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ヘイラ

     *     *     *

  *     *     *


 メッセニア人たちに両側から支えられて扉から出たグナタイナは、自分たちが洞窟・・の中に立っているということに気付いた。

 さほど深い洞窟ではなく、すぐ先に、まばゆい陽光が射しこんでくる入口が見える。

 出てきたばかりの牢獄を振り返れば、そこは、洞窟の一番奥を板でふさぎ、石を積み、土で塗り固めた空間だったことがわかった。

 仲間の死体を引きずりながら扉から出てきたメッセニアの男たちが、立ち止まったグナタイナを邪魔そうによけて、洞窟の外へ出ていった。

 再び閉ざされた扉のかたわらに立った若いメッセニア人の男が、グナタイナをじろりとにらんだ。

 グナタイナは首をすくめ、床に目を落とした。

 そのとき、不意に、アリストメネスがグナタイナの足元に屈みこんだ。

 グナタイナは目を見開き、反射的に後ずさろうとしたが、足首を縛られたままだったことを忘れていた。


「あ痛っ!」


 腕も後ろ手に縛られたままだったせいで、まともに尻から転び、叫ぶ。

 足首のあたりで、ぶつりという感触があり、急に両脚が自由に動かせるようになった。

 グナタイナの足首をいましめていた縄を、アリストメネスが断ち切ったのだ。

 自由になった足を、信じられないというように二、三度、上げ下げして、


「ありがとうございます……」


 グナタイナは呟いた。

 奴隷は、市民の足元に屈みこんで奉仕をする存在だ。

 こんなふうに、男が、自分の足元に身を屈める姿など、グナタイナはこれまでに一度も見たことがなかった。


「こっちだ」


 アリストメネスは短く言うと、踵をかえして大股に洞窟の入口へ向かった。

 グナタイナは慌てて立ち上がり、その背中を追いかけた。

 そして一歩、外に出たとたんに、足を止めた。

 彼女ははじめて、自分たちが連れてこられた場所全体の風景を見たのだ。

 周囲のぐるりは、山に囲まれている。

 山々のあいだの、さほど広くない土地をすべて埋め尽くすかのように、無数の天幕がひしめきあっていた。

 長い枝を組み、皮をかぶせてこしらえたもの。

 木や岩のあいだに綱を張り、枝葉の束をさしかけて屋根のようにしたもの。

 そこに、女たちがいる。

 男たちがいる。

 若者が、子どもが、老人がいる。

 山々に抱かれた土地に、自由を求めて集まった人々の群だ。


「ヘイラ」


 同じく足を止めていたアリストメネスが言った。


「俺たちの土地だ」


 その言葉に、これまでにはない感慨がにじんでいるように聞こえたのは、気のせいだっただろうか。


「ついてこい」


 アリストメネスはすぐに最前の調子に戻ると、さっさと歩きだした。

 アリストメネスが進むたび、その姿を目にとめた人々が、あるいは一歩下がり、あるいは小さく目を伏せて彼に敬意を表する。


「あの」


 小走りでその背中を追いかけながら、グナタイナは慌てて言った。


「どこへ……」


「おまえは女たちに預ける。体を洗い、飯を食え。その後で、スパルタの様子について知っていることを話してもらう」


「今から、話します」


「まずは飯を食え。遠慮するな、その程度の食糧はある」


「いいえ、あの……その、つまり」


 歩く速さをゆるめようともしないアリストメネスの背中に、グナタイナは必死に呼びかけた。


「あたしを、お側に置いていただきたいんです」


 アリストメネスが、わずかに振り返るような仕草を見せたが、何も答えず、足も止めなかった。


「あたしは、今日の今日まで、スパルタ人に仕える家付き奴隷でした。だから、きっと、ここの人たちから、スパルタの密偵だとか何だとか、疑われるに決まってます。それなら、将軍さまの側に置いていただいたほうがありがたいです!」


 アリストメネスはやはり何の反応も見せなかったが、彼女はなおも食い下がった。


「もし、あたしが本当に密偵だったら……もし、怪しい動きでもしたら、すぐに斬ってくださってかまわないです。将軍さまは、あたしの命の恩人です。あたしは、あたしたちのような立場の人間を解放しようとなさってる将軍さまに、お仕えしたいんです! 何でもしますから!」


 アリストメネスが、急に立ち止まった。


「何でも?」


 そう言いながら振り向いてきたアリストメネスの表情は、ひどく平静に見え、それがかえって恐ろしく思われた。

 今の問いかけは、どういう意味なのだろうか。

 グナタイナは内心の不安をあらわさないよう、顔に力を入れて、無理にほほえんでみせた。


「ええ、何でも。もし、将軍さまがあたしに、スパルタにもう一度潜り込めとおっしゃったなら、そうします。もし……その、何ですか、添伏ししろとおっしゃるんでしたら、それもしますよ」


 アリストメネスの表情が、微妙に変化した。

 彼は、どうやら、呆れたようだった。


「夫は……そうか。おまえの夫は、戦場で死んだのだったな」


「スパルタの連中が、うまいこと言って、あの人をだましたんですよ」


 グナタイナの表情が大きく歪んだ。


「ばかなこと、したもんですよ、あの人も……戦に勝ったら解放してやるなんて、甘い言葉につられて、一番危ないところに送られたんだ。スパルタの連中は、ちゃんと考えてたんです。あたしたちの中の、若くて力のある男を殺しておけば、それだけ反乱の芽を摘むことになるって……」


 吐き捨てるように言ったグナタイナを、アリストメネスは、しばし黙って見据えていたが、


「来い」


 急に手を振って、再び歩き始めた。

 天幕の群はいっそう混みあい、ひとつひとつの天幕がくっつきそうなほどに接しているところや、体を斜めにしなければ通り抜けられないようなところもいくつかあった。

 やがて二人は、ひときわ奥まったところにある大きな天幕の前に着いた。

 周囲には武装した若者たちが座っていたが、アリストメネスの姿を見ると、彼らはみな立ち上がって挨拶した。


「将軍、そちらは?」


「スパルタの解放奴隷だ」


 問いかけてきた護衛の若者に、アリストメネスは短く答えた。


「俺は、この女に尋ねることがある。そのあいだ、誰もこの天幕に出入りさせるな」


「分かりました。どうぞ」


 槍を持った若者は、天幕の入り口をおおう垂布を持ち上げながら、グナタイナを横目でちらりと見た。


「入れ」


 促されて踏み込んだ天幕の中は薄暗く、ひどく殺風景で、豪華なものなど何ひとつ置かれていなかった。

 スパルタで自分が暮らしていた奴隷部屋と似ている、とグナタイナは思った。

 片隅の地面の上に敷かれた皮を、アリストメネスが指さした。

 そこに座れ、ということらしかった。

 グナタイナは腰を下ろし、体をひねって足首を見た。

 かたく戒められていた足首は縄で擦りむけ、赤いひりひりする傷になっていた。

 アリストメネスは物入れの箱をグナタイナのそばまで自分で運んできて、そこに腰かけた。

 彼女の腕をいましめる縄を解こうとはしないまま、


「スパルタの様子について話せ」


 両膝に肘をついて、グナタイナの顔を見た。


「はい」


 グナタイナはまっすぐにアリストメネスの顔を見上げ、答えた。


「お尋ねになってくだされば、何でも答えます。あたしの知っていることなら」


「では訊く。おまえは、スパルタの将軍の姿を見たことがあるか」


「ありますよ」


 グナタイナの返答に、アリストメネスは小さく眉をひそめた。

 奴隷ではあってもスパルタで暮らしていた者が、その将軍の姿を目にしたことがあるのは当然だ。

 むしろ、まったくないという方が不自然だろう。

 だが、アリストメネスを不審がらせたのは、グナタイナの返答の内容ではなく、その口調の奇妙な力強さだった。


「聞いて、驚かないでくださいよ。あたし、実は、そいつの家で働いていたことがあるんです! あなたが洞窟に閉じ込めてらっしゃる、あの女に使われる前にね」


「何?」


「まあ、正しく言うと『あいつの家』というわけではなかったんですけど……似たようなもんです。とにかく、あたしは、あの女がカリュアイに行くってことを知って、これは、うまくすれば将軍さまのところに来られるなって考えたんです。

 カリュアイは、アルカディアの目と鼻の先で、メッセニアからも近い。メッセニアの皆さんが、そのあたりまで入りこんできてるってうわさは、前々から聞いてましたからね。あたしは、うまいこと言って、あの女の家に移り、カリュアイまでついてきた。で、それからあとは、ごらんの通りです」


 頷いてみせたグナタイナの顔を、アリストメネスは例によって感情をうかがわせない目つきで眺めていたが、やがて、彼女が語った内容には一切触れず、


「奴の名は?」


 ただ、そう尋ねた。


「カルキノス」


 グナタイナは、もちろん即答した。


カルキノスだなんて、おかしな名前ですけど、みんなそう呼んでます。歩き方がそんなふうだから、あだ名かもしれません。脚が悪くて……アテナイから来たんです。ひょろひょろの、頼りない男ですよ。武器もまともに持てやしない。歌うたいなんです。……詩人ですよ」


「では、あの歌・・・を作ったのは、その男か」


「あの歌?」


「スパルタ人たちが歌っている、ふざけた歌だ。『死は美しい』とかいう、な」


「ああ、そうですよ。スパルタの男はみんな歌ってます。戦いの前の景気付けにね。あの歌を歌って、連中は、大掘割でメッセニアを打ち破って……」


 そこまで言って、グナタイナは不意に言葉を切った。

 メッセニアの将軍の前で、メッセニアの敗北の話をするのはまずいのではないかと気づいたからでもあったが、それ以上に、あるひとつのことを思いついたからでもあった。


「あいつさえ、殺せば……スパルタは、負けるのかもしれない」


 グナタイナは、なぜそのことに今まで気づかなかったのか、という顔で、アリストメネスを見た。


「デルフォイの神託は、間違えることがないといいますからね。あいつは、神託があって、アテナイからスパルタに呼ばれてきたんです。

 輝けるフォイボス・アポロン神アポローンがどのように思し召しなのか、あたしなんかには、皆目わかりませんけど……アポロン様は、スパルタ人たちに、こう仰ったそうです。『汝らの将軍をアテナイ市より求めよ』って。それで、あいつが――」


 そこまで一気に喋って、


「あいつさえ、いなければよかったんだ」


 どこか哀しげにうつむいて、そう呟いたグナタイナを、アリストメネスはずっと黙ったまま見据えていたが、


「もうひとつ、訊く」


 まったく変化のない調子で続けた。


「スパルタに、俺の名を刻んだ盾が掲げられたことがあっただろう」


「盾?」


「知らんか。アテナ神殿の壁にだ」


「……ああ、はい! あたしは、見てはいませんけど、男たちが噂をしているのを聞きました」


 グナタイナは笑顔になって、アリストメネスを見上げた。


「本当にすごいですよ。あれは、将軍さまがなさったんでしょう? いったいどうやって、夜のあいだにスパルタに入りこんで、あんな大胆なことをして、また出ていくなんてことができたんですか? それも、誰にも見つかることなしに! あたしたちは、あれで、だいぶ元気づけられましたよ。将軍さまは、神にも似た力をお持ちなんですね!」


「やめろ」


 急に、アリストメネスがこれまでにない強い口調で言い、立ち上がった。

 グナタイナはぎょっとして口をつぐんだ。

 自分は、何か、まずいことを言っただろうか? 彼の偉業を讃えたつもりだったのに――

 グナタイナの怯えを感じ取ったのか、アリストメネスは一瞬の激昂の気配をすぐに消し去り、


「そこに座って待て」


 片手で押しとどめるような仕草をして、踵を返し、天幕から出ていこうとした。


「すぐに戻る」


「……将軍さま!」


 グナタイナは、その背中に叫んだ。


「あいつを、殺してくださいますね? それで、スパルタを倒してくださいますね?」


 アリストメネスは、答えなかった。

 一瞬、足を止めただけで、振り返ることなく、天幕を出ていった。



     *     *     *

  *     *     *

 


 青銅の宮居アテナ・にいますアテナ女神カルキオイコスの神殿前広場は、大騒ぎになっていた。


「おちつ……落ち着いて! ちょっと! 落ち着いてくださいってば!」


 顔面を、ごついて手のひらでぐいぐいと押し返されながら、カルキノスは必死に叫ぶ。

 だが、


「ヘイラに、総攻撃をかける!」


「おおう!」


 攫われた女たちの父親や親族たちは、もはや興奮しきって、制止など耳に入る状態ではなかった。


「急がねば、娘たちが、どんな目に遭わされておることか!」


「そうだ! 我らの手で、女たちを取り戻す!」


「奴隷ふぜいが、スパルタの女に手を出せばどういうことになるか、思い知らせてやるわ!」


「だから、無理ですってば! 彼女たちが、ヘイラの山々のどこに捕らえられているのかも分からないのに……!」


 必死に喚くカルキノスの声は、えい、おう、えい、おう、と拳を突きあげはじめた男たちの声にかき消された。

 誰が持ち出してきたのか、アウロイの音までが響きはじめる。

 今にも進軍が始まりそうな雰囲気だ。


「ぬあああああぁぁぁッ! もう、いい加減にしろおおおおおおッ!」


 カルキノスは急に頭をかきむしり、あらんかぎりの大声でわめき散らし始めた。

 両手を振り回しながら、だだだだだとすごい勢いで地面を踏みつけまくる。

 この、突然のカルキノス将軍の狂乱には、さすがのスパルタの男たちも仰天した。

 突き上げた拳もそのままに、ぴたりと言葉を切る。

 アウロイの吹奏もやんだ。

 場が静まりかえると、カルキノスは、急にぴたりと地面を踏みつけるのをやめ、


「……はいっ。ねっ。とにかく」


 両手で何かを力いっぱい押さえつけるような仕草をしながら、笑顔で、一同を見回した。


「皆さん、一度、落ち着きましょう。今、なすべきことは――」


「総攻撃じゃ! 奴らを皆殺しに」


「ワァアアアアアアアアア!!」


 再びカルキノスが地面を踏みつけて暴れだしたので、男たちは慌てて口を閉じた。


「……はいっ。いいですか? ……いいですね? はいっ。 何度も言いますが、とにかく、一度、落ち着きましょう! 興奮して、わあわあ叫んだところで、何も解決しない!」


「しかし、急がねば……」


「早くせんと、こうしている間にも、奴らが、娘たちにどんな真似をするか」


 男たちは口々に訴えるが、カルキノスを刺激しないよう気遣ってか、先ほどのような勢いはない。


「そうじゃ、斥候たちは!?」


 ふと気づいたように、男たちの一人が言い、


「そうだ!」


 周囲からも次々と声が上がった。


「ヘイラを見張っている斥候たちがいたはずだ!」


「そうだ、娘たちが山に連れ込まれるのを、彼らは見ていたかもしれぬ!」


「何か、彼らからの報告はないのか!?」


「もしも、斥候たちが、何かを見ていたのなら、すでに、ここに報告が届いていてもいいはずだ。……君、何か聞いているかい?」


 カルキノスは言い、斥候たちの束ねである男のほうを見た。

 彼は表情を歪め、黙ってかぶりを振った。

 カルキノスは思わず唇を嚙んだが、すぐに平静な表情を作った。


「いや、しかたがない。斥候たちを責めてはいけない。神々ならぬ人間は、あらゆることを見聞きするというわけにはいかないんだ。何も報告がないということは、誰も、何も見ていないのだと思う。メッセニア人たちは、よほど少人数で、すばやく動いたんだろう……」


「くそっ、敵が、どこにおるかさえ分からぬとは」


「居所さえ分かれば、踏み潰してやれるというのに!」


 やり場のない憤激と、つのる焦燥を顔ににじませ、男たちは口々にうめく。


「時間がない」


 不意に、決然として声をあげたのは、カルキノスも顔を見知っている男だった。

 キュニスカの父親だ。


「カルキノス将軍。どうであろう。いっそのこと……ヘイラ山に、火を放つというのは?」


 広場じゅうがどよめいた。

 カルキノスも目を見開き、


「は!?」


 年長の相手に対してよくないと思いながらも、そう声が出るのを抑えることができなかった。


「急に、何を言い出すんです!? 山を焼くなんて! そんな真似をしたら、野山をしろしめすアルテミス女神は、絶対にスパルタをお許しにならない!」


「全部を、焼くわけではない」


 なだめるような調子で、キュニスカの父親は続けた。


「森の一角に火を放ち、メッセニア人どもを、いぶり出すのだ。念入りに供犠を捧げてアルテミス女神のお許しを乞うた後、ゼウス神に祈り、風を起こしていただく。激しく煙を立て、山火事だと思わせる。煙が迫れば、奴らは慌ててねぐらを逃げ出すであろう。そこを見つけ出し、殺すのだ。

 カルキノス将軍。これも、将軍が常々おっしゃってきた、策というものではないかな?」


「……確かに」


 カルキノスは呟くようにいった。


「でも、父上・・。そんなことをすれば、足手まといになる捕虜は、殺されてしまうかもしれない」


 キュニスカの父親の表情が歪んだ。

 そのときだ。


「報告します!」


 脚を土まみれにした斥候が、息を切らして駆け込んできた。


「カリュアイに至る道端の木の枝に、これが掲げられていました!」


 彼が広げたものは、美しい布だった。

 どうやら、女の衣のようだ。


「何か、書かれてる!」


 衣の表面には、炭をなすりつけた黒々とした文字が並んでいた。

 父親が駆け寄り、娘の衣を引っつかみ、顔を近づける。


「これは……」


「何と、書いてあります!?」


「読めん」


 父親は渋い顔で、カルキノスに衣を渡した。

 文字や文章は、誰にでも読めるというものではないのだ。

 衣を広げ、食い入るように読み始めたカルキノスに全員の視線が集まる。


「カルキノス将軍、そこには何と!?」


「『処女ひとりにつき』――あ、よかった、ばれてないんだ! えー……『処女ひとりにつき、牛一頭。酒をひと壺。麦を二袋。し』……ん? しん……『新月の真夜中、リムナイの、アルテミス神殿の東側にて』!」


 読み終えて、カルキノスは勢いよく顔をあげ、一同の顔を見渡した。


身代みのしろの要求ですよ! つまり、これを支払えば、彼女たちは解放されるんだ!」


 そう叫んだカルキノスの声には、とにかく何らかの突破口は見出されたという明るささえ漂っていたが、そんな彼の声とは対照的に、その場に集まった男たちはみな、渋面で黙りこんでしまった。


「何です、皆さん? どうしたんですか」


「リムナイとは……ふざけたことを」


「え?」


「数代前に、メッセニア人どもが、我らの王を殺したのだ! まさに、その、リムナイのアルテミス女神の神域でな」


「あっ……そんなことが?」


「スパルタがメッセニアを征服する以前のことだ。その場所を、わざわざ指してくるとは、挑発のつもりか? 生意気な……」


「メッセニア人どもの口車に乗るべきではない。我らがやすやすと応じ、娘たちの身代を支払えば、奴らは味をしめるだろう」


「そうだ! これから、ますます多くの娘たちがさらわれることになるやもしれぬ」


「そもそも、こちらが身代を支払ったからといって、奴らが素直に娘たちを返すかどうかは怪しいものだ……」


「え?」


 男たちの言葉に耳を傾けていたカルキノスは、予想外の方向へ転がってゆく話に、思わず片手をあげて口を挟んだ。


「ちょっと……えっ? ちょっと、待ってくださいよ。あなたがたは、まさか、娘さんたちの身代を払わない・・・・気なんですか?

 まあ、確かに、身代を払ったからといって、娘さんたちが無事に戻ってくる保証があるか? と言われたら、それは、分かりませんが……そもそも、最初から払おうともしなければ、その可能性すらないじゃないですか!? 娘さんたちを助けたいって、さっきまで、あれほど言っていたのに!」


「他のポリスと戦争をし、捕虜の身代をやりとりすることは、世の習いじゃ」


 苦虫をかみつぶしたような顔で、キュニスカの父親が言った。


「だが……これは、それとは違う。奴隷との取引など、できぬ!」


「そうじゃ! 戦って取り戻すというのならばまだしも……」


「奴隷に脅されて、おめおめと身代を差し出すなど、悪しき先例をつくることになる!」


「我らは……この取り引きに応じるつもりは、ない」


「そんな」


 では、先ほどまでの興奮は何だったのだ。

 カルキノスは、信じられないという顔で言った。


「あなたがたは……自分の娘さんたちを、見捨てると?」


「戦って、取り戻すのだ」


 キュニスカの父親は、断乎たる口調で言った。


「さもなくば……致し方がない。娘たちは、自ら望んで、苦境に身を置いたのだからな」


「スパルタの名誉のためならば、娘たちならば、きっと分かってくれるだろう」


「わしは娘を信じておる。きっと、スパルタの女としての誇りを守り、潔く身を処するに違いない!」


「そんな」


 カルキノスは唖然として、ただ男たちの顔を見回すことしかできなかった。


(彼らは、自分たちの娘を助けたいんじゃない・・んだ)


 急激に、心臓が冷えていくような感覚に襲われる。


(彼らが、あれほどまでに興奮していたのは、娘たちを心配していたからじゃない・・。主人である自分たちが、奴隷ごときにしてやられたという怒りのためだ。彼らは、スパルタ人としての面子めんつを守るために、自分たちの娘を見捨てようとしてる……!)




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