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惑う者

     *     *     *

  *     *     *


「なぜです……」


 不意に、ひどく恨みがましい声が響き、カルキノスははっとした。

 その声は、紛れもなくカルキノス自身が発したものだったが、そうしたという意識はなかった。

 彼は古い神殿の中にいた。

 この地にスパルタの男たちの先祖がやってくる遥か以前から、神殿はここにあったと言われている。

 長い時のうちに、壁や屋根は何度も造り直されてきたはずだが、それでも相当に古びて見えた。

 壮麗な彫刻と彩色がほどこされた台座の上にたたずむのは、アポロン神の像だ。

 スパルタの娘たちが織って捧げた赤い衣をまとい、両手にそれぞれ槍と弓とをたずさえた、軍神としての姿だ。

 青銅でかたちづくられた神のおもては遥か遠くを見据えており、台座の前に立った者と視線が合うことはなかった。

 これまでに、何度も目にしてきた姿。

 見上げるたびに、畏怖と、頼もしさを感じた。

 だが、これまでと何ひとつ変わらぬはずの神の表情が、今のカルキノスには、ひどくよそよそしく、まるでお前など知らぬと言っているようにさえ感じられた。


「なぜ、こんなことに」


 その先を、口に出して言う勇気はなかった。

 口に出せば、神の耳に入り、その怒りをかうことになるかもしれないからだ。


輝けるフォイボス・アポロン神アポローンよ、あなたは、なぜ、このアミュクライをお守りくださらなかったのですか……)


 開け放たれたままの扉から風が吹き込み、神殿の中を照らす灯火を大きく揺らし、そのいくつかを吹き消した。

 鼻をつく焦げ臭いにおいは、消えた灯火によるものではない。

 外から吹き込んできた風にまじる、建物が焼かれた煙のためだ。

 メッセニア人たちの襲撃から丸一日が過ぎた今となっても、胸をつくようなその臭気はいっこうに薄れていなかった。


 このアミュクライが、メッセニア人の大部隊による襲撃を受けたのは、昨日の夜明け。

 カルキノスたちが、キュニスカやグナタイナの身柄を取り戻したのと、ほとんど時を同じくしてのことだった。

 急報を受けてスパルタ市から送り出された援軍は間に合わず、家々は火をかけられ、鎧を身に着けるのもそこそこに飛び出したスパルタの男たちは次々と殺された。

 カルキノスたちがようやくアミュクライにたどり着いて目の当たりにした光景は、惨憺たるものだった。

 屋根のついた建物のうち、無事に残っているのは、神々の神殿だけだった。

 必死に走って神殿に逃げ込んだ女子供たちは助かったが、逃げ遅れた者たちや、襲撃に立ち向かった男たちはほとんどが殺され、道の上に、畑の上に、無残な骸を晒していた。

 蓄えられていた食糧は、メッセニア人たちによってごっそりと持ち去られ、彼らが持ち出し切れなかったぶんは焼かれて消し炭となっていた。

 家畜小屋は打ち壊されて、山羊や牛たちがしきりに鳴きながらあたりを歩き回っていた。

 メッセニア人たちが家畜を放しただけで、連れ去らなかったのは、それらを追っていくのに時間をかけてスパルタ人たちに追いつかれることを警戒したためと、家畜を集めることにスパルタ人たちの時間と人手を割かせるためだったに違いない。

 その計略は図に当たった。

 カルキノスをはじめとした男たちは、丸一日を費やしてほとんど不眠不休で働き、負傷者を助け、死者を葬る用意を整え、奴隷たちに指示して家畜を集めさせ、焼けた家を片付けさせた。

 奪えるかぎりのものをアミュクライから奪い尽くしたメッセニア人たちは、そのすきに悠々と去っていったのだ。

 この襲撃のすべてを、将軍アリストメネスが指揮していたのだという――


「なぜ」


 もう一度呟いたカルキノスの目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。

 ヒュアキンティア祭では、今まさに自分が立っているこの神殿で、アポロン神に盛大な供犠を捧げた。

 厳かな行列も、合唱も、舞も捧げた。

 輝けるフォイボス・アポロン神アポローンは、それを御嘉納くださったはずだ。

 それなのに、なぜ――


(やはり、俺では、なかったのか?)


 動悸がして、目の前が暗くなっていくような気がした。


『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』


 スパルタに勝利をもたらすため、アテナイから招かれた将軍。

 それなのに、自分は、アリストメネスに出し抜かれてばかりではないか。

 大掘割では、確かに、戦には勝った。

 だが、肝心のアリストメネスには逃げられ、ヘイラ山に立てこもられて、事態はいっそう難しくなったとも言える。

 メッセニア人たちによる、度重なる襲撃と略奪。

 キュニスカたちの一件。

 そして、彼女たちを取り戻すための交渉に気を取られているうちに、この有様だ。

 やはり、違うのか。

 スパルタを救う将軍とは、俺のことではなかったのか?


「何が、不足なのですか」


 涙に詰まった声で問いかけても、神からの答えはない。

 これまでに、自分のできることは全てやってきた。

 そのつもりだった。

 戦場にも出た。

 スパルタが勝利するための策を練り、実行してきた。

 男たちの勇気を奮い立たせる歌を作り、広めてきた。

 だが、これではまだ足りないというのか。

 この上に、自分はいったい、何をすればいいというのだろう――


「カルキノス将軍よ」


 太い声に呼びかけられて、カルキノスは涙を拭いもせずに振り向いた。

 そこにいたのは、アナクサンドロス王だ。

 王は大股に近づいてくると、カルキノスの肩を二、三度叩き、強く揺すった。

 そして手を放すと、カルキノスの涙には気付きもしなかったような口調で、言った。


「このまま、黙っておることなど、思いもよらぬのう?」


「もちろんです」


 カルキノスは両方の頬をこすり、呟くように言った。

 心は、まだ事態を受け止めきれずにいる。

 それでも、口は勝手に動き、将軍としての言葉を発した。


「今まさに、三人の男たちがメッセニア人たちの後をつけ、アリストメネスたちがひそむヘイラ山の拠点の位置を探り出そうとしています。彼らは、間もなく戻るでしょう」


「うむ。その男たちが戻り、メッセニア人たちの本拠地の位置が分かり次第、わしは、スパルタの全戦力の半数を率いて出撃する」


「半数?」


 思わず驚いたように聞き返したカルキノスに、王は、はっきりと頷いた。


「決戦じゃ。アリストメネスは、できるだけ速く片付けてしまわなければならぬ。

 以前、将軍は、ヘイラ山の補給を断つことを提案しておったな。だが、このようなことになった以上、もはや時をかけるわけにはいかぬ。時をかければ、このようなことが、また繰り返されることになるやもしれぬ」


 それだけではなく、事態はさらに悪くなっていた。

 メッセニア人たちがヘイラ山に立てこもってからというもの、スパルタでは、ヘイラ山付近の土地を耕作することを禁じていた。

 略奪を防ぐことができない以上、ヘイラ山近辺で農作物をつくることは、みすみす敵に食糧を提供することに等しいからだ。

 だが、はいそうですかとおさまらないのは、その土地の所有者たちである。

 耕作を禁じられれば、当然ながら、その土地から本来得られるはずの実りを得ることができない。

 それだけではない。

 耕作を放棄すれば、畑は荒れ地となり、その期間が長引けば、もとの豊かな実りを生み出す土地に戻すまでに、おそろしい時間と労力を要することになるのだ。

 ヘイラ山周辺の土地所有者たちのあいだからは、強い不満が噴きあがっていた。

 カルキノスは「秩序エウノミアー」と題して新たな歌をつくり、人々をなだめたが、それも長くもつものではない。

 いつかは破綻がやってくる。

 それよりも先に、動かなければならない。


イリオンの歌イーリアスに歌われる騎士ネストルの言葉どおり、事態はまったく剃刀の刃に乗っているようなものよ」

 

 神殿の外に向かいながら、アナクサンドロス王は続けた。


「右に落ちるか、左に落ちるか。このスパルタが存続するか、衰亡するかが、これからの我らの動きにかかっておる。わし自らが、男たちを率い、命を顧みぬ働きをしてみせねばならぬ」


 アナクサンドロス王について神殿の外に出たカルキノスの鼻を、いっそうきつい焦げ臭さが襲った。

 焼けた木のにおい。

 その隙間から、かすかに漂ってくるように思われる、なまぐさい血のにおい。

 朝の光は常と変わらず降り注いでいたが、照らし出されているのは破壊と殺戮の痕跡だ。

 両の目は確かに開いているにもかかわらず、カルキノスには、すべての光景が暗い靄に覆われているように見えた。

 思わず、その場に座り込んだ。

 傍らに立った王が、何か声をかけてくれていることは分かったが、何と言っているのかは聞こえなかった。


(詩を、作らなくては)


 うずくまり、目を見開いたまま、そう思った。

 アミュクライはひどい打撃を受け、瀕死の状態だ。

 人々の心は悲しみと恐怖、絶望に覆われている。

 歌で、彼らを、彼女たちを、もう一度立ち上がらせなくては――

 だが、言葉の切れ端ひとつ、浮かんではこなかった。

 まるで、詩想の翼が萎れて落ちてしまったかのように。

 気ばかり焦り、胸が苦しくなる。

 だが、自分自身が立ち上がる気力さえ持てずにいるときに、どうして、人の心を鼓舞するための歌など生み出すことができるだろう。


 三人の幼い子供を連れた母親が、疲れ切った様子で通りかかり、汚れた顔を上げてこちらを見た。

 カルキノスは、思わずその場に立ち上がった。

 だが、それ以上何をすることも思いつかず、案山子のように立ち尽くした。

 母親はのろのろと無表情に前を向くと、子供たちの手を引き、歩き去っていった。

 カルキノスの頬を、また涙が伝った。


(俺が、もっと正しく、相手の動きを読んでいれば)


 真夜中に女たちを連れてくるはずだったメッセニア人たちが、なぜ、あれほどまでに遅れたのか。

 今なら分かる。

 あれは、わざと時間をかけることで、こちらの気を揉ませ、受け渡し場所であったリムナイにスパルタ人たちの意識を引きつけておくための策だったのだ。


(そんなことにも、気付くことができなかったなんて)


 何かがおかしいとは感じながら、その理由にまでは思い至らなかった。

 もしも、彼らの狙いに気付くことができていたら――

 スパルタ市だけではなく、各集落にも警戒するよう呼びかけていれば、今の母親は、夫を失わずに済んだかもしれないのだ。


 もっと、もっと、何かできなかったのか? もしも、そうしていたら? 仮に、あの時点で気付いていたら? 事態は、どう変わっていた? 自分は、何が守れていた?

 地面の一点を凝視したまま凍りついたように立ち尽くすカルキノスの心のうちを、無数の仮定がぐるぐると駆け巡っていった。

 神ならぬ人の身には、この事態を正確に見とおすことは不可能だった。そんなことは、誰にもできなかったはずだ。

 そう囁く理性の声は小さく、焦りと後悔の渦に呑みこまれていった。

 どうする。これから、どうする。

 どうすれば?


「将軍!」


 胸の苦しさが頂点に達しようとしたとき、遠くから飛んできた鋭い声が、カルキノスの意識を現実に引き戻した。


「戻りました! メッセニア人を追っていった三人が、ヘイラから戻りました! アナクサンドロス王も、急ぎ、いらして下さい。長老たちは、すでに集まっておられます!」


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