初夜
タユゲトス山の影が長くのびて、野を、畑を、家々をおおってゆく。
「あれ? テオン!」
獲物をぶらさげた腕を勢いよく振り、踊るような足取りで戻ってきたアクシネは、家の前にたたずんでいる忠実な奴隷の姿を見て目を丸くした。
「なに? そこで、なにしてる?」
「あの」
テオンは、アクシネから黒い毛皮のうさぎを受け取りながら、まごついた様子で呟いた。
「中で、お客様がお待ちです」
「おきゃくさま?」
「俺だよ、アクシネ」
家の中から、ふらりと姿を現した男の姿を見て、
「テオン」
アクシネは眉をぎゅっと寄せてかぶりを振り、嘆かわしそうに言った。
「ちがうちがう。これは、おきゃくさまじゃないぞ! これはな、カルキノス!」
「あっ、はい。そうですね」
「ほら、これっ!」
困ったように相槌を打つテオンの手から、アクシネはあっという間にうさぎを取り上げ、満面の笑みを浮かべながら、カルキノスの目の前でぶらぶらと揺らした。
「このうさぎは、わたしがとった! えらい、えらい! わたしは、とってもえらいなあ!」
カルキノスは、そんな彼女の顔を黙って見つめていた。
さしものアクシネも、徐々に不審そうな表情になり、うさぎを下ろして、目の前に立つ男の顔をのぞき込んだ。
「カルキノス? ……なにか、かなしいのかあ?」
「違うよ。俺は、君に話があって、来たんだ」
「ふーん」
もう一度、テオンにうさぎを押しつけながら、アクシネは、カルキノスの顔から目を離さなかった。
カルキノスは、いつもとはまったく違う表情をしていた。
いつもは、困っているか、驚いているか、笑っているかだ。
でも、今は違う。
まるで、今にも崖から飛び下りようとしている人みたいだった。
彼は、アクシネを見ていなかった。
じっと地面を見つめ、それから、どこだか分からないが遠くを見て、近くに生えている木を見た。
そのあいだ、彼は何も喋らなかった。
いつもの彼なら、スパルタで生まれ育った男たちとはまったく違って、流れる小川みたいに途切れることなく、いろんなことを喋り続けるのに。
「はなしは?」
とうとうアクシネが訊くと、カルキノスは、怒っているのかと思うほど、きっとした顔でこちらを見た。
「アクシネ。俺と一緒に、来てくれないか?」
「いいよー!」
アクシネは元気よく叫んだ。
「でもな、それは、ばんごはんのあと。くろいスープ! うさぎの、くろいスープ! グナタイナにもあげる! ばばばばば、ばんごはーん!」
その香りと味を想像して嬉しくなり、アクシネは拳を突き上げて歌いながら小躍りした。
それから、ふとおきゃくさまに対する礼儀を思い出し、あっけにとられたように突っ立っている目の前の男の腕をつかむ。
「カルキノスは?」
そう尋ねると、彼は驚いたように目を見開き、
「……ああ」
困ったように眉を下げて、笑った。
「じゃあ、俺も、いただこうかな」
* * *
アクシネは真剣な表情で神々への祈りをすませると、どすんと音を立ててカルキノスの隣に座った。
彼女の兄は今、いつものように兵舎にいる。
この家にいるのは、アクシネ自身と、テオンとグナタイナ、そしてカルキノスだけだ。
「カルキノス、いっぱいたべて、ちからをつけろ!」
テオンの手からひしゃくと器を奪い取り、アクシネは、黒いスープをなみなみとカルキノスに取り分けて彼の前に置いた。
テオンは、心なしかいつもよりもすばやく給仕を終え、部屋から出ていった。
「なあ、ほんとかあ?」
「……えっ。何が?」
「カルキノスが、いちばんまえにでるって、みんながいってた」
口いっぱいに詰め込んだパンをもぐもぐと噛みながら、アクシネは器用に喋った。
「たてとやりをー、ふんふんふーん……ほまれ! あのうたみたいに。カルキノス、よわいのに、だいじょうぶか? たてとやり! あぶないぞお。ささる!」
「大丈夫だよ」
カルキノスは、笑った。
「みんなが言ってなかったかい? 輝けるアポロン神が、俺を守ってくださる」
「そうかあ」
アクシネは笑顔になって頷いた。
「じゃあ、あんしん、あんしん!」
彼女はパンを飲み込み、黒いスープをごくごくと飲んだ。
ほとんど食事を終えて、もう一度カルキノスの顔を見たとき、彼女は飛び上がった。
「あれ、ないてる!」
隣に座った男が、まじまじとこちらを見つめたまま、ぼろぼろと涙をこぼしている。
男がこんなふうに泣くなど、スパルタでは、めったに目にすることのない光景だ。
「どうしたんだ! けがしたのか? いたい、いたい!」
「違うよ」
彼は呟き、片手をあげて目と頬をこすった。
「目に、ごみが入ったんだ」
「とる?」
「いや……いい」
指をぐっと曲げて片手を構えたアクシネに、カルキノスは静かにかぶりを振った。
彼はそのまま、濡れた目で彼女をじっと見つめた。
なにかいおうとしてる、と気付いて、アクシネは黙って待った。
「アクシネ」
やがて、意を決したように、彼は言った。
「俺が泣いたのは……君と、もう会えなくなったら、これほど悲しいことはないと思ったからだ」
「ない? かなしい? なにが?」
「君と、会えなくなること」
「ああ!」
アクシネは力づけるようにカルキノスの肩を叩き、その手で自分の胸を叩いた。
「だいじょうぶ! あえるぞ。わたしは、ここにいる。ほらっ!」
「そうだね……」
何だか力が抜けたように彼は呟き、目の前の器の中の黒いスープを見つめた。
「君と、いつまでも、こんなふうに暮らせたらいいのにな」
「くらせたらって、なに?」
「君と、結婚したいってことだよ」
「けっこん」
アクシネは真面目な顔でそう繰り返して、首を傾げた。
「けっこん、かあ? なにか、きいたことあるな。……おおっ!」
たちまち満面の笑みを浮かべ、ばんと手を叩く。
「あれだ! 『ヘラめがみさまのようにつつしみぶかく、ヘスティアめがみさまのひをたいせつにまもり、すえながく、おしあわせに』! おぼえてた。えらい、えらい! わたしは、とってもえらいなあ!」
「うん……」
カルキノスは泣き笑いのような顔になって、アクシネの手を握り、囁いた。
「アクシネ。俺と、結婚してくれないか」
「いいよー!」
アクシネはその手をがっちりとつかみ、ぶんぶんと上下に振った。
「おおきなこえでー、いち、にい、はい! 『ヘラめがみさまのようにつつしみぶかく、ヘスティアめがみさまのひをたいせつにまもり』……」
「違うよ」
がっくりとうなだれて、カルキノスが呻く。
「結婚っていうのは、お祝いの言葉を言うことじゃないんだ」
「え! ちがってた。ざんねんだー。じゃあ、なに?」
「いつまでも、一緒にいるってこと」
「いつまでも、いっしょに?」
アクシネは、びっくりしたように言った。
「いつまでも、かあ? だれが?」
「俺と、君が」
「カルキノスと、わたしが?」
指先を順に動かしながら、アクシネはそう言い、
「いつまでも!?」
不意に、その顔が目もくらむほどの笑顔になった。
「いつまでも! いつまでも、いっしょにかあ! もう、どっかいかない。いつまでも、いっしょに! やったー!」
彼女は跳ね上がるように立って踊り出し、腰に下げた斧が宙に浮くほどの勢いでくるくると回った。
「アクシネ! だから、俺の家に来てくれないか?」
「いま?」
回転がぴたりと止まる。
「だめだなー。よるだから! よるには、でかけたらいけない。よるなのに、グナタイナをおいていけない」
「ああ……そうだね」
カルキノスは頷き、組み合わせた両手の指をせわしなく動かした。
「じゃあ、この家に、泊まっていってもいいかな」
「いいよー!」
「君の部屋で……一緒に寝てもいい?」
「いいよー! ちょっと、まってて!」
言うなり、アクシネは駆け出した。
戸口のかげで心配そうに聞き耳を立てていたテオンをもう少しで跳ね飛ばしそうになりながら、そのことに気付いた様子すらもなく、すごい勢いでどこかへ走り去っていく。
「テオン! 大丈夫か。彼女、どこに行った!?」
「分かりませんが……あっ」
「よいしょ! よいしょ!」
向こうの方から、がんがんと何かが壁にぶつかる音が近づいてきて、縦向きになった木製の寝台がぬっと姿を現した。
カルキノスがこの家に仮住まいしていたときに使っていたものだ。
廊下を塞ぐように縦に突っ立った寝台の両側から、アクシネの手が見えている。
「おもい、おもいなー! よいしょ!」
男たちがあっけにとられて手を貸すことさえも思いつかずにいるうちに、彼女は壁にがんがん端をぶつけながら寝台を動かして自分の寝室まで運んでいき、それを、自分の寝台の横にどかんと下ろして、ぴったりくっつけた。
「ほら、できた。おもい、おもいなー! でも、がんばったらできた」
寝台に腰を下ろして、自分の横をぽんぽんと叩き、カルキノスを見上げて笑いかける。
「なっ!」
* * *
* * *
* * *
「ああ、ああ……もう……」
夜更けの暗闇に、一組の男女の声が響く。
「遅いっ!」
「姉上、どうか、お待ちを! ……どうか、もう少し!」
「何を言っているの」
かすかな月明かりに、大きな目がぎらりと光る。
その目に睨みつけられて、グラウコスは、姉の肩にかけようとしていた手を慌てて引っ込めた。
「もう、じゅうぶんすぎるほどに待ちました! まったく、カルキノス将軍が、お前の手助けを断ったのも、お前が愚かにもそれを了承したのも、何もかもが間違いです! 将軍は、いったいどういうおつもりなのかしら!? 片足がきかないというのに、あの野生の獣のようなアクシネさんを、たった一人で捕まえようだなんて!」
「しかし、奴……カルキノス将軍は、策を練ることにかけては、誰よりも優れている。何か考えがあるはずなのです。ですから、あと少し――」
「お黙り!」
一喝され、グラウコスは王の命令を聞いた初陣の若者のように飛び上がって棒立ちになった。
『俺に、考えがあるんだ。グラウコス、君は来なくても大丈夫だ。姉上に、花嫁のための支度をととのえて、俺の家で待っているようにと伝えてくれないか?』
そう言い残し、カルキノスが出かけていったのが、夕日が沈む頃。
その彼が、深夜になっても戻ってこない。
花嫁を連れてはおろか、一人でさえも、だ。
「グラウコス。お前、あと少し待ってくれとばかり言うけれど、そうしているうちに手遅れになってしまったらどうするつもりなのです?」
「手遅れ? ……まさか」
「そうです! 将軍は、今頃もうアクシネさんの斧で頭を割られているかもしれないのですよ!? 輝けるアポロン神のお導きで、スパルタに勝利をもたらすために遣わされた方が、そんなことで命を落としでもしてごらんなさい! そうでなくとも、戦を控えたこのときに、大怪我でもしたら……! 事は、笑い話ではすまないのですよ!?」
「それは……」
さすがに蒼ざめながら、何か言おうと口を開きかけたとき、
「何者だ!」
グラウコスは怒鳴って、姉をかばうように立ちはだかった。
何者かが、こちらに近付いてくる。
道の真ん中を、慣れぬ足取りで、こちらに向かって走ってくる――
「グラウコス様……テミスト様! もっとはやく、お知らせに参るべきでした。御心配をおかけし、まことに、申し訳ございません!」
「テオンか!」
反射的に引き抜いていた短剣を鞘に戻し、グラウコスは駆け寄ってきた老奴隷の両肩をつかんだ。
「奴は……カルキノスは無事か!? まさか――」
「はい」
年老いた奴隷は顔を歪め、痩せた肩をふいごのように上下させながら、声を絞りだした。
「カルキノス様は、今、アクシネ様と臥所を共にしておられます」
「おお神々よ、遅かっ…………ん?」
天を仰いで叫びかけたグラウコスは、ぴたりとその動きを止めて、数呼吸ほどもそのままの姿勢でいた。
やがて、がばっと姿勢を戻し、
「ふっ……えッ? 今か? 臥所って」
「はい」
混乱した様子で呻くのへ、テオンが、真剣な調子で頷く。
「カルキノス様の誘いに、アクシネ様が応じたのです。お二人はそのまま、寝室へ」
「しん……」
「どうやら、私の取り越し苦労だったようですね」
硬直してしまった弟は無視し、先ほどとは打って変わった穏やかさで、テミストが言った。
「男と女のあいだのことです。気分が昂ぶれば、場所を移すのももどかしいということだってあるでしょう。かの『イリオンの詩』にも歌われていることです。ゼウス様とヘラ様が、イデ山の山頂で――」
「あ、は、いや。はあ」
「将軍の屋敷へ戻りましょう、グラウコス」
テミストは、まだ固まっている弟の背中を押して、元来た道をさっさと引き返しはじめる。
「結婚を正式なものとするためにも、後から、かたちはととのえなくてはなりません。けれど、今は、二人の邪魔立てをしないように。この夜は、夫婦にとって、二度とない神聖なものなのですから――」
* * *
姉と弟が立ち去ってから、しばらくして。
その道の、同じ場所に、一人の男が現れた。
家から出て、ふらふらと歩いてきたカルキノスは、立ち止まって夜空を見上げた。
『ふふふ、いっしょ!』
灯りを消した寝室で、寝台に横たわったカルキノスにぴったりとくっつき、アクシネは、嬉しそうに笑った。
『ずーっと、ずーっとまえ、おかあさんといっしょにねた。こんなふうに。ふふふ』
『俺と君は、一緒に寝た。人に訊かれたら、そう言っていいよ』
『これから、いつもいっしょにねる? いつまでも?』
『うん』
『そうかあ! いっしょに! ふふふ』
アクシネはよく馴れた獣のようにカルキノスの肩に額と頬をこすりつけ、彼の腕に腕を巻きつけて、目を閉じた。
カルキノスは、暗い天井を見上げながら、じっとしていた。
長い時間が経って、アクシネの呼吸が深く、規則正しくなり、小さな声で呼びかけてみても目を覚まさないと分かってから、ごくわずかずつ、ゆっくりと動いて彼女の腕をほどき、入口に立てかけておいた杖を取って、部屋から出た。
(彼女と、本当に、夫婦になりたかった)
空を見上げた目の端から、また、涙が流れ落ちた。
上空を、凄まじい勢いで雲が流れていく。
星々の姿が消えては現れ、また消えた。
ひとつの星が、急に全天を横切るように光って流れ、そして消えた。
これで、たとえ自分が戦に斃れても、将軍カルキノスの寡婦というアクシネの立場は残る。
そうすれば、自分は、死んでも、彼女の支えとなることができる。
ナルテークスとの約束を、一部なりとも、果たすことができる。
(俺が、退場したあとに……彼女が、他の誰かと幸せになれるように。そのとき、子供がいては、揉め事の種になるかもしれない。第一、アクシネひとりに、父親のない子を育てさせるわけにはいかないじゃないか……)
そう心の中で繰り返し、自分自身を納得させようとしたが、涙は後から後からあふれ出して止まらなかった。
(死にたくない)
アクシネとナルテークスの父、アリストン殿の心を、今になって、ようやく理解したと思った。
死にたくない。
愛する者と、いつまでも一緒にいて、守りたい――
(俺は、死にたくない!)
そう叫びそうになったとき、ふと、人の気配を感じた。
カルキノスは身構え、拳で頬をこすった。
アクシネではない。それは、直感で分かった。
見れば、黒っぽい衣に身を包んだ男が、道に立っている。
「ただいま戻りました。屋敷にうかがいましたら、グラウコスがいて、将軍は、こちらにおられると」
そう告げてきた声に、聞き覚えがあった。
カルキノスは目を見開き、一歩、相手に近付いた。
「君……デルフォイから?」
「ええ、夜を徹して馬を駆けさせ、つい先ほど、戻って参りました」
アポロン神の言葉を授かるために、デルフォイの神託所に派遣されていた使者たちのうちの一人だ。
「では、神託が、下ったんだな?」
使者は頷いた。
『スパルタの将軍が最前列に立って戦えば、スパルタは、メッセニアのアリストメネスを討つことができましょうか?』
スパルタの運命を賭したこの問いに、アポロン神は、答えを与えたもうたのだ。
「まだ、誰にも話していないだろうな? 最初に、俺のところへ来た?」
「はい、御命令のとおりに。仲間たちも、待たせております」
「そうか」
カルキノスは威儀を正し、ねぎらうように使者の腕を軽く叩いた。
「長旅で苦労をかけたね。……では、神の言葉を聞かせてくれ。一言一句、決して違えることなく」
続く、一瞬の沈黙は、使者の内心のためらいを表したものであっただろうか。
やがて、使者は意を決したように、巫女の口を借りてアポロン神が語りたもうた言葉を、カルキノスに向かって歌った。
歌ったというのは、神の言葉は、短い詩のかたちをとっていたからだ。
目を閉じ、全神経を集中して耳を傾けていたカルキノスは、使者が口を閉じてもなお、じっと瞼を閉ざしたまま、身動きひとつしなかった。
「カルキノス様……」
「よく、知らせてくれた」
ためらいがちに呼びかけた使者に対し、ぱっと目を開いて、カルキノスは笑いかけた。
「これで、俺は、曇りのない心で最前列に立つことができる。……さあ、行こう。もう真夜中だけれど、アナクサンドロス王にお目通りを願うんだ。待つときは終わった。俺たちは、動き出さなきゃならない」
使者は頷き、こちらです、というように先に立って歩き出した。
その後に続いて二、三歩行ったところで、カルキノスは立ち止まった。
アクシネが眠る家を振り返り、
「さよなら」
震える声でそれだけ囁くと、足早に、使者の後を追った。




