テミスト
カルキノスは、ふしぎな心持ちで道を歩いていた。
自分のすぐ前をゆく、広い背中。
それを眺めて歩きながら、ずっと、ひとつの疑問が心の中をぐるぐると回っている。
(さっき、聞いた声は、幻だったんだろうか?)
ついさっき、あの丘の上で、
『頼んだぞ、テュルタイオス』
目の前に立った男から、確かに、そう言われたような気がした。
強い風の音に紛れて、聞き違えたのかもしれなかった。
あるいは、彼の笑顔と、まっすぐで強いまなざしが、言葉よりも雄弁に自分に語りかけてきたためかもしれなかった。
(だって、彼は、歌うことはできても、話すことはできないはずだ。決められた言葉でなければ口には出せないって、前に言っていたじゃないか……)
そもそも、こんなふうに悩んでいる必要などない。
前を歩くナルテークスを呼び止め、確かめればすむことだ。
だが、カルキノスは、先ほどの出来事について敢えて確かめる気には、どうしてもなれなかった。
決められた歌の言葉ではない、彼自身の心を語った声。
それは夜の闇の中で見たすばらしい夢のように、心の中で繰り返しあたためているうちは輝いているが、口に出せば、たちまち光を失い、二度と戻らないのではないかと思われた。
(そう、夢……何もかも、本当に、夢の中のことのようだ)
自分が結婚するということにしたって、そうだ。
自分は、これから、戦いに死のうとしている。
それなのに、なぜ、アクシネとの結婚を承諾したのか。
もちろん、ナルテークスに歌ってもらうためだ。
だが、そう。
それだけではない……
「ナルテークス!」
カルキノスは大声で、前をゆく背中に呼びかけた。
それは、自分自身の心とこれ以上対峙するのが怖かったからでもあるが、同時に、どうしても確かめておきたいことがあったからだ。
立ち止まり、振り向いてきたナルテークスに近づいて、ひそひそと問いかける。
「あのさ。もう一度きくけど……本当に、今から、グラウコスのところに行くのか?」
ナルテークスは頷いた。
二人は、先ほどからずっと、グラウコスがいる兵舎を目指して進んできたのである。
「で、アクシネと俺が結婚することを、グラウコスに話す?」
ナルテークスは、もう一度頷いた。
彼はそれが当然だと思っているようだったが、カルキノスにとっては不安の要素しかない。
「大笑いされるか、ふざけとるのか! ってぶん殴られるか、どっちかの気がするんだけど、大丈夫かな……」
カルキノスは眉間のしわを増やしながら、そう唸った。
よりにもよってグラウコスとは。
結婚について相談するのに、これ以上、不向きな相手もいないような気がする。
そもそも、グラウコスだって、まだ結婚していないではないか。
懸念をあらわにしているカルキノスに対し、ナルテークスは、小さく指を動かして空中に文字を綴った。
あの金属板を使わないのは、誰かに見られることを警戒しているからだ。
『俺は手を貸すことができない。仲間が必要だ』
「仲間?」
結婚祝いの宴席に招待する「客」ではなく「仲間」。
そういえば、スパルタの結婚式がどんなふうに行われるものなのか知らない。
何だか、自分がこれまでに見聞してきた結婚式なるものとは、少し――いや、だいぶ違うもののような気がしてきた。
「あのさ。そういえば、スパルタの結婚式って、いったいどういう……」
言いかけて、カルキノスは慌てて口をつぐんだ。
少しずつ道に人通りが増えはじめ、こちらを見た誰もが丁寧に挨拶を送ってくる。
将軍カルキノスと、歌い手ナルテークスが共に歩いているのだ。
これが人目をひかないはずがない。
結局、それ以上の会話を交わすことはできないまま、体育訓練場に着いた。
「うおおおぉりゃあッ!」
ちょうどグラウコスの拳が相手の頬をとら、相手が後方に吹っ飛んで砂の上に転がる瞬間だった。
「うわ」
カルキノスは思わず自分の頬を押さえて顔をしかめたが、
「くそおっ! 油断した。次は負けんからな!」
殴られて倒れたほうは、背中と尻の砂を払いながら、即座に立ち上がってきた。
見れば、首の太さと顎の幅がほとんど同じで、岩を組み合わせて作ったみたいな体格の若者だ。
カルキノスなら即死しかねないグラウコスの拳の一撃も、彼にとっては、乙女の平手打ち程度にしか感じられないのかもしれない。
(いや、それはないか……)
がははははと笑いながらグラウコスと肩を叩き合っている相手の頬は、パンの塊でも頬ばったみたいに腫れ上がっていた。
相当、痛いはずなのに、それを見せようとしない。スパルタの男の意地だ。
「おうっ、カルキノス!」
こちらに気付いたグラウコスが笑顔になり、拳に巻きつけていた布をほどきながら大股に近づいてきた。
「いや、カルキノス将軍か。それに、ナルテークスも! 二人そろってとは、珍しいな」
グラウコスの無駄に大きな声のために、体育訓練場じゅうの視線がいっせいにこちらに集まった。
「いや、その……うん」
ここに来た用が用だけに、カルキノスはひと筋の汗を垂らしながらも、笑顔を作って皆に手を振った。
「聞いたぞ! お前、今度の戦で最前列に立つことを決めたそうだな。それでこそ将軍! それでこそスパルタの男だ! お前の勇気に敬意を表するぞ。安心しろ、俺たちが、お前を助ける! そしてスパルタに勝利を!」
グラウコスの熱い演説に、体育訓練場じゅうの男たちが熱狂的な歓声と拍手とで答える。
出撃の直前さながらの盛り上がりようだ。
「カルキノスよ! 輝けるアポロン神は必ずや、お前の勇敢な決断をお喜びになり――」
「うん、ああ、いや……うん」
カルキノスは、作り笑顔にますます汗の筋を増やしながら、ぐいぐいとグラウコスの肩を押した。
「あの、ちょっといいかな。グラウコス、君に、話があるんだ。おりいっての相談が」
「話? 俺にか?」
「うん。だからさ、ちょっと……ここを出て、人の少ない場所へ。さあ……」
戸惑い顔のグラウコスの、汗に濡れた分厚い背中をぐいぐいと押して、カルキノスは体育訓練場から退場していった。
ナルテークスが、黙ってその後に続く。
外に出て、建物の陰に入ったとたんに、ぐるりと向き直ってきたグラウコスの顔から笑みが消えた。
「……おい、カルキノス。お前、本気か? 最前列に立つということは、お前は――」
「ああ、いや、うん」
カルキノスは、顔の汗を拭きながら生返事をした。
「それは本当だ。でも、今は、その話は置いといて」
「置いといて!?」
「うん。それで、おりいって君に相談したいことが。……あのさ」
自分で口にしておきながら、いまだに、実感が湧かない。
「実は、俺、結婚することになったんだ」
グラウコスは、その言葉を聞いても、しばらくのあいだ、何ひとつ反応を見せなかった。
耳にした言葉の意味が、脳にしみとおるまでに、しばしの時間を要しているようだった。
やがて彼は急に笑顔に戻ると、はっはっは、と妙に爽やかな笑い声を発した。
「カルキノス。お前にしては面白い冗談だな」
「いやあの……」
「結婚か。はは! 結婚だと? で? 相手は誰なんだ?」
「ええと……あのさ。それが……実は、アクシネなんだけど」
その瞬間、グラウコスは妙に爽やかな笑顔のまま、ぎしりと固まった。
カルキノスはしばらく待ってから、おーい? と、おそるおそる呼びかけてみるが、微動だにしない。
まさか気絶してるのかな、とカルキノスが疑いはじめたとき、グラウコスの表情が、すっと真顔に戻った。
彼はカルキノスと、黙って立っているナルテークスを交互に見比べた。
ずいぶん長いこと、そうしていた。
「そうか」
やがて彼は、何かを悟ったかのように大きく頷き、カルキノスをまっすぐに見つめると、予想していたあらゆる反応のどれとも違う言葉を投げかけてきた。
「で? 勝算は、あるんだろうな」
「勝算?」
いかにもスパルタ人らしい言い回しだ。
「いや……彼女の気持ちは、まだ確かめてないんだ。でも、うまく話せば、多分」
「アホウ」
呆れたように、グラウコスが断じる。
「結婚だぞ? 女の気持ちなんぞ先に訊く奴が、いったいどこにいる!?」
「はあっ!?」
もはや予想を超えるどころか、理解不能の範疇に入ってきた。
「いや、でも……今回は場合が場合だし、一応は彼女の……」
「カルキノス、お前、何を言っとるんだ? そんな野暮な真似をしてみろ。女たちのあいだで、孫子の代まで笑いものにされるぞ!」
「なんでっ!?」
確かにアテナイでも、当人同士が言葉を交わすどころか、互いの顔すら見ないうちに結婚が決まるという例はよくある。
だが、女の気持ちを先に訊くのが野暮とは、いったいどういうことなのだろう。
「心配だな……そんな調子で、お前、本当にあいつを奪えるのか?」
「奪う!?」
ますます理解を超えた言葉が飛び出し、頭の中が真っ白になりそうになった。
アクシネを想う、別の男がいるというのか。
いや、そんな、まさか、あの彼女を。
誰なんだ。
自分は、勝てるだろうか、その男に――
「そっ……えっ。奪うって……誰から?」
「誰からって……」
問われたグラウコスのほうが、理解できないという顔をした。
「さっきから、何を言っとるんだ。妻といったら、攫ってくるもんだろうがッ! 攫って結婚するんだ」
「ハアッ!?」
「スパルタでは、結婚といったら娘を略奪することだ。代々、そう決まっとる。もちろん、事前に相手の父親か後見人には、それとなく知らせておくものだがな。万が一、認められなかったときは、相手の一族が娘の奪還のために襲撃してくる恐れがあるからな」
「襲撃!?」
「まあ今回は、後見人のナルテークスの許しがあるから大丈夫だ。実行のときは、一人でかかる場合もあるし、仲間を集める場合もある。相手が手強そうなときは、仲間を集めて取り囲んだほうが無難だな」
「狩り!?」
「まずは娘が出歩くのをじっくりと待ち伏せ、あとをつける。そして、人通りの少ないあたりにさしかかったところで襲いかかり――」
「山賊!?」
「もちろん、娘は抵抗して大暴れする。相手が、たとえ好きな男であってもだ。そういう風習だからな。男に手を焼かせれば焼かせるほど、娘の名誉ってわけだ。それは、夫となる男の名誉にもなる。男は、暴れる娘を力ずくでとっ捕まえ、担いで自分の家まで連れてきて一緒になる。これが、スパルタの結婚だ」
「山賊だ……」
「お前の場合は、アクシネをとっ捕まえるわけだ。やれるか?」
「いや、無理だろ! 襲いかかった時点で、頭を割られるよ!」
「俺もそう思う」
グラウコスはあっさりと頷くと、太い腕を組んだ。
「だが、そうも言ってられんなッ! 戦の前に片をつけるつもりなんだろう? それなら、急がなきゃならん。アクシネをとっ捕まえる方法は、後で考えるとして、まずは、花嫁の付き添い役を決めなきゃならん。前もって相談して、決行の日と、当日の手はずを決めておかんとな」
「えっ、その『付き添い役』っていうのは……?」
「攫われてきた娘を受け取って、身なりをととのえさせるとか、まあ、色々な面倒を見る役だ。この役は、女がつとめる。誰か、引き受けてくれそうな女に心当たりはあるか?」
そんなものはない。
女性の知り合いといったら、アクシネ本人をのぞけば、奴隷のグナタイナと、キュニスカくらいのものだ。
愛する者を喪った彼女たちの心情、そしてもちろん体の状態を思えば、結婚に関わる役目に引っ張り出すことなど、とても考えられない。
ほんの少し言葉を交わした程度の相手なら、いないこともないが、個人的な頼みごとをするような間柄ではないし――
「よしッ!」
カルキノスが黙りこんでいると、急に、グラウコスが両手を打ち合わせて声をあげた。
「それなら、俺に心当たりがある。二人とも、ちょっと待ってろッ!」
「え!? ちょっ……おい、グラウコス!」
駆け出した彼の背中に向かって慌てて呼びかけるが、グラウコスは振り向きもせず、ものすごい勢いでどこかに走り去っていった。
「おおおおい! ナルテークス!」
思わず、黙ったまま立っているナルテークスの腕をつかんで揺さぶる。
「こんなの、聞いてないよ! あのアクシネを、力ずくでとっ捕まえて連れて来なきゃならないなんて! 俺、斧で真っ二つにされちゃったらどうするんだ!?」
『大丈夫だ』
ナルテークスは宥めるような表情を見せ、そっとカルキノスの肩に触れると、重々しく指を動かした。
『多分』
「多分っ!?」
不安しかない。
自分は、戦に出る前に、アクシネの斧にかかって命を落とすはめになるのではないか?
あの俊足、恐るべき身のこなし、斧を振るう腕力――
どうすれば手に負えるのか、見当もつかない。
予想されるいくつかの惨事が頭の中を駆け巡り、カルキノスの心が折れそうになったときだ。
「あなたたち!」
よくとおる女性の声が響いた。
聞いたことのない声だったが、堂々として自信に満ち、威圧的ではないのに反射的に従いたくなるような響きがある。
「話は聞かせてもらったわ。私にお任せなさい」
そこに立っていたのは、髪を美しく結い上げた、堂々たる体格の女性だった。
目鼻立ちのくっきりとした美人で、二の腕や腰回りが、それぞれカルキノスの二倍くらいはある。
「どなたですか?」
「俺の姉上だ」
「お姉さんっ!?」
後から来たグラウコスの顔と、その女性の顔を、カルキノスはまじまじと見比べた。
そういえば、彼に姉がいるという話を、ずっと前に、ちらりと聞いたような気がする。
目が大きいところや肩幅が広いところは似ているが、顔面人殺しのような弟と比べて、姉のほうは、美の女神の賜物をずっと豊かに受け取ることができたようだ。
「カルキノス将軍。あなたにお姉さんと呼ばれる筋合いはないわ。私は人妻よ。テミストといいます」
「失礼しました……」
彼女の威にすっかり打たれたかたちで、カルキノスは神妙に背筋を伸ばした。
将軍の名も形無しである。
なぜか隣では、ナルテークスまで一緒に直立不動になっていた。
「事情は、弟のグラウコスから聞きました。花嫁の付き添い役は、この私が喜んでつとめさせてもらいます。ナルテークスさん、あなたは後見人といってもまだお若いから、失礼を承知でおたずねしますけれど、妹さんが結婚するときの支度のことなどは? お母様から、何か、聞いてはいらっしゃらない?」
急に話を振られたナルテークスは、目を泳がせ、口を何度か開け閉めしたが、何も言葉は出て来なかった。
「……あの、彼の家の、奴隷が」
勇気をふるって横手から手を挙げ、カルキノスが割り込んだ。
「ナルテークスとアクシネの家付きの……古くからいる奴隷なんですが、テオンといって……気の利く奴隷です。男ですけど……もしかしたら、テオンが、彼らの母上から何か聞いているかもしれません」
「まあ」
テミストは目を大きくして――その表情は、本当に弟のグラウコスとそっくりだった――カルキノスを見た。
「分かりました。では、その奴隷にたずねてみましょう。満足のいく受け答えのできるような者だといいのですけど。……ナルテークスさん、あなたの家にお邪魔しますけれど、構いませんかしら? もちろん、弟に付き添わせます。女が、奴隷と話をしに、よそのお宅をたずねるなんて、まったく非常識なことですからね。しかし、今は非常時です。平時の常識を云々してもはじまりません」
「はっ! もちろんです」
背筋を伸ばして答えたのはグラウコスだ。
長老たちの前にいるときよりも緊張しているように見えるが、気のせいだろうか。
「もしも花嫁の支度のうちで足りないものがあれば、今回は、こちらで用立てますからね。すべて任せていただきましょう。それは女の仕事なんですからね。用意がすっかり整ったら、私から連絡をやります。あなた方は、男の仕事をしっかりと果たすこと。首尾よくアクシネさんを捕まえて、連れていらっしゃい」
「どうも本当に、何から何まで、ありがとうございます……」
見た目と口調の押し出しだけでなく、その的確で落ち着いた采配ぶりに本当に頭が下がる思いで、カルキノスは礼を述べた。
この女性も、かつて、夫に攫われて、その妻となったのか。
そう考えると、何だかとてもふしぎな気がした。
彼女を捕らえるなら、どんなに腕っ節の強い男でも、相当の打ち身と引っ掻き傷と、指の骨の二、三本は覚悟しなければならないような気がする。
「でも俺、はっきり言って、あまり自信が……どうやって彼女を捕まえるかってことが、一番の問題で……」
「くわしい手はずは、男同士で話し合うことだッ!」
テミストの目がこれまでになく大きくなったのを見たグラウコスが、慌てた様子でカルキノスの両肩をつかみ、地面から持ち上げそうな強さでしめ上げた。
「さあ行くぞッ、カルキノス! ……姉上、本当にありがとうございます。何とぞ、よろしくお願いいたしますッ!」
「あら、どこへ行くの、グラウコス? あなたはこれから私に付き添って、ナルテークスさんのお宅にうかがうのよ」
「あっ、はい、姉上! ちょっと……ちょっとだけお待ちを。すぐに戻りますッ! おい、ナルテークスも、何をぼさっとしとる!? 来い!」
「いだだだだ!」
テミストから見えないところまでカルキノスを引っ掴んできたグラウコスは、彼を地面に下ろすと、顔色を蒼ざめさせて食ってかかった。
「馬鹿たれがッ! こともあろうにスパルタの将軍が『自信がない』とは、何事だッ!? 姉上を怒らせると、本当にやばいんだ。言葉に気をつけろ!」
グラウコスがこれほど怯えた様子を見せたことは、これまでにない。
何がどう「本当にやばい」のか、とても気になったが、グラウコスの顔色を見るかぎり、あまり聞かない方がいいような気もした。
「姉上を長く待たせるわけにはいかんからな。急いで、計画を立てるぞ! どうやってアクシネをとっ捕まえるか、それが問題だ。おい、何か策はないのか、策は!」
「そんなこと、いきなり言われたって……」
アクシネを捕まえる。
それも、なるべく彼女を傷つけず、彼女の機嫌を損ねないようにだ。
戦に勝つよりも、ずっと難しい。
「ええと、そうだな……食べ物で釣って、おびきよせるとか」
「おびきよせて、どうする。後ろから網でもかぶせるのか?」
発想がほとんど漁師である。
怒り狂ったアクシネの斧がひらめき、網ごと犯人を真っ二つにしなかったら奇跡というものだ。
「その……二人の未来について、よく話し合う……とか?」
グラウコスは白目を剥いて天を仰ぎ、深いため息をつき、ナルテークスの肩を突いた。
「おい、ナルテークス! お前、こいつの義兄になるんだろうが! 何か、まともな知恵をつけてやれッ!」
「まともな知恵、って……」
その言葉、グラウコスにだけは言われなくない気がする。
食い入るような視線を向けた二人を、ナルテークスは困ったように見返していたが、やがて、彼はおもむろに地面に屈みこんだ。
小石を拾い、土の上に線を描きはじめる。
「おッ、何だ、何か思いついたか! ……んッ? これは……これ、は……」
「……落とし穴、だね……」
しかも穴の底には、何やら鍋のようなものが描いてあった。
結局、食べ物でおびき寄せている。
「ええいッ! だめだだめだ、こんなもの! やはり、男なら、姑息な手段に頼るな! 正々堂々、正面突破でアクシネをとっ捕まえろ!」
「いや、それは無理だろっ、どう考えても!?」
将軍カルキノス、メッセニア人との決戦前夜に花嫁に討たれ、華々しく散る――などと後世の詩人に歌われるはめになったら、死んでも死にきれない。
「じゃあそういうことで、俺たちは姉上とナルテークスの家に行ってくるから……」
「丸投げ!? いや、待ってくれよ、ちょっとー! 俺を見捨てるなよ、おおおおぉい!」
大変なことになった。
* * *
* * *
* * *
「だいぶ、埋まってきたのう」
視線を落とし、顎ひげをこすりながら、アナクサンドロス王は感慨深く唸った。
その手元に広げられているのは、ヘイラ山のようすを描いた絵図だ。
山中を縦横に走る小路、防備の柵、見張り台、石を積んだ防塁。
そして、メッセニア人たちが住まう山上の村の様子が、細かく描き込まれている。
「苦労を、かけておるな」
「誰かがやらねばならぬ仕事です」
静かに答えたのは、斥候の束ねの男だった。
その背後で、何かの砕ける鈍い音がして、絞りだすような叫び声が上がった。
「彼は……将軍は、優しい男だ。この仕事は、私がやらねばなりません」
全身を血に染めた若い男が陰鬱な顔つきでやってきて、斥候の束ねの男に何事か囁き、絵図の一角を指さした。
その手から血のしずくが垂れて、引かれた線を汚した。
斥候の束ねの男は頷き、暗い顔をしている部下の肩を叩いた。
それから絵図の上に屈みこみ、自分の衣の裾で慎重に血をこすり取ってから、新たに得られた情報を描き込んだ。
「もう少しです。我らが、ヘイラの山を手中にするまで」
「ああ……」
アナクサンドロス王は頷き、斥候の束ねの男の肩を叩いた。
それから、ふと思い出したように言った。
「ところで、デルフォイへの赴いた使者たちは、もう戻ったのかな?」
『スパルタの将軍が最前列に立って戦えば、スパルタは、メッセニアのアリストメネスを討つことができましょうか?』
その問いをたずさえて、アポロン神の神託所であるデルフォイへと送り出された使者たちのことである。
かの問いに、神が「諾」の言葉を下したもうたならば、戦いが始まる。
そして、そのときは、カルキノス将軍が最前列に立つのだ。
「いいえ。まだです」
「そうか」
「なぜです?」
「いや」
めったにないことであるが、王は言葉を途切れさせ、口ごもった。
だが、斥候の束ねの男の問いかけるような眼差しを受けて、
「実は……そのカルキノス将軍のことじゃ。そなたならば、決して、不用意に口外するようなことはあるまい」
アナクサンドロス王は、何ともいえない表情を斥候の束ねの男に見せながら、呟くように続けた。
「彼が、つい先ほど、わしのところへ来てな。近々、結婚したいというのじゃ。戦の前にな。あの……何だったかな、そう、斧女とかいう、変わった娘とな」
「そうですか」
斥候の束ねの男は、特に表情を変えることもなく頷いた。
「アクシネ。《歌い手》ナルテークスの妹です」
「うむ」
二人の男は黙りこみ、その背後で、また凄まじい悲鳴が上がった。
やがて、王は眉間にしわを寄せ、ぽつりと呟いた。
「生還を期せず、と、いうことかの」




