あがない
* * *
* * *
地面の上に敷かれた皮の上で、グナタイナは目をひらいた。
彼女は体のどこも動かさないまま、自分の隣に目を閉じて横たわっている男の姿をじっと見つめた。
男の行為は激しく、優しく、グナタイナは何度となく声をあげそうになったが耐えた。
それでも、外に立っているはずの見張りは、この天幕のなかで何が起きているかまったく気づかないほど鈍くはなかっただろう――
意識が飛ぶ寸前、アリストメネスが名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
グナタイナの名ではなかった。
きっと、過去になくした女なのだろうという気がした。
グナタイナが腕に力を込め、ほんのわずかに体をずらそうとした瞬間、アリストメネスが目を開けた。
グナタイナが微笑むと、彼は身を起こし、もう一度ちらとグナタイナの顔を見てから、視線を逸らした。
その表情が何を意味しているのか、グナタイナには分からなかった。
グナタイナは大儀そうに半身を起こし、落ちていた自分の衣を引き寄せて体を隠した。
アリストメネスは何も言わずに立ち上がり、彼女に背を向けて、すばやく肌着をかぶった。
それから、物入れの木箱の上に置いてあった鎧を身に着けはじめた。
その様子を見ながら、グナタイナは、おくれ毛の出たまとめ髪をほどいて、手でくしけずった。
やがて、その指が、ひと筋だけ小指ほどの太さに編み込んだ、長い毛束をとらえた。
彼女はその端をつかみ、すさまじい力で根元から引きちぎった。
ぶつりと音がして頭から血が流れ出したが構いもせず、毛束の端をくるりと一方の手に巻きつけた。
(おまえのせいで)
アリストメネスは、まだこちらに背を向けている。
グナタイナは音もなく立ち上がった。
衣が滑り落ちて、体じゅうについた無残な傷痕があらわになった。
* * *
『ねえ』
メッセニアの将軍アリストメネスが投げ放った槍が、最愛の男の喉笛を貫いて命を奪ったのだときかされたとき、彼女は、その報せをもたらした奴隷仲間の男に言った。
『お願いがあるの。お金をあげるわ。それで、あたしを打ってちょうだい』
スパルタ人の若者でも身震いしそうな野生の薊を指差されて、奴隷の男はグナタイナが悲嘆のあまり気でも狂ったのかと驚き、断ろうとした。
脱走しようとして捕らえられ、薊の鞭で打たれて死んだ奴隷もいるのだ。
だが、グナタイナは魔物のような形相で迫った。
『やりなさい。やらなきゃ、あたしはあんたを殺すわ。力いっぱい打って。手加減しないで。……大丈夫よ。あんたの前にいるあたしは、もう死んだ女みたいなものなの』
気を失うこともできないほどの凄まじい痛みさえ、何でもなかった。
(アイトーン。あなたを殺した男は、あたしが殺す)
よろめきながら家に戻り、炉にかけて熱した焼串を、自分の太腿におしつけた。
自らの体を傷つけて、スパルタ人にやられたと言い、そのために脱走してきたのだと偽ってヘイラに入りこむ。
『どうしたんだあああああ! いたい、いたい! くすり、くすり! やったやつ、わたしが、これで、いっぱいたたいてやる!』
グナタイナの様子がおかしいのを一目で見破ったアクシネは、グナタイナの衣をはぐと、泣きながら斧を振り回して、それから軟膏を塗ってくれた。
しごともやすんでいい、と言ってくれた。
初めて、涙がこぼれたのは、傷が痛んだせいではない。
『これは、あたしが、自分でやりました。だって、アイトーンが死んだんです』
アクシネは泣き喚いて暴れ、斧で食卓を真っ二つに叩き割った。
そして、ぼろぼろと涙を流しながらグナタイナの手を握り、
『けがをしちゃ、だめだぞ! いくら、かなしくても、しんだひとは、もうもどってこない!』
諭すように言った。
『分かっています』
誰よりもよく分かっている。
自分の中で燃えていた、あたたかな火は、消えてしまった。
アイトーンは、もう戻ってこない。
(だから、奴を殺す)
『ねえ、聞いてよ。女主人さまたちの様子が変なの』
メッセニアに入りこむ機会をうかがいながら過ごすうち、洗い場で一緒になった奴隷仲間の娘が、ひそひそと言ってきた。
小川の中で、並んで洗濯物を踏みながら、水音にまぎれ、グナタイナに耳打ちする。
『絶対、人には言わないで。最近、女主人さまは、お部屋にお友達を集めて、秘密の相談をしているのよ。偶然、聞こえちゃったの。……なんと、女だけで、メッセニアに入りこむ計画を立てているみたいなのよ!』
その仲間が仕えている女主人の名は、キュニスカといった。
その名前は、前々から知っていた。
アクシネが、彼女のことを、ともだちと呼んでいたからだ。
アクシネがそう呼ぶ相手は、グナタイナが知る限り、ただ一人だけだった。
(優しいアクシネさん、お別れです)
次の日、グナタイナは物置から縄を持ち出し、わざとアクシネに見つかるように、首をくくろうとした。
実際に最初に気付いたのはテオンだったが、アクシネもすぐに飛んできて、大騒ぎになった。
『アイトーンの思い出ばかりのこの家で、これ以上、過ごすことには耐えられません』
涙ながらに訴えると、優しいアクシネは、いいよ、だいじょうぶ、ともだちにたのんであげると叫んで飛び出していった。
そして、夜更けになって戻り、
『キュニスカと、えらいおじいさんが、いいっていった!』
何をどうしたのか分からないが、そう言って、ぽろぽろ涙をこぼした。
『さびしいなー、でも、いいよ! グナタイナ、げんきになれ!』
『アクシネさん、今まで、本当にお世話になりました』
(あなたのためにも、あたしが、奴を殺す――)
* * *
「将軍さま」
剣帯に手を伸ばそうとしたアリストメネスに、敢えて背後から甘えるように声をかけたのは、油断させるため。
グナタイナはアリストメネスに近づき、広い肩に後ろから腕を投げかけて抱きついた。
片手に握っていた毛束の縄の、もう一方の端をつかみ、すばやく手に巻きつける。
ぱっと身を返し、相手の背に自分の背を密着させたグナタイナは、重い袋を肩に担ぐようにして、渾身の力で縄を引いた。
アリストメネスの体が激しく強張った。
グナタイナの裸の背中に、鎧と衣の向こうでもがく男の筋肉の動きがじかに伝わってくる。
スパルタ人に逆らった奴隷の若者が絞め殺されるのを、以前に見たことがあった。
だから知っていた。大の男でも、まともに首を絞めあげられれば、ものの数秒で意識を失うのだと。
武器は、隠していても、調べられれば取り上げられてしまう。
素手の腕力では、男を殺せない。
だが、これなら。
巻きつけた髪の縄が両手に食い込み、指先の血の流れが完全に止まる。
たとえ両手が腐れ落ちても、この男を殺す。
(死ね!)
魔物の形相でいっそうの力を込めたとき、不意に、ぶつりと手応えが消失した。
ばらばらになった髪の束を両手に握り、グナタイナは、ゆっくりと振り返った。
アリストメネスが、首筋から血を流しながら、グナタイナを見下ろしていた。
その右手には、木の葉ほどの小さな刃物が握られていた。
彼の剣帯も、剣も、まだ木箱の上にある。
アリストメネスは、その小さな刃を、鎧の内側にひそませていたのだ。
それを引き抜き、自分自身の首を傷つけることをいとわず、グナタイナの髪を断ち切った――
グナタイナは、絶叫した。
鉤爪のように指を曲げて飛びかかり、憎い男の目玉を抉りだそうとした。
アリストメネスは刃を構えたが、寸前で身をかわし、刃物を捨てて、素手でグナタイナの両腕を掴み止めた。
「将軍!?」
「入るな!」
天幕の入口から一瞬光が射しこんだが、アリストメネスの怒鳴り声で慌てて垂布が戻される。
「死ね!」
両手首を掴まれたまま、グナタイナは激しく身をよじり、アリストメネスを蹴った。
力任せに引き寄せられて、体が密着する。
蹴りが使えなくなると、グナタイナは相手の顔に頭を叩きつけようとした。
歯を剥き出し、噛みつこうとした。
「死ね! おまえが、アイトーンを殺した! おまえが! おまえのせいでエエエェェアアア!」
アリストメネスは、何のことか分からないという顔をした。
それから、
「……あの時の男か?」
呟いて、ひどく傷ついたような顔をした。
だが、それは一瞬のことだった。
逞しい腕の筋肉が盛り上がり、首筋の傷から新たな血が噴き出した。
グナタイナの胸はますます強くアリストメネスの鎧に押しつけられ、骨が砕けそうな強さで手首が握りしめられた。
「おまえは、俺を殺そうとした。ここで殺すのが当然のことなのだろう。だが……おまえの夫の命のあがないとして、おまえの命だけは、助けてやる」
グナタイナは、アリストメネスの言葉など少しも聴いていなかった。
目を血走らせて、声を限りにアリストメネスを呪い、罵倒していた。
アリストメネスの顔に、またあの哀しげな表情がよぎり、すぐに消え去った。
彼は簡単にグナタイナを引き倒して馬乗りになり、彼女の首を押さえつけると、小さな刃を拾い上げて握りしめた。
「もちろん、無傷で帰れるなどとは、思っていないだろうな」
* * *
* * *
ひと筋の陽の光も射さない暗い部屋で、スパルタの女たちは静かに座り続けていた。
部屋にはひどいにおいがこもりはじめており、暗がりで自分たちの運命を想像し続ける時間は着実に彼女たちの神経をすり減らしていたが、誰もそんなことを口にはしなかった。
たとえ死ぬ寸前まで参りかけても、参ったとは言わずに死ぬのがスパルタの男であり、スパルタの女だからだ。
時折、ぶり返す痛みにおそわれたキュニスカのうなり声が上がった。
美しかった彼女の顔はますますひどく腫れ上がり、紫のぶちの入った、いびつなまりのようになっていた。
女たちはかわるがわる慰めの言葉を呟き、体を寄せて励ましあっていたが、
「ちょっと、待って! 静かに」
「何?」
「今、何か……」
一斉に耳をそばだて、それから、ぎょっとした。
外から、まるで怒り狂った野獣のような、凄まじいうなり声がきこえてきたからだ。
その声は、だんだんこちらに近づいてくる。
野犬だろうか。
メッセニアの男どもは気を変えて、この部屋に飢えた獣を放り込み、自分たちを血祭りにあげて慰みにでもするつもりだろうか?
扉が開き、まぶしい光が射しこんだ。
槍を構えた見張りと、縛り上げた女を引き立てたアリストメネスの姿が、戸口に立ち塞がった。
「……奴隷女ッ!」
「裏切り者め!」
「どの面さげて、ここへ戻った!?」
縛り上げられ、獣のように唸っている女の正体を見て、女たちは怒りのあまりに元気を取り戻し、口々に喚いた。
アリストメネスは、叫ぶ女たちを平静な目つきで見つめ、
「ならば、おまえたちも、この女に欺かれていたのだな」
吐き捨てるように言った。
「たいした女だ。この俺に血を流させた者は、スパルタの男の中にも、そうはいないのだからな。だが、その代償は支払ってもらったぞ」
アリストメネスはぼろきれでも投げ捨てるように、グナタイナの体を部屋の中へ突き飛ばした。
地面に転がったグナタイナの体を蹴りつけ、踏みつぶそうと、女たちが一斉に飛びかかる。
「アエオ!」
不明瞭だが凄まじい気迫のこもった一喝が、女たちの動きを止めた。
叫んだのは、キュニスカだ。
そのときになって、女たちの心に、アリストメネスが言った言葉の意味がようやくしみこんできた。
『この俺に血を流させた者は、スパルタの男の中にも、そうはいないのだからな』
倒れたグナタイナの口の中には、大量の布が詰め込まれていた。
その布は、もはや元の色が分からないほど真っ赤に染まり、グナタイナの口の端からは、血とよだれのまじったものがだらだらと流れ落ちていた。
「舌、を……」
「もう、嘘はつけまい。俺を欺こうとした報いだ」
そのとき、虚ろな目をしていたグナタイナが不意に跳ね起きると、猛犬のようにアリストメネスに突進した。
見張りたちが慌てて突き出した槍の穂先で彼女が串刺しになる前に、スパルタの女たちが体ごとぶつかり、グナタイナを地面に押し伏せた。
グナタイナの体の奥底からは、口いっぱいに詰め込まれた布でも塞ぐことのできない、地を震わせるような怨嗟のうなりがもれ続けていた。
見張りの男たちは、怯え、槍を引いた。
「安心しろ」
アリストメネスは、血走ったグナタイナの目と、敵意に満ちたスパルタの女たちの目をまともに見すえ、冷え切った声で言った。
「その女が愚かなまねをしたからといって、俺の考えは変わらん。おまえたちの家の者が身代を払えば、おまえたちは解放してやる。飢えて死ぬまでに買い戻してもらえるよう、せいぜい祈っておけ」




