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光明

 神殿の屋根の下に卓が持ち出され、ヘイラ山付近の地形を描いた絵図が広げられ、男たちが全方向からそれを覗きこんだ。

 絵図の正面に陣取っているのはカルキノスだ。

 残る三辺に、ヘイラ山から戻ったばかりの斥候の男たちが一人ずつつき、他の男たちは外側から取り囲んだ。

 後ろの列の者たちにもよく見えるよう、全員が少しずつ身を屈め、絵図を中心としたすり鉢状にぐるりと男たちの顔が並ぶ。

 よそ者が事情を知らずに目にすれば、笑い出しそうな光景だ。

 だが、今ここに、笑っている顔はひとつもなかった。


「このあたりです」


 斥候の男たちの一人が、絵図の一点を指差した。


「ここに、牡牛のような形をした白い岩があり、その側に黒い岩が三つあります。そこから、奴らは山中へと入りました」


「身代をとったメッセニア人どもが近づくと、木陰に隠れていた数人の見張りが出てきて、何かを話し、奴らを通したのです」


「我らは、ずっと離れた岩の陰にいて、それを見届けました」


「奴らが登っていった道は、とても狭いんだな?」


 確かめるように問い掛けたカルキノスに、


「近くに寄って確かめることはできなかったのですが、道というよりも、獣道でしょう」


 斥候の男たちは口々に答えた。


「奴らは、牛を連れて入っていきましたから、少なくとも牛一頭が通れるだけの道があることは確かですが……」


「斜面は急で、木々や灌木が生い茂っていました。外から見た印象ですが、ただ登っていくだけでも、なかなか骨が折れそうでした」


「何を、貴様、臆病者のようなことを!」


 長老の一人が、真上から怒鳴りつけた。


印象・・だの、骨が・・折れそう・・・・だの、貴様の勝手な判断を差し挟むでない! 見たことだけを、見たままに伝えよ!」


「いや、いいんだ」


 カルキノスが片手をあげ、長老を制する。


「こういうことについては、実際にその目で見た者が受けた印象が、重要になってくる場合もある。続けてくれ」


 ふん、と長老が吹いた鼻息を頭頂部に浴びながら、


「では……」


 と調子は遠慮がちに、しかし内容ははっきりと、男たちは続けた。


「他に道があるのかどうか、我らには分かりません。しかし、あの道に関して言えば、あそこを通って攻めのぼることは難しいと思います」


「あの斜面では、隊列は組めません。生い茂る木々と灌木が邪魔になって、隊列を崩さぬどころか、一人が前進することさえも難しいでしょう」


「先の道がどのようになっているのかも分かりません。もっと近づき、詳しく調べることができれば、良かったのですが……」


 斥候の男たちは押し黙り、苦いものでも飲み下したような顔をした。


「どうしたんだい?」


 カルキノスが促すと、彼らはうつむいていた顔を上げ、意を決したように言った。


「その場所へ行くまでの野原に、杭が立てられていました。二本を斜交いにしたものが、三つ。そこに、スパルタ人の死体が括りつけられていました」


「三人です。おそらく、我らよりも先に、ヘイラ山を探索するために送りだされた斥候たちでしょう」


「もう、顔も分かりませんでした。ひどい有様でした。鴉や野犬に、肉を毟られて――」


 男たちのあいだから嘆きと怒りの唸りが上がり、カルキノスは両手で顔を覆った。

 斥候の束ねの男が、いつもは石のように動かない表情を歪め、横を向いた。

 その肩を、メギロスが無言で叩く。


「馬鹿な!」


 長老の一人が、再び怒鳴りだした。


「それで貴様らは恐れをなして、深く調べもせぬまま、のこのこ帰ってきたと……あ痛っ!」


 彼は急に叫んでのけぞり、後ろの者の顎に思い切り後頭部をぶつけて、二人ともばったりと倒れ込んだ。

 何か小さな黒いものが一直線に飛び、彼の額を直撃したのだ。


「すみません、手が滑りました」


 地面に落ちていた小石をふりかぶって投げた手を、ゆっくりと下ろして、カルキノスが呟く。

 ぬう、額から血が……とぶつぶつ呟きながら起き上がってきた長老には目もくれず、ヘイラ山の絵図を凝視しながら言った。


「少なくとも、この地点からは、大部隊をもって攻め込むことはできない、か……」


「何を、弱気なことを!」


 先ほどとは別の長老が身を乗り出し、鉄のへらのような手でばんばんと卓を叩きつけた。


「見よ、無残にも焼き払われた、アミュクライのこの有様を! メッセニア人どもは、我らを見くびっておる。それも道理じゃ。男盛りの者どもが、このように臆病風に吹かれておるようではな!」


「何ですと!」


「そのお言葉、聞き捨てなりません……!」


 三人の斥候たちが次々と長老たちに詰め寄り、一触即発の雰囲気となる。


「ふん! 道が狭いから、何じゃ!? 我らに言わせれば、逆に好都合じゃ!」


「その通り! 奴らはしょせん、奴隷の寄せ集めにすぎぬ。いざ一対一となれば、スパルタの男と渡り合うだけの力も、肝っ玉もないわ!」


「我らの槍と剣で、次々と奴らを殺しながら攻めのぼり、本拠地に突っ込んで、焼き払えばよい!」


「……そのようにして威勢よく突っ込むのはよろしいが、あるいは、それは、冥府行きの片道旅程ということにはなりますまいか?」


 冷水のように浴びせかけられた声に、わめき立てていた長老たちが、一斉にそちらを向く。

 斥候の束ねの男だ。


「何だと、貴様! 若輩の分際で!」


「その道とやらが、一本道であるかどうか、分かりませぬぞ」


 真正面から長老の唾を浴びながら、斥候の束ねの男の表情は、ぴくりとも動かなかった。


「奴らのほうに地の利があることは間違いない。うまく別の道に誘い込まれ、谷筋に、あるいは崖に誘導されたとしたら、いかがなさる。長い縦隊を組んで進むとすれば、後方には、正確な状況は伝わりませぬぞ。下手をすれば、ことごとく迷わされて壊滅、ということにもなりかねぬかと」


「それは……」


 気合いで、とか何とか唸りかけた長老たちだったが、さすがに説得力に欠けると自覚したのか、そのまま口をつぐんだ。

 場が、しんとした。


「まあ、少なくとも、敵が出入りする場所のひとつがはっきりと分かったことは、大きな収穫じゃ。大手柄ぞ」


 皆を力づけるような調子で、メギロスが口を開いた。


「山へ攻めのぼることが難しいとなれば、その出入口の付近で待ち伏せしておき、アリストメネスが略奪のために出てきたところを叩く、ということではどうかな?」


「我らはわずかに三人。少しの茂みや岩陰があれば、身を隠すこともできました」


 斥候の男たちが、ふたたび口々に答える。


「しかし、こちらが大人数で動くとなると……あそこは、とても軍勢を伏せておけるような場所ではありません」


「今は、周辺が荒れ地となっておりますので、草は生い茂っておりますが……たとえ地面に伏せ、身を隠しながら這いずってゆくとしても、軍勢規模で動くとなると、草の動きでたちまち見破られてしまうでしょう」


「第一、アリストメネス本人がいつ出てくるかは、予測がつきません」


「確かに」


 メギロスが太い腕を組んで唸り、再び、沈黙が落ちる。


「――おびき出すしか、ないな」


 カルキノスがぽつりと言い、全員が一斉にそちらを見た。


「どのようにして?」


「奴は……アリストメネスは、俺たちが思っている以上に、情に厚い性格なのかもしれない」


 絵図の中のヘイラ山を凝視しながら、カルキノスは呟く。


「奴は、グナタイナを――自分を殺そうとした女奴隷を、殺さなかった。舌を切っても、命は取らなかったんだ。それに、先の大掘割の戦では、自分自身の命をかけて、メッセニア勢に血路を切りひらいた……」


 アイトーンの笑顔と、その骸、喉笛に深々と突き立った槍がまぶたのうちにちらつき、それから消えていった。


「そこで、だ。メッセニア人たちを捕らえ、彼らを、アリストメネスに対する人質として使うのはどうか?」


 話しながら、今度は、グナタイナの顔が脳裏に浮かんできた。

 歌いながら軽やかに手を動かして糸を紡ぐ姿、快活にアクシネと言葉を交わす表情。

 そして、昨日の夜明けに見た、まるで死体のようにどす黒く変わってしまった彼女の顔――


「彼らがしたのと、同じことをするんだ。捕らえたメッセニア人を、ヘイラ山のそばへ連れ出す。そして、もしもアリストメネスが期限までに山を降りてこなければ、人質たちを生きたまま焼き殺すと伝える!」


 男たちが顔を見合わせ、ざわめいた。


「それは……」


 明らかに顔をしかめながら発言したのは、意外にも、ヘイラ山を探りに行った男たちのうちの一人だった。


「将軍、それは、スパルタの名誉を傷つけるなさり方です!」


「そうですとも……そんなふるまいは、我々ヘレネスの慣習にはない。それは、蛮族のすることです!」


「まったくだ!」


 長老たちの中からも、声が上がった。


「将軍は、急に考えを変えられたのか? 私が以前、捕らえたメッセニア人を人質にするということを提案したとき、将軍は、それは相手をますます自暴自棄にさせるだけだと言って、否定なさいましたぞ!」


(そう、だった)


 カルキノスは、内心に大きな衝撃を味わった。

 そうだ。

 確かに、そうだった。

 それなのに、今、自分は真剣に、心から、あの手段を提案したのだ。

 以前までの自分ならば、決して認めることのなかった手段を――


「本当に、そうする、とは、誰も言っていない。そうする、と言って脅すだけだ。その脅しが、アリストメネスの耳に入れば、奴は動くだろう。動かざるを得ないはずだ。だって、仲間を見殺しにしたと思われたら、奴は、メッセニア人たちのあいだで苦しい立場になるだろうから……」


「もしも、奴が、動かなかったら?」


 静かに問うたのはメギロスだ。


「将軍の言ったとおりに、アリストメネスが動けばよし。だが、もしも動かなければ、そのときは、本当にメッセニア人どもを焼き殺さなければ、示しがつかぬということになる。やる、と言って脅したことをやらぬほど、こちらを軽く見させ、敵を増長させることはないからのう。そうなったとき、将軍は……本当に、やる、という気持ちでおられるのかな?」


 カルキノスは、メギロスの顔を見返した。

 自分は、本当にやるだろうか。


(やる、だろう、俺は。きっと)


 そう思った。

 ためらいもなくそう思った自分を、どこか異様に感じる心は残っていたが、それもしかたがないという気がした。

 一度、やってしまえば、自分は、もはや引き返せぬ道に踏み出すことになる。

 だが、人間には、好むと好まざるとに関わらず、やらねばならないときというものがあるのではないだろうか――


「そうじゃな」


 カルキノスが口を開きかけた瞬間、アナクサンドロス王が穏やかに言った。


「スパルタの未来を思うあまり、敢えて激しい提案を口にする心、わしにも、痛いほどに分かる。……しかし、じゃ。そのようなやり方は、神々も嘉したまわぬであろう。別の道を考えようではないか」


 ぽかんとして見上げたカルキノスを、王は一瞬まっすぐに見つめて頷き、それから、ぐるりと一同を見回した。


「さて! 人質を使うことができぬとすれば、我らは、ほかに何をもって奴を誘い出すべきであろうかな?」


「いや、王よ、下らぬ小細工など弄することはない。正々堂々、戦を申し込みましょう!」


「正式な戦となれば、他の都市が参戦してくる恐れがある」


 長老のひとりの発言に、横から重々しく割って入ったのはメギロスだ。


「我らの標的は、アリストメネスただ一人。奴こそが、メッセニア人どもの心を一つにまとめ上げておるのだ。奴さえ倒せば、メッセニア人どもは、頭を切られた毒蛇同様に無力となろう。ここは、事を大きくせず、奴一人を狙って、速やかにけりを着けるのがよい」


「おお、確かに……」


「メギロスの言うとおりだ」


 男たちが、口々に考えを口にし始める。


「奴をおびき出すための囮か……いっそのこと、黄金の塊でも運びますか?」


「なるほど! 神々への奉納品を運ぶ、ということにして」


「だが、いかにあのアリストメネスといえど、神々への奉納品に手を出すほどの命知らずであろうかな?」


「それなら……食糧や、酒というのはどうだ? 行列を仕立て、わざとヘイラ山の近くを通って運べば……」


「それはさすがに、わざとらしいだろう」


 長老の一人が、苦々しげに手を振る。


「奴は用心深いぞ。まして、あの奴隷女のしでかしたことのために、奴は今、いっそう罠を警戒しておるはずじゃ」


 その言い方に、グナタイナを非難するような響きを感じ取り、カルキノスはきっとしてそちらを睨んだ。

 グナタイナは、愛した男の仇を討つために、自らの身を顧みず、敵中に身を投じたのだ。

 ここに顔を並べている男たちの誰ひとりとして、そんなことをする勇気は持てないだろうに。


(何を、囮にすればいい?)


 カルキノスは我知らず、頬を両手で覆うようにして考えこんでいた。

 アリストメネスが、何をおいても奪いたいと思うようなもの。

 彼が、最も欲しがるもの。

 それを手にするためならば、たとえ危険を冒してでも、出てこずにはいられないようなもの――


「……あっ」


 思わず声をあげたカルキノスのほうを、その場の顔全部が、一斉に向いた。

 他のときであれば、ふき出していたかもしれない。

 だが、カルキノスは目と口とを大きく開いたまま、何も言わずに、一同の顔を見返した。

 今、ひとつの答えが、神託のように心に浮かんでいた。

 その案は、不意に曇天を割って射し込んだまばゆい光線のように、あまりにも明快で、ひとたびこれを思いついてしまった以上、これをおいて他にはどんな案も考えられないと思えるほどに完璧だった。


「俺か」




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