選ばれし者
カルキノスは目を見開いて、自分の隣に立つ男を見た。
何が起きているのか、分からない。
今、自分が耳にしている声、目にしている光景が、現実のものだなどとは信じられなかった。
「アリストメネス! 聞こえているか! 姿を現せ!」
太く力強く、朗々と響く声。
それを発している口は、カルキノスのものではなかった。
その口は、昔、語ることばを失ったはずだった――
「ナルテークス……?」
呼びかけたが、ナルテークスは振り向かなかった。
彼はメッセニア勢を睨みつけたまま、手にした槍を高々と差し上げ、石突で地面を打った。
雷鳴のような音が響きわたった。
カルキノス以外のスパルタの男たち全員が、ナルテークスの動きに合わせて、一糸乱れず石突を地面に打ち付けたのだ。
まるで、全員が、こうなることをあらかじめ知っていたかのように。
ナルテークスの兜飾りが、ほんのわずかに揺れたように見えた。
カルキノスに向かって、小さく頷きかけたかのように。
そして、ナルテークスは、メッセニアの戦列に向かって進み出ようとした。
(な、ん)
カルキノスは思わず、右手に握っていた玩具のような槍を手放した。
それが軽い音を立てて地面に転がるのも構わず、腕をいっぱいに伸ばして、ナルテークスの腕を掴もうとした。
伸ばした指先が、ナルテークスの腕に触れ――
その途端、カルキノスの体は壁にでもぶつかったように止まった。
触れた指先が、離れる。
ナルテークスの背中が遠ざかる。
「えっ」
自分の両足が、ふわりと地面から浮き上がるのを、カルキノスは呆然と見下ろした。
宙に浮いた体が、そのまま後方へと運ばれてゆく。
もがきながら、首をねじり、振り向いた。
メギロスの後ろ姿が見えた。
彼は、男たちのあいだを、のしのしと戦列の後方へと歩いていくところだった。
その肩には太い棒が担がれている。
行進のあいだ、カルキノスの体を紐で吊り下げて支えていた、あの棒だ。
紐は、まだカルキノスの鎧の背中に繋がったままだ。
「えっ……おい? えっ。ちょっと。メギロスさん」
何が起きているのか、分からない。
「ナルテークス!?」
叫んだが、彼の姿はもう男たちの波の向こうに消えて、見えなかった。
「グラウコス!」
呼びかけに、答える声もない。
「アナクサンドロス王! ちょっと! おい……!」
為すすべもなく叫び、もがきながら、戦列の後方へと運ばれていく。
ずらりと並んだ戦士たちは、すばやく片身をよけてメギロスとカルキノスを通し、彼らが通りすぎるとすぐさま元の姿勢に戻っていった。
誰ひとり、驚いていない。止めようともしない。
そう。
まるで、全員が、こうなることをあらかじめ知っていたかのように――
「ちょっと!?」
ただ一人、カルキノスだけが混乱し、喚き立てている。
「メギロスさん、何してるんです!? 俺の作戦……ちょっと!? こんな馬鹿な……下ろしてくださいよ! 神託を、忘れたんですか!? 何してるんです、俺が行かなきゃ! 俺が……」
俺が死ななければ、アリストメネス将軍も死なないというのに。
「将軍が、では、ない」
静かな声。
ぶらりとぶら下げられたままで目を見開き、カルキノスは、再び首をひねってメギロスを見た。
棒を担いで歩きながら振り向いたメギロスは、兜の下で、とても静かな目をしていた。
「輝けるアポロン神が選びたもうたのは、彼だ」
* * *
静かだ。
全ての物音が、幾重もの厚い布を通したように鈍く、かすかになって、消えてゆく。
必死に自分の名を呼ぶカルキノスの声もまた、同じように遠ざかって、聴こえなくなった。
静寂の中に、自分自身の鼓動だけが、ひどく規則正しく響いている。
背中に、ずらりと並んだ戦友たちの視線を感じる。
グラウコスが泣いていることが分かった。
見えなくても、それは分かった。
大きく息を吸い込む。
鷲のように目を凝らし、敵の戦列の中にアリストメネスらしき男の姿を探す。
これから自分は、その男と向き合い、生涯最大の役目を果たすのだ。
『ナルテークスよ』
この戦いに赴く前の夜、王と長老たちから、極秘の呼び出しを受けた。
彼らの前に立った瞬間には、もしや妹とカルキノスとの結婚のことを咎められるのではないかと、胸を塞がれるような不安を感じた。
だが、告げられたのは、まったく別のことだった。
空は晴れ渡り鳥が舞い上がるとき
男たちの槍と鎧が戦場に輝くとき
敵味方を等しく嘆きが包むであろう
歌声はとぎれて涙に変わるであろう
スパルタの竪琴が地の底にくだるとき
メッセニアの槍もまた折れるであろう
デルフォイにおわす神が告げたもうたというその言葉を、アナクサンドロス王が厳粛な面持ちで朗誦したとき、その意味は、すぐに理解できた。
斜めの君アポロン神らしからぬ明快な言葉に、驚きすらおぼえたほどだ。
『やって、くれるか』
食い入るような男たちの視線が、自分に注がれている。
アナクサンドロス王の静かな問い掛けに、微笑み、頷いた。
* * *
「違う!」
手足をばたつかせ、カルキノスは必死に叫んだ。
「何を言ってるんだ!? 違うだろ!? ナルテークスじゃない。俺だよ!
あの神託を聞いただろう、スパルタの――」
そこまで言って、不意に、何かに気付きそうになり、言葉を切った。
違う。
そんなはずはない。自分だ。
自分が、命を捨てれば、スパルタに勝利がもたらされるのだ――
「スパルタの竪琴」
メギロスが、呟くように言った。
「アポロン神は、そう仰せになった。スパルタの詩人ではなく、スパルタの竪琴と。
竪琴が、それ自体で鳴ることはない。竪琴は、詩人の手によってはじめて、豊かに調べを鳴り響かせるもの。
彼は、言葉を失った男だった。将軍と出会い、彼は歌うようになった。スパルタのための歌を……」
「違う! 違う!」
「ナルテークスが死ぬとき、スパルタに勝利がもたらされる」
* * *
輝けるアポロン神からの言葉を王の口から伝え聞いたとき、ナルテークスの心に驚きとともにこみ上げてきたのは、安堵と、喜びだ。
では、自分が考えていたことは、正しかったのだ。
『頼むよ! 俺も、命を張る。君も聞いているだろう? 今度の戦いで、俺は、この命を的にかけてアリストメネスを誘い出す覚悟だ』
あの日、風の吹く丘の上で――
『歌が残れば、その人の名と、誉れが残る。消えることのない誉れが。
歌い継がれることばがあるかぎり、その人が生きた証は、永遠に失われることはない!
人々の記憶に刻まれ、残された者の誇りになり、後に続く人々に、いつまでも勇気を与え続けるんだ!』
腕をわななかせ、唾を飛ばして必死に訴えてくるカルキノスの顔を見つめていたとき、不意に、神の囁きがきこえたような気がした。
(永遠に失われることのない……残された者の誇り……)
ゼノンの姿が浮かんだ。
カルキノスが作った、ゼノンを讃える歌が、胸の中に鳴り響いた。
スパルタじゅうの男たちが、声を合わせてその歌を歌うさまがよみがえった。
妹の顔が浮かんだ。
忠実な年寄りのテオンと、寝たきりのグナタイナのいる家の中庭に一人でぽつんと立ち、にこにこ笑っている妹の顔が。
父の顔が浮かんだ。
何も言わず、愛情深い眼差しで、そしてどこか哀しそうに、自分と妹を見つめている父の顔が。
そして、あの戦――
処刑される前日の、父の顔。
石のような母の横顔。
人々の、軽蔑と、嘲りの顔。
父は戦いから逃げた。
守るべき娘のため、守るべき息子のために。
(俺が、弱かったからだ。俺が、母とアグライスを守ってやれるくらい強ければ、あんなことには)
ずっと、そのことを悔やみ続けてきた。
父の汚名を晴らそうと、母の心に応えようと、戦い続けてきた。
踏みしめた その場を守り
退かず 斃れたならば
死を超えて 不死へと至る
(消えることのない、誉れ……)
カルキノスの歌にうたわれた、その言葉が、不意にかちりと音をたてて心のひび割れに嵌まった気がした。
父、母、妹。
カルキノス。
大切な人々のために、自分が何をなすべきなのか。今こそ、はっきりと分かった。
己は死んでも、その名は残り、人々の心に絶えることのない火を灯し続ける者。
死の闇も、陽の射す道も、前を向いて歩く――
(死を超えて、不死へと至る……英雄に)
カルキノスに、アグライスを託し、自分は、英雄として死ぬのだ。
恥ずべき死に様がいつまでも人の口にのぼり、残された者を苦しめるのと同じように、この上ない誉れある死もまた、いつまでも人々に歌われ称えられ、残された者の誉れとなるだろう。
その歌は、彼が、歌ってくれる。
(頼んだぞ、テュルタイオス)
輝けるアポロン神が自分の傍らに立ち、光の指で、ゆくべき方を指し示してくださっているような気がした。
思い切り、息を吸い込んだ。
歌と同じ。決められたことば。これを言うと決めてきた。
最後の舞台。
最後のことば――
「アリストメネスよ! 貴様が、か弱い女子供ではなく、噂に聞くような男であるというのなら、出てきて、この俺と戦うがいい!」
繰り返した嘲りの言葉に、スパルタの軍勢が、盾と槍を打ち鳴らして唱和する。
* * *
「駄目だ、駄目だ、駄目だ!」
カルキノスは猛然と暴れた。
その激しい動きで、鎧の首の後ろの鉤が紐から外れ、カルキノスは埃を舞い上げて地面に転がった。
「落ち着け!」
起き上がり、跳ねるように駆け出そうとしたところで、メギロスにむんずと首筋を捕まえられる。
「やめろ! 離してくれ! 俺が行く! ――ナルテークス!」
戦士たちの誰ひとりとして、振り向かない。
盾と槍を打ち鳴らす音、地鳴りのような男たちの声が、カルキノスの叫びをかき消してゆく。
涙がほとばしった。
「おい! ナルテークス、やめろ! アクシネをどうするんだよ!? 彼女を置いていくのか!」
「もはや、そなたの妻であろう」
メギロスの言葉に、がんと頭を殴られたような気がした。
「聞け。――聞け! カルキノス将軍よ!
ナルテークスは、スパルタのために命を捧げる覚悟を決めておる。それゆえに、そなたを見込んで、妹を託したのだ。
彼は、思い残すことなく、望んで死地に赴こうとしているのだ。
彼の最後の戦、戦士の生涯の終わりを飾る華よ! 邪魔立ては無用。笑って見送れい!」
「嘘だ!」
叫びは涙にまみれて裏返り、金切り声になった。
「望んで死ぬ人間なんか、いるはずないだろ!?
そうするしかないと思ってるから、行くだけじゃないか!
行かなきゃいけないと思ってるから、嫌でも行くんだ!
やめろ! ナルテークス! 君のかわりに、俺が――」
「将軍では駄目なのだ! 輝けるアポロン神は、ナルテークスをお選びになった。彼は、それを喜んで受けた!」
「嘘だ! 彼は、戦が嫌いだ。彼が自分でそう言ったんだ! ――あなたたちか?」
血走った目で、メギロスを睨みつける。
「あなたたちが、彼に言ったんだな? ……神託のことは、決して他に漏らすなと言ったのに!
あなたたちが、ナルテークスに命令して、彼を無理やり行かせたんだ!」
その瞬間、頭蓋が肩の上から吹き飛んだのではないかと思うほどの衝撃があって、目の前が真っ暗になった。
だいぶ遅れて、口の中が生温かくぬるついていることに気付き、同時、舌の上いっぱいに血の味が広がった。
「将軍も、スパルタの男となったからには、そんなふうに友を侮辱するべきではない」
固めたままの拳とは正反対の、静かに諭すような声で、メギロスは言った。
「スパルタの男に、他人に強いられて戦場へ向かうような臆病者はおらぬ。
確かに、ナルテークスに神託のことを伝えたのは我らだ。
我らは、あの言葉を伝え、ただ『やってくれるか』と問うた。彼は、笑って頷いた。
……将軍よ。この際だ、明かしておこう。これを、見てくれ」
言って、メギロスが取り出したものを目にしたとき、カルキノスは言葉を失った。
「青銅の板だ。文字が刻んである。
彼は、これを指さして、文字でもって、我らにこう告げたのだ。
『このことを、将軍には、話さないでほしい。彼は、きっと、俺を止めるだろう』と……
だからこそ、我らは、このことを今まで将軍に明かさなかった。
分かってくれ。いや、分かってやれ! ナルテークスの思いを!
彼は、きっと、この時を待っていたのだ――」
* * *
「アリストメネスよ! 貴様が、か弱い女子供ではなく、噂に聞くような男であるというのなら、出てきて、この俺と戦うがいい!」
何度、その言葉を繰り返しただろう。
不意に、まるで海の潮が引くように、武具を打ち鳴らす音が消えていった。
戦士たちの声も、それに引かれるようにして静まり、戦場に驚くほどの静寂が訪れる。
やがて、ほんのかすかな物音が、それを破った。
金属と革とがこすれる音。
太く重い槍の石突が、大地を突きしめる音。
澄み切った空の一角に雲が湧き、まばゆい陽光がふと翳るように――
メッセニアの戦列の中から、一人の男が歩み出てきた。




