきめき、と小さく聞こえ続けていた不吉な物音が、不意に大きくなった。
弾かれるような軽い衝撃があって、すがっていた灌木の幹が折れた。
一瞬、皮一枚でつながったが、その皮もぶつりと切れる。
(死にたくない)
声は、出せなかった。
カルキノスは折れた灌木を両手で握りしめたまま、真っ逆さまに落ちていった。




