約束
* * *
* * *
「やあ、諸君」
竪琴をかついだカルキノスが兵舎の入口に姿をあらわした瞬間、中にいた若者たち全員が立ち上がり、背筋を伸ばした。
「カルキノス将軍!」
「ようこそいらっしゃいました。どうぞ中へ!」
「いや、いいんだ」
カルキノスは身ぶりで座るようにと皆にうながし、兵舎の中を見回した。
「ナルテークスはいるかい?」
若者たちがいっせいに後ろを見やった。
彼らの視線の先で、長身の姿が、ゆっくりと寝台から立ち上がった。
「ちょっと来てくれないか。話があるんだ」
若者たちがいっせいにどよめいた。
もちろん、厳しい規律の中で生活する彼らは、声を上げて騒ぎ出したりはしない。
ぱっと表情を輝かせ、すばやく視線を交わしあう。
カルキノス将軍が、神にも似た声を持つナルテークスを呼び出したのだ。
きっと、スパルタにまたひとつ、新しい歌が生まれるに違いない――
ナルテークスは、憂いを帯びたいつもの表情でカルキノスを見つめていたが、やがて、かすかに頷き、こちらに踏み出してきた。
「ありがとう。……では諸君、また」
手を振り、踵を返して歩み去るカルキノスを、若者たちは直立不動で見送った。
やがてナルテークスの背中も見えなくなると、彼らはとうとう我慢できなくなり、興奮もあらわに今の出来事について話し合いはじめた。
* * *
カルキノスは、杖をつきながら、右脚の許す限りの速さで道を歩いていった。
その斜め後ろに、ナルテークスが続く。
カルキノスも、ナルテークスも、一言も喋らなかった。
自分たちが今どこへ向かっているのか、二人とも、はっきりと分かっていた。
その場所は、彼らにとって、あまりにも特別な場所だったからだ。
スパルタ市の中心から徐々に遠ざかり、畑の中の道をずっと行くと、やがて、オリーブの木が並んで植えられた一画にさしかかる。
地面が、緩やかな上り坂になりはじめる。
オリーブ畑は終わり、野生の、何ともつかない低木や草がごちゃごちゃと生え始めた。
ナルテークスは黙って前に出ると、丘の斜面を覆う香り高い草の茂みをかき分けながら進んでいった。
カルキノスは、杖に頼り、足を引きずりながらも、ナルテークスの後に続いて息ひとつ乱さずに斜面を登り切った。
丘の上に立つと、空は青く、スパルタの市を一望のもとに見下ろすことができた。
風が吹いている。
「ナルテークス」
草の上で振り返り、何かを待つようにこちらを見つめている男の目を見返して、カルキノスは切り出した。
「次の戦いのために、新しい歌を作った。その歌を、君に歌ってほしい」
デルフォイの神託所へと使者が発って三日のあいだ、カルキノスは、ぼんやり待ってなどいなかった。
屋敷の部屋に閉じこもり、竪琴をかき鳴らし、ひたすらに歌い続けた。
アミュクライで感じた詩想の枯渇が嘘だったように、言葉は次々と流れ出し、数十行に及ぶ詩が、最初の一日でほとんど完成してしまったほどだ。
(この詩が、俺の、最後の作になる)
そんな思いも、ふとよぎったが、感情が大きく波立つことはなかった。
それどころではないという切迫感が、今のカルキノスを突き動かしていた。
「聴いてくれ」
カルキノスはそばにあった岩に腰を下ろすと、竪琴を構え、新しい歌を朗々と歌いはじめた。
スパルタがメッセニアの地を奪還することを呼びかけるものだ。
父親と祖父たちの世代がメッセニアを征服した事績を皆に思い起こさせ、彼らの勇戦を讃えることで、若者たちの奮起をうながす。
十と九年もの 戦続く日々
休むことも知らず
戦い続けた 獅子の心持つ
父と そのまた父らの偉業よ
カルキノスは、汗を流しながら歌い続けた。
今の時代を生きる自分たちもまた、祖父や父たちと同じように、息子やその息子たちのために戦うべきだということ。
戦場で名誉ある働きをすれば、その武勲は子たち、孫たちの誉れとなり、いつまでも語り継がれてゆくのだということ――
その歌は、すでに完璧なスパルタ風の響きをもっていた。
ナルテークスに添削を求める必要も、もはやないほどに。
敵を追い 踏みしめた土
父祖より 受け継ぎし地を
息子らに 手渡すために
盾を構えよ
槍を掲げよ
戦の時ぞ!
歌い続けるカルキノスの顔を、ナルテークスは、哀しげな表情で押し黙ったまま見つめていた。
やがて歌は終わり、カルキノスは竪琴を離し、額の汗を拭った。
「……そうだ」
歌の感想を求めるより先に、ふと思い出して、立ち上がる。
「これを、君にと思って」
懐から取り出した金属板を、ナルテークスの手に押しつける。
グナタイナに渡したのと同じものだ。
職人に依頼して、同じ金属板を二枚、作らせておいた。
「ことばを刻んだり、書いたりすると、それが残って、人に見られる恐れがあるだろ? いちいち消すのも面倒だし。でも、これなら、そんな心配はいらない。指さすだけでいいんだ。グナタイナにも、これと同じものを渡した……」
不意に、ナルテークスの手が動き、金属板の一角を指した。
『いいえ』
一瞬、カルキノスは、それが何を意味しているのか理解できなかった。
指し間違いかと思い、しばらく待ったが、ナルテークスの指は動かなかった。
(……何が?)
そう訊き返すかわりに、じっとナルテークスの目を見つめた。
彼は、辛そうに視線を外した。
その指先がのろのろと動き、いくつかの文字に触れていった。
『もう、歌いたくない』
「えっ?」
今度こそ、指の動きを見間違えたのかと思った。
呆然としているカルキノスを、ナルテークスはまっすぐに見た。
その指が、青銅板の上を動いた。
『必要だと思ったから、歌ってきた。今でもそう思っている。必要だと。……だが、もう、辛い。歌うたびに辛くなる。おまえの歌は、あまりにも、俺の心と違っている』
「でも……そんな」
衝撃を受け、そう口走りながらも、カルキノスの心の一部は冷静に動きはじめていた。
ナルテークスが、もう歌わないなんて……そんなことは容認できない。
落ち着いて、策を考えろ。
何と言って説得すればいい?
何と言えば、ナルテークスの心は動く?
『おまえは、歌で、戦えと言う。俺もそう歌う。でも、俺は、本当は、戦いは嫌だ』
「でも、君じゃなきゃ!」
結局、打算は吹き飛び、悲鳴のような叫びがほとばしった。
「君が歌ってくれるんでなきゃ、駄目なんだ! 君の声こそが、スパルタの皆に力を与える。君が、歌ってくれなければ……」
声そのものの持つ力。
ナルテークスの歌声には、抗いがたい何かがある。
聴く者の心を震わせ、魂の奥底までも揺り動かすような何かが。
ことばと、声と。
そのふたつが揃い、完璧にひとつにならなければ、大勢の人々を動かす力は生まれない。
「頼むよ! 俺も、命を張る。君も聞いているだろう? 今度の戦いで、俺は、この命を的にかけてアリストメネスを誘い出す覚悟でいる。……もちろん、怖いさ。でも、俺は、共に戦う君たちを信じてる。輝けるアポロン神がお守りくださることを信じてる! だから、命をかけるんだ!」
違う。
俺だって、嫌なんだ。
戦争は嫌だ、死ぬのは嫌だ。
でも――今は、もう――
「もう、自分だけ安全な場所で、絵空事を詩に作ったりはしない。俺だって、死を恐れずに戦うんだ! あの歌のとおりに! 俺は恐れないぞ。たとえ、俺が死んでも、俺のことばは残る。俺の歌は残るんだ。君が歌う、俺の歌が――」
無我夢中に訴えるさなか、不意に、かつて自分自身が口にした言葉がよみがえってきた。
まるで、何か別のものが、自分の喉を借りて口をきいたかのように。
「歌に終わりがなければ、その人の命にも、終わりはない。……お願いだ、ナルテークス。スパルタの男たちのために、歌ってくれ!」
『嘘だ。死は、全ての終わりだ。後に残るのは影だけだ』
「違う。歌が残る。歌が残れば、その人の名と、誉れが残る。消えることのない誉れが。歌い継がれることばがあるかぎり、その人が生きた証が失われることはない! 人々の記憶に刻まれ、残された者の誇りになり、後に続く人々に、勇気を与え続けるんだ!」
そうだ。
自分は、そのためにこそ、歌を作った。
「お願いだ、ナルテークス……お願いだ! もう一度、力を貸してくれ! スパルタのために、君の力が、君の歌声が、どうしても必要なんだ!」
風の音が、聴こえる。
同じ名を持つ二人の男は、微動だにせず向き合った。
合わさった視線はどちらからも外されることなく、睨み合っているかのような時間が、いつ果てるともなく続いた。
今にも泣き出しそうな顔でまっすぐにナルテークスを見つめるカルキノスの頭の中では、このあと口にするべき何十ものことばが渦巻いていた。
次に口を開いたとき、自分は何を言うべきか?
どう説得すれば、ナルテークスの心を動かすことができる?
大丈夫、以前だって、最初は断られたのだ。
粘れば、必ず引き受けてくれるはずだ。
(俺は、絶対に退かないぞ。どうしても、ナルテークスに歌ってもらわなきゃならない!)
そのとき、不意に、ナルテークスの指が動いた。
『条件がある』
――条件。
予期していなかったことばに、一瞬、面食らった。
だが、
「分かった!」
カルキノスは、反射のように答えていた。
「君が歌ってくれるなら、何でもしよう。言ってくれ」
自分の歌を歌う者は、ナルテークスでなければならない。
その点だけは、絶対に動かすことができなかった。
人の心を打つ歌声のためだけではない。
ことばを持たぬはずの男が、輝けるアポロン神の神助を受けて、その喉から歌声をほとばしらせる――
声そのものの持つ力に、その物語が持つ力が合わさってはじめて、ナルテークスの歌声は、神韻を帯びる。
(条件というのは、きっと、これを最後にしてくれ、ということだろう)
それでも構わない、という気がした。
この一戦でアリストメネスを討ち果たすことさえできれば、メッセニア人たちは、絶対的な指導者を失う。
頭を失った蛇を踏みつぶすように、スパルタの男たちは、易々と彼らを平定するだろう。
(そうなれば……君も、もう、戦争の歌を歌わなくていいようになる。俺も退場するんだ。そのために、今度だけは……)
ナルテークスは、頷いた。
その指が動き、並んだ文字に、ひとつずつ触れていった。
Γ Α Μ Ο Σ
「ん?」
見間違いだろうか。
カルキノスは目をぱちぱちさせ、もう一度動きはじめたナルテークスの指の先を凝視した。
『妹と、結婚してやってくれ』
「…………んん?」
カルキノスは先ほどに倍する速度で目をぱちぱちさせ、ナルテークスの顔を見つめ、無意味にあたりを見回してから、もう一度、ナルテークスの顔を見た。
彼の表情は、真剣だ。
「えっ?」
あまりにも予想外の展開に、理解が追い付かない。
「結婚? ……えっ? 結婚って……俺が? アクシネと? ……いや、アグライスと?」
『そうだ』
「いや、あの、それは……えっ? うーん!?」
混乱の渦に飲みこまれ、カルキノスは唸ることしかできなかった。
喜ばしいか。
率直に言って、喜ばしいという感情は、ない。
では、嫌なのか。
嫌だという感情も、ない。
今、心を占める思いを言いあらわすのにもっともふさわしいことばは「理解不能」だ。
「いや、えっ? 何を言ってるんだよ……? そんな」
(俺は、この戦いで死ぬ覚悟でいるのに、結婚なんて!)
思わず、そう言いそうになって、危ういところで言葉を呑みこんだ。
将軍カルキノスは、決して死なない。
スパルタの男たちの強固な盾と、輝けるアポロン神の神助がある。
そう、スパルタの男たちが信じたからこそ、自分は、最前列に立つことを許されたのだ。
死ぬ気でいるなどと知れたら、止められるに決まっている。
そうなったら、自分は本当の意味でスパルタの将軍として振る舞うことはできす、神託は成就されなくなってしまう――
『俺は、ずっと、アグライスのことが心配だった。もしも、俺が戦いで死ぬことがあれば、アグライスは一人になる。そうなれば、あいつは、獣のようにしか生きられないだろう』
「いや、でも」
ナルテークスの、もう何もかも決まったというような確信的な様子に焦って、カルキノスはばたばたと両手を動かした。
「ちょっと待ってくれ。彼女が、それを……俺との結婚を望むとは、思えないんだけど」
結婚に際して、女性当人の意思が問われることは、基本的にはない。
それは家と家のあいだで、つまり、男たちのあいだで決められる事柄だからだ。
だが、アグライス――アクシネの場合となれば、話は別だ。
急に降ってわいたような結婚話を、あの野生の生き物のような彼女が承服するとは、とても思えない。
さっさと野山へ逃げ出して戻ってこないか、最悪の場合は、こちらの頭を斧で叩き割ろうとしてくる可能性もある。
『心配はない。あいつは、お前を気に入っている。俺は、お前に、アグライスの後ろ盾になってやってもらいたい。あいつを守ってやってくれ』
「守るって……いやいやいや」
動揺が行きすぎて、思わず笑いが出た。
「どう考えても、俺より、アクシネのほうが強いだろ!」
『違う。あいつは、あの通り、幼い子供のままだ。何も分かっていない。七年前……』
ナルテークスの指の動きが一瞬、止まり、彼はひどく辛そうに顔を歪めた。
『あいつは、男たちに……乱暴されそうに、なったことがある』
えっ、と笑顔のままで、カルキノスはことばを凍りつかせた。
表情が、心に追いつかなかった。
『俺と……ゼノンと、グラウコスが駆け付けて、全員叩きのめした。そのとき、あいつは、男たちに衣を取り上げられて、それでも、にこにこ笑っていたんだ。口先だけの優しい言葉でごまかされて』
不意に、アクシネの笑顔が脳裏によみがえった。
――いいよー!
そう叫ぶ彼女の顔を思い出したとき、理由も分からぬまま、カルキノスの目に涙が溜まった。
『俺が、情けなかったせいで、あいつまで軽く見られて……』
ナルテークスの指が曲がり、拳が強く握りしめられた。
彼は震える息を吸い込み、手を開くと、再び文字をなぞりはじめた。
『そのことがあってから、母が、あいつに斧を持たせた。何度も言い含めていた。いつもこれを持ち歩くようにしろ。男に捕まりそうになったら、これで殴れと。そうでなければ、あいつは、騙されて玩具みたいに扱われても、気がつかないから……』
「そんな……それで、彼女は斧女って……」
いつだったか、あの家の中庭でテオンが言っていたことばが、胸の奥によみがえった。
そのことを、アクシネさんには訊ねないでください。
きっと、もう、忘れていると思います。
思い出させないでさしあげてほしいのです――
「テオンは、このことを、知っているんだな」
『文字で、話した。話しておかなくてはならないと思ったから。だが、このことを、アグライスには決して言わないでほしい。七年も前のことだ。もう忘れているだろう』
「分かってる。テオンも、同じことを言ったよ……」
『テオンは、心の優しい男だ』
ナルテークスの哀しげな表情が、ふと和らいだ。
『そして、お前も、心の優しい男だ。アグライスを悲しませるようなことはしないだろう』
「当たり前じゃないか」
打てば響くように答えたカルキノスに、ナルテークスは、大きく頷いた。
『俺は、今でも、戦場に立つことが怖い。死ぬのが怖い。いつも逃げ出したかった。それでも、俺がずっと戦ってきたのは、妹がこれ以上、後ろ指をさされないためだ。スパルタでは、戦場で戦えない男に、生きる資格はない。その家族にも――』
風が、強く吹いている。
『お前が、妹を娶ってくれるなら、俺は歌う』
まっすぐに見つめてくる彼の目を、カルキノスは黙って見返した。
彼が寄せてくれた信頼を、嬉しく思った。
死へと向かう自分に、妹の未来を託そうとする彼が、痛ましかった。
(俺は、死ぬ前に、彼女と……)
嫌か? ……嫌ではない。
嬉しいか? ……分からない。
まだ、信じられないという思いのほうが強かった。
だが――そう。
多分、ほんの少しだけ――
「歌ってくれ、テュルタイオス。……俺は、アグライスと結婚する」
カルキノスのことばに、彼は、微笑んだ。
彼が笑うところを見たのは本当に久しぶりで、カルキノスは思わず、その表情に見とれた。
そうだ。
あの日以来だ。
あの日、この丘の上で――
「頼んだぞ、テュルタイオス」




