残したいもの
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ささやかな灯火ひとつだけが揺れる小さな部屋に、彼女は寝かされていた。
カルキノスは、その小さな炎さえもまったく揺らさぬように静かに部屋に入り、寝台のそばへ寄った。
「グナタイナ」
呼びかけに応じて、落ちくぼんだまぶたが開き、ぎょろりとカルキノスを見た。
「大丈夫かい?」
思わずそう口に出してから、他にもっと言いようはなかったのかと、自分自身を引っぱたきたくなる。
大丈夫、などという言葉がふさわしい状態ではなかった。決して。
それでも、グナタイナの体の汚れはきれいに拭われ、顔の腫れも少しは引き、顔色も、だいぶ人間らしいものに戻ってきている。
血と汚物の悪臭は消え、すっきりとした香草のにおいがかすかに漂っていた。
テオンの献身的な看護の賜物だ。
ここは、ナルテークスとアクシネの家だった。
グナタイナは、再びこの家に戻されることになったのだ。
彼女は寝台の上に仰向けに横たわったまま、何も言わなかった。
舌を切られているのだから、声が出せるはずもない。
痛み止めの煎じ薬のために頭がぼうっとしているのか、視線は確かにこちらを向いていたが、その目の焦点は、カルキノスよりもずっと遠くで結ばれているように見えた。
「俺は……」
カルキノスは、そんなグナタイナの目をまっすぐに見つめ、言葉を続けた。
「俺は、君たちと、同じことをすることにしたんだ。自分自身を囮にして、アリストメネスをおびき出し、奴を倒す。
俺が最前線に出ると聞けば、あいつはきっと来る。大丈夫だ。俺は弱いけど、たとえ、俺が死んでも、きっと、皆がアリストメネスを倒してくれる……」
どうして自分は、グナタイナに向かってこんなことを話しているのか。
ひとつには、彼女を慰めたいという思いがあったからだ。
彼女が果たせなかった復讐が、きっと、もうすぐ成し遂げられる。
そのことを知れば、少しでもグナタイナの心が晴れるのではないかと思ったからだ。
そして、もうひとつには――
「アクシネには、内緒だよ。言ってないんだ。知れば、きっと怒るだろう。彼女は……」
狩りにでも出ているのか、今は家にいないアクシネのことを思い浮かべて、カルキノスは言い淀み、力無く笑った。
「彼女は、誰も死んでほしくないと思ってるんだ。俺だって、本当はそうだ」
最後のひとつには――誰かに、知っておいてほしかったからだ。
『俺が、囮になる』
カルキノスがそう言ったとき、スパルタの男たちは一瞬、石と化したかのように沈黙し、
『俺が最前列に立つ。そう噂を流すんだ。……いや、噂だけでなく、実際に、そうする』
カルキノスがそこまで続けて初めて、激しくどよめき始めた。
称賛? 違う。
非難? それも違う。
動揺だ。
まるで、自分たちが頼もしい父親に置き去りにされてしまうと知った幼い子供のような、不安と、狼狽だ。
『俺が最前列に出ると聞けば、必ず、アリストメネスは出てくるだろう。奴は、他の誰よりも、メッセニアの勝利を願っている。つまり、他の誰よりも、この俺を片付けたがってるってことだ。ちょうど、俺たちが、何をおいても奴を片付けたがっているようにね……』
『しかし』
ようやくのことで意味の通る言葉を口にしたのは、斥候の束ねの男だった。
呆然とした顔で、言った。
『万が一にも、あなたが斃れれば、我らは……』
『俺は、死なないよ』
カルキノスは、断言した。
『だって、君たちがついているんだから。それに何よりも、俺には輝けるアポロン神の御加護がある。そうじゃないか?』
そう言ったが、心の中では、それと反対のことを考えていた。
『おお……』
いまや男たちの表情には、最初の衝撃を乗り越えた希望の色が浮かびはじめていた。
『それならば、将軍に従います!』
『わしもじゃ!』
『私もです!』
『――やろう』
アナクサンドロス王が、大きく頷いた。
『奴が再び我らの前に姿を現すのならば、そのときこそ、奴の最期のときよ。スパルタは、全力をあげて、今度こそアリストメネスを討つ!』
とはいえ、神託に関わることがらは重大事だ。
神の言葉の解釈を誤り、自ら滅びの淵に飛び込んでしまった者の逸話が、古来から後を絶たない。
すぐさま、アポロン神の神託所であるデルフォイへと使者が送り出された。
もう、三日も前のことだ。
『スパルタの将軍が最前列に立って戦えば、スパルタは、メッセニアのアリストメネスを討つことができましょうか?』
この問いに、神が「諾」の答えを与えたならば、作戦は動き出す。
(きっと、そうなるだろう)
カルキノスの胸の内には、奇妙な確信があった。
(そして、今度の戦いで、俺は死ぬことになるだろう)
これまでのように後方から見守るのではない。
盾を持ち、槍を持ち、あのアリストメネスの前に立つのだ。
百人殺しと呼ばれる戦士と戦って、こんな体の自分が生き延びることができる可能性など、海の真砂の一粒ほどにもない。
初陣だったステニュクレロスの戦いでは、後方にいればよいと言われていたにも関わらず、膨れ上がる不安と恐怖に押し潰されそうになり、何度も吐いた。
今は、もう、そうではない。
風の吹かぬ湖面のように静かな覚悟が、自分の内側に生まれているのを感じた。
『万が一にも、あなたが斃れれば、我らは……』
斥候の束ねの男は、そう言っていた。
皆、カルキノスが死ねば、神託は成就しなくなると考えている。
だが、カルキノス自身は、それは違うのではないかと考えはじめていた。
スパルタが、メッセニアに勝利する方法をデルフォイに問うたとき、下された神託。
『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』
輝けるアポロン神の答えは、それだけだった。
カルキノスの生死については、一言も触れられていない。
『将軍とは! 全軍の最前列の右端に立ち! 敵と真っ先に激突し! 退くときは、全軍の最も後に退く! そのような戦士、勇者、最強の男のことじゃ!』
ゼノンを喪った敗戦の後、長老の一人が、目を血走らせながら喚いていた言葉。
あれこそが、真実なのであるとしたら。
自分が真にスパルタの将軍として振る舞い、戦場に斃れたとき、輝けるアポロン神はそれを認められ、スパルタに勝利をもたらされるだろう。
「グナタイナ、俺は、死にたくないよ。陽のあたる草の上に寝転がり、好きな詩を作って、広場をぶらぶら歩きまわって、歌って……」
まるで子どもが語る気宇壮大な夢をわらう大人のように、カルキノスは、さびしく微笑んだ。
「でも、もう、そんなこと言ってる場合じゃないよな」
グナタイナの目が、ふと、焦点を結んだ。
かちりと掛け金がはまるように、二人の視線が合った。
「グナタイナ。君は、アリストメネスの顔が、分かるな?」
カルキノスの問いかけに、グナタイナは、目だけで頷いた。
ごくかすかだが、見間違いようのない確かな動きだった。
「よし。首尾よく奴を倒すことができたら、それが本当に奴かどうか、君が確かめて、皆に教えてやってほしい。……それから、これを見て」
カルキノスは懐から小さな金属板を取り出し、グナタイナの目の前に掲げてみせた。
職人に頼んで、青銅の板に刻ませたものだ。
「いいかい、これは文字だ。文字。声を、形にしたもの。ここにある形のひとつひとつが、全部、それぞれの声の出し方を表してる。こんなふうに――」
カルキノスは、刻みつけられた文字のひとつひとつを指で押さえながら、それぞれに二度ずつ発声してみせた。
「それから、これもつけてみた。ほら、ここに単語が……文字のかたまりがあるだろう? こっちが『はい』で、こっちは『いいえ』だ。『あなたは詩人ですか?』と、俺が質問されたとする。答えは……『はい』」
指さしながらそこまで言い、ふと見ると、グナタイナの目は、先ほどよりも大きく開かれていた。
「なかなか便利そうだろ」
カルキノスは得意げに笑いかけた。
「ナルテークスのことを考えていて、思いついたんだ。これを使えば、君は、また喋ることができるよ! こうやって指さすんだ。『ぬ の』、『ひ ろ ば』、『つ ぼ』とね。休んでいるあいだ、無理のないように、練習するといい。俺は……あまり、ここには帰ってこられないと思うけど、大丈夫だ。テオンがいるだろう?」
声をひそめて、言った。
「ここだけの秘密だけど、実は、彼は、文字の読み書きができるんだ! だから、テオンに習うといい。このことは、絶対に、誰にも言っちゃだめだ。これは、家の中でだけ、使うようにするんだよ」
彼女の骨ばった手を両手で包みこむようにして、金属板を握らせる。
「グナタイナ。はやく、元気になってくれ」
そう言ったカルキノスは、目を見開いた。
この家に戻ってきてから初めて、グナタイナが、はっきりと身動きをしたのだ。
彼女はおそろしくゆっくりと、指を動かし、渡された金属板の一角に触れた。
『はい』




