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  *     *     *



 薄暗い天幕のなかにひとり残されたグナタイナは、地面に敷かれた皮の上に腰を下ろしたまま、まわりのようすを眺めていた。

 アリストメネスの日常の起居のようすをうかがわせるような品は、あたりにはほとんど目につかない。

 先ほどまで彼が腰を下ろしていた物入れの木箱は、表面に何の飾りもなく、蓋と本体とを皮ひもで結びつけて、封印のかわりにしてあった。

 もとより、手を触れるつもりも、方法もない。

 彼女は後ろ手に縛られたままの腕を小さくねじるようにして動かし、少しでも血の通いをよくしようとした。

 自分は、まだ信用されてはいないのだ。

 両手の指先にぴりぴりと痺れるような感覚が生まれ、指を曲げ伸ばしすると、その痺れはいっそう強くなった。

 ぱっと天幕の入口がまくられ、外の光が一瞬だけ射し込んできた。

 そちらに顔を向けたグナタイナの目の前に、あっという間に近づいてきたアリストメネスの姿があった。

 アリストメネスの強い手がグナタイナの喉をつかんで絞めあげ、グナタイナは息をつまらせてもがいた。

 声をあげようとしたが、その声すらも出すことができなかった。

 アリストメネスが腕を持ち上げ、グナタイナは絞められる鳥のようにもがきながら立ち上がり、今にも飛び出しそうな両目を見開いて目の前の男の顔を見た。


「おまえは、嘘をついている」


 片手一本で、爪先が宙に浮く寸前までグナタイナを絞めあげながら、アリストメネスは囁くように言った。


「このヘイラには、おまえの他にも、スパルタから逃れてきた者たちがいる。その中に、おまえのことを知っている者がいた」


 そう告げるアリストメネスの表情はひどく険しく、仲間を斬ったときにさえ見せなかったほどの怒りが滲んでいた。


「おまえは将軍カルキノスに、とても忠実に仕えていたそうだな。奴の命令で、ヘイラの様子を探りに来たのだろう。本当のことを言え! さもなければ、おまえを男でも泣き叫ぶような拷問にかけてやる」


 グナタイナの表情が歪んだ。

 まるで、ばかにするかのように。

 言葉を引き出すために、喉をつかんだ手がわずかに緩められると、


「あたしの体を痛めつけようったって、もう、まともなところなんて、それほど残っちゃいませんよ」


 彼女はアリストメネスを見据え、しわがれた声で囁いた。

 鼻先がぶつかりそうな距離にあるアリストメネスの怒りの表情に、不可解そうな色がよぎった。


「あたしの衣を、まくってごらんなさいよ。そうすれば、どういうことだか分かりますよ」


 アリストメネスは、しばらくそのまま動かなかった。

 これがばかげた色仕掛けなのか、それとも自分の隙を狙おうとする策なのか、考えているようだった。

 やがて彼はゆっくりと左手を動かし、グナタイナの腰ひもをほどくと、衣の胸元のひだに手をかけ、力任せに引き下ろした。


 見下ろしたアリストメネスの表情がこわばり、その目が見開かれた。

 グナタイナの体の、衣に隠されていたやわらかい部分は、一面にひどい傷痕で覆われていた。

 棘のついた鞭で打たれたような傷もあれば、焼串を横にして押し当てられたような火傷の痕もあった。


あざみの鞭ですよ、あの、ばかでかい棘の生えた……あれで打たれたことがありますか? 死ななかったのが不思議なくらいですよ、我ながらね。

 あたしも、ばかだったんです。ええ、そりゃあ忠実にお仕えしましたよ、親切そうなそぶりに、すっかりだまされてさ! それで気を許したのが、大きな間違いですよ!」


 アリストメネスは、黙って彼女の喉から手を離し、火のように言葉を吐く女を見つめた。


「あたしは、あたしの夫を愛してたんです、誰よりも。奴隷にだって、心はあるんだ。奴らは認めようとしないけどね。あいつは……」


 グナタイナの体が大きく震えだした。

 恐怖がよみがえったのか、消しがたい怒りのためか、その両方なのか。


「あいつは、あたしに、無理やり、閨で奉仕をさせようとしたんだ。あたしは拒みました。あたしには、ただひとり夫と決めた男がいたからです。それで拒んだ。そうしたら……このざまですよ」


 グナタイナは震えながら、また、ばかにするような顔をした。


「夫は、あたしを人質にとられて……戦に勝てば解放してやる、あたしの身柄も返してやるって……それで、戦場に送られて……はははは」


 急に乾いた笑いがこぼれ出し、同時に涙が噴き出した。


「忠実にね、ははは! そうでしょうよ。ばかな女だったんだ。あんな男だと知ってりゃ、誰が」


 ぐっと喉の奥に言葉が詰まり、グナタイナはすすりあげた。


「誰が、あんな男のために……」


 アリストメネスは、叱りつけられた子供のようにだらりと両手を垂らして、すすり泣くグナタイナを見つめていた。

 彼は地面に落ちた彼女の衣を拾うと、触れたら崩れる乾いた花にするようにそっと、彼女の肩にかけた。


「すまなかった」


 彼は呻くように言った。


「辛いことを、思い出させた」


 その声は、なぜか、彼自身が痛みに耐えているかのように響いた。

 彼の手は、着せかけた衣ごしに、まだ彼女の体に触れていた。


「いいんですよ」


 グナタイナは何でもないように言ったが、その声は震えていた。


「あいつは言ってましたよ、もし、幸運にも夫が帰ってきたって、もう、おまえに触れることもないだろうって。こんな体じゃ、気色が悪くて、その気にもならないだろうってさ。

 いいんですよ、もう、あたしは。復讐してやるんだ。あいつが死んで、死体が野犬と鴉のえさになるのを見たい。あたしは、夫の仇を取れれば、それで――」


 言葉が強くなるごとに、ますますがたがたと震えるグナタイナの体を、アリストメネスが急に後ろから強く抱いた。

 固い武装に背中を押し付けられて、グナタイナは目を見開き、少し身をもがいたが、すぐに身動きするのをやめた。


「やめてくださいよ……そんなふうに、憐れんでいただいちゃ、かえって申し訳ないですよ。将軍さまだって、この体、気色が悪いと思ったでしょう?」


「いいや」


 そう答えて、アリストメネスは腕に力をこめた。


「そんなことはない」


 彼は腕をゆるめると、腰の後ろからナイフを引き抜き、グナタイナの手首を縛っていた縄を断ち切った。

 夫を奪われた女は振り向き、ゆっくりと両手を差しのべた。

 その肩から衣が外れて落ちる。

 傷だらけの体にアリストメネスの手が触れ、彼女は静かに目を閉じた。



     *     *     *

  *     *     *



「払いましょう」


 不意に決然とそう言い放った声に、男たちは目を見開いた。


「女たちの身代みのしろを、払いましょう!」


 カルキノスが、そう言ったのだ。


「断る!」


 これまでの話の流れをまったく無視した言葉に、男たちは騒然となった。


「いかに将軍の言葉といえども聞けぬ。スパルタは、奴隷と取引などせぬ!」


「そうだ! メッセニア人どもをつけあがらせるだけだ!」


「一度、応じれば、これからも同じことが起こるに違いない!」


「それも、戦力になる男というならばともかく、女の身柄を取り戻すためにわざわざ――」


 ゼウス神の雷霆でも直撃したような、すさまじい物音が響いた。

 太い木の枝のようなものが激しく回転しながら飛び、キュニスカの父親の頭を危ういところでかすめて過ぎる。

 地面に落ち、カラカラと音を立てて転がったそれは、太い杖の先端だった。

 カルキノスが、側に立てかけてあった自分の杖をつかんで振り上げ、壁に思い切り叩きつけてへし折ったのだ。


「すみません、手が滑りました」


 残った杖の下半分を地面に捨てて、カルキノスは、静まり返った男たちを見渡した。


「そうです。確かに、俺たちがリムナイに身代を運んでいけば、奴らはこう思うでしょう。何だ、スパルタ人なんて、ちょろいじゃないか。娘ひとりにつき、牛一頭、酒ひと壺に麦二袋。ぼろい商売だ、ってね。……思わせてやりましょう。そうして、奴らを油断させるんです!」


 男たちがざわめき、顔を見合わせる。


「いいですか? 受け渡しの場所から、少し離れた……けれど、星あかりでも受け渡し場所をはっきりと見張ることができるほどには近いところに、屈強の男たちを伏せておくんです。飛道具の出番があるかもしれない。弓使いも必要だ。人質の返還にあたって、奴らが、少しでもおかしな動きをすれば……」


「そのときは、皆殺しにするのですな!?」


「その通り! でも、もし、奴らがおとなしく女たちを返したら……そのときは、奴らを、自由に行かせること」


 一度は納得の様子を見せかけた男たちだが、カルキノスのこの言葉に、ふたたび激しい不満のうなりをあげた。


「泳がせるんだ」


 カルキノスは激昂することなく、悠然と男たちに語りかけた。


「手に入れた戦利品を、奴らは、どうすると思う? ――そう、奴らは、戦利品をヘイラの本拠地に運び込むはずだ。欲をかいて、牛なんてかさばるものを注文してきたのが、向こうの運のつきさ。いくら新月の晩だからって、見逃しっこない。それを追えば、奴らの拠点の場所を、確実に突き止めることができる!」


「なるほど……!」


「そのために、今回は、あえて奴らの要求を飲むと」


「見事だ。これぞ、策というものか」


「気が進まんのう!」


 その場に流れかけた合意の空気を吹き飛ばすように、キュニスカの父親が大声で言った。

 一同が口を閉じ、注視する中、彼は太い腕を組み、盛大に鼻息を吹いた。


「しかしながら、他ならぬ、これまでに数々の策を成してこられたカルキノス将軍の御言葉だ。ここは、ひとつ、だまされたと思って従ってみようではないか。それでよろしいかな、皆さん?」


「おう!」


「仕方がない。やろう!」


「では、万事、俺が言ったとおりに」


 カルキノスは内心の大きな安堵をおもてにはあらわさず、淡々と指示を出し続けた。


「要求された身代には、変な細工などせず、正直に用意すること。そして、伏せておく男たちの人選だが、血気盛んな若者ではなく、やや年長で、仲間たちのうちでも特に冷静沈着だといわれているような者たちを選んでくれ。彼らが逸って妙な動きをし、万が一にもメッセニア人たちに気取られてしまうようなことがあったら、こっちの計略が、何もかも台無しになる!」


「分かりました。すべて、将軍の指図の通りに用意させましょう」


「奴隷と取引をするなど業腹ではあるが、これも、奴らを叩き潰すためだ」


「しかたがない。よし、人選にかかるぞ!」


(やった……) 


 傍目には身動きもせず無表情に、内心では拳を突き上げながら突っ立っているカルキノスの真横を、キュニスカの父親が、足早にすり抜けていった。


「ありがとう」


 一瞬の出来事だった。

 あまりにも小さく、空耳かと思うような声だった。


「え?」


 カルキノスが一呼吸遅れて振り返り、間の抜けた声をあげる頃には、キュニスカの父親はとっくに通り過ぎ、振り向きもせずに歩き去るところだった。


(何が?)


 しばし呆然とその背中を見送ってから、カルキノスは、はっと気づいた。


(そうか。彼は……本当は、キュニスカを助けたかったんだ)


 キュニスカは、夫であるゼノンと死に別れてからずっと、次の夫をもつことを拒み続けていた。

 娘の結婚についての決定権は、父親にある。

 娘の気持ちがどうであろうと、父親がこうと決めれば、娘はそれに従わなくてはならないのだ。

 だが、キュニスカの父親は、これまで、彼女を無理強いして再び誰かに嫁がせようとはしなかった。

 それは、なぜか。

 娘を……その心を、よほど大切に思っていたからではないのか?


 神々に仕える巫女となるか、よほどの変わり者として指弾を受ける覚悟がなければ、スパルタで女性が結婚せずに生きていくということはできない。

 子を生み、育てることを考えれば、できるだけはやく再婚したほうがいいに決まっている。

 だが、キュニスカが今のまま再婚したとしても、獅子のような心を持つ彼女は幸せにはなれず、むしろ、自らの身を食い破ってしまうことにもなりかねないと、父親には分かっていたのではないだろうか。

 時が流れ、傷付いたその心が癒え、娘がふたたび自分の幸せを考えられるようになるまではと、彼は考えていたのかもしれない。


(それなのに……彼は、あの場で、娘を救うために身代を払おうとは、言い出せなかった……)


 娘を守ろうとする父の心と、スパルタの戦士としての矜持と。

 奴隷と取引をすることになるくらいならば、娘にはスパルタのために死んでもらったほうがよい、と、彼は言ったのだ。


   死は美しい


 不意に、遠くから甲高い少年の声でそんな文句が耳に飛び込んできて、カルキノスはぎょっとした。

 あの歌だ。

 誰かが歌っているのだ。

 ここからは、ずいぶんと離れている。

 だから、今までこの場で交わされていたやりとりとは、何の関係もないはずだ――

 だが、心臓に冷たい棘を打ち込まれたような動悸はなかなか収まらなかった。

 作意によらず、不意に耳に飛び込んでくる声というものは、神々が人間に下し給う予兆であるという。


「違う」


 声に出してそう呟いたカルキノスを、たまたま側にいたスパルタの男たちが、ふしぎそうに見た。


(死んだら、何にもならない)


 自由も、喜びも、幸せも、生きていればこそ、つかむこともできる。

 だから、救い出すのだ、必ず。


(生きて……)




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