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のこされたもの


 ほんのかすかな物音がした。

 美しく掃き清められた床の上に、ごくわずかに残っていた砂粒を、足の裏が踏みつけた音。


 寝台の上で、黒い衣を身につけて眠っていた娘は、かっと目を開いた。

 すばやく飛んだ視線が、部屋の入口に立っている人影をとらえる。


「グナタイナ」


 片方の手のひらを見せながらそう言ったのは、同じく黒い衣をまとったテオンだった。


「私だ。スープを持ってきた……」


 つい先日まで、彼らはナルテークス――いや、あの日から、人々には「テュルタイオス」と呼ばれている――の家付き奴隷だった。

 今は、もう違う。


 ここは、カルキノス将軍の館だった。

 長老会が、カルキノス将軍を、彼らの新しい主と決めたのだ。

 元の主、ナルテークスは、何世代も語り継がれるような奮戦の末、命を落とした。

 自らの命と引き換えに、敵将アリストメネスを打ち倒し、スパルタ勢に生け捕り・・・・にさせたのだ。


 その報せがもたらされたのが、そう、たった、五日前のことだ――


 とても、そうとは思えなかった。

 もっと、ずっと前のことのような気がした。



      *     *     *



 あの凶報が――スパルタ人たちは勇敢な戦死を遺族たちに「吉報」と伝えるが、テオンには、どうしてもそうとは感じられなかった――もたらされたとき、アクシネは狩に出ていた。


 彼女が戻ってきたとき、このことを、いったいどう伝えればよいのか。

 髪も武装も美しく整えられて担ぎ台の上に横たわる主人の遺体と、厳粛な面持ちで居並んだ戦士たちを前に、テオンは叫ぶよりも、泣くよりも先に、途方に暮れた。


 父の死、母の死、ゼノンの死に臨んで、アクシネが見せた狂乱の状態が思い出された。

 その上に、とうとう、血を分けた兄までも。

 父アリストンがあのような死に方をしてからというもの、ナルテークスとアクシネに、親戚づきあいはほとんどなかった。

 アクシネは、親しい身内の最後のひとりを失ってしまったのだ。


 このことを知ったら、彼女はどうなってしまうだろう。

 悲嘆のあまり、気がちがってしまうかもしれない。

 狂乱して、我が身を傷つけたり、最悪の場合は、自ら命を絶とうとするかもしれない。

 そうなったとき、どうやって止めればいい?

 歳をとったテオンと、病身のグナタイナでは、斧を振り回す彼女を止めることなど、到底できはしない。

 そんなことは、おそらく、スパルタの戦士たちにだってできないだろう――


 だが、そうはならなかった。

 獣の呻きにも似た凄まじい哀哭の声が聞こえ、すわアクシネが戻ったかと凍りついたテオンの前にさまよい出てきたのは、カルキノスだった。


 髪はおどろに乱れ、血走った目は焦点が合っておらず、衣は自分で引き裂いたのかずたずたになって垂れ下がっている。

 頭を抱えてぶつぶつと呟いたかと思うと、急に天を仰いで甲高い悲鳴のような声で叫ぶ、その姿は、完全に正気を失った者のそれだった。


『カルキノス様!?』


『カルキノスッ! しっかりしろ!』


『どうか、お鎮まりください……!』


 グラウコスと、もう一人の屈強な若者が彼を押さえつけながら呼びかけているが、カルキノスの耳には届いていないようだった。

 そこへ、


『なに?』


 よりにもよって、その騒ぎのただ中へ、アクシネが戻ってきた。

 いつものように、斧をぶらさげて、笑顔で。


(もうだめだ)


 全身から力が抜け、テオンは座り込んだ。

 神は、どこまで残酷なのか。

 スパルタの勝利の代償が、これなのか。

 若者の死と狂気。

 これ以上ないほどの悲嘆が続けざまに降りかかり、さらには、アクシネの心までも打ち砕かれてしまうのか。


『あっ』


 アクシネが立ち止まり、目を見開いた。

 男たちは凍りついたように静まり、ただカルキノスの狂乱の慟哭だけが響き続けている。

 そこにアクシネの絶望の叫びまでが加わることをおそれて、テオンは目を閉じ、顔を膝にうずめて両手で耳をおおった。


『あにき。……あにき……しんじゃってる……? カルキノス……いきてる……』


 呆然としたように、アクシネは呟いた。


『あにき……しんじゃってる……カルキノス……いきてる』


 目がものすごい速さで左右に動き、二人の男を見比べる。

 そしてアクシネは、横たわる兄に一歩、近付いた。

 誰が止める間もなく、土気色をしたその頬に触れた。


『つめたい。しんじゃった。

 あにきが、しんじゃった! もうしゃべらない! ぎいいいいいいいいいいぃ!』


 その異様な声に、周囲の男たちが一歩ずつ下がる。


『……でも』


 枯れ木のように指を曲げ、背を丸めた姿勢から、アクシネは不意にかっと目を見開いて顔を上げた。


『カルキノス……カルキノス、いきてる……いきてる……やくそくまもった。

 でも、びょうき! びょうき……なおれ、なおれ、なおれ』


 アクシネは、一歩ずつカルキノスに近付いていった。

 グラウコスともう一人の若者は、気圧されて後退した。


『カルキノス……』


 地面にくずおれ、髪をかきむしりながら悲鳴のような声を上げ続けているカルキノスのかたわらに、アクシネはしゃがみこみ、その背中を驚くほど優しい手つきで撫でた。


『ああ、ああ、ああ、かなしいな。かなしいな! かなしくて、びょうきになるなあ。カルキノス! かなしいな。おんなじだなあ! なおれ、なおれ。だいじょうぶ。なおる、なおる、だいじょうぶ』


『カルキノス将軍は、いずれかの神の御意志によって、一時的に錯乱しておるのだ』


 メギロスが進み出て、大きな声で言った。


『埋葬までの、さまざまな儀礼については、身内の者が中心となって行うことが慣例。

 しかし、スパルタのため、神の言葉に従って戦死したテュルタイオスに対しては、スパルタの民をあげての葬送儀礼がふさわしい。

 我ら長老会が、それを取り仕切ろう。

 よろしいかな? ――ええ、よろしいかな、アクシネさん?』


『いいよ』


 アクシネは呟くように答えながら、カルキノスから目を離さず、その背を撫でる手を止めなかった。


『あにき、しんじゃった。いなくなっちゃった。かなしいな。

 からだは、まだいるな。でも、もうしゃべらないな。いなくなっちゃった。

 でも、カルキノスは、いきてる。ここにいるな。

 びょうき……なおさないといけない。だいじょうぶ。なおる、なおる。だいじょうぶ……』



      *     *     *



 あれから五日。

 カルキノスは、ずっと館の奥の一室にこもっている。


 激しい錯乱はおさまったが、狂気めいた状態は去らない。

 何も言わずに虚ろな目から涙を流していたかと思えば、今度は自分の髪を引きむしりながら、呻くような声でいつまでもぶつぶつ言い続ける。


 アクシネは、そんな彼の側にずっと付き添っていた。

 驚いたことに、彼女は、あれほど愛していた兄の葬送と埋葬の儀礼にも立ち合おうとしなかった。

 テュルタイオスの葬儀は、スパルタを守った勇者に対するそれとして、これまでになく盛大に営まれることになったにもかかわらず、だ。


 身内の女性が参列しない葬送儀礼などありえない。

 だが、誰も呼びには来なかった。

 おそらくは、厳粛な儀礼の場で、アクシネが突拍子もないことをしはじめたり、言い出したりする危険を避けたのだろう。

 遠い親戚か何かをかりだして、長老会が何とか体裁を整えたに違いない。

 それでも、テオンが心配して声をかけたとき、


『あにきは、もういない』


 カルキノスの枕元にしゃがみこみ、彼の落ちくぼんだ虚ろな目を見つめながら、アクシネはこう言ったのだった。


『しんだひとは、もう、いない。もう、たすけることができない。

 でも、カルキノスは、ここにいる。いきてる。かなしくて、びょうきになってる。

 いきてるから、たすけてあげないといけない。わたしが、たすけてあげないといけない……』



「立派な、埋葬だった」


 テオンは、独り言のような調子で言った。

 自由民のように正式の参列こそ許されなかったが、テオンはつい先ほどまで、館を出て、埋葬の儀式を見届けていたのだ。


 グナタイナは寝台の上に起きなおり、カップをごくわずかずつ傾けて、スープを口の中へ入れている。

 黒い衣から突き出た腕が、ぎょっとするほどに細い。

 舌を切られ、まったく食事が摂れなかったあいだに、彼女の体は痩せ細っていた。

 愛嬌のあったその顔は、まるで骸骨の上に皮をはりつけたような恐ろしげなものに変わっていた。


「立派な埋葬。豊かな供物。

 だが、それが、何だ。……いったい、何になるというんだ!」


 グナタイナの目が見開かれた。

 普段は決して声を荒らげることのないテオンが、床を踏みつけて叫んでいる。


「本当に、哀しいことだ。こんな哀しいことはない!

 戦争など、もう、うんざりだ! 立派な若者が死んでいく。

 若者が死んで、土に埋められ、私のような年寄りがそれを見送るなんて!

 だが……もう……これで、当分のあいだ、戦争は、ないかもしれない」

 

 テオンはそう言って、顔をあげ、グナタイナのほうを見た。


「アリストメネス将軍が……今夜、処刑されるそうだ。

 スパルタ人たちが、そう話していた。

 将軍が死ねば、拠り所を失ったメッセニア人たちは、もはや立ち上がる力を失うだろう……」


 話を聞いていたグナタイナの目が、ぎらぎらと異様な光を帯びはじめる。

 それを見たテオンは、慌てて付けたした。


「もちろん、君にそんなひどい真似をした報いに違いない。

 神々は、地上の全てを見ておられるのだからね。

 自分のしたことの報いを受けずに済む人間はいないんだ……

 さあ、スープを飲んだら、また休みなさい。安心して休むといい。

 世の中には、怠慢や反抗心からではない、病気や怪我のために思うような働きのできない奴隷に対してまで、残酷な扱いをする主人がいくらでもいる。

 だが、カルキノス将軍は、お優しい方だ。

 君が、前のようには働けないからといって、追い出したりはなさらないよ。

 大丈夫だ。戦争も終わって、今に、何もかもよくなる。

 カルキノス将軍だって――」


 そこまで言って、ふと、言葉を切る。


「カルキノス将軍は、これから、どうなさるのだろうな」


 メッセニアとの戦争が終われば、彼の、将軍としての役目も、ひとまず終わるのだ。

 そのとき、彼は、何を思い、何をなしてゆくのだろう。


 戦の歌を、歌い続けるのだろうか。

 それとも――


 いや、そもそも、彼はこの先、狂気の淵から抜け出すことができるのだろうか。

 

「何だっ?」


 突然、何かが壊れるばりばりという音がして、テオンは飛び上がった。

 いくつもの、悲鳴のような声が聞こえる。

 この館で働いている、他の家付き奴隷たちの声だ。

 館の奥。

 カルキノスがいる部屋のほうからだ。


 アクシネが、すぐそばについていたはずだ。

 それなのに、何が起こった?

 まさか――


「テオンッ! グナタイナ!」


 二人が凍りついたようになっているところへ、嵐のような剣幕で飛び込んできたのは、アクシネだ。

 彼女も二人と同様に、黒い衣を着ている。

 斧は――大丈夫だ。いつものように、彼女の腰におさまっている。血に汚れてもいない。


「カルキノスは!? カルキノス、こっちにきた!?」


「えっ」


 テオンとグナタイナは、顔を見合わせた。


「いいえ。……どうしたのですか、アクシネさん! カルキノス様は?」


「いなくなっちゃった」


 アクシネは、真っ蒼な顔で言った。


「カルキノスが、いなくなっちゃった! わたし、ねてなかった。でも、ちょっとだけ、ねたかもしれない。わからない! みたら、もうカルキノスがいなかった! どうしよう、どうしよう、カルキノスがいなくなっちゃった! いなくなっちゃった! ああああああぁ!」


「落ち着いてください!」


 髪をかきむしりはじめたアクシネに向かって、テオンは、大声で怒鳴りつけた。

 一歩、進み出て、その両肩をつかんだ。

 自由民の女の体に、許しも得ずに奴隷が触れるなど、死刑に値するふるまいだ。


「聞きなさい、アクシネさん!」


 だが、テオンは構わず、目を見開いたアクシネの顔に鼻先がぶつかりそうなほど顔を寄せて、叫んだ。


「探しましょう。探すんです! 私と、あなたで!

 館の他の者たちにも手伝わせます。

 カルキノス様がどこへ行ったのか、分かりますか。

 どこへ行くとか、何か、言っていませんでしたか!」


「う……わからない。わからない! なにもいってなかった。カルキノス、ねてた。ねてたとおもった。だから、わたしもねちゃったかもしれない。なにも、きいてない!」


「とにかく、探しましょう」


 アクシネの肩から手を離し、テオンは力強く言った。


「手分けをして! ――そうだ、グラウコス様! グラウコス様に知らせましょう。あの方なら、きっと力を貸してくださる。

 まさかとは思いますが……もしかすると……カルキノス様は、御自分の手で、仇討ちをなさるつもりなのかもしれません!」


「あだうち?」


「アリストメネスを、殺しに行ったのかもしれないということです!」


「……だめだ」


 アクシネの顔が歪んだ。


「だめだ、だめだ、だめだ! カルキノス、よわいのに! しんじゃうかもしれない!」


「急ぎましょう! ……グナタイナ!」


 部屋から飛び出したところで、首だけ振り向き、テオンは叫んだ。


「君は、館で待っているんだ。

 そして、もしも私たちが戻るよりも先に、カルキノス様が戻ることがあったら、そのときは、何が何でも、むしゃぶりついてでも、カルキノス様をここに留めておいてくれ。頼んだぞ!」

 


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