リムナイにて
* * *
* * *
不意に、がらりと足元の地面が崩れ、どこまでも落ちこんでいきそうになった。
カルキノスは声をあげることもできず、ただ目を見開いて――
一瞬、自分自身がどこにいるのか分からなくなり、ぱちぱちと瞬きをした。
地面は、ある。
そばに一本だけ灯された小さな松明の炎が、火の粉を弾けさせながら揺れている。
「……っ、ごめん」
暗闇の中から驚いたような顔を向けてくる戦士たちに、口元のよだれを隠しながら、カルキノスは呟いた。
リムナイのアルテミス神殿の東。
その野原で、彼らは夜通し待ち続けていた。
カルキノスと共に、武装したスパルタの男たちが、総勢十名。
攫われた女たちの身代――酒ひと壺、麦二袋を担がせた牛が人数分――を牽いた奴隷たちも付き従っている。
(だめだ、こんなことじゃ)
断続的に襲ってくる強い眠気になんとか逆らおうと、両肩をぐるぐる回したところまでは覚えている。
だが、そこから、先ほど膝が崩れて転びかけるまでの記憶が完全に飛んでいた。
自分の杖をしっかりと掴んで寄りかかり、立ったまま熟睡してしまったらしい。
メッセニア人たちがいつ来るか、いつ来るかと、あまりにも神経を張り詰めていたために、疲れが出たのだろう。
それにしても、こんな局面で眠ってしまうとは、仮にも将軍と呼ばれる身として迂闊に過ぎる。
「まだ、来ないな」
「ええ」
取り繕うように口を開いたカルキノスに、低く答えたのは、メギロスの配下で、斥候たちの束ねをつとめている男だ。
よく考えたら、まだ、彼の名前を知らない。
「すでに真夜中を過ぎました」
言われて、カルキノスは夜空を見上げた。
眠りに落ち込む直前と比べて、夜空の暗さに変わりはない。
だが、星々の位置の変化が、確かに時の流れを伝えている。
「そろそろ、奴らがあらわれてもおかしくない。みんな、気を引き締めて見張ってくれ」
カルキノスはそう言ってから、
「俺も、寝ないように気をつけるよ」
小さな声で付け足した。
こちらを向いていた戦士たちが、にやりと笑う。
わずかに唇を動かした程度ではあったが、カルキノスには、それが分かった。
(良かった、みんな、怒ってない)
内心で胸をなでおろす。
スパルタでは、重大な局面に臨んで、緊張や興奮をあらわにすることは恥と考えられている。
むしろ、平然と居眠りをしているくらいのほうが将軍としてふさわしいというのが、彼らの考え方だ。
(父親たちを連れてこなくてよかった)
とも、思った。
我が娘が生きるか死ぬかというときに、肝心の奪還作戦の指揮官が居眠りしていたら、どれほど温厚な父親であってもさすがに激怒しただろう。
キュニスカの父親などは、当初、絶対に自分が同行すると言って聞かなかったのだが、
『身内であればこそ、いざというときに、冷静な判断を欠いてしまうこともある』
とカルキノスに説得され、メギロスやアナクサンドロス王にまでなだめられて、ようやく諦めたのである。
(だから……本当に、俺が一番、気を引き締めなくては。彼女たちの命運を託されているんだ。必ず、身柄の受け渡しを成功させる!)
戦士たちは周囲の暗闇に目を凝らし、メッセニア人たちが姿をあらわすのを今か今かと待ち受けていた。
回りこまれて背後を襲われることのないよう、牛をつれた奴隷たちを囲んで円形に立ち、分担して、すべての方角を見張っている。
小さな松明は中央に置き、みな、そこに背を向けていた。
視界にまともに光が入れば、闇を見通す力がにぶるからだ。
誰も、何も言わずに、全神経を目と耳とに集中して待った。
そのまま、長い時間が過ぎた。
「来ませんな」
斥候の束ねの男が、見張りの円から後ろ向きに下がってきて、ぼそりと言った。
先ほどから、戦士たちがかわるがわるこちらを振り返っては、物言いたげな視線を向けてきていることに、カルキノスはもちろん気づいていた。
彼らがずっと、今の言葉を言おう、言おうとしながら、我慢していることが分かっていたから、敢えて反応しなかった。
だが、さすがにもう限界だ。
遅すぎる。
「くそ……奴ら、本当に来るのか?」
「しいっ」
戦士たちのうちの一人が唸るように言い、それをもう一人が制止した。
(まずい)
同等の「敵」ではなく、奴隷ごときに自分たちが待たされているという事実が、戦士たちの神経を逆撫でしている。
そして、それ以上に彼らを不安に引きずりこもうとする、ひとつの懸念があった。
(なぜ、メッセニア人たちは来ない? まさか……こちらの作戦が、見抜かれたのか?)
今、カルキノスのそばにいる戦士たちは、総勢十名。
だが、ここから少し離れて建つアルテミス神殿の敷地内には、さらに三十名の戦士たちがひそんでいる。
アルテミス女神の怒りを買わないよう、戦士たちは身を清め、念入りに供犠を捧げて神域内に入った。
その中には、ナルテークスもいる。
こちらの人数が多すぎれば、メッセニア人たちは警戒し、近付いてこないかもしれない。
だから、神域内に伏せる人数のほうを多くした。
だが――見える範囲にいる人数の少なさが、かえって、メッセニア人たちを警戒させてしまったのだろうか?
「見抜かれた、ということでしょうか?」
斥候の束ねの男が言った。
仲間たちに動揺を広げないよう、極限まで低めた声は、すぐ側にいるカルキノスにさえも聴き取りにくいほどだ。
「まだ分からない。もしかしたら、準備に手間取っているとか何とか、相手にも事情があるのかもしれない。もう少し、待とう」
黙って野に立つ男たちの頭上で、星々が動いてゆく。
奴隷たちが二度、三度、燃え尽きかけた松明から新しい松明へと炎を移した。
やがて、アルテミス神殿のほうから、黒っぽく染めた布をまとった若い戦士がひとり駆けてくる。
暗闇にまぎれてメッセニア人たちを追跡するための扮装だったが、その効果はすばらしく、すぐそばに来るまで、その姿はほとんど見えなかった。
彼がわざと小さく武具の音を立てながら近づいてこなければ、驚いた味方が槍で突いていたかもしれない。
みな、なんとなく見張りの円を縮めて、カルキノスと若い戦士のところへ集まった。
「合図が出ていないのに、持ち場を動き、申し訳ありません」
炭を塗りつけて黒くした顔をしかめ、若い戦士は言った。
「あまりにも遅いので、様子を見に参りました。伏せている者たちはみな、焦れております。このまま待つのですか?」
「ああ。待つ」
カルキノスは、胸中の焦りを一切あらわさず、断言した。
「相手が今まさにこちらに向かっているのか、それとも出発すらしていないのか、それは分からない。だが、前者であっても、後者であっても、俺たちが今、メッセニアに向かっていったり、逆にスパルタに引き返したりすることには、意味がない。ここで待つ」
「しかし、指定された刻限は、とっくに過ぎています」
「どういうことだ、あちらから言い出したというのに……」
「奴ら、来る気がないのでは?」
「最初から、人質を返す気など、なかったのかもしれませんぞ」
きっかけを得たとばかりに、周囲の戦士たちが、これまで胸中に渦巻いていた疑念を次々と口にしはじめる。
「メッセニア人どもは、虚言で俺たちをもてあそんだだけなのではないか?」
「許せん、奴隷の分際で!」
「あるいは、奴らのほうで、何かが起こったか……」
「何かとは?」
「たとえば、女たちが途中で暴れたとか」
「それでは、女たちは、もう……」
「不吉なことを言うな!」
「あるいは」
斥候の束ねである男が、カルキノスを見つめて言った。
「出発の前に、将軍が仰っていたとおり、これは、本当に陽動であったのかもしれません」
全員が黙って、カルキノスを注視した。
『四十人』
リムナイに何人を同行するつもりか、という王からの問いに対して、カルキノスは、このように答えたのだった。
『リムナイにあまり多くの人数を割けば、ここが手薄になる。その隙を突こうとする、敵の計略だという可能性も捨てきれない』
『隙を突く、とは?』
『リムナイの地に、スパルタ人の注意と戦力とを向けさせておき、その隙に、スパルタ市そのものを襲撃する……そういう陽動作戦であるかもしれない、ということです』
スパルタの男たちはどよめき、顔を見合わせた。
『だが、もちろん、そうではないかもしれない。逆に、交渉に出向いたこちらを、大勢で取り囲んで攻撃しようと考えているおそれもある。
スパルタの優れた戦士たちが四十人もいれば、相手が何人でかかって来ようが、安心だ。また、この人数ならば、スパルタ市の守りとして残す戦力にも、影響が少ないと言える』
『お待ちいただきたい』
ひどく険しい表情で言ったのは、キュニスカの父親だった。
『陽動作戦とか、交渉に出向いたこちらを包囲するとか……つまり、カルキノス将軍は、奴らにはそもそも娘たちを返す気などない、とお考えなのですかな?』
『分からない』
カルキノスは、正直に答えた。
『分からないんだ。だが、これだけは約束する。どんなことになったとしても、俺は、最後まで……最後の可能性が消える瞬間までは、絶対に、娘さんたちを無事で取り戻すことを諦めない。そのために、全力を尽くす!』
『では、……将軍自ら、リムナイに出向かれるおつもりで?』
『うん』
そのことについては、一かけらのためらいもなかった。
(俺でなければ、抑えられない場面が来るかもしれない)
そんな予感が、どこかにあった。
その予感が、今、現実のものになろうとしている。
「奴らの、本当の狙いは、我らをここへ誘い出しておき、その隙にスパルタ市を攻撃することだったということか!?」
「今まさに、そんな事態になっているやもしれませぬ」
「四十人の差は大きい! 今からでも、スパルタへ引き返したほうがいいのでは?」
「いいや」
口々に言った戦士たちに、カルキノスは、断固としてかぶりを振った。
「アナクサンドロス王が、油断なく守りを固めている。万が一のことがあったとしても、俺たちの応援など不要だ。俺たちの任務は、ここで人質の身柄を受け取り、無事に連れ帰ること。俺たちは、ここから動かない。少なくとも、陽が昇るまでは」
「しかし、奴らに、そもそも来る気がないのだとしたら、待っているだけ無駄になります!」
「無駄でもいい。ここで待つんだ。
君たちは、メッセニア人たちが俺たちを欺いた可能性ばかりを考えているが、もし、そうでなかったとしたらどうする? 何かの都合で、出発や移動が遅れているだけだったとしたら?
メッセニア人たちが、女たちをつれてここへ現れたとき、俺たちがここにいなければ、女たちはどうなる? 彼女たちは、もう二度と、スパルタの地を踏めないかもしれない。そのときの彼女たちの気持ちを考えてみろ。
俺は、夜が明けるまでは、ここを動かない。どうしても俺に従えないと思うものは、自分の判断でスパルタ市に戻ってもいい。罰することはしない。遠慮なく、行ってくれ。
たとえ、みんなが……この場にいる全員が帰ったとしても、俺は、ここを動かないぞ!」
「おー」
一瞬、しんとした。
「えらーい」
全員の顔が、申し合わせたように同じ方向を向く。
「うわぁあああ!?」
すぐそばの闇のなかに、にこにこ顔のアクシネが斧を持って立っていた。
カルキノスは思わず腰を抜かし、
「シャアッ」
斥候の束ねの男が反射的に槍を振るったが、アクシネは驚異的な身ごなしで地面にへばりついて穂先を外し、踊るような足取りで下がった。
「えへへへ、むーりー」
ああ、こんな光景を、ずっと前にも見たような気がする――
「待て! アクシネだ! みんな、槍を引いてくれ!」
慌てて横から槍の柄を掴み、カルキノスは叫んだ。
「アクシネ! 何してる!? 何しに来たんだ!?」
「しごと、しごと!」
斧を振り回しながら、彼女は叫んだ。
その声は暗い野原にうわんうわんと響きわたるようで、
「しーっ、しーっ!」
カルキノスは両手をばたばたと振り、声量を抑えるように合図を出した。
アクシネはうんうんと頷いたが、
「おそいから、ようすをみにきた!」
声の大きさはまったく変わっていなかった。
「わたしは、いくっていったけど、だめっていわれて、それで……だれだっけ、えーっと、だれかが、いけっていわれてた。だから、わたしもついてきた!」
「だからの意味が、まったく分からないんだが……その、だれかって、誰だ!? どこにいるんだ?」
ついてきたというのならば、その誰かのほうが、アクシネよりも先にここに着いていなければおかしい。
「えーとな……なまえしらない。よろいをきてるから、おもい、おもいなー! おそい! だから、おいてきた」
そういうことか。
「カルキノスたちがおそいから、みんなが、おこりだした!
キュニスカのおとうさん、いちばんおこってた。
それで、みんなが、あばれるから、ア、ア、……あの、おうさまと、うでのふとーいおじいさんがなー、おこって、みんなやっつけた。ごんごんごーん!」
「アナクサンドロス王……メギロスさん……」
アクシネのつたない説明でも、だいたいの光景が想像できて、カルキノスは感心するとも呆れるともつかない表情になった。
「みんな、かえってきた? でも、いない。まだ、いないなー。グナタイナは? キュニスカは?」
「うん……まだ、みんな、帰ってきてないんだ」
と、そこへ、
「くそっ……あの女、化け物かっ……あっ、いた!?」
息を切らしながら猛然と走ってきた完全武装の若者が、アクシネと同じ内容を報告する。
アクシネは横で斧を振りながら「そう、そう」と嬉しそうに頷いていた。
「もはや、真夜中よりも夜明けのほうが近い」
アクシネを完全に無視することに決めたらしく、斥候の束ねの男が、平静な顔つきで言う。
「一度、こちらからスパルタ市へと伝令を出し、状況を伝えるべきでしょう。何の変化もないという、この状況を」
「そうだな。……あ、そうだ。アクシネ!」
「なに?」
「仕事があるんだけど」
「しごと!」
彼女は飛び上がり、すごい勢いで近づいてきた。
「なに?」
「伝令だ。もう一度、今きた道を走って戻って、待っているみんなに、この様子を知らせてくれないか?」
どう考えても、女に頼む仕事ではない。
「いいよー」
アクシネは、即答した。
「このようすって、なに?」
男たちが白目を剥いたが、カルキノスは、もはやこれくらいのことでは動じない。
「キュニスカたちは、まだ、もどってこない。だから、俺たちは、ここで待っている。夜明けまで、ここにいる。夜が明けたら戻る」
「よが、あけたら、もどる?」
「俺も、今から戻ります」
息をととのえながら、伝令の若者が言った。
アクシネの情報伝達能力を、まったく信用していないらしい。
無理もないが。
「ご苦労さん……よろしく頼むよ」
どう考えてもアクシネのほうが速いが、それは言わずに、カルキノスは若者の肩を叩いた。
男には、男の矜持というものがある。
「きょうそうだ、きょうそう!」
その矜持を打ち砕く勢いでぶんぶんと斧を振りながら、アクシネが叫んだ。
「いちについてー、グナタイナ、キュニスカ、はやくかえってきたらいいのに! ……あれ、なに?」
「将軍!」
アクシネがふと振り返り、暗い地平線を指差したのと、戦士たちの緊迫した呼び声とが同時だった。
彼方にある、低い丘。
その上に、赤い光の点が見える。
目の錯覚だろうか?
いや――違う。動いている。
炎だ。
こちらと同じ、たったひとつの松明の炎だ。
「アクシネ!」
カルキノスが発した声に、アクシネは飛び上がり、目を丸くしてカルキノスを見た。
その声には、それほどの気迫が込められていたのだ。
「頼む。今から、俺がいいと言うまで、そこから一歩も動くな! ものも言うな。絶対にだ! キュニスカたちを助けられるかどうかの瀬戸際なんだ。余計なことをしたら、全部、台無しになる!」
アクシネは大きく口を開けようとして、その口を、がばっと自分の手で押さえた。
それから、こくこくと頷いた。
どうやら分かってくれたらしい。
「ありがとう……」
カルキノスは呟くように言って、
「君は今すぐに神殿へ戻れ」
神殿に伏せていた戦士に指示を出す。
「神殿にいる皆に、今のことを伝えてくれ。あとの行動は、すべて、打ち合わせの通りに進めるんだ。誰も、決して、勝手な動きをしないように」
「御心配なく。必ず、将軍の御命令の通りに動きます」
戦士は黒い布をかぶり、今度はほとんど何の音も立てずに、神殿へと戻っていった。
残った戦士たちは、思わず知らず、数歩ずつ、遠い灯りのほうへ進み出た。
アクシネは先ほどの位置から一歩も動かず、まだ口を押さえていた。
「一人、だな」
「アリストメネスか?」
「いや、まさか……」
「気をつけろ、明かりに注意を引きつけておいて、別動隊が回りこむ策かもしれん」
「見える範囲には、動くものはないぞ」
「こちらもだ」
「……身代を携えた奴隷どもからも、目を離すな。俺たちの隙を見て裏切るかもしれん」
「ああ……」
稲妻のように鋭い囁きがいくつも行き交い、やがて、沈黙が落ちる。
遠い、たったひとつの灯りは、揺れながら、少しずつこちらへと近づいてきていた。




