「詩人」の旅立ち
* * *
* * *
「あれか……!」
しきりに目に入る汗を、激しくまばたきをして追い出しながら、ロバの上の若者は呟いた。
陽炎ゆらめく長い道の先に、石造りの門が見えてきたのだ。
その門の左右にずっと、申しわけ程度の垣がめぐらされている。
市の境界を示すものなのだろうが、「防壁」と呼べるほどのものではなかった。
(こんな粗末な防備で……やはり、スパルタはひどく貧しい市なのだな。こんな場所で、まともな薬草が手に入るだろうか?)
むろん、尻に塗るための、である。
脂汗を流しつつ、そんなことを考えているうちに、
「おっ」
門の内側に、ちらほらと人影が見えはじめた。
(わざわざ、市の門まで出迎えか!)
さっそく大物になった気分である。
多少の――いや、多大な不安はあったものの、迷いを振り切り、スパルタ行きを承諾してよかった。
思わずゆるみそうになる口元を意識してひきしめながら、若者は今から五日ほど前のこと、出発の日の出来事を思い出していた。
* * *
* * *
『なあ、おまえ』
父親に呼ばれて、杖をつきながら部屋に行くと、その父親が、困ったような顔をして切り出してきた。
『何ですか、お父さん?』
『うん。……なあ、おまえは、文字の読み書きが、人よりもできるな』
『はあ』
若者は気の抜けた返事をした。
彼の職業は、アテナイの子供たちに読み書きと簡単な計算を教えることだった。
『それに、あれだ。詩のほうもな。よく、できるよな』
『ええ!』
若者は、今度は堂々とうなずいた。
読み書き計算を教えることは、あくまでも生活のための仕事であると彼は思っていた。
彼の本当の志は、それとは別のところにあったのである。
(詩人になりたい)
生まれつき右脚が不自由だった彼は、幼いころから、他の子供たちと同じようには駆け回って遊ぶことができなかった。
運動競技も、みなと同じようにはできなかった。
そこで彼が没頭したのが、竪琴と詩だ。
竪琴は父親に買ってもらって、指から血が出るほど練習し、有名どころの曲はたいてい弾けるまでになった。
さらに、人気の高いイリオンの詩をはじめとする英雄たちの叙事詩は、繰り返し聴き、覚え、吟じた。
今では、気に入りの場面なら一言一句もそのままに歌うことができるし、他の部分も、あらすじは全部頭に入っている。
(だが)
彼の目指すところは、そんなものではなかった。
他人の作を覚え、吟じるだけならば、一定の記憶力と歌唱力がある者にならば、ある程度はやれる仕事だ。
少なくとも彼自身は、そのように考えていた。
真の詩人とは、詩歌女神たちに愛され、特別な力を授けられた者のこと。
これまでこの世になかった詩を織りなし、人々の前に披露してみせる者のことなのだ。
伝説にうたわれる詩人の歌は、思いのままに人々を笑わせ、泣かせ、はては物言わぬ岩や木や、人ならぬ怪物、神々の心までも揺り動かしたという。
(そういう詩人に、俺はなる! 後世の人々が、俺が作った詩を歌い継ぎ、この名が伝説となって残るような……そんな本物の詩人に、俺はなってやる!)
そう思い続け、これまでにいくつもの詩を作ってきた。
短い詩、長い詩。
葬送の場で歌う詩、宴会を盛り上げるための詩。
乙女のしとやかさを讃える詩、若者の美しさを讃える詩。
英雄に捧げる詩、有名人をあてこすった風刺詩――
一度は完成したと思ったものでも、繰り返し文句をひねり、もっと響きのよい言葉はないか、もっと強い印象を与える言葉はないかと、さらなる高みを求め続けてきたつもりだ。
そのかいあって、友人たちのあいだでは、かなり評判がいい。
『それでな。実は、話というのはな』
父親は、よその者に聴きつけられては困るとでもいうように、ぐっと声を低くして続けた。
『おまえ。……スパルタへ、行く気はないか?』
『は?』
若者は思わず、そう聞き返してしまった。
『うん、驚くのも当然だ。だが、まあ聞くがいい。……じつは、今日、スパルタからの使者が到着した』
『そうらしいですね』
父親は民会へ出かけていったが、若者のほうは、頭が痛いといって家に居残っていたのだ。
ちょうど、どうもしっくりこないと思っていた詩の一節に、急にぴったりの文句を思いつき、それを歌にのせて覚えるのに忙しかったからである。
それに、あとひとつ、気にかかることもあった――
『民会で、スパルタからの使者が、何と言ったかというとな。……聞いて、おどろくなよ。デルフォイにおわす遠矢射る神が、おまえを、スパルタに呼んでおられるというのだ!』
『俺を?』
若者は、目を見開いた。
『それは、いったい、どういうことです?』
『分からん』
父親は無駄に胸を張り、言い切った。
『だがとにかく、輝けるアポロン神が、神託によって、おまえをスパルタに呼んでおられるというのだ。使者たちは、おまえをスパルタへと迎えに来たのだよ』
『えっ? いや、でも』
アテナイ人のあいだでは、スパルタの男たちといえば「外見は岩石の親類、中身は頭蓋骨の内側まで筋肉」と言われている。
何が悲しくて、この住み慣れたアテナイを離れ、そんな野蛮な男たちの市へ行かねばならぬのか。
『わしの聞くところによれば、スパルタの人々は、脳みそまで筋肉でできているが、歌と踊りを好むことは非常なものがあるという……』
当のスパルタ人たちに聞かれたらぶん殴られそうなことを堂々と言って、父親は、息子の肩に手を置いた。
『そこでだ。わしには、このように思えた。アポロン神が、おまえをスパルタに呼んでおられるというのは、もしや、おまえのたぐいまれな詩の才能を評価なさってのことではないのか? とな……』
『えっ?』
『アポロン神といえば、他でもない、詩歌女神たちを主宰されるお方だ。すぐれた詩歌のたぐいを嘉されることは、ひとかたならぬものがあろう。……おまえには、ちょっと他の者にはないほどの詩の才能がある。おまえの、詩人としての才能こそが、今のスパルタにとって必要であると、アポロン神はお考えになったのではないか?』
これまで父親は、若者の詩に対する入れ込みぶりに、まったく関心を示してこなかった。
誉めるでもなく、咎めるでもなく、まったく好きにせよという放任主義だった。
だが、本当は、これほどまでに高く評価してくれていたとは。
若者は感激で胸が熱くなり、もう少しで泣くところだった。
しかし、スパルタ。――スパルタか。
遠い。
生きては帰れないかもしれない。
『しかし、お父さん……』
『出立は今夜だ。今からすぐに用意をしろ』
『今夜!?』
いくら何でも急すぎる。
『使者たちは、ひどく急いでいる。おまえがぐずぐずとためらっていては、行く意志がないと思われ、他の者が代わりにと名乗りをあげてしまうかもしれん。そうなったら、今回の話はなくなる』
肩に置かれた父親の手の指に、ぐっと力がこもり、若者は思わず声をあげそうになった。
『民会にはあのアポロニオスも来ていたが、おまえが選ばれたことを知って、ひどく憤慨した様子だったぞ……』
『アポロニオスが?』
若者が今日、民会に出かけていかなかった、もうひとつの理由。
それこそが、アポロニオスだった。
アポロニオスは富裕な商人の息子で、下手な詩をつくる。
同じ詩人をめざす者として、こちらの才能を目ざわりに思ったのか、一方的に敵視し、突っかかってくることが以前からたびたびあった。
まあ、やっかみというものだな、と若者は悠然と受け流していたのだが、その態度がいよいよ勘にさわったか、アポロニオスからの攻撃はだんだんひどくなり、ついには、若者の右脚のことをあからさまにあざける詩を作って、広場で歌うまでになった。
ここまでされては、むろん、黙って引っ込んではいられない。
詩には詩でお返しするのが、正しいやり方というものだろう。
アポロニオスが、夢中になっていた高級遊女にふられたという噂を聞きつけた若者は、さっそく、そのいきさつを詩に作って、アテナイ市じゅうに歌い広めた。
口につきやすい言い回しと、いささか卑猥な内容も手伝って、その詩は爆発的に流行り、いまや、子供らが通りを歩きながら、声を合わせて高らかに歌うまでになっている。
こちらの報復攻撃はみごとに成功したわけだが、その成功には、ありがたくないおまけがついてきた。
三日前、通りを歩いていたら、いきなり暴走ロバが突っ込んできて、危うくはねとばされるところだった。
きのうは、不審な二人組に後をつけられた。
ちょうど見かけた知人を強引にさそって酒場に入り、酔ったふりをして家まで送り届けてもらったから事なきを得たものの、つけられていることに気づかぬまま人通りのない道にでも入っていたら、ぼこぼこにされていたかもしれない。
アポロニオスの差し金か、それとも、今回のことで名前に瑕がついたと憤る高級遊女の手のものか。
いずれにせよ、いささか身の危険を感じていたところである。
そこへもってきて、この話だ。
これはまさしく「神意」というべきではないだろうか?
『お父さん。俺、スパルタに行きます!』
『おお、そうかそうか! 行ってくれるか』
父親はほっとしたように叫び、それから、慌てて口調を元に戻した。
『では、荷物をまとめなさい。母さんは、もう、別れのしたくをして待っている』
* * *
* * *
両親のほかには見送りもない、真夜中の旅立ちだった。
夜逃げ同然の出立に、少しばかり屈辱を覚えないでもなかったが、明るいうちににぎにぎしく出発して、アポロニオスの妨害に遭うのも厄介である。
いや、古人も言っているではないか――「終わりよければ、すべて良し」と。
出立が貧相でも、到着が立派であれば、それでじゅうぶんだ。
見よ、今、この自分を出迎えようと、スパルタ人たちが市の門まで詰めかけてきているではないか。
若者はできるかぎりきれいに顔の汗をぬぐい、尻の具合が許すかぎり背筋を伸ばし、なるべく大物らしい雰囲気をかもし出すようつとめながら、ロバに揺られてスパルタ市の門をくぐった。
(うっ)
門をくぐった瞬間、空気が、むわっと変質したような気がした。
熱気というのだろうか。圧、といえばいいか。
真っ赤な外衣一枚をまとった男たちが、通りの両側にびっしりと並んで、こちらを凝視している。
毛むくじゃらの岩のような男もいれば、女と見間違えそうなほど、きれいな顔の男もいた。
だが、ただひとつ共通していることがある。
どの男もみな筋骨隆々、びしりと引き締まった見事な体つきをしているということだ。
腹が出ているとか、腕や腿がたるんでいるような者は一人もいない。
もしも今日、オリュンピアの大祭が開かれたとして、この中の誰がオリーブの栄冠を勝ち取ったとしても不思議はないと思わせるほどの眺めであった。
(これが、スパルタの男たちか!)
『外見は岩石の親類、中身は頭蓋骨の内側まで筋肉』
まさしく、そんな感じだ。
男たちは一様に無言のまま、ロバに乗って進む若者の姿を、じいっと目で追ってきた。
これほど熱心に見つめてくるのは、自分たちの「救い主」がいったいどんな男であるのか、興味津々なのだろう。
とにかく全員、顔つきが鋭く厳ついため、まるで四方八方から睨みつけられているような状況になったが、若者は「救い主」の印象にふさわしい――と、自分で考えている――態度を崩さず、胸を張り、まっすぐに前を見ながらロバに乗り続けた。
やがて、一行はアゴラに到着した。
アゴラとは、ギリシャの市にならばどこにでもある「広場」で、市民たちの集会の場である。
その周囲には、役所や評議場、市場などが集まっていた。
一行がついに立ち止まると、目の前に建つ、簡素ながら重厚なつくりの建物――おそらくは評議場の入り口から、白髯をたくわえた大勢の老人たちが姿をあらわした。
(うわあ)
若者は反射的に、イリオンの歌に登場する老将ネストルを連想した。
どの者も、髪の白い年寄りでありながら、もうろくした様子など欠片もない。
いずれ劣らぬ凄みのある眼光、生意気な若造など片手で捻りつぶしてしまいそうな体格をそなえた、何ともものすごい爺さんたちである。
スパルタの長老会の構成員たちだ。
ロバから降りるべきかどうか、若者は一瞬、迷った。
だが、自分は招かれた立場の人間である。
ここでばたばたしては、「救い主」としての威厳にも瑕がつくであろう。
結局、ロバの上で胸を張ったまま、じっと動かずにいた。
全員が黙りこみ、まつげ一本落ちた音でも聞こえそうなほどの、まったき静寂が広場を支配する。
やがて、先頭にいた長老が、ゆっくりと口を開いた。