女たち
* * *
* * *
「いや! はなしてちょうだい!」
「この縄を解いて!」
女たちの金切り声が響きわたる。
目隠しをして縛り上げた女たちを麦袋のように肩に担いだメッセニアの男たちは、そんな声には耳も貸さず、乱暴に扉を開けて次々と部屋の中へ踏みこんでいった。
窓もなく、何も置かれていない部屋の片隅に、申し訳程度に麦藁が敷かれている。
担ぎあげていたスパルタの女たちを、ほとんど投げ出すようにしてその上へ放り出し、掠奪者たちは部屋から出ていった。
「ここはどこなの! 私たちをどうする気!?」
「こんなことをして、父や兄たちが、おまえたちを許すとでも……」
「痛い! 足を挫いたわ!」
そんな声をさえぎるように、扉が乱暴に閉ざされる。
窓のない部屋の中は、真っ暗になった。
「おお、アルテミス女神さま! お守りください……」
「アルテミスさま、どうか、無法な男たちに罰を与えてください!」
「どうか、私たちをお助けください!」
暗闇の中で、女たちの叫びは次第にか細くなり、すすり泣きに変わり――
「……大丈夫。部屋の中には、もう、奴らはいないわ」
「本当に?」
やがて、鋭く囁きかわす声に変わった。
「ええ。私、ちゃんと見えているの。床にこすりつけて、目隠しをずり下げたのよ。ちょっと待って。今、あなたたちのも外してあげる」
そう言った女は、手首を後ろ手に、足首を固く縛られたまま上体を起こし、尻を使って器用に仲間の側へ寄っていった。
「お願いするわ。さあ、はやく……」
「動かないで。あなたの耳をかじってしまいそう……ほら、できた。さあ、あなたも」
やがて、女たちは歯を使って次々と互いの目隠しを外し、覆いの取られた目で、用心深く周囲を見回した。
扉はただひとつ。
その板の隙間からわずかな光が漏れてくるほかは、暗闇だ。
「奴ら、外にいるわね。声が聞こえる」
「しいっ。声を低く。すぐ外に、見張りがいるかも」
鋭くたしなめた金の髪の女は、自分のとなりにいた黒髪の娘に顔を寄せ、囁いた。
「グナタイナ。おまえ、あの扉の側まで行って、様子を見てきてちょうだい」
「はい、やってみます」
黒髪の娘、グナタイナはすぐにそう答えると、音を立てぬようにゆっくりと扉のほうへ這い寄っていった。
扉の隙間に片目を押し当て、外の様子をうかがう。
他の女たちは、暗闇にぼんやりと浮かぶ奴隷娘の姿を、食い入るように見つめていた。
「連中、酒盛りをはじめてます」
極限までひそめた声で、グナタイナは報告した。
喋るたびに、いちいち顔をぐるりと女たちのほうへ向けて、扉の外に声が届かないようにしている。
「あたしたちを首尾よくかどわかしたんで、その祝いですよ。……あっ、他の仲間が来ました。三……いや、四人。武器を持ってます」
「いいわ、こっちへ。盗み聞きがばれては困る」
「はい」
グナタイナが再び一同のそばへ這い戻り、女たちは部屋の片隅にひとかたまりになってうずくまった。
その様子は、まるでか弱い雛鳥たちが互いに寄り集まる姿にも似て、自分たちをこれから見舞う運命に恐れおののいているように見えた。
だが、もしも今、立てた膝を覆う衣にあごを埋めて動かずにいる彼女らの姿を確かな目で見る者があれば、まったく違うふうに感じただろう。
暗闇のなか狩りに出た雌獅子たちが、身を隠すのによい茂みに一頭、また一頭と集まり、音もなく身をたわめて、獲物の近づくのを待っている――
「目隠しをされたのが残念だわ。道を覚えてやろうと思ったのに」
「必要ない。帰る道はないのよ」
「ええ、あたし、そんな意味で言ったんじゃないわ」
「すぐにも乱暴を働かれるものと思っていたけれど、拍子抜けね。みんな、今となっても、覚悟に変わりはないでしょうね?」
「無論だわ」
「いまさら怖気づくようでは、スパルタの女とはいえない」
「夫たちは、ここより暗いところへ行った。それを思えば、こんなこと何でもない」
「そうね。……みなさん」
キュニスカが静かに言った。
「この先、どういうことになったとしても、絶対に、短慮はいけないわ。好機を待つのよ」
「ええ」
「必ず」
囁き交わす女たちの目がぎらついている。
「私たちの、手で」
* * *
* * *
「グラウコッ……グラウコス!」
「あぁ!?」
カルキノスからの呼びかけに、グラウコスはいささか乱暴な調子で返答した。
子供をおんぶするようにカルキノスを背中にかついだまま、今まさに全速力で走っているのだから無理もない。
麦袋のようにぼんぼん揺さぶられながらここまで運ばれてきたカルキノスは、少し顔色を悪くしながらも、必死に言葉を続けた。
「走りながらで、悪いんだが……! 今のうちに、もっと、詳しく教えてくれ。女たちは、どこで、どうやって、さらわれたんだ!?」
もしもメッセニアの連中がスパルタ市内にまで入りこんできたのだとすれば、大ごとだ。
しかも、侵入するだけでなく、複数の女たちを人目につかぬように連れ去ったとなると、ほとんど神のわざである。
「いや、俺も、報せを聞いて、おまえを探しに来ただけで、そう詳しくは、知らんのだがなッ! キュニスカたちは、連れだって、カリュアイの村にいたそうだ! 野原に、女たちだけで、いたところを、襲われたらしい!」
「カリュアイだって?」
横手から意外そうな声を上げてきたのは、テルパンドロスだ。
なりゆきで、彼も一緒に走っている。しかも、カルキノスの杖を持ってくれていた。
ちなみにアクシネも走っている。
彼女は男たちを先導するように先に立って「こっち、こっち!」と叫びながら走っていたが、その様子はひどく楽しそうで、事の重大さが分かっているようには見えなかった。
「テルパンドロス、知っているのか? どこだい、それは?」
思わずカルキノスが問いかけると、
「有名な村だよ。ここからだと……北西の方角だね。スコティナ村の近く、アルカディアとの国境のすぐ側だ」
テルパンドロスはすらすらと答えた。
最前の激しい言い争いなどなかったかのような、爽やかな口ぶりである。
詩作に関わることでなければ、本当に一切、何のわだかまりも持たない男だ。
「有名なのは、アルテミス女神の神殿があるからだ。カリュアイのアルテミス女神に捧げる祭のこと、聞いたことがなかったかい? 毎年、処女たちが集まって、女神に歌舞を奉納するんだ」
「アルテミス神殿……」
アルテミス女神は、野山にいまして獣たちを統べる女神であると同時に、生まれてくる赤子や、いまだ大人にならぬ処女たち、童貞たちを守りたもう女神である。
ゼノンの妻であったキュニスカが、なぜ、そんな場所に?
そして――
「アクシネ!」
グラウコスの背から思い切り首を伸ばして、カルキノスは叫んだ。
「教えてくれ! どうして、グナタイナは、キュニスカと一緒にさらわれたんだ? グナタイナは、君のところの奴隷じゃないか!」
「グナタイナは、キュニスカのところにいった!」
「あぁ!?」
元気のいいアクシネの返事に反応したのは、カルキノスではなく、グラウコスだ。
「意味が分からん! なんで、おまえのところの奴隷が、よその家の女にくっついて、カリュアイまで行くんだッ!?」
「それはなー、グナタイナは、キュニスカのところにいったから!」
「だからッ! 俺たちは、なぜ行ったのか、と訊いとるんだッ!」
「それはなー、グナタイナは、キュニスカのところに」
「貴様アァァァ! いい加減にしろッ!」
話が、まったく同じところをぐるぐる回っている。
「グナタイナは……キュニスカのところに、行った……?」
「そう!」
話の分からない奴だなー、と言いたげな顔でグラウコスのすぐ横まで近づいてきたアクシネが、カルキノスの呟きを聞きつけて、ぱあっと笑顔になった。
「アクシネ、教えてくれ。グナタイナが、キュニスカのところに行ったのは、いつだ?」
「ずっとまえ!」
「ずっと、前。何日くらい前のことだったか、覚えているかい?」
「えーとな、わすれた! ずーっとまえ。えーとな、いーち、にーい、さーん、しーい……」
「季節でいうと、いつだった? この夏になってからかい?」
「ちがーう。なつの、まえの……はるの、まえの……ふゆの、まえの……」
「だいぶ前だな、おいッ!?」
グラウコスが、思わず叫ぶ。
「ひょっとして」
カルキノスは言った。
「グナタイナは、今はもう、君のところの奴隷じゃ、ないのか? グナタイナは……今は、キュニスカのところで、働いている?」
「そう! わたしは、さっき、ちゃんと、そういった。なっ!」
「ああ、うん……グナタイナは、どうして、キュニスカのところに行ったんだ?」
「いきたいっていうから!」
「ん?」
「グナタイナがなー、キュニスカのところで、はたらきたいっていった。
すっごく、ないてたから、わたしは、いいよ! っていった。
でも、それにはなー、なにか、きまりがな、むりって」
アクシネは、胸の前で複雑に両手を動かし、ややこしそうな身ぶりをした。
「だから、わたしは、えらいひとのところにいって、いっしょうけんめい、たのんであげた!
だれかしらないけど、えらーい、ひげのおじいさんに。
だめっていわれたけど、でも、ずっとおねがいしてたら、よるになって、いいよ! っていわれた!
わたしは、うれしかったから、おじいさんに、うさぎをあげた」
アクシネにとっつかまり、要領を得ない頼みごとを日が暮れるまで聞かされ続けてとうとう根負けした長老会の誰かのことを、カルキノスは漠然と想像した。
承知をとりつけて、嬉々として踊り回るアクシネと、獲物の兎を押しつけられて呆然としている長老の姿が目に見えるようだ。
「気の毒に……」
「なに?」
「いや、いいんだ。それよりも、どうして、グナタイナは、キュニスカの家に?」
「あれじゃないか?」
走りながら、グラウコスが再び会話に加わってくる。
「前に、おまえが……ほら、あの日、大掘割で、死んだ奴隷の男がいたと、話しとっただろう。グナタイナとかいう奴隷女は、その男と、できてたという話だったじゃないか? このまま、同じ家にいては、死んだ男のことを思い出してしまう、ということだったのかもしれんな」
どこか痛ましげな口調で呟いたグラウコスは、ふと、そんな自分に気づいたらしく、
「ふん。奴隷のくせに、一丁前なことを言いやがる!」
そう毒づいておいて、黙りこんだ。
「じゃあ、グナタイナがやってた仕事は、今……」
「ん?」
「糸紡ぎや、機織りの仕事は、今、誰がしているんだ?」
アクシネの家には、女の奴隷はグナタイナしかいなかったはずだ。
「これ!」
アクシネは走りながら、自分が身に着けた衣をつまんでひらひらさせた。
すらりと引き締まった脚があらわになって、カルキノスは慌てて目を逸らした。
「おまえがくれたって、テオンがいってた。いいぬの!」
「あ、そう……」
期せずして、自分の贈り物はとても時宜にかなって役立っていたということがわかった。
それなら礼のひとつも言いに来てくれればよかったのに、と少し思ったが、今、にこにこしているアクシネの顔を見ていると、そんなことは、もうどうでもいいような気もした。
「何を、和んどる」
グラウコスが呆れたように言い、急に立ちどまった。
「うぶ!」
汗に塗れたグラウコスの首筋に、まともに頬を押しつけるはめになって、カルキノスは呻いた。
そうならないように、これまではできるかぎり上体を反らしていたのだが。
「降りろ! ここからは、自分で歩け」
「うう……ありがとう」
努力も空しく全身グラウコスの汗にまみれたカルキノスに、テルパンドロスが杖を差し出してくれた。
青銅の宮居にいますアテナ女神の神殿まで、あと、もう少しだ。
さすがに、このあたりになると人通りも増えてくる。
将軍カルキノス、そして詩人テルパンドロスの姿を見て、周囲の男たちがざわめいた。
「俺は、別に、疲れたわけじゃないからな」
誰もそんなことは言っていないが、グラウコスが念を押すように言った。
それは本当だろう。
一年前には、彼は実際にカルキノスを担いだまま、体育訓練場から神殿の前まで走り抜いたのだ。
(そうか)
カルキノスは気付いて、グラウコスに小さく頭を下げた。
神殿に集まった人々の前に、将軍がおんぶされて現れては格好がつかないだろうと、グラウコスは彼なりに気をつかってくれたのだ。
「ふん」
グラウコスは小さく鼻を鳴らし、カルキノスから離れた。
「将軍!」
「よかった、おいでになった!」
彼と入れかわるようにして、大勢の男たちがカルキノスのまわりに集まってくる。
「お急ぎください。みな、神殿前に」
「さあ、お手を! 俺がお支えします」
「杖はお持ちしましょう!」
「ああ……どうも、ありがとう」
若者たちに囲まれて、カルキノスは神殿への道を進んだ。
カルキノスの腕をとり、杖を運ぶ若者たちは、みな真剣そのものの顔で、その役目を心から誉れと思っているようだった。
はじめてスパルタにやってきた日には、こんなことは、想像さえもできなかった――
「しょーぐん!」
嬉しげに跳びはねて、その横をついて歩きながら、アクシネが誰にともなく呟いているのが聞こえた。
「しょーぐんだって! ふふふ、ちがうちがう。あれは、カルキノス」
(えっ)
その言葉がなぜか気になって、振り返ろうとする間に、もう、神殿の屋根が見えてきた。
それと同時に、激しい怒鳴り声が聞こえてくる。
「この、恥知らずどもめ!」
「娘たちを見捨てて、よくもまあ、のこのこと逃げ帰ってきたものだ!」
「許せぬ! その場で死んだ方がよかったと思うような罰を与えてやる。覚悟せよ!」
「……何事!?」
カルキノスは若者の手から杖を受け取り、急いで人ごみのあいだに割りこんでいった。
その姿に気づいた男たちの何人かが、さっとよけて道をあける。
騒ぎの原因が、カルキノスの目にも飛び込んできた。
「お許しください! どうか……」
「命だけは、お助けを!」
「ええい、黙れ! 今こうしているあいだにも、わしらの娘が、どんな目に遭わされておるか!」
「そうだ! 貴様らは、その何倍もひどい目に遭わせてやる。生まれてきたことを後悔させてやるわ!」
地面に座りこんで泣き喚く奴隷の女たちを、男たちが取り囲み、罵倒しているのだ。
「はい、ちょっとすみません、ちょっと通して。はい、通して通して……! みなさん、どうしました。これは一体、何事ですか!」
「おお、カルキノス将軍!」
「大変なことに! わしらの娘が!」
「メッセニアの男どもが、女たちを!」
「いや、ちょっと落ち着いて! みなさん、落ち着いてください!」
目を血走らせ、つかみかからんばかりの勢いでまくし立てはじめた男たちに向かって、カルキノスは強く両手を突き出した。
「メッセニアの男たちが、カリュアイの村から、女たちをさらっていったのですね!? そこまでの話は、もう聞いています! で、この騒ぎは、いったい何事なんです?」
「この女奴隷どもは、娘たちの供として、カリュアイに同行していたのだ! それにも関わらず、娘たちはさらわれるに任せ、恥知らずにも、自分たちだけ逃げ戻ってきおった!」
「主人を見捨てるとは、奴隷にあるまじき行いだ! 恥を知れ!」
「死刑だ! 死刑だ!」
「石打ちにせよ!」
「崖から突き落とせ!」
「ああ……うん、いや……そんな、むちゃくちゃな」
怒り狂った男たちの叫びの中、カルキノスは、小さく呟いた。
怯えきって身を縮め、涙を流している女たちの衣の裾と足元は土埃にまみれ、乾いた血さえもこびりついていた。
きっと彼女らは、カリュアイからここまで、女の足で走り通してきたのだ。
自分たちの主人たちがさらわれたことを、少しでもはやく知らせるために――
「諸君! この場に集う、スパルタの男たちよ! 聞いてくれ!」
カルキノスは杖を高く掲げ、声を張り上げた。
たちまち静かになった男たちのあいだに、カルキノスの声が響きわたる。
「諸君に、問いかけたいことがある! 市民と、奴隷とは、同じものだろうか!?」
広場が、どっとどよめいた。
カルキノスが急に何を言い出したのか、その言葉の意味が、誰にも分からなかったからだ。
「そこの、君!」
カルキノスは、杖をびしりと伸ばして、集まっていた若者たちのうちのひとりに向けた。
「答えてくれたまえ。市民と、奴隷とは、同じものだろうか?」
「いいえ!」
さすが、幼い頃から厳しい問答の訓練で鍛えられてきただけある。
急に指名されても口ごもることなく、若者は、はっきりと返答した。
「市民と、奴隷とは、違うものです!」
「よろしい! では、それは、なぜか!?」
と、また別の若者を、カルキノスは杖で指した。
「それは……それは、我々は、奴隷を支配し、奴隷は、我々に支配されるものだからです!」
「よろしい! では、それは、なぜか!? 次の君!」
「なぜ……かというと……それは、神々が、そのように運命を定めたもうたからです!」
「よろしい」
カルキノスは、若者たちににっこりと笑いかけ、一同のほうにぐるりと向き直った。
「そのとおり! 市民と、奴隷とは、まったく違うものだ。……それならば、奴隷の女が、市民の女とはまったく違うふるまいをしたとしても、不思議はないということになる!」
彼は一歩、また一歩と進みながら、すべての聴衆たちの目を順に見渡し、語り続けた。
「もしも、スパルタの女が、同じスパルタの女を見捨てて逃げたというのならば、罪に問われてもしかたがない。それは、スパルタの男が、戦場で傷ついた仲間の姿を目にしながら、そして戦うための武器も力も残していながら、仲間を救うことなく見捨てて逃げたのと同じ、恥ずべき行いなのだから。
だが……ここで、ひとつ、隊商が盗賊に襲われた場合のことを考えてみよう!
主人たちが、盗賊に斬られて悲鳴をあげたとして、荷を運ぶロバたちは、主人のためにとどまって奮戦し、敵を蹴散らそうとするだろうか? いや、そんなことはありえない。せいぜいが、とまどって嘶きながらうろうろするか、動物の本能でその場を逃げだすか、どちらかというところだろう。
スパルタ人同士の場合と、主人とロバの場合とは、こんなにも違うわけだ。
さあ、諸君。今の場合は、どちらに近いと考えるべきだろうか? 奴隷は、スパルタ市民と同じものか? それとも、市民よりも劣る存在だろうか?」
「それ、は」
カルキノスの言わんとすることを悟り、先ほどまで怒鳴り立てていた男たちは、一様に口ごもった。
カルキノスの論法に従えば、奴隷たちの責任を問うことは、奴隷たちをスパルタ市民と同等の存在だと見なすことになる。
「そのとおり! 奴隷は、市民と同じではない。遥かに劣る存在だ。
つまり、この場合、奴隷の女たちは、隊商が襲われた場合のロバと同じだと考えなくてはならない! ロバが、主人のために戦わなかったからといって、それを咎めたり、ましてや殺そうとする者はいない。ロバには、もともと、そんな力も、知恵もないのだから。逃げ帰ってくるのが精いっぱいだったとしても、それは、自然なことなのだ。
これらのことから、この奴隷女たちに、罪はないと言えるだろう!」
「しかし!」
父親たちが、声を張り上げて反論した。
「さらわれたわしの娘たちが、メッセニアの男どもによって汚され、あるいは、命を奪われたとしたら!?」
「そうだ! もしも、そんなことになったら……!」
「そうならないように、全力を尽くさなくてはならない」
カルキノスは、静かな調子を保ったまま、言葉を続けた。
「だが、もしも……もしも、仮に、そうなったとしても、俺は、この女たちには罪はないと言うだろう。
たとえ、この奴隷たちがその場に踏みとどまって抵抗したとして、メッセニアの男たちに打ち勝ち、スパルタの女たちを助け出すことができていただろうか? そんなことはまったく不可能であったと、俺は考える。結局は、殺されるか、自分たちも捕らえられて、メッセニアの男たちの戦果を増やしただけに終わったことだろう。
むしろ、この奴隷たちが、逃げて、忠実にもここに戻ってこなかったとしたら、どうなっていた? 俺たちは、いまだに、女たちがメッセニア人たちにさらわれたという事実すらも知らずにいたのではないか? 戻らぬ彼女らの身を案じ、無事を祈りながらおろおろと歩き回ることしかできずに、時間をひどく無駄にすることになっていたのではないか?」
カルキノスは、両腕を激しく振り、急激に声を張り上げた。
「罪は、この奴隷女たちにはない! 無法をはたらいたメッセニアの男ども、そして、それを指揮するアリストメネスこそが、諸悪の根源だ! 我々の怒り、我々の報復は、奴らに向けられなくてはならないのだ!
諸君! 俺たちは今、ここで奴隷女たちにかまっている暇などないのではないか? いかにして、メッセニアの男どもから、女たちを取り戻すか……今、話し合うべきは、ただ、その一事のみではないだろうか!?」
「いかにも、理にかなった意見じゃ」
荘重な声が響き、男たちが一斉にさがって道をあけた。
一同の前に堂々たる体躯をあらわしたアナクサンドロス王は、身内をさらわれた男たちのひとりひとりに近づき、あるいは頷きかけ、あるいは黙って肩を叩いた。
そして全員のほうへと向き直り、朗々と声をあげた。
「将軍の言う通り、今は、最もなすべきことに話を向け直そうではないか。この奴隷たちは、法の必要を満たすため、鞭打ちとする。しかし、メッセニアの男どもに向けるべき怒りをこの奴隷女どもに向け、必要以上に打つようなことがあってはならぬ」
言い終えて、アナクサンドロス王は、カルキノスの目を見た。
カルキノスは、かすかに頷きを返した。
「あ、あ、ああ……」
奴隷の女たちは、地面に座りこんだまま、震える腕を次々とカルキノスにさしのべた。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
「カルキノスさま……本当にありがとうございます」
カルキノスは、わざとそちらを見なかった。
『奴は、市民よりも、奴隷に肩入れした』
今、そんな評判を立てられることがあってはならない。
だが、
「あのう、あの……将軍さま」
奴隷女のひとりが、なぜか、しつこく呼びかけてくるので、
「何だい?」
カルキノスは結局、しかたなくそちらを向いた。
「あの」
逃げ戻ってきた奴隷たちのなかで、一番年嵩と見える女だ。
しばし、仲間と顔を見合わせたり、肘でつつき合ったりするような仕草を見せてから、女は目を伏せ、小さな声で言った。
「恐れながら……将軍さまに、申し上げたいことが」
「何だ!」
横手から、さらわれた女の父親たちが、またしても怒鳴り声をあげる。
「何か、知っていることがあるのか!?」
「早く言わんか!」
カルキノスは、片手をあげて彼らをおさえた。
「何かあるなら、話してくれ。頼む」
「はい」
おどおどと周囲をうかがいながら、女は、つっかえながら喋りはじめた。
「あの、このことを、最初から申しませんでしたのは、女主人さまたちへの裏切りになると思ったからでございます。しかし、こうして命を救っていただきましたうえは、恩人である将軍さまに対して、隠しだてをするのは申し訳ないことですし、それに、ここで私が申しましたことが、もしかすると、女主人さまたちをお助けするための手がかりともなるかもしれませんので……」
「ええい!」
またしても我慢の限界に達したらしく、男たちが怒鳴りはじめる。
「べらべらと、見苦しい弁解を述べ立てるな! 結局、何が言いたいのだ!?」
「必要なことだけを、短く話せ!」
「皆さん、落ち着いて」
男たちの気持ちも分かるが、これ以上威圧して怯えさせたところで、余計に話が聞き出しにくくなるだけだ。
カルキノスは、身をかがめ、穏やかに声をかけた。
「怯える必要はない。どんなことであっても、正直に話しなさい」
「はい……」
組み合わせた両手を、しきりにもみしぼりながら、女は言葉を続けた。
「女主人さまたちは、あの無法な男どもにさらわれておしまいになる前に、私たちには、建物の中に残っているように、と申しつけられたのです。それで、私どもは女主人さまたちとご一緒せず、あの恐ろしいことが起きたときに、その場にはおりませんでしたのです。ただ、もう、物陰から見ていたばかりで。あの男たちが、女主人さまたちを引っ張っていくのを――」
「物陰からだって?」
そうしないほうがいい、と思いながらも、カルキノスは口を挟まずにはいられなかった。
「建物の中にいるように言われたと、さっき、君は、確かに言っていたが?」
「はい……あの、ですから、その……私たちは、その、女主人さまたちのお言いつけに背きまして、建物から出て……物陰から、そっとのぞき見していたのでございます。どうか、お許しください。どうしても、そうせずにはいられなかったのでいられなかったのでございます。これは、ただごとではない。何かが起こる。そんな気がしたからでございます。なぜ、そんなふうに思ったかと申しますと、建物から出てゆかれるときの、女主人さまたちのご様子が、どう考えてみましても、おかしかったからでございます」
「おかしかった?」
カルキノスは、思わず繰り返した。
「いったい、どこが、どんなふうにおかしかったというんだ? ……いや、疑うのではないけれど、気の迷いでそんなふうに見えるということもあるからね」
「いいえ、気の迷いなどではございません。それはもう、絶対でごさいます」
女の口ぶりが、初めて、きっぱりとしたものになった。
「だって……女主人さまたちは、みんなして、結婚前の乙女、つまり、処女の身なりをなさっていたのですもの」
一瞬、しんとした。
男たちの誰も、その意味が、よく飲みこめなかったからだ。
(処女、だって?)
キュニスカは、そうではない。
彼女は、ゼノンの妻だったのだから。
「私たちには、どういうことか分かりませんでした。ひょっとすると、何か、秘儀にでも関わることだったのかもしれません。そんなこと、見たこともございませんでしたから、あまりにもおかしなことに思えて……
女主人さまたちは、建物を出ていく前に、私たちのこの姿のことは、絶対に他言してはいけない、と言い残していかれました。それで、はじめは、みなさまにこのことをお話ししなかったのでございます。しかし、こうなってみますと、どうしても、お話ししないわけにはいかず……」
「うん、うん、分かった、ありがとう」
カルキノスは、もはや上の空で、呟くように言った。
処女の、扮装。
どこかで、聞いたことがあるような気がする。どこかで――
「昔……そうやって、敵を油断させた戦士たちの話があった……」
「うん?」
カルキノスの呟きに、アナクサンドロス王が、ゆったりと首をかしげる。
そちらを振り向いたカルキノスの顔色は、真っ蒼になっていた。
キュニスカ。そして、グナタイナ。
彼女たちに共通することが、ひとつだけある。
「彼女たちは、嫌々さらわれたわけでは、ないかもしれない……」
「何だと!?」
カルキノスの呟きに、再び喚きだしたのは女の父親たちだ。
「いかに将軍の言葉といえど、聞き捨てならんッ! 将軍は、わしらの娘が、夫を殺された身でありながら、メッセニアの男どもに諾々と従っていったとでもおっしゃるのか!?」
「やっぱり!」
カルキノスは、蒼白な顔で、その男に詰め寄った。
「あなたの娘さんの夫は、メッセニア人に殺されたのですね?」
「うむ!? ……ああ、その通りだ! 半年前に、メッセニアの略奪隊を討とうとして、逆に命を落とした。勇敢な若者であったが――」
「キュニスカも、そうだった。では、あなたの娘さんは? ……あなたのところは!?」
父親たちに次々と問うていったカルキノスは、
「間違いない」
やがて、引きつった表情で、言った。
「これは、決死部隊だ。復讐のための。
彼女たちは、自分自身をおとりにしてメッセニアの男どもをおびき寄せ、わざと捕らえられて、敵の本拠地に入りこむことを狙ったんだ!」




