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55/84

英雄


 おそろしく静かだ。

 この場に、これほどの数の男たちが集っているとは信じられないほどの静寂。

 スパルタとメッセニア、双方の戦列に並んだ男たちの誰ひとり、身動きひとつしない。

 兜の下で顎の先からしたたり落ちる汗の一滴でさえも目につくほどに、何ひとつとして、動くものはなかった――

 完全武装で、互いにゆっくりと近づいてゆく、二人の戦士たちの他には。


 メッセニアの戦列から進み出てくる男の姿に、スパルタの男たちは目を凝らした。

 強い陽射しが兜の下に濃い影を落とし、顔立ちがはっきりと見えない。

 だが、その鎧と、手にした盾に描かれた図案は、多くの者の目に焼きついている。


「翼を広げた鷲……!」


 噛みしめた歯を軋らせながら、グラウコスは唸った。


「間違いない。奴だ!」


 握りしめた槍が揺れる。

 この槍を振りかぶり、近付いてくる男に向かって投げつけたかった。

 だが、そうすることはできなかった。

 神託の成就を妨げることは、いかなる者にも、許されることではない――



     *      *      *

 


 スパルタとメッセニア、双方の戦列から進み出た二人の戦士は、剛腕の男が槍を投げれば瞬く間に穂先が相手を捉えるであろう距離まで近づき、立ち止まった。

 ナルテークスは、相手の顔をまっすぐに見据えた。

 兜の下から、二つの暗い目が、じっとこちらを見ているのが分かった。


「お前は、誰だ」


 男が、ナルテークスに呼びかけてきた。

 奇妙に静かな声だった。

 あの鎧の下で、きっと心臓は平時と変わらぬ速さで打っているのだろう。

 そう思わせるような声だ。

 反対に、こちらの心臓は、嵐の迫る海原のように騒ぎ立っている。

 出せるだろうか、声か。

 言い間違えたり、言葉がつかえたりしないだろうか。

 このやりとりを、背後に立つすべての戦友たちが聴いている。

 敵を前に、無様な姿をさらすことはできない。


 いや、大丈夫だ。

 言うべきことは、全て考えてきた。

 落ち着け。考えてきたことを言えばいい。

 そうだ、歌と同じだ。決まったことを口にすればいいだけだ。勇気を出せ。

 これが、最後の機会なのだから――


「お前のほうこそ、誰だ」


 ほんの少しかすれた、ナルテークスの問いかけに、


「俺の名は、アリストメネス」


 男は、こともなげに名乗った。

 よし、いいぞ。

 ――いや、待て。本当か?

 本当に、この男なのか。

 まさか、偽物ということは?


 自分は、必ずアリストメネスと戦わなくてはならない。

 そうでなくては、スパルタを勝利に導く神託が成就しない。

 いや、大丈夫だ。落ち着け。

 グラウコスは、奴の姿を一度、はっきりと見て、知っている。

 他にも、あの戦いで、アリストメネスの姿を見た者たちが大勢いる。

 彼らが今、何ひとつ騒ぎ立てずにいるということは、この男で間違いないはずだ。


「お前は、誰だ」


 アリストメネスが、もう一度たずねてきた。

 奇妙なやりとりだ。

 槍と盾を持ち、剣をひっさげた男同士が、こんなふうに向き合って互いの名をたずね合っているとは。

 この後、互いに殺し合うことになるなどとは、ほとんど信じられないくらいだ――


 いや、駄目だ。集中しろ。

 言うべき言葉がある。

 思い出せ。落ち着いて。

 このやりとりのひとつひとつが、いつか、歌に生まれ変わる。

 自分と同じ名を持つ詩人が、歌ってくれる。

 きっと、イリオンの歌イーリアスのアキレウスとヘクトルのやりとりのように、千年先にも残るだろう――


「俺の、名は」


 大きく、息を吸い込んだ。


「テュルタイオス!」


 どうっと、岩に波が打ちつけたようなどよめきが背後から起こった。

 スパルタの男たちがあげた声だ。


「テュル……?」


「誰だ」


「テュルタイオス?」


「あっ……あいつの、名前!」


「そうだ! そうだった。あいつは」


「ああ、そうだ、そんな名前だった――」


 アリストメネスは、微動だにせず立っている。

 スパルタ勢の動揺の意味を、まったく理解できない様子だ。

 興味すらないように見える。


「テュルタイオス、か」


 やがて、アリストメネスは小さくかぶりを振った。


「ならば、お前に用はない。

 ――どこにいる!」


 不意に、大地を震わせる雷鳴のごとき響きがアリストメネスの声に宿り、スパルタの男たちは皆、ほんのわずかにだが、肩を浮かせた。


「カルキノス将軍よ! どこだ!

 貴様がみずから俺と戦うと聞いていたのに、いざとなれば臆病風に吹かれたか!

 敵を前にして逃げ隠れするような男を将軍に据えているとは、スパルタの男どもは皆、腰抜けの集まりか!?」


 ただ一人の男が発しているとはとても思えない、力ある声。

 まるで戦神アレスに付き従う「潰走ポボス」と「恐怖ダイモス」とが彼の肩に手を置き、共に叫びをあげているかのようだ。

 神助ある者。

 手向かえば、何が起こるか分からない。

 そんな、本能的な畏れを呼び起こす声だ。

 スパルタの男たちは、怒りの叫びをあげてこの侮辱に対抗しようとしたが、その叫び声はかすれ、どこか頼りなげに響いた。


 そこへ――

 笑い声が、聞こえた。


 スパルタの男たちは、目を見開いた。

 メッセニア勢による嘲笑、ではない。彼らもまた、訝しげにざわめき、互いに顔を見合わせている。

 戦場に響く、晴れやかな、腹の底から湧きあがってくるかのような笑い声。


 その声を立てていたのは、ナルテークス――いや、テュルタイオスだった。

 彼が声を立てて笑うのを、これまで、誰も見たことはなかった。


「貴様は、何も知らないのだな」


 口の端にまだ笑みを残したまま、彼は、生まれながらの弁論家のように堂々と声を発した。


カルキノスとは、本当の名ではない。

 ロバから降りたとき、足がよろめいたために、そんな呼び名をつけられたのだ。

 覚えておけ! 貴様らを打ち破るスパルタの将軍の名は、テュルタイオス!

 テュルタイオスが、この俺の名だ。

 姿見えざる冥王アイドネウスへの手土産に、この名を携えていくがいい!」


「お前が?」


 もはや双方の軍勢が、沸き立つ鍋のようにざわめき立っている。

 その中で、アリストメネスが、初めて感情らしきものを露わにした。

 兜の下で、眉を寄せ、目を細めた。


「嘘をつくな。俺たちが、スパルタの内情を何も知らぬと思うのか。

 将軍カルキノスは、アテナイ人で、ひょろひょろの、武器も持てぬような男のはずだ。

 お前は、そうではない」


「当然だ。俺は、アテナイ人ではない。スパルタ人だ!」


 言い返しながら、自分自身に対して、驚きの念を隠せない。

 唇が、止まらずに動く。

 舌が、滑らかに動く。

 目の前の男の言葉に対して、返すべき言葉が瞬時にして分かり、それが即座に、声に変わる。

 他の男に対して、こんなふうに話せたことは、これまでになかった。

 まるで、本当に遠い昔、父と母に向かって話していたときのようだ――


「スパルタ人は、スパルタ人以外の者を、将軍とは認めない! お前たちこそ、そのことをよく知っているはずだ。

 ――さあ、俺と戦うことに、何を迷う? 俺は、何ひとつ偽りを口にしてはいないぞ。

 輝けるフォイボスアポロン神・アポローンに誓いを立ててもかまわない。

 これでも、俺と戦わないのか? 俺を恐れているのか?

 アリストメネスよ、そうだとすれば、貴様こそ、腰抜けの臆病者だ! 戦え! この俺と!」


 メッセニアの戦列からは怒りの叫びが、スパルタの戦列からは、爆発的な歓声が上がった。

 スパルタの若者の朗々とした声には、自信がみなぎっている。

 澄み切ったその響きは、メッセニアの男たちに言い知れぬ不安をおぼえさせた。

 アリストメネス将軍が敗れることなど、あるはずがない。

 だが、どこか――


「恐れるだと?」


 アリストメネスは、ゆるゆるとかぶりを振った。


「俺は、恐れぬ。メッセニアのためには、黒き死でさえも。――いや」


 盾が上がり、槍が構えられる。

 獲物を目がけて飛び立とうとする鷲のように、ぐっと姿勢が低くなる。


「俺は、貴様の手によっては死なん」


「俺もだ」


 微笑み、身構える。

 あれほど暴れていた鼓動が、今は、こんなにも静かだ。

 輝けるフォイボスアポロン神・アポローンが隣に立ち、光る指で、行く手を指してくださっている――


「テュルタイオスは、貴様の手では死なない」


「やめろぉぉぉ!!」


 地面に押さえつけられながら泣き叫ぶ詩人の声は、届かなかった。


 唸りをあげて、テュルタイオスの槍が飛んだ。

 全身の力を余すところなく込めた投擲。

 目にも止まらぬ速度を持った穂先は、何重に仕上げられた盾をも貫き、神の不死の身にさえ、血を流させていたかもしれぬ――


 だが、アリストメネスは、その一撃をかわした。

 外れたのではない。

 半身を開き、かわした。

 盾で受けようとはしなかった。

 そうすることはできないと、気付いていたのだ。


 アリストメネスの腕がしなり、流れるように投擲の姿勢に入る。

 見ていたスパルタの男たちの誰も、警告を発することさえできなかった。

 メッセニアの将軍の動きは、それほどの速さを持っていた。


 空を切り裂いて、槍が飛ぶ。

 すさまじい回転のかかった青銅の穂先が、放物線ではなく直線を描き、テュルタイオスに迫る。

 避けられるか。

 そんな暇はない――

 彼は、盾を突き出した。

 槍を投げ放ったばかりで崩れた姿勢から、辛うじて掲げた盾に、槍の穂先がまともに突き刺さる。


「ナルテークス!」


 思わず口を突いて出たその名に、グラウコスは反射的に口を閉じたが、その叫びはスパルタの男たちの悲鳴にも似たどよめきにかき消された。


     *      *      * 


(強い)


 こちらの盾を貫いた、アリストメネスの槍。

 何という威力だろう。

 敵ながら見事と、素直に認めざるを得ない。

 命中したのが盾の外側でなければ、盾ごと左腕を貫かれていた。


 剣を引き抜き、盾を貫通した槍の柄を叩き折る。

 だが、盾の内側には、穂先が飛び出したままだ。


 アリストメネスが右手で剣を抜くのが見えた。

 何のためらいもなく飛び出してくる。

 速い――


 チュルタイオスは、盾を捨てた。

 手放した盾が、突き立ったままの槍と一緒に地面に転がるのと同時、アリストメネスの切っ先が襲いかかる。


「!」


 かわした、と思った刃が、下から跳ねあがってきた。

 もう一度かわした。

 もう一度。

 だが、今度は左腕を浅く斬られた。

 血がしぶいたが、痛みは感じられなかった。


(強い)


 そのことが、嬉しいとさえ感じられた。

 スパルタのために命を捨てることに、もはや迷いはない。

 それでも、自分よりも劣る相手にわざと殺されるのは情けない、という思いはどこかにあった。

 だが、そうではなかった。

 この男は、強い。自分よりも。

 一対一で戦えば、死ぬのは自分のほうだ。

 それが当然だと思わせる実力を、目の前の男は持っている。


(だが)


 それでも、戦うのだ。

 死ぬと分かっていて、それでもなお恐れずに戦うのだ。

 それが、スパルタの男であるということなのだから――


 アリストメネスの剣が唸る。

 陽光を跳ね返して輝く刃の軌跡が、宙に描き込まれたかのようにはっきりと見える。 

 一歩、さがって仰け反った首を、剣風を巻いて切っ先がかすめた。

 次の瞬間、テュルタイオスは、敵に向かって飛び込んだ。


 スパルタの剣は短い。

 だから、敵に肉薄するのだ。

 アリストメネスは左手に盾を持っている。

 だから、剣を持っている右手の側から。

 相手が横手に剣を振り切った、その瞬間を狙い澄まして――


 ぱっと、赤い血が飛び散った。

 アリストメネスの右腕を、スパルタの短剣の切っ先がとらえたのだ。

 苦痛ではなく怒りの、獣のような叫びと共に、アリストメネスが再び横殴りに剣を振るう。

 火花が散った。

 真横から叩きつけられた一撃を、テュルタイオスは、両手で支えた短剣で受けたのだ。

 同時、咆哮した。

 アリストメネスの剣を跳ね飛ばす。

 相手がよろめくと同時、その盾に、全体重を乗せた蹴りを入れた。

 アリストメネスが、大地に倒れる。

 時を移さず、飛びかかる――


     *      *      * 


「テュルタイオス! テュルタイオス! テュルタイオス!」


 いまやスパルタの男たちは、あらんかぎりの声を張り上げ、繰り返し戦友の名を呼んでいた。

 この瞬間、彼が死ななければ神託が成就しないことなど、男たちの心からは消し飛んでいた。

 全身全霊をかけた男の戦いだ。

 心からの賞賛と激励のほかに、ふさわしいものは何もない。


「アリストメネス! アリストメネス! アリストメネス!」


 メッセニアの男たちも、声を嗄らして彼らの将軍の名を呼んでいる。

 彼らの象徴。メッセニアの希望だ。

 失ってはならない。


 両軍の戦列の間隔は、戦う二人に向かって、ごくわずかずつ狭まりつつあった。

 興奮した男たちが、我知らず一歩、また一歩と前に出ているからだ。


「シャアァッ!」


 地面に倒れたアリストメネスに向かって、テュルタイオスは短剣を振るった。

 その切っ先は、アリストメネスの左足首を裂いた。


「ガァッ」


 アリストメネスが真っ直ぐに突き出した剣が、テュルタイオスの右腕を刺す。

 男たちは跳ね起き、跳び退って、わずかに距離をとった。


 アリストメネスの動きが、わずかに生彩を欠いている。左足を、引きずっている。

 テュルタイオスは、顔を歪めた。短剣を握る右腕から血が滴り落ち、乾いた地面にぽたぽたといくつもの点を描いていた。


「死ね!」


 猛禽のような叫びは、どちらのものだったか。

 テュルタイオスの手から、短剣が飛んだ。

 狙いは、アリストメネスの左目――


     *      *      *

 

 アリストメネスは息を止め、目を見開いた。

 首を、真横に倒した。

 きぃんと音を立て、兜の側面を刃がかすめて過ぎる。

 信じられなかった。

 自分が、今の投擲をかわせたことも、敵が、自ら、ただひとつの武器を手放したことも――


「!」


 敵の姿がない。

 アリストメネスがもう一度、目を見開いたとき、左手の盾がぐんと沈められる感覚があった。

 テュルタイオスは、短剣を投げ放つと同時に、アリストメネスに肉薄していた。

 アリストメネスの傷付いた足首の側、盾に遮られて視界の悪い側から。


 テュルタイオスの両手が、盾の縁をがっちりと掴み、力任せに押し下げてくる。

 体勢を崩すつもりだ。

 アリストメネスは、雄叫びを上げて剣をふるった。

 ぱぁんと、五つのかけらのようなものが血と共に宙に舞う。

 盾の縁を削るように滑った刃が、テュルタイオスの左手の指を斬り飛ばしたのだ。

 だが、彼の右手は、まだ残っている。


「ウオオオオオ!」


 凄まじい力で盾をもぎ取られそうになり、アリストメネスは踏み堪えようとした。

 だが、傷付いた左足に鋭い痛みが走り、よろめいた。

 盾の重みに負けるように、体が泳ぐ――


 がっ、と太い腕が兜の下の首に巻きついた。

 アリストメネスは目を剥き、振り向こうとしたが、できなかった。

 左手の指をすべて失ったスパルタの若者が、アリストメネスの背後から組み付いている。

 指のあった場所から血の噴き出す左腕をアリストメネスの首に巻きつけ、渾身の力を込めて絞めあげてきた。

 アリストメネスは剣を振り上げ、背後の敵を刺し殺そうとしたが、できなかった。

 テュルタイオスの右手が、剣を握る右手の手首を掴み、動きを封じていたからだ――


     *      *      *

 

(死ね!)


 どくん、どくんと心臓が脈打つたびに、左手の先から熱い血が流れ出てゆくのが分かる。

 だが、痛みはなかった。

 気が遠くなることもなかった。

 そんなことは、もはやどうでもよかった。


 命を懸けて、この男を、殺す。


 神託のことを忘れたわけではない。

 だが、神々が望むならば、何事もその通りになるのだ。

 死すべき人間の思いやふるまいに関わらず、神託は、成就する。


(だから、俺は)


 スパルタの男として、恥じない戦いを。

 歌として語り継がれるにふさわしい、全力を賭した戦いを。

 そして、敵を、殺す――


(どうか)


 目の前がちらつきはじめた。

 絞めあげた左腕に感じる、アリストメネスの首筋の拍動。

 その感覚も、徐々に鈍くなってきた。

 死にかけているのは、アリストメネスか、それとも、自分のほうだろうか。


(どうか)


 自分が誰に、何を祈っているのかすら、もう分からない。


(どうか――)


 そのときだ。 

 ふと、額に涼しい手が置かれたような気がした。

 目を上げると、見たこともないような美しい光が見えた。


(ああ)


 時が来た。

 神託が、成就する――


 目を閉じたテュルタイオスの、左の首筋に、木の葉ほどの小さな刃が深々と突き刺さった。


     *      *      *


 スパルタの男たちは見た。

 アリストメネスの左腕が不意にだらりと垂れ、その腕から、盾が落ちるのを。

 完全に力を失ったかに見えたその手が、腰の辺りで止まり、何かを握りしめるのを。

 きらりと、小さな刃の輝きが見えて――

 跳ね上がったアリストメネスの左手が、テュルタイオスの首に叩きつけられ、そして、離れた。

 しゅうっと、鮮やかな赤い血が噴き出した。


 あの色。

 生命そのものの色。

 誰もが知っていた。

 あの色の血が傷から流れ出すとき、その者は、もう――


 二人の戦士の身体が、ぐらりと傾いた。

 共に、大地に、崩れ落ちた――


 その瞬間にほとばしった、狂気のような咆哮は、すでに人の言葉ではなかった。

 スパルタの戦列が、崩壊した。


 極限まで持ち堪えた巨大な堤防が崩壊したかのように、止めようもない破壊的な力が、噴出した。

 スパルタの男たちは津波のようにメッセニアの戦列に突進し、激突し、蹂躙した。

 槍で突き、剣で刺し、盾で殴りつける。

 倒れた敵を踏み潰し、スパルタの軍勢は、泥土のように戦場を呑みこんでいった。



     *      *      *

 


「ナルテークス!」


 やがて、全身に返り血を浴びた姿で、グラウコスは倒れた友に駆け寄った。

 戦闘そのものは、ほとんど瞬時と言ってよいほどの早さで決着した。

 全軍が憤怒にとりつかれ、青銅の津波と化して押し寄せたスパルタの男たちは、アリストメネスが倒れたことに衝撃を受けたメッセニア勢の戦列を薄布のように突き破り、引き裂いたのだ。


 暴走する獣の大群が通り過ぎた後のように、乾ききっていた地面はいまや切り刻まれた死体で埋まり、血と汗と臓物のぬかるみに変わっている。

 だが、そんな中に、踏み荒らされることのなかった大地が、ただ一箇所だけあった。

 決壊の瞬間、誰よりも先んじて飛び出した俊足の男たちが、地面に盾を打ち立て、その端を互いに重ね合わせて壁を作り、倒れた勇士の身体が踏み躙られることを防いだのだ。


「ナルテークス! おい! 聞こえとらんのか、おい!」


 小さいが深い首筋の傷から、真っ赤な血が流れ続けている。

 だがグラウコスは構うことなく、鎧に覆われた友の両肩を掴み、激しく揺さぶった。


「おい! おい! 起きろ、馬鹿野郎! ナルテークス! 聞こえとるんだろう!? おい!」


 閉ざされていた瞼が、震えて、薄く目が開いた。


「おう!」


 グラウコスは、満面の笑みを浮かべた。

 指のない血塗れの手を握りしめ、力強く、何度も振った。


「やったなッ! お前は、やったんだぞ、ナルテークス!

 素晴らしい戦いだった! みんな見ていたぞ、本当だ! お前の戦いを、みんなが見ていた! 俺たちは勝ったんだ。見えるか! 勝ったんだ! お前の力だ。お前は、スパルタのために――」


 力無くさまよっていた視線が、グラウコスを通り過ぎ、太陽を見上げる。

 蒼白な唇にかすかな笑みが浮かぶのを見て、グラウコスの笑顔に、ふた筋の涙が伝った。


「おい。……おい! ナルテークス! 聞いとるのか。なあ、勝ったんだ!

 お前は、アリストメネスを倒した。お前は勇者だ! お前のための歌が作られるぞ。俺が一番でかい声で歌ってやる。母上も、父上も、お喜びになるだろう。アクシネだって、お前の凱旋を……

 駄目だッ!」


 金切り声に、変わる。


「駄目だ、死ぬな! 死ぬな、ナルテークス! ゼノンも、お前も死んだら、俺は……俺は、寂しいだろうがァ! 死ぬなああああァ!」


 魂が飛び去った瞬間は、分からなかった。

 いつの間にか、傷口から流れ出す血が止まっていた。

 太陽をまぶしそうに見上げた目からも、指のない手からも、そこに今、確かにあったはずの命の気配が、消え失せていた。


 友の亡骸をかき抱き、子供のように声を張り上げてグラウコスは泣いた。

 周囲に集まった若い戦士たちの誰もが、泣いていた。

 歯を食いしばり、うつむいて涙を流す者。

 天を仰いで号泣する者。

 血に染まった手で顔をおおい、嗚咽する者。


「やれやれ!」


 嘆きの輪の外で、地面に倒れた敵に槍を突き刺し、生死を確認して回っていたエウバタスが嘆かわしそうに言った。


「まったく、今どきの若い者は! 敵将が倒れ、有象無象が逃げ散れば、それで、すべてが片付いたと思っておる。最後の後始末まで、きっちりしておこうという者がおらん! 一人も生かさぬという心がけがなくては、思わぬところで足元を――」


 突き立てた槍を引き抜き、ふと顔を上げたところで、エウバタスの文句は止まった。

 凍りついたようになった顔の中で、その目だけが見開かれていった。


 戦死した若者と、それを悼む戦友たちの輪。

 そのすぐそばに、血と埃にまみれ、ぼろ布のように転がっていた敵将――


 アリストメネスの体が、動いていた。


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