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取引

 暗闇の中の一点の光が、ここからどの程度の位置にあるのか、正確な距離をつかむことは難しい。

 松明の灯りは、思わず叫び出したくなるほどののろさで近づいてきた。

 それを待ち受けるスパルタの戦士たちは、つい先ほどまで口々に不満と憶測を口にしていたのが嘘のようにまっすぐに立ち、表情を消している。

 やがて、ぼんやりとした人間の姿の輪郭が、カルキノスの目にも見えてきた。

 黒っぽい布で全身をすっぽりとおおった人影は、一方の手に燃える松明を持ち、もう一方の手には、オリーブの枝の先に羊毛を絡ませたものを掲げている。

 神の庇護を受ける嘆願者のしるしだ。

 だが、スパルタの男たちの前にただ一人で進み出る、その足取りからは迷いも恐れも感じられず、立ち止まったその様子は堂々として、むしろ不遜さすら感じさせた。

 目のまわりを煤か何かで黒く染めているために、人相がまったく分からない。


「交渉の場に、武器を携えてきたのか?」


 メッセニアからの使者は、こちらの様子を見渡し、そう言った。

 布越しで多少くぐもってはいるが、若い男の声だ。

 アリストメネスは、まだ若い男だという。

 まさか、本人が来たというのか? いや、まさか――

 スパルタの男たちの中からは、斥候の束ねの男が進み出た。

 事前の入念な打ち合わせのとおり、交渉では、彼が代表として話す。


「いかなるときにも武器を手放さぬのは、我らの習いだ。この通り、誰も剣を抜いてはおらぬ。槍の穂先をそちらに向けてもおらぬ。ただし、おまえが妙な動きをすれば、その限りではない」


 使者はかすかに鼻を鳴らした。

 笑ったのかもしれなかった。


「あんたらがこれを重んじるような連中かどうか、俺たちはよく知ってる」


 言いながら、使者は羊毛をつけたオリーブの枝を軽く振ってみせた。

 嘆願者に対して暴力をふるうことは認められていない。

 あくまでも、そのような慣習が重んじられるような状況においては、だが。


「枝一本をたのみにして、あんたらのそばにのこのこ近づいてくるほど、俺は馬鹿じゃない。俺に手を出せば、俺の仲間が、娘たちを殺す」


「娘たちはどこだ?」


 メッセニアからの使者の、明らかな挑発ともとれる言動には一切反応せずに、斥候の束ねの男は言った。

 使者の目が細くなった。


「まずは、女たちの身代みのしろを払ってもらおうか」


「この通り、確かに身代は用意してある。だが、娘たちの無事な姿を見ぬうちは、おまえたちには小麦の一握りたりとも渡さぬ」


 使者は肩をすくめると、不意に、手にした松明を高く掲げ、ゆっくりと振った。


(あっ)


 注意深く状況を見守っていたカルキノスは、目を見開いた。

 遥か遠く、この使者が最初に姿をあらわした低い丘の上に、いくつもの松明の炎が浮かびあがったのだ。

 あの場所に、複数の人間がいる。

 だが、正確に何人いるのか、そしてキュニスカやグナタイナたちが本当にあの中にいるのかどうかは、分からない。


「あそこにいるのが、本当にスパルタの娘たちであると、どうして分かる?」


 斥候の束ねの男が、平板な調子で問い詰めた。


「見えるのは光だけだ。あそこにいる者がどこの誰だか、知れたものではない」


「疑い深いな。奴隷の言うことなど、信用ならんというわけか?」


「ここからでは、あまりにも遠い。信用するもしないも、判断ができん」


「俺たちは、あんたらよりはまっとうな人間のつもりなんだがねえ?」


 なれなれしい口調に、スパルタの戦士たちの肩が小さく動いた。

 誰の表情も変わっていない、ように、見える。

 だが、目が怒っている。


(みんな、動くな。絶対に、打ち合わせ通りに。堪えろ)


 呼吸を忘れるほど全身に力を入れて、カルキノスは念じていた。

 誰かひとりでも、激情にかられておかしな動きをすれば、すべての計画が崩れる。

 相手は、それをこそ狙っているのかもしれないのだ。

 しばらくのあいだ、誰も、何も言わず、痛いほどの緊張が静かに張り詰めていった。


「いいだろう」


 やがて、溜息をつくような調子で、メッセニアからの使者は言った。


「娘を一人、こっちへ連れてこよう。それで、疑い深いあんたらにも、俺が本当のことを言ってると分かるだろう」


「娘の顔がはっきりと見えるようにしてもらおう。そうでなければ信用ならん」


「分かったよ。連れてくるから、ここで待っていろ」


 使者は、くるりと背を向けた。

 その瞬間に誰かが飛びかかって使者に手をかけるようなことがあったら、即座にこの杖で頭を殴ろうとカルキノスは固く決意して身構えていたのだが、幸いにして、そういうことは起こらなかった。


「今のでいい」


 ちらりと振り向いてきた斥候の束ねの男に、カルキノスは頷きかけ、額の汗を拭った。

 ふたたび、時はおそろしくのろのろと過ぎていった。

 そsて、ふたたび松明の炎が近づいてくるころには、天の星々がわずかに位置を変えたのが目で見て分かるほどの時間がすぎていた。


(まずいぞ)


 動揺を広げることのないよう、決して顔つきを変えないように自制しながら、カルキノスは飛び上がって叫び出したいほどの気持ちでいた。

 やはり、見抜かれているのか?

 メッセニア人たちは、わざと交渉を遅らせ、時間を稼いでいるのではないか?


(もしも、このまま、夜が明けたら)


 あたりが朝の光に照らし出されれば、彼らに気付かれずにあとをつけることは、限りなく難しくなる。

 ヘイラの山々のどこかにひそむ彼らの根拠地をつきとめるという、今回の作戦の大目的のひとつが果たせなくなってしまう――


「うわ!?」


 身を焼かれるような焦燥の中、ふと視界の端に動くものが見えたような気がしてそちらを向くと、アクシネがいつのまにかじりじりと前に出てきて、カルキノスのすぐとなりに立っていた。

 カルキノスが声をあげると、アクシネは片手で口を押さえたまま、はっとしたようにこちらを見て、ごめんごめん、というように頭を動かしながら元の位置まで下がっていった。


『頼む。今から、俺がいいと言うまで、そこから一歩も動くな! ものも言うな。絶対にだ!』


 という、先ほどのカルキノスの指示を守ろうとしているのだ。


(そうだ……落ち着け。あのアクシネが、さっきから、一言もしゃべらずに我慢してるんだ。俺が慌てて、ばたばたしていては、何もならない。落ち着け。石のように、鉄のように……)


 やがて、メッセニアからの使者が戻ってきた。

 松明と、羊毛を結んだ枝を片手につかみ、もう一方の手で、ひとりの女を引き立てている。

 女の衣は汚れ、少し離れていても分かるほどの悪臭を漂わせていた。

 だが、彼女は自分の足で立って歩いている。

 この暗さで見て分かるような範囲では、怪我もない。

 使者が松明を傾けた。

 炎のあかりが、さるぐつわを嵌められた女の顔を照らし出す。

 女の目がきらりと光った。

 ひどく憔悴した様子だったが、その目には確かにまだ意思の力があった。


(本物か)


 誰も、何も反応しない。

 カルキノスはじりじりしながら、斥候の束ねの男が口を開くのを待った。

 スパルタの女たちの顔と名前を、カルキノスはほとんど知らない。

 だが、彼ならば。


「……ヘラクレイデスの?」


 彼が低く口にしたその名に、女が、小さく頷いたのが見えた。

 それは彼女の夫か、親族の名だったのだろう。

 一瞬ほっとしかけたカルキノスだが、続けて斥候の束ねの男が口にした言葉には舌を巻いた。


「そなたの父上が存命であれば、頷くがいい。すでに亡くなっているのならば、かぶりを振るがいい」


 この暗さである。似た者を見間違えるということもある。

 替え玉が、調子を合わせて頷いただけかもしれない。

 会話ができなくとも、この問いかけへの反応を見ることで、本人かどうかを見抜くことができる。

 女は、迷いなく、はっきりと頷いた。

 斥候の束ねの男が頷き返し、使者が満足げに言った。


「どうだ。これで、俺たちが本当のことを言ってると分かっただろう?」


「少なくともこの娘については、な。残る娘たちも本物であると、どうして分かる?」


「まったく、あんた、変態じみて疑い深いねえ」


 使者は今度こそはっきりと苦笑し、女に向かって言った。


「おい、教えてやれ。後ろの丘にいるのは、確かに、おまえの仲間の娘たちだな?」


 女は使者を横目で見て、それから、斥候の束ねの男に向かって頷いた。


「皆、生きているか?」


 斥候の束ねの男からの問いかけに対して、一瞬の間。

 女は、頷いた。


「納得したか? よし、あんたらは、ここに娘たちの身代を置いて、ずっと後ろへ下がってもらおう。あそこにある、大きな柱型の岩のあたりまでだ」


 使者は、スパルタの戦士たちの背後、かなり遠くに見えている岩を指差した。


「俺は、ここに残って、あんたらの動きを見張らせてもらう。あんたらがじゅうぶんに離れたら、俺が合図を出し、仲間たちがここへ来る。仲間たちが身代を取って、遠くへ離れるまで、あんたらには、あの岩のところに留まってもらう。

 俺は、仲間が離れたのを見届けてから、あんたらに合図を出す。さっきと同じように、松明を大きく横に振る。その後は、あんたらは自由に動いて、娘たちを連れ帰るがいい」


「そのような条件は、話にならぬ」


 斥候の束ねの男は、断固として言った。


「交換は同時だ。おまえたちが身代だけをせしめ、娘たちをそのまま連れ帰るか、逃げる間際に一刺ししてゆかぬと、どうして分かる?」


「なるほどね」


 使者は、せせら笑った。


「そんなふうに疑うのも無理はないな。暗がりで一刺しは、あんたがたのお家芸だからな。何の悪さもしない俺たちの仲間を、何人、殺した?」


 斥候の束ねの男も、スパルタの戦士たちも、反応を見せなかった。

 カルキノスも、噂に聞いたことがあった。

 スパルタの少年たちが、一人前の戦士と認められるための儀式。

 短剣一本を持ち、夜の闇に紛れて、奴隷の男をひとり、殺す――


「安心しろよ」


 からかうような口ぶりに隠されて、これまで気づかなかった。

 軽い口調の下に、燃え滾るような憎しみと、怒りがある。


「俺たちは、あんたらよりもまともな人間なんだ。それに、アリストメネス将軍から命令が出てるからな。娘たちは、生かして返してやるとも。あんたらが下手な小細工をしたりせず、こっちの言うとおりにするならな。

 これ以外の条件は認めない。交渉が決裂すれば、娘たちは戻らない。まともな女なら死んだ方がましだと思うような目に遭ってもらう。あんたらが、罪もないメッセニアの女たちにしてきたようにな」


 斥候の束ねの男が初めてわずかに頭を動かし、確かめるように、カルキノスの目を見た。


「俺をとっ捕まえて、人質か何かにしようったって、そうはいかんよ」


 その動作に何かを感じたのか、使者がほんの少し早口になって言った。


「俺をどうこうしたところで、どうにもならん。仲間は、俺を見捨てて、さっさと娘たちを連れ帰る。そういう手筈になってるんだ。スパルタ人のあんたらと話をしようってんだからな、それくらいの覚悟はあるさ」


 斥候の束ねの男が、もう一度、カルキノスを見た。


(飲もう、この条件を)


 カルキノスは、頷きを返した。


(最悪の場合でも……奴らの本拠地だけは、突き止める)


「いいだろう」


 斥候の束ねの男は言い、手をあげて、一同に岩のところまで下がるようにと合図をした。


「行こう」


 カルキノスはアクシネに囁きかけ、杖をつきながらゆっくりと遠ざかろうとした。


「カルキノス将軍!」


 呼びかけられた瞬間に、思わず振り向いてしまったのは、不覚であったという他ない。

 にやりと笑った使者の男と、まともに目が合う。


「あんた、足が悪いのに、スパルタの戦士どもに一目置かれているんだな。あんたが、噂のカルキノス将軍かい? デルフォイの神託で、スパルタに招かれたっていう……」


 戦士たちに緊張が走った。

 アクシネが口を押さえたまま、カルキノスの顔を見て、使者の顔を見た。


「カルキノス将軍が、じきじきにここにおいでになっていたら、おまえも、おまえの仲間たちも、今ごろ、首が胴から離れているところだ」


 カルキノスは、しわがれた声で答えた。


「俺の名前はゼノンだ。おまえたちに無法にもさらわれた妹を迎えに、ここまで来た。失せろ、奴隷め! 俺の妹に少しでも妙な真似をしていたら、おまえたち全員、生まれてこなければよかったと思うような目に遭わせてやる。カルキノス将軍が、必ず、そうしてくださるだろう!」


 使者は肩をすくめた。

 一同はすみやかに、柱型の石に向かって進んだ。

 もう決して声が届かないと確信できるほどに遠ざかったとき、


「ゼノン、いないぞ? ゼノンはしんじゃった。いもうと? だれのいもうと? カルキノスのいもうと?」


 とうとう我慢できなくなったのか、口を押さえていた手を外して、アクシネが言った。


「あれは、嘘だよ、アクシネ。敵に顔を知られたくなかったんだ。でも、通じなかったかもしれない。ばかだったな。無視すればよかったのに、つい、気が緩んで……」


 むき出しの首筋に急に刃を当てられたような、ぞっとする感覚が、まだ残っている。

 自分は『スパルタに勝利をもたらすべく招かれた男』なのだ。

 姿をはっきりと知られれば、暗殺者を送り込まれる可能性もある。

 これまでだって、そのおそれがなかったわけではない。

 だが、こうしてメッセニア人と直接話し、顔を見られたのは初めてだった。

 これまでは漠然としていた危機が、急に現実味を帯びて迫ってくるような気がした。

 杖を持ち、足を引きずって歩く自分の姿は特徴的だ。

 しかも、これは、扮装でごまかせる類の特徴ではない――


「なあ、もういい? もう、あそこにいっていい? グナタイナ、あそこにいるのか? キュニスカは? もういい?」


「まだだ」


 カルキノスが考えこんで返事をせずにいるうちに、斥候の束ねの男が、さすがに疲れが出てきたらしく、うんざりしたような調子で言った。


「最後の最後になって、余計な真似をしてくれるなよ。奴らに身代を取らせ、ヘイラまで無事に引き上げさせなくては、話にならん」


「なんで?」


「奴らのあとをつけ、本拠地をつきとめるためだ」


「なんで?」


「もういい、黙れ」


「いやだー」


「串刺しになりたいか?」


「むりー」


 どんどん実のない会話に陥っていく二人のやりとりを、ぼうっとしながら聞いていたカルキノスだったが、やがて、はっと我に返った。

 闇の中で、光の点が、大きく左右に揺れている。


「合図だ!」


「いこうっ!」


「油断するな!」


 斥候の束ねの男が、鋭く叫んだ。


「メッセニアの男どもが、まだ近くにひそんでいるか、女装して入れかわっているということも考えられる。皆、将軍を守れ。周囲に注意を怠るな!」


「アクシネ! アクシネ!」


 カルキノスは、ひらひらと衣をひるがえして風のように駆けていく彼女の背中に、必死で声をかけた。


「お願いだ。しごと・・・がある……肩を貸してくれ! 俺も、はやく、あそこへ行きたいんだ!」


「いいよー!」


 遠くから返事があって、彼女は、ぐるっと円を描くように横から駆け戻ってきた。


「おぶさる?」


「いや、それはいい……肩を貸してくれ。ほら、隣に来て」


 男が女に肩を借りるなどスパルタでは前代未聞だっただろうが、このままアクシネを一人で先に行かせて、もしも彼女に何かあったら、自分は一生、自分自分を許せないだろうと思った。

 アクシネの背は高い。

 こうしてぴったりとくっついて立つと、カルキノスよりも、ほんの少しだけ高いくらいだった。

 彼女の髪のにおいにまじって、かすかに甘くぴりりとした香りを感じた。

 衣か、髪か、体を洗うのに使った香草の香りだろうか。

 腕と腕、腰と腰とが触れあう。

 彼女の体つきはしなやかに引き締まり、筋張っていて、男としての嬉しさはあまり感じられなかったが、その感覚は、焦燥と緊張、疲労、期待が入りまじって混乱しそうなこの時間の中に、ふと安らぎをもたらしてくれるものではあった。

 一同は周囲を油断なく警戒しながら、カルキノスの脚が許す限りのはやさで進んだ。

 やがて、ぼんやりと、向こうから近づいてくる一団の姿が見えた。

 互いに支え合い、よろめきながら歩いてくる。

 顔が見えている。体つきもわかる。

 確かに、女たちだ。


「キュニスカ!」


 長い金の髪を乱した女の姿をはっきりとみとめたとき、アクシネは歓声をあげ、カルキノスを勢いよく放り出して走り出した。


「痛ェッ!」


 せめて、手をはなすだけにしてくれればよかったのに。

 地面に倒れ、叫んだカルキノスの耳に、鼓膜に突き刺さるような叫び声が聞こえた。

 アクシネの声だ。


「キュニスカ!」


 怒り狂っているような、泣いているような声。

 カルキノスは跳ね起き、片足で飛び跳ねるようにして駆け寄った。

 そして、凍りついたように立ち止まった。

 アクシネに体を支えられ、もつれた金の髪の下から、女がまっすぐにこちらを見ていた。

 記憶にあるキュニスカの美しく勝ち誇ったような顔は、そこにはなかった。


「フカクダッタ」


 腫れ上がった痣だらけの顔の中で、裂けた唇が動き、不明瞭な声を発した。


「デモ シクジリノ ムクイハ ウケタワ。ソウデショウ?」


 そして彼女は気を失い、男たちの目の前で地面にくずおれた。


「キュニスカ! キュニスカ! かわいそうに! いたい、いたい、いたいよー!」


 そのかたわらに座りこんだアクシネは、泣き叫びながら、刃がいたむことも構わず何度も斧で地面を殴りつけた。

 石が砕け、割れたかけらが飛び散った。


「追撃だ!」


 戦士たちが憤然として叫んだ。


「奴らを殺せ!」


「思い知らせてやる!」


「――止まれッ!」


 武器を手に走り出そうとした男たちを、カルキノスの一喝が押しとどめる。


「なぜです!?」


「奴ら、女たちに手を出しやがった!」


「目的を、見失うな! もうひとつの目的を! ……奴らには、無事に、ヘイラまで帰ってもらわなきゃならない!」


「その通りだ」


 カルキノスの軋るような言葉の先を引き取り、斥候の束ねの男が言った。


「もはや、追跡の部隊は神殿を出て、奴らのあとを追っている。見ろ」


 彼が片手を振って示した先には、こちらへと向かってくる一団の戦士たちの姿があった。

 万が一、戦闘になったときに備えて、アルテミス神殿にひそんでいた男たちだ。

 メッセニア人たちが身代をとって引き上げれば、神殿から三人の隠密行動に長けた者たちが尾行のために出発し、残りの戦士たちは、カルキノスたちに合流する手はずになっていたのである。

 駆足でやってきた彼らは、立っている女たちの姿を見て一度は表情を緩めたものの、キュニスカの様子を見ると一様に言葉を切り、黙りこんだ。

 ナルテークスが、アクシネの姿に気付き、目を見開いてカルキノスを見る。

 そのとき、アクシネが涙と鼻水だらけの顔を上げ、言った。


「グナタイナは? どこ?」


「ここにいます」


 言ったのは、先ほど、メッセニアの男に引き立てられていた女だった。

 女たちが体をずらし、一番後ろで一人の女におぶわれていたグナタイナの姿を示した。

 カルキノスは、ぎょっとした。

 グナタイナの顔は黒ずみ、むくんだように腫れ上がっていた。

 やつれきった表情はまるで飢死した人のようで、まぶた半分開いていたが、その目はうつろで、まるで生気がなかった。

 一見して殴られたとわかるキュニスカとは別の、何か酷いことが彼女の身に起きたに違いなかった。


「この者は、舌を切られています」


 グナタイナを背負っている、大柄な女が言った。

 レアイナだった。

 グナタイナの口から流れる血の混じったよだれが彼女の衣を汚していたが、レアイナは何ひとつ気にした様子もなく、衰えぬ意思の強さを感じさせる目でカルキノスを見つめた。


「水もほとんど飲めず、弱り切っています。将軍、どうか、この女奴隷をお救いください! 私たちのしでかしたことで、こんな始末となったこと、言い開きをする気はありません。お咎めは受けますわ。でも、この者だけは、どうか! この者は、私たちの誰よりも近くまで、あの男に迫ったのです。女の身で、あのアリストメネスを、今一歩で討ち取るというところまでいったのです!」


「何だって」


 カルキノスは、思わず一歩、前に出た。

 男たちはどよめき、顔を見合わせている。


「君たちは……アリストメネスの顔を見たのか!」


「はい」


「見れば、顔が分かる!?」


「はい」


「さっきの男たちの中に、アリストメネスはいたか?」


 レアイナはかぶりを振った。

 その背中で、グナタイナが不意に白目を剥き、ぶるぶると体を震わせはじめた。

 アクシネがとんできて、泣きながらその背中をさすった。

 痙攣はおさまらず、ますますひどくなるようだった。


「ごめんよ……!」


 カルキノスはおろおろと両手を上げ下げしながら口走り、どうすればいいのか分からぬまま、泣きそうになって男たちを振り向いた。


「みんな、頼む! グナタイナを助けてやってくれ! 聞いたとおりだ。彼女は、スパルタの男の誰にもできなかったことをしたんだ!」


 ナルテークスが、決然とした顔つきで進み出てきた。

 そして彼は、これまでスパルタの男の誰もしたことのないことをした。

 奴隷の女のために、地面に膝をついたのだ。

 そして、レアイナがしていたようにグナタイナの体を背に負い、軽々と担ぎあげた。


「ありがとう、ナルテークス」


 カルキノスは呟くように言ってから、声を張り上げた。


「みんな、急いで戻ろう! キュニスカとグナタイナを医者にみせなきゃ! 金は俺が払う! グナタイナを死なせるな!」


 戦士たちが、それぞれに女たちを背負う。

 一同は駆け出した。

 東の空が白みはじめ、夜が明けようとしている。

 先頭をゆくのは、もちろんアクシネだ。


「お嬢さん……!」


 カルキノスは必死に横を向き、隣で戦士に背負われている女に向かって叫んだ。

 彼自身はといえば、若い戦士ふたりに両脇から支えられて、両脚がほとんど宙に浮いているような有様で走っている。


「レアイナと申します」


「レアイナ。教えてくれ。君たちは、アリストメネスを殺すために、わざと、彼らに捕まったんだよな? 処女の扮装をして……」


「その通りです」


 レアイナは、自分たちの計画があまりにも正確に知られていることに驚いたようだった。


「グナタイナも、そうだったんだろう? そして彼女は、アリストメネスを殺そうとした……」


「はい。この奴隷は、私たちを裏切ったふりをしてアリストメネスに取り入り、奴を殺そうとしたのです。しかし、今一歩のところで失敗し、見せしめに、舌を」


「……でも、殺さなかった?」


 カルキノスは、理解しがたいというように顔をしかめた。


「アリストメネスは、それでも、彼女を殺さなかったのか?」


「はい」


 言われて初めて、その不可解さに気付いたように、レアイナも眉を寄せた。


(いったい、どんな男なんだ?)


 メッセニアの将軍。

 デライの戦いで人を超えたような戦いぶりを見せ、百人を殺したとも言われる男。


(それなのに、はっきりと自分の命を狙ってきた者を、殺さずにおくなんて――)


 なおもカルキノスが問いを続けようとした、そのときだ。

 青みを帯びはじめた空を背景に駆けてくる、一騎の騎馬が見えた。

 すさまじい速度だ。

 不吉な予感がした。


(予想が、当たった?)


 スパルタ市が、メッセニア人たちの襲撃を受けたのだろうか。

 だが、それならば、すでに予期されていたことだ。

 そのための備えもしてあった。

 あんなふうに慌てることはないはずだ。

 あれは、まるで、予想だにしない事態でも起きたかのような――

 思わず脚を止めた一同の手前で騎馬は急停止し、いななく馬の背から、武装した戦士が転がるように飛び降りた。


「どう……」


「将軍!」


 こちらが声をかけるよりも早く、戦士は身を起こし、風にもつれた髪の下から目を見開いてカルキノスを見た。


「大変なことが!」


「うん、まあ、そうだろうね」


 思わずそう答えたのは、冗談で気をそぎ、いくらかでも相手を落ち着かせようと考えてのことだ。

 だが、何の効き目もなかった。


「アミュクライが」


 戦士は叫び、激しく咳き込んだ。

 アミュクライ。

 スパルタが擁する主要な集落のひとつ。

 ティアサ川を渡り、スパルタ市から南へ二十五スタディオンほどの距離にある。

 神殿がある。体育場と広場があり、多くの人々が暮らしている。周囲は耕作地帯――


「アミュクライが、メッセニア人の大部隊の襲撃を受けました! アリストメネスが自ら率いる部隊です。被害は甚大です。どうか、お早く!」


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