ケアダス
スパルタから西へと向かい、タユゲトス山脈の山なみにしばし踏み入ったところ。
糸杉の樹のかげが、夜空を切り取ってそそり立つところ。
揺れるいくつもの篝火が、地面を照らしている。
その地面が、十数歩も行ったところで急に切れ落ちて、その先には闇が広がっている。
罪人が生きたまま落とされるその崖は、ケアダス、と呼ばれていた。
落ちた体が下の地面にぶつかる音は聞こえないという。
それほどにも深い崖の下を、昼間の光のもとで見た者は誰もいなかった。
スパルタでは、処刑は夜に行われる。
それ以外の目的で、この呪わしい場所に近付く者などいなかった。
恨みをのんで死んだ人間の魂は、死してもなおこの世にとどまり、人々に災いをもたらす。
今、ここに立ち並んだ戦士たちも、山に入る前に入念な死霊よけの儀式をすませてきている。
死霊の危険さは、その者の生きて在ったときの力と、抱く怒りの激しさによるという。
その伝に従えば、今夜の処刑は、危険極まりないといってよかった。
今から、ここで、メッセニアの将軍アリストメネスの処刑が行われるのだ。
時折、篝火のなかで火の粉がはぜる音をのぞいては、その場は無音だった。
口をきく者は誰ひとりとしておらず、押し潰されそうなほどの沈黙が漂っていた。
今、この場に顔を揃えているのは、スパルタの選り抜きの戦士たち。
戦場で敵に向かって踏み出すのをためらったことのない男たちだ。
だが、それでも、今夜は、どこか――
この場の最長老として処刑の指揮をとるメギロスが、重々しく頷く。
それを合図として、覆面をした戦士たちが、崖のすぐ側まで一人の男を引き出した。
メッセニアの将軍、アリストメネス。
スパルタの男たちは、アリストメネスを捕らえるとすぐに、武装を剥ぎ取り、その髪を刈った。
その本来の立場、奴隷にふさわしい姿に戻るようにというのだった。
そして、彼の左手の指を全て切り落とした。
彼が、テュルタイオスにしたのと同じようにだ。
厳重に縛り上げ、牢に入れ、今夜に至るまで、水以外は与えなかった。
彼が、スパルタの女たちにしたのと同じようにだ――
アリストメネスは腰布一枚の姿で、後ろ手に枷を嵌められ、鎖に縛られ、崖を背にして、スパルタの男たちと向き合った。
一瞬、足元がよろめいたが、その目はまだ燃えていた。
「思うていたよりは、長い付き合いとなったが、とうとう、今夜でそれも終いじゃな」
石のような沈黙を破って、太い声が響いた。
メギロスだ。
死にゆくアリストメネスに、直接、話しかけたのだ。
その声の響きは、まったくふだんの彼のとおりで、恐れも、緊張すらも感じさせなかった。
(大した、お方だ)
槍を持ち、武装してその場に加わっていたグラウコスは、内心で舌を巻いた。
メギロスが発した一言によって、その場に漂っていた、一種呪術めいた雰囲気が薄らいだのをはっきりと感じる。
アリストメネスの存在に圧倒されかけていた若い戦士たちも、いくらか落ち着きを取り戻したようだった。
相手はただの人間。
それも、奴隷ふぜいだ。恐るるに足らぬ。
「これまでじゃ、アリストメネスよ。己の力、及ばずと悟り、粛々と冥府へ行け」
メギロスの言葉に、アリストメネスは、歯を剥き出した。
笑っている。
「馬鹿め」
かすれた声。
だが、死を前にしてなお、力を失わぬ。
「スパルタ人よ、俺は、死なんぞ。メッセニアに自由がもたらされる、その日まで」
「いいや。お前は、今夜、ここで死ぬ。メッセニアは我らのものとなる」
メギロスは、即座に応じた。
ことばをもって、敵の心を挫き、力を失わせようとする。
これもまたひとつの戦いだ。
アリストメネスは、この期に及んで、戦いを諦めていない。
「メッセニアの男たちは、スパルタの軛を振り切る。女たちは、自由な子を生む!」
「メッセニアの男たちは、スパルタに服従する。女たちは、奴隷の子を生む」
「俺たちの砦、ヘイラは、決して陥落しない」
「お前たちの砦、ヘイラは、我らが攻め落とす。
……諦めよ、アリストメネス。お前たちの反乱は、終わる。見よ!」
メギロスの宣言と同時に、その傍らに進み出た人影がある。
斥候の束ねの男だ。
彼は、手にしていたものを、アリストメネスの方へ向けてそっけなく突き出した。
パピルスの巻子だ。
それが広げられると、紙面を縦横にうねりながら走る線、びっしりとかきこまれた記号と文字が、篝火の光に浮かび上がった。
そちらへ手を振り、メギロスが、高らかに宣言する。
「これは、ヘイラの山中に走る道。そなたらの砦への道と、備えを、すでに我らは手中にしておるのだ!」
「おかしいとは、思わなかったか」
斥候の束ねの男が、アリストメネスを真っ直ぐに見据え、ぼそぼそと言った。
「投獄されているあいだ、一度たりとも、我らの尋問を受けなかったことを。……それは、必要がなかったからだ。我らは、知りたいことは、もはやことごとく知った。
お前の仲間に、山を下り、それきり戻らなかった連中が何人もいなかったか? この道は、彼らが教えてくれた。無論、喜んで、とは、いかなかったがな……」
広げられたパピルスの表面に、インクとは別の赤黒い染みが無数に散っている。
「毎日、毎日、男たちの手足を切り刻むのは、嫌な仕事だった。だが、これで、とうとう、心も晴れるというものだ」
斥候の束ねの男の声が裏返り、異様にひずんだ叫びとなった。
「アリストメネスよ! 俺の復讐を受けるがいい。奴隷の分際で、俺の父、俺の弟たちを殺したお前の、全ての望みを、俺が葬ってやる。絶望と共にケアダスに落ち、鴉に喰われろ!」
「何を言うか」
アリストメネスの形相が歪み、その喉から絶叫がほとばしった。
その響きにあったのは、絶望ではない。
憤怒と憎悪だ。
「復讐だと! 貴様らスパルタ人が、何を言うか!
父を、母を……妻と子を! 俺から奪い去ったスパルタ人が!
貴様らこそ、絶望し、死ななければならないのだ!」
「違うな」
不意に落ち着きを取り戻した声でそう言い、斥候の束ねの男は、時間をかけて丁寧に巻子を巻き直し、隣に立つメギロスに渡した。
そうして、身をかがめた。
「お前が」
跳ねあがるように身を起こすと同時に、腕を大きく振りかぶっている。
その手に握られているのは、拳ほどの大きさの石だ。
「死ぬがいい!」
唸りを上げて、石が飛んだ。
狙いは、アリストメネスの頭。目で追うこともできぬ速さ。
しかし、石は虚しく空を裂き、闇へと落ち込んでいった。
「俺は、スパルタの男の手では、死なんぞ」
アリストメネスの両眼が底光りしている。
数日も食べ物を口にせず、後ろ手に枷を嵌められたまま、アリストメネスは、必殺の投擲をかわしたのだ。
「……二度も狙いを外すと思っているのならば、それは間違いだ」
斥候の束ねの男が、視線はアリストメネスを見据えたまま、新たな石を拾い上げる。
それでも、アリストメネスの表情に、恐怖はあらわれない。
「やれ。俺は、恐れない」
闇を背にして、笑っている。
「俺は、死を認めぬ者。この肉体が刺し貫かれ、砕かれても、魂は、冥府には行かぬ。
俺の血を受けたスパルタの大地を、俺は永劫に穢し続ける。
俺は、スパルタの滅びるときまで、暗い夜にお前たちの家の戸口に立ち、お前たちを殺し、お前たちの息子を殺す!」
「呪うつもりか、我らを」
「黙らせましょう……!」
唸ったメギロスに、グラウコスは、呻くように言った。
アリストメネスが発する異様な気魄、闇の底から手を伸ばしてこちらを引きずりこもうとするかのような得体の知れぬ力が、再びこの場を満たしつつある。
捕らえたときに、あの男の指だけではなく、舌も切っておけばよかったのだ。
あいつらが、グナタイナにしたように――
「スパルタの男どもよ、聞け! 俺は、決して死なんぞ!
俺たちが皆、再び自由を手にする日まで!
自らの土地に暮らし、自らの歌を歌い、自らの歴史を語ることができる日まで!」
「黙れッ!」
我知らず、グラウコスは一歩踏み出し、怒鳴りつけていた。
恐怖に打ち克つ方法は、常に、ただ一つしかない。
敵に向かい、自ら踏み出すことだ。
「もはや勝敗は決した。見苦しいぞッ!
この期に及んで貴様が何を喚こうが、しょせんは、負け犬の遠吠えよ!
お前たちは、俺たちに敗れたのだ! メッセニアの歌を歌う者は、もう、おらんッ!」
アリストメネスの目が動き、こちらを見る。
視線が、ぶつかる。
凄まじい憎悪のこもった視線。
その力が、ふたつの目を通してこちらの体内を冒し、内側から蝕むのではないかと感じてしまうほどに。
アリストメネスの口が三日月のかたちにつり上がり、裂けるような笑みになった。
「スパルタの歌を歌う者も、もう、いない」
「――貴様ァ!」
グラウコスは、怒号した。
脳裏に浮かんだのは、ナルテークスの顔。カルキノスの顔。
同時に、体が動いている。
携えていた槍を振りかぶった。
メギロスが静止しようとする大声も、今のグラウコスの耳には入らない。
罪人を崖から落とすのは、石打ちにして殺すのは、武器によって血を流させないためだ。
これほどの怒りと憎しみを持つ者の血が流されれば、スパルタの大地は――
「やるがいい」
アリストメネスは、誘うように顎を浮かせた。
「その勇気が、あるのならばな!」
「――アリストメネェェェェェス!」
野獣の咆哮のごとき絶叫が、闇をふるわせた。
グラウコスは、振りかぶった槍をあやうく取り落としそうになった。
メギロスはあんぐりと口を開き、斥候の束ねの男は身構えて周囲を見渡した。
居並ぶ戦士たちも、度肝を抜かれた様子でざわめいている。
アリストメネスでさえも、目を見開いている。
「……おッ……」
ひときわ大きな篝火の光が、闇と接する、ちょうど境界線上に、その者はいつのまにか立っていた。
「お前ッ」
グラウコスが、信じられないというように、その名を呼ぶ。
「アクシネッ!? ……なぜ、お前が、ここにいるッ!? なぜだ!? 何しに来たッ!?」
「わたしはなあ、カルキノスさがしてる。ここにいるとおもって、きた。
でも、いないな。よかったな。でも、よくないな。カルキノスいない……」
アクシネの目がぎょろぎょろと動き、あたりを見回す。
夜の山を、ただ一人、女の脚で駆け登ってきたのか。
この呪われた場所への道を。
人間業ではなかった。
「おい! アリストメネス!」
そのアクシネが、眉をつり上げ、処刑されようとしている男を真っ向から睨みつける。
「あっ。……アリストメネス。アリストメネス。……いえた!
おい! アリストメネス! おまえが、アイトーンをころしたせいで、グナタイナは、すごくかなしくなっちゃった! おまえが、あにきをころしたせいで、わたしはすごくかなしい! カルキノスもかなしくなってる! ぜんぶ、ぜんぶおまえのせい! おまえがわるい! あやまれええええぇ!」
地団駄を踏んで、叫んだ。
「……スパルタの、女か」
さしものアリストメネスも、一瞬は、呆気にとられたらしい。
だが、最初の衝撃を乗り越えて、次に浮かんできたのは、憐れみのまじったような冷笑だ。
「スパルタの女のくせに、男が武器をとって向かい合ったら戦争だということを知らんのか。
俺は、闇に紛れ、武器も持たぬ者を殺す卑怯者のスパルタ人とは違う! 戦争での殺しは――」
「せ・ん・そ・う・なんか、どおおおおおおぉうでもいいぃぃぃぃい!」
地面を踏み鳴らし、ケアダスの一番底までとどろくような声で、アクシネは吠えた。
「おまえがころしたのは! わたしのいえのやつ! わたしのあにきだ! わたしも、みんなも、すごくかなしい! あやまれええええええッ!」
アリストメネスは、何とも形容しがたい表情で、アクシネを見ていた。
それから、
「ならば、お前がやるか」
急に、囁くような声で、言った。
「そこにぶらさげている、大層な斧で、俺を殺すか?」
「……おい。やめろ」
ぴたりと動きを止めたアクシネの目つきに、危険なものを感じ、グラウコスは口早に言った。
ケアダスに落として殺す。
その常の処刑方法ではない、刃物で血を流すような事態になれば、どんなことが起こるか分からない。
アクシネの指が、五本足の蜘蛛のようにうごめき、斧の柄に触れた。
「やめろ」
グラウコスは、また囁いた。
だが、動くことはできなかった。
アクシネの動きは、信じられないほどに素早い。
彼女を刺激して、行動を起こさせてしまったら、静止は、もう間に合わないかもしれない――
「さあ、その斧で、俺を殺すがいい。それだけの勇気があるのならばな! スパルタの男どもには、その勇気がなかった!」
「――何を!」
「やめろ!」
若い戦士たちが気色ばみ、グラウコスは大声で叫んだ。
駄目だ。抑えられない。
この場の空気が、アリストメネスに支配されてしまっている。
「俺を殺し、その血を浴びてみろ……」
「おまえ、ばかなんだな」
アクシネが言った。
その声が、あまりにも冷え切り、乾いていたので、スパルタの男たちは凍りついたように静まった。
「そんなふうに、おどかしたって、だめだ。わたしは、おまえがこわくない」
斧が持ち上げられる。
重い刃が、ぎらりと光る。
「しんだら、いなくなるんだ。もう、なんにもできない」
「アクシネェエェェ!」
彼女が獣のように身をかがめ、グラウコスが叫び、駆け出そうとした瞬間。
スパルタの戦士たちの注意が完全にそちらに集中した、その瞬間。
戦士のあいだを縫うようにして、飛び出したものがあった。
何か、黒い、かたまりのようなもの。
影の切れ端のようなもの。
そのものは、一直線に、崖へ、そのふちに立つアリストメネスの体へ向かって突進した。
「あ」
誰かが、声をあげた。
黒いかたまりが、アリストメネスに襲いかかる。
突進の勢いをすべてのせて、地面を蹴り、アリストメネスに飛びかかる――
黒っぽい布がずれて、突き出された棒のような腕と、燃える目をした顔が見えた、と、グラウコスは思った。
同時に、アリストメネスとそのものの体はぶつかり、ひとつにもつれあって宙に飛び出し、音もなくケアダスの底へと落ちていった。
「えっ」
斧をだらりと下げ、目を見開いたアクシネの口から、声がこぼれ落ちた。
「えっ? ……えっ? グナタイナ? いまの……グナタイナだった? えっ?」
さしものメギロスや、斥候の束ねの男をはじめとして、スパルタの男たち全員が呆然としている。
その瞬間をはっきり見ておらず、何が起きたのか、まったく分かっていない者もいた。
先ほどまで、そこにいたアリストメネスが、今は、もう、いない。
ケアダスに落ちた。
「奴は……死んだ、な」
「――グナタイナぁぁぁぁぁ!」
メギロスが呟いたと同時に、アクシネが崖に向かって走り出そうとした。
「やめんかァ!」
アクシネの体に、横手から全力でぶつかり、彼女を地面に突き倒したのはグラウコスだ。
地面に叩きつけられながら、なおも跳ね起き、崖に向かおうとするアクシネの体に、全身で覆いかぶさり、押し伏せた。
「やめろ、馬鹿たれがァ! お前まで、落ちたらどうする!?
もういい、終わった! もうやめろ! 終わったんだ!」
「ああああああああぁ!」
涙をこぼしながら、アクシネは拳を振り回し、ざらついた地面を何度も叩きつけた。
「ああああああああぁ! もういやだ! もういやだ! いやだ、いやだ、もういやだああああぁ! みんな、いなくなる! みんな、いなくなっちゃうよお! いやだいやだいやだあああああああぁ! ああああああああぁん!」
「――落ち着けェ!」
衣の胸倉をつかんで引き起こし、グラウコスは、アクシネの頬を打った。
彼女の頭ががくんと横倒しになり、髪の隙間からぎらりと光る眼が見えた。
次の瞬間、かたくざらついた拳が、グラウコスの頬に叩きつけられた。
目から火花が出た。
「いでェッ!? このッ……何、するッ!?」
「おまえが、さきにたたいた!」
アクシネの怒鳴り声に、グラウコスはうっと言葉に詰まった。
確かにそうだ。
女に拳で顔を殴られるなど前代未聞だったが、不思議と怒りは湧いてこなかった。
「グナタイナ! グナタイナ! グナタイナ!」
アクシネは、一歩ずつ歩いてケアダスの崖に近付き、底知れぬ闇に向かって呼んだ。
「なんで……なんで……なんで? なんで、しんじゃった……?」
「あいつは――あの女奴隷は、自分の手で、恋人の仇を討ったんだ。女の身で、命を顧みず……」
グラウコスは、アクシネと並んで立ち、静かに言った。
あんな真似ができる者は、この場の男たちの中に、一人もいなかったのだ。
それを、あの奴隷の女は、やった。
「あの女は、勇敢だった。誉めてやれ! それに、これで二人は――あの女と、恋人の男は、永遠に一緒になれるのかもしれんのだ。冥府でな」
「しんだひとは、もう、だれにもあえない」
アクシネは、虚脱したような顔で言った。
「そして、だれも、しんだひとにはあえない。……いなくなっちゃった。グナタイナが……グナタイナまで、いなくなっちゃった……」
彼女はへたへたとしゃがみこみ、抱えた膝に顔を押し当てて小さくなった。
泣いている。
そんなアクシネの姿を見るのは初めてで、グラウコスは、慌ててまわりを見回したが、男たちは遠巻きにこちらを見るばかりで、誰も助けになりそうにはなかった。
「おい、立て」
とりあえず、爪先で軽くつついてみる。
「まあ……いや……な。これで……そうだ。これで、少なくとも、カルキノスは安全だ」
かすかに震えていたアクシネの肩が、ぴくりと動き、止まった。
「アリストメネスは死んだ。殺すべき相手が、いなくなったんだ。戦争も終わる。もう、大丈夫だ」
ゆっくりと、アクシネが顔を上げてくる。
「だいじょうぶじゃ、ない……」
その顔は、蒼白になっていた。
これまで一度も見たこともない、アクシネの恐怖の表情に、グラウコスは言葉を失った。
「だいじょうぶじゃない!」
両腕をわななかせ、アクシネが立ち上がってくる。
「カルキノス……いなくなっちゃった」
「は?」
「いえから、いなくなっちゃった。だから、さがしてた。
カルキノス……もう、しごと、おわった……やることなくなったと、おもってるかもしれない……だから、いなくなっちゃったのかもしれない……!」
「まさか」
思い浮かんだ、ひとつの可能性がある。
「あいつは……今夜、アリストメネスが処刑されると、知っていたか!?」
「わからない……でも、みんなしゃべってた。テオンもしゃべってた。
カルキノス、かなしい、はなしできない。でも、みみ、きこえてる。
きっと、しってる……だから、もう、しごとおわったって……」
そこまで言って、アクシネは顔を大きく歪め、
「カルキノス! カルキノス!」
叫びながら、飛ぶように山道を駆け下りていった。
「だああああ! あの、くそ馬鹿野郎ッ!
ここまで来て、勝手に死んだりしたら、俺がぶっ殺す! ――メギロス様!」
「うむ」
グラウコスの叫びに、メギロスが重々しく応じる。
「聞いておったぞ。カルキノス将軍が、館から姿を消した。
自ら、死を選ぼうとしておるのかもしれん、と、こういういうことじゃな?」
「そうです! あいつは……ナルテークスの後を追おうとしているのかもしれない。責任を感じているんです! メギロス様、どうか――」
そこまで叫ぶように言って、グラウコスは、不意に言葉を切った。
メギロスの表情は、静かだ。
(まさか)
冷たい手がさしこまれたかのように、胸によぎったひとつの疑念がある。
(もういい、と、思っていらっしゃるのでは)
『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』
カルキノスは、メッセニアとの戦争に勝つために呼ばれた。
アリストメネスという指導者が死に、メッセニアの敗北が決定的となった今、カルキノスの使命は終わったとも言える。
スパルタは、もう、彼に用はない――
「心当たりは」
「……はッ?」
「馬鹿者! 心当たりの場所はないのか、と訊いておるのだ! しっかりせぬか、グラウコス!」
近付いてきたメギロスに、どかどかと背中を叩かれた。
「ゆけ、皆の者! 山を下り、急ぎ、清めの儀式をすませよ。伝令を走らせ、兵舎の皆を叩き起こせ。手分けして、カルキノス将軍を探すよう伝えるのじゃ。急げ!」
「はっ!」
篝火が揺れ、影が踊り回る。
男たちは、慌ただしく山を下っていった。




