なにもこわくない
* * * * * *
* * * * *
もう、ずいぶんと経ったような気がする。
太陽の動きが見えない暗い部屋の中にいると、時の感覚はすぐに失せてしまった。
「どう?」
「ほっほ、あっへ」
キュニスカの上体を縛る縄に噛みついていた女が、顔を離し、顎をほぐすように大きく動かしてから答えた。
「まだ、だめ。少しもゆるまないわ」
彼女たちは先ほどからずっと、交替で縄に噛みつき、いましめを解こうと奮闘していた。
いったん解いたあとで、すぐに抜けられるよう工夫して結び直し、敵を油断させようという考えだ。
だが、ほそい革紐を幾本か合わせて綯った縄はかなりの難物で、かじり切ろうとしても容易には千切れなかった。
結び目に噛みついてゆるめようともしてみたが、厳重に締められた結び目は石のようにかたく、文字どおり歯が立たない。
スパルタの娘たちが、少女の頃から運動競技をして体を鍛えることはよく知られている。
その娘たちを捕らえるにあたって、メッセニアの男たちは、少なくとも油断はしなかったらしい。
「こんなことじゃ、雌獅子の名に恥じるわ」
おどけたように言う女に、キュニスカは微笑みかけた。
「気にしないで、レアイナ。さあ、次は私が――」
言いかけて、キュニスカは不意に口をつぐんだ。
ものの気配を感じ取った獣のように、女たちが次々と顔を起こし、背を伸ばした。
部屋の外からは、さきほどからずっとメッセニアの男たちが飲み食いをする物音が聞こえていたが、その調子に、急に変化が起こったのだ。
大声で言い争うようなやりとり。
とりなすような、低い調子の声が、いくつかそれに続いた。
「仲間割れかしら?」
「しいっ」
がちゃがちゃと錠の外される音がして、扉が開いた。
急に射しこんできたきた光のまぶしさに、女たちは目を細め、顔を背けた。
「おい、見ろよ!」
入ってきた男たちが、胴間声をはりあげる。
「目隠しを外してやがる。そろいもそろって! まったく、とんでもねえ娘どもだ」
女たちは眉をひそめた。
男たちは、酔っている。
彼女たちは酩酊した人間を目にしたことなどほとんどなかった。
それだけに、男たちの様子はいっそう醜悪なものに映った。
「何だよ、おい、だいぶん、とうのたったのもまざってるじゃねえか」
「おい、お前ら! もう少し、ましなのを選んでこいよなあ!」
(ばれては……いない、ようね)
一瞬、背筋が冷えた。
自分たちが処女ではないことがばれれば、企みを見抜かれてしまうかもしれない。
乱入してきた男たちは、どうやら、グナタイナがのぞき見をしながら報告した「後から来た四人」であるらしかった。
「さあ、もういいでしょう」
「部屋から出てください!」
扉の外から、彼らを引き留めようとしきりに声をかけているほうが、彼女たちをさらった男たちだ。
その態度からして、どうやら「後から来た四人」のほうが、立場が上であるらしい。
酔って気が大きくなっているということもあるのだろう。
四人の乱入者は、制止の言葉など、まったく意に介していなかった。
「いいから、いいから。細かいことを言うな」
「いけません! 禁止されています」
「禁止だあ? どこのどいつだ、俺たちに向かって、禁止だ、なんて生意気をぬかしやがる野郎は?」
「アリストメネス将軍です!」
女たちは、はっとした。
四人組も少なからず動揺した様子を見せたが、
「ほう、アリストメネス将軍様がねえ」
それを打ち消そうとしてか、かえって無頼な態度をとった。
「お前さんたちが告げ口さえしなけりゃ、将軍様にも分からんこった。なあ?」
「そうそう。ちょっと味を見るだけだ」
「固いこと言うなって」
(そういうことね)
キュニスカは、冷めた目つきで男たちを見ていた。
この策を考え、実行すると決めた時点で、覚悟はできている。
今さら、本物の乙女のように動揺しはしない。
適当に嫌がる演技でもしておけばいい。
自分たちがアリストメネスを殺しさえすれば、スパルタの男たちが、必ずこいつらを皆殺しにしてくれる――
「……おい」
そのとき、急に振り向いてきた男の一人と、キュニスカの視線が、まともにぶつかった。
「何を、じろじろ見てる?」
キュニスカは落ち着いて、そっと目を伏せた。
業腹だが、刺激しないにこしたことはない。
「おい、お前。お前だよ」
だが、その男は思ったよりもしつこかった。
ずかずかと、目の前まで近づいてきた。
「気に入らんな。おい、立て。……立てってんだよ!」
ぐいと、あざができそうな強さで二の腕を掴みあげられる。
キュニスカはしかたなく、縛られた足で立ち上がり、酔った男を見た。
醜悪だ。
嫌悪感を隠しきれず、いくらか、ふてぶてしい態度になったかもしれない。
「気に入らん目だ。おい、何か、俺に文句でもあるのか?」
「いいえ」
「嘘だな! 文句がありそうな面をしてる。ええ? そうだろう!」
そのときだ。
「ねえ、ねえ!」
急に、場違いな嬌声をあげた女がいる。
グナタイナだ。
「ちょっと、ねえ、お兄さあん」
彼女は床の上で猫のように体をくねらせて男のほうを向くと、媚びるような笑みを浮かべて言った。
その態度に女たちは思わず目を剥いたが、誰も、何も言わなかった。
おそらくこれは、男の注意をキュニスカから逸らすための芝居だ。
「そんなに、かっかしないでよ。あたしが、相手になってあげようか?」
「黙れ」
男は、グナタイナの芝居には乗らなかった。
「気に入らん目だ」
グナタイナのほうは一顧だにせず、毛むくじゃらの手を伸ばしてキュニスカの顎を掴み、酒臭い息を吐きかけた。
その目が、徐々に血走ってくる。
「俺たちを、馬鹿にしてやがる目だ」
男の手がキュニスカの肌着の胸元をつかみ、力任せに引き下ろした。
肩の布地をあわせていた留め金が弾け飛び、真っ白な乳房があらわになった。
キュニスカは目を見開いた。
怯えや羞恥ではない。
怒りだ。
ぱぁんと、激しい音が鳴った。
男が、いきなりキュニスカに張り手を食らわせたのだ。
キュニスカの顔は、衝撃でほとんど横向きになった。
両脚を縛られているのに、倒れこまず踏みこたえたのは、矜持のなせるわざだ。
スパルタの女たちがいっせいに怒りの叫びをあげた。
「キュニスカ!」
跳ね起きようとした女――レアイナを、となりの女が全力の体当たりで止めた。
レアイナが、キュニスカを殴った男に向かっていこうとしたのが分かったからだ。
相手は武器を持っている。
こちらは、体の自由がきかないままだ。
このまま本当の戦いになってしまえば、こちらは、虫のように殺されるだけだ――
キュニスカは、ゆっくりと首を戻して、真っ赤に腫れた頬の上から、氷のような目で男を見据えた。
「おっ、何だ、おい」
一瞬、勝ち誇ったような薄笑いを浮かべた男の顔が引きつり、それから、狂気のような怒りに歪んだ。
「何だ、その目は、あぁ!?」
男は怒鳴り、もう一度、張り手を飛ばした。
だが、その手はキュニスカに当たらなかった。
彼女は両足を縛られたまま、拳闘の達人のように上体だけを沈めて、男の張り手をかわしたのだ。
「……こン、のっ」
もう一度。
力任せに振り抜かれた手を、キュニスカはかわした。
したたかに酔っている男は、空振りした自分の動きに耐えることができずに、大きく二、三歩よろめいた。
縛った女を相手のその動きは、滑稽とも何とも言いようがなく、メッセニアの男たちはげらげら笑い、スパルタの女たちは思わずふき出した。
キュニスカは、笑っていなかった。
「私が、最初の一撃を受けたのはね」
獣のような目をして振り向いてきた男に、女王のような威厳をもって言い放った。
「縛り上げた女に手を上げるようなカスみたいな男が、この世に存在するなんて、想像したこともなかったからよ。私としたことが、とっさに動けないくらい呆然としてしまったわ。開いた口がふさがらないとは、まさにこのことね」
その声にこめられた覚悟を聴きとり、女たちが、いっせいに真顔になった。
『わざと捕らえられて、メッセニアの男たちに取り入り、アリストメネスのところまで行きつく』
そういう手筈だった。
どんな扱いをされても、怯え、相手の慈悲にすがるような態度を見せて命をつなぎ、何としてでもアリストメネスのところまでたどり着くはずだった。
(無理だったわ)
キュニスカは、自分でも意外なほどに、さばけた思いでいた。
誇りを傷つけられて、黙って耐えることなど、決してできない。
それは、スパルタの女の生き方ではない。
スパルタの女らしい生き方を傷つけられたら、戦って、スパルタの女らしく死ぬのだ。
「あら、何を、そんなにじろじろ見ているの? まさか、女の裸が珍しいとでも言うんじゃないでしょうね、いい年をして?」
相手の血走った目をまっすぐに見返して、キュニスカはせせら笑った。
その瞬間に男が発した声は、人間の言葉ではなく、野獣の唸り声のように聞こえた。
男はキュニスカのみぞおちに蹴りを入れた。
キュニスカは寸前で身をひねり、二の腕で蹴りを受け、そのまま後ろ向きに吹き飛んだ。
藁束の上に倒れた彼女を追って男が駆け寄り、馬乗りになってむちゃくちゃに殴りつけた。
「死ね、くそ女がァ!」
何度も振り上げられる拳からキュニスカの血が飛んだ。
それでも彼女は声を上げなかった。
懇願も悲鳴も、苦痛の唸り声すらも――
狂ったようにキュニスカを殴りつけていた男が、不意に動きを止めた。
自分の真横で、ふと、何かが動いたような気がしたからだ。
男はそちらを見上げた。
スパルタの女の一人が、悪鬼の形相で彼を見下ろしていた。
上半身と足首を縛られたままで立ち上がったレアイナは、
「死ねェェェェイ!」
出し抜けに怪鳥のごとき叫びを発して跳躍し、両脚をそろえた渾身の蹴りを男の側頭部に叩き込んだ。
男はキュニスカの上から吹っ飛び、袋のように潰れてそのまま動かなくなった。
首が、異様な方向に曲がっている。
全体重をのせたレアイナの蹴りが、男の脊椎を砕いたのだ。
レアイナ自身もそのまま床に叩きつけられたが、藁束がその体を受け止めた。
一瞬の、冥府の底のような静けさ。
メッセニアの男たちが、怒りの叫びを上げた。
スパルタの女たちが、歓喜の絶叫を発した。
男たちはいっせいに剣を抜き放ち、女たちに躍りかかり――
「よせ」
その声は、低く、興奮しきった者の耳には届くはずもないほどに淡々としていた。
だが、全員が、その声を聞いた。
まるで魔術にかかったかのように、その場のあらゆる動きが止まる。
部屋の入口をふさぐように立ち、こちらを見ていたのは、武装した一人の男だ。
その背後では、キュニスカたちをさらってきた男たちが、明らかに見て分かるほどに動揺していた。
入口に立った男の顔立ちは、逆光で判然としなかったが、さほどの歳ではないようだった。
だが、同時に、おそろしく歳とっているようにも思えた。
「俺は、この部屋に、誰も入れるなと言ったが」
男が呟くように言うと、
「こいつら、バシアスをやりやがった!」
「あの女だ! ぶっ殺せ!」
仰向けに倒れ伏したままのキュニスカを指差し、室内の男たちが喚き立てはじめた。
新しくあらわれた男の目は、喚いている男たちの顔と、敵意に燃えるスパルタの女たちの顔をゆっくりと見渡し、最後に、胸をはだけて血塗れで倒れているキュニスカの上に止まった。
「バシアスが、先に娘に手を出したのだろう」
「何言ってんだ、アリストメネス!」
その名が響いた瞬間、スパルタの女たちは雷に打たれたようになった。
「あんた、仲間か、スパルタ人か、どっちにつく気なんだ!?」
「こいつらはスパルタの女だ! 今すぐに、全員犯して、生きたまま獣に喰わせてやったっていいくらいだ!」
「そうだ! スパルタ人が俺たちにしてきたことを、こいつらにしてやるんだ!」
アリストメネスは、喚き散らす男たちを見た。
「おまえたちは、酔っているのだ。少し頭を冷やせ」
そう告げた表情に、感情の動きはほとんど見られなかった。
「よく考えろ。アルテミス女神に仕える者たちに乱暴を働けば、我らがメッセニアに、どんな災いが降りかかることになるか――」
「黙れ!」
メッセニアの男たちは激しく腕を振り立て、アリストメネスに詰め寄った。
「あんた、スパルタ人どもの肩を持つのか!?」
「そこの女どもの目を見ろ! まだ、俺たちを馬鹿にしてやがる!」
「許せねえ、俺たちを見下しやがって! バシアスと同じ死に方をさせてやる!」
「やめろ」
「どけぇっ!」
腕をあげて制止しようとしたアリストメネスに、一人の男が、手にした剣を突き出す――
目にも止まらぬ速さで、白刃が走った。
ぱぁんと、男の首が冗談のように宙に飛んだ。
立ったままの胴体から、しゅうしゅうと血が噴き出して、雨のように降り注いた。
飛んだ首が床に落ちて転がり、驚いたように目を見開いて止まったとき、首を失った胴体が、ようやく倒れ込んだ。
「俺は、やめろ、と言った」
ほとんど血に濡れてすらいない剣を握ったまま、アリストメネスは呟いた。
彼が剣を抜き放つ瞬間を、誰ひとりとして、はっきりと見てはいなかった。
「言ったな?」
声もなく硬直したメッセニアの男たちは、かすかに震えながら、何度も頷いた。
「そうだ。俺は、やめろと言った。彼は従わなかった。……それは、諸君も同じだった」
室内の空気が不意に液体に変わったかのように、場の圧力が上がった。
アリストメネスは、彼らをも斬るつもりだろうか?
だが、男たちは、金縛りにかかったかのように動けなかった。
アリストメネスの暗い目に見つめられると、まるで死そのものに魅入られてしまったかのように、逆らうことができなかった。
「彼が、向かってこなければ、斬るつもりはなかった」
アリストメネスが手にした剣を小さく振ると、男たちは、まるで操られるようにして、手にしたままだった抜き身を鞘におさめた。
アリストメネス自身も剣をおさめ、ひとりごとのように呟いた。
「神々がお怒りになり、俺たちの味方をして下さらなくなったら、どうなると思う? メッセニアに自由をもたらすという、俺たちの夢はどうなる? 女一人ごときのために、アルテミス女神に背くような真似を、俺は、許すことはできん」
(ゼノンに、似ている)
仰向けに倒れ、顔と腕を襲う激痛に耐えながら必死に目を見開いて敵の姿を見ようとしていたキュニスカは、ふと浮かんだそんな思いに愕然とした。
とても、静かで、まるで、どこか遠いところを見ているかのような――
アリストメネスの眼差しは、確かに、ゼノンのそれによく似ていた。
だから、かもしれない。
不意に彼が歩み寄り、自分がまとっていた外衣を脱いでキュニスカの体にかぶせたとき、キュニスカは、体のどこも動かすことができなかった。
縛られて、自由がきかなかったから。
痛みが激しくて、身動きができなかったから。
そう思おうとしたが、そうではなかった。
そんな自分が、許せなかった。
「イァーイア!」
叫んだ瞬間、それまで意識していなかった上唇に凄まじい痛みが走り、口の中にどっと血の味が広がった。
だが、痛みよりも、自分自身の声のほうが衝撃的だった。
自分の声なのに、何を言っているのか、まったく聞きとれなかった。
『要らないわ』
そう言ったつもりだったのだ。
キュニスカの前歯は折れ、唇は歯に当たって大きく裂けていた。
顔のあちこちが急速に腫れ上がり、醜いあざができはじめていた。
口いっぱいにあふれた血が喉につまり、キュニスカは激しく咳き込んで、血と、折れた歯を吐き出した。
「勘違いするな」
キュニスカの言ったことが、アリストメネスには、分かったようだった。
「おまえのためではない。アルテミス女神のお怒りを避けるためだ」
そう言い放つと、彼はキュニスカから視線を外し、恐ろしげに身を縮めている部下たちを見た。
「もう一度言う。誰も、この部屋に立ち入るな。女たちは厳重に閉じ込めておけ。スパルタの男どもから、こいつらの身代金をせしめるまではな」
「飲み食いする物と、しょんべんはどうします?」
引きつったような半笑いの顔で、男の一人が言った。
場の雰囲気をほぐす軽口のつもりなのか、それとも真面目に確認しているのか、表情からは見分けがつかなった。
「一日に壺一杯ぶんの水を、杯に入れて差し入れろ。あとは放っておけ。しばらく食わなくても、垂れ流しでも、死にはせん」
スパルタの女たちは、もう少しで不満の唸りをあげそうになったが、辛うじてこらえた。
この状態で、相手に不満を訴えるということは、自分たちが、奴隷に対して慈悲を乞うということなのだ。
そんなことをするくらいならば、糞尿にまみれ、痩せさらばえて死ぬほうがまし。
いや、そんなことになる前に……全ての気力と体力を失う前に、石の壁に頭から飛び込んで、脳みそをぶちまけて死んでやる。
誰も口こそ開かなかったが、女たちのぎらつく目から、そのような気配を感じたのだろう。
アリストメネスは小さく肩をすくめると、
「運び出せ」
二体の死体を示してそっけなく命じ、女たちに背を向けた。
(今だっ!)
誰も、何も言わなかったが、女たち全員の心がその瞬間、ひとつになった。
アリストメネスは、完全にこちらに背を向けている。
メッセニアの男たちの注意は、死んだ男に向いている。
室内に三人。部屋の外に数人。
全員が武器を持っている。
飛びかかって、打ち倒すことができるか。
どうやって?
体当たりを食らわせ、足元を掬うか?
全体重をかけて不意をつけば、男たちを地面に倒すことくらいはできるかもしれない。
だが、どうやって殺す?
先ほどのように頭を蹴りつけるか?
だが、自分自身も倒れた状態で、そんな渾身の蹴りが繰り出せるだろうか――
全員の殺意に、一瞬のためらいによる遅滞が生じた、そのときだ。
ただ一人、飛び出した女がいた。
グナタイナだ。
「将軍さまあ!」
彼女は叫んで、釣り上げられた魚のように跳びはね、アリストメネスの足元に身を投げ出した。
「お聞きください、あたしは、スパルタ人じゃありません! 奴隷として買われてきたものです。そこの女に使われているんです! 助けて!」
瞬時に剣の柄に手をかけていたメッセニアの男たちだが、グナタイナのなりふり構わぬ絶叫に、呆気にとられて動きを止める。
「将軍さま!」
グナタイナは、振り向いたアリストメネスに向かって叫んだ。
「あなたは、メッセニア人の自由のために、戦っていらっしゃるんでしょう!? このあたしにも、どうか、自由を! 助けてください、お願いです!」
「おのれェ!」
あまりのことに呆然としていたスパルタの女たちが、口々に喚き始めた。
キュニスカは、何も言わなかった。
血まみれの上唇は、湿って膨れ上がった海綿みたいで、ほとんど感覚がなかった。
そうでなくても、あまりの衝撃に、何を言うべきかも思いつかなかった。
「この奴隷女! 私たちを裏切ったね!?」
「卑怯者!」
投げつけられる声から逃れるように、グナタイナはすばやくアリストメネスの足元に転がりこむと、スパルタの女たちのほうを振り向いた。
その瞬間の彼女の顔つきに宿った鬼気は、さしものスパルタの女たちが一瞬言葉を失うほどのものだった。
「はは! 何が、卑怯だい、何が裏切りだい!? あたしは、もとから、あんたたちの味方なんかじゃないんだよ! 生きるためにしかたなく、言うことを聞いてやってたのさ! 何だい、生まれが違うってだけで、いばりくさって指図をしやがって!」
目を見開き、歯を剥き出して吐き捨てる。
スパルタの地では、奴隷たちが決して見せることのない表情。
「そこの死んだにいさんが、あの女に腹を立てたのも当たり前だよ! あんたたちなんか、この穴倉で、頭から足の先まで虱にたかられて死んじまえ!」
「この、裏切り者!」
「殺してやる! 殺してやる!」
「来い」
縛られた足を振り立てて喚き散らすスパルタの女たちからグナタイナを遠ざけるように、アリストメネスの手がグナタイナの腕をつかみ、ぐいと引き起こした。
「あ、あ、ありがとうございます……!」
グナタイナの顔が歪んだ。
アリストメネスに腕を掴まれ、縛られた足でぴょんぴょんと跳んで部屋から出て行きながら、彼女はなおも首だけを振り向けて女たちに言葉を投げつけた。
「やい、スパルタの女ども! これで、やっと清々したよ! あの人を戦場に送って殺した、あんたらの顔なんざ、見るだけでも反吐が出ると思ってたんだよっ!」
そして、アリストメネスとグナタイナの姿は、戸口から消えた。
いれかわりに、はじめに彼女らをさらった男たちが入ってくる。
彼らは、首がないのと、ありえない角度で首が折れ曲がったのと、ふたつの死体を気味悪そうに引きずって運び出していった。
スパルタの女たちの動きに警戒しながら近づき、すばやく髪をつかんで、転がっていた首も持っていく。
最後まで部屋の中に残っていた二人の男たちが、こちらに決して背を向けないまま、後ずさって扉を閉めた。
部屋の中は、再び暗くなった。
「おお、キュニスカ! かわいそうに」
「大丈夫? ひどいことになって」
「あんな辱めを受けて、よく耐えたわね。立派だったわ」
「まあ、まあ、こんなに腫れて……」
(大丈夫よ)
キュニスカはそう言おうとしたが、その声は不明瞭な呻きにしかならず、口の中に再び血の味があふれた。
顔全体が燃えているように熱く、鼓動に合わせて疼いている。
裂けた唇から唸り声がもれた。
女たちは縛られた体をよじり、キュニスカにできるだけ近づいて体をすり寄せた。
熱に苦しむ我が子を少しでも楽にしてやろうとする母のように、キュニスカを抱きしめ、撫でてやるかわりにそうしているのだ。
「こんなにされて、大丈夫だなんて、あんたって子は……」
「でも、そうね。メッセニアの男の力なんて、大したことないものね」
「まったくだわ! スパルタの男に殴られていたら、あんたの首、今ごろ、ぼっきり折れていたわよ」
女たちはキュニスカを励まそうと、明るい調子で口々に言った。
「それにしても、首といえば、レアイナ! あなた、本当にすばらしかったわ」
「本当ね!」
「なに、あんなの、大したことじゃないわよ」
蹴りで男の首をへし折ったレアイナが、わざとおどけたように言った。
「いいえ、レアイナ。あなたがしたことは、戦争に勝った男たちみたいに、石に刻まれて記念碑になったっていいくらいよ!」
「まったくだわ。体を縛られたままで男を殺すなんて、並大抵の女に――いいえ、男にだって、できることじゃないわ」
「見た? あの男の首! おんぼろの案山子みたいに、ひん曲がって!」
「キュニスカにこんな真似をした報いよ! 当然だわ!」
「ああ、でも、何てことでしょう。キュニスカ、あなたともあろう人が、あんな裏切り者を身近に置いていたなんて……」
「裏切り者の小娘め、呪われろ!」
「あんな女、骨が見えるまで鞭で打ってから、石を投げて殺してやらなきゃ……」
女たちの声が、徐々にしぼみ、静かになった。
怒りに任せて口にしたその言葉が、もしかすると自分たち自身に降りかかる運命であるかもしれぬことに、ふと気付いたように。
「みんな、落ち着きましょう」
キュニスカの体にぴったりと寄り添いながら、レアイナが言った。
「私たちは、まだ生きている。まだ、奴を殺す機会はあるわ」
「ええ」
「そうね」
女たちの声に、再び力がこもる。
キュニスカは何も答えなかったが、血にまみれて歪んだ顔の中で、両の目は燃えていた。
「次の機会は、アリストメネスが再び姿をあらわしたとき」
「来るかしら?」
「きっと、来るわ。信じて、機会を待つの」
「みんな、衰弱したふりをするのよ。弱り切った情けない演技をしましょう。でも、本当に力を失ってはだめ」
「そう。心を強く持つの。恐れることはないわ」
レアイナが言った。
「私たちみんな、死を覚悟してここに来たんだもの」
「いざとなれば、最後の勇気を発揮すればいいだけのことよ」
「死を恐れない者には、何も怖くない」
「そうね」
レアイナは仲間たちに向かって力強く頷くと、キュニスカに優しく身を寄せて、耳元で囁いた。
「あなたは本当に立派よ、キュニスカ。……でも、もう痛みに耐えられないと思ったら、そのときは言ってね。大丈夫。私たちも、すぐに、後から行くから」
キュニスカは小さく頷いた。
女たちはそれきり黙りこみ、再び暗がりにうずくまった。
傷ついた獣のようなキュニスカの低い唸り声だけが、闇の中に低く、絶え間なく響いていた――




