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スパルタの男たち

      *     *     *

   *     *     *


 エウロタス川をのぞみ、タユゲトス山脈をあおぐところに、ラケダイモンと呼ばれる土地がある。

 その中心となる、いにしえの王妃の名を冠されたまちがスパルタである。

 住人たちは自らを「ラケダイモン人」または「スパルタ人」と名乗った。


「遅い!」


 スパルタ人たちは今、忙しい。

 生活を支える中心産業である農業が、ではない。

 麦の刈り入れは、日の出の直前に昴星プレーイアデスが昇る五月には終わっている。

 あらゆるものが炎暑に焼かれてひびわれる真夏は、畑をどうこうできる季節ではないし、スパルタの男たちは、そもそも農作業に従事することなどなかった。

 それは国有農奴たちヘイロータイの仕事だ。

 忙しいのは、戦争が、である。


「あれからもう十日だ! 使者たちは、何をのろのろしている!?」


「アテナイでの人選に、手間取っているのではないか?」


「あんな軟弱なポリスに、人選に手間取るほど大勢、ものの役に立つ男がいるものか!」


 今年になって、西のメッセニア地方が、スパルタから離反した。

 祖父たちの代からスパルタに服属してきたメッセニアが、だ。


「さっさと選び、連れて来ればすむ話ではないか! 行きに三日、人選に一日、帰りに三日! 七日で足りるッ!」


「我らの脚ならば、な」


 メッセニア人たちがついに蜂起したと知ったとき、スパルタ人たちはむろん激怒し、戦い、叩きつぶそうとした。

 だが、デライの地で激突した結果は、なんと引き分け・・・・に終わった。

 メッセニアに、おどろくべき勇将があらわれたのである。


「アテナイには、我らほどの健脚はおらぬのだろう。そいつが途中でへばっているせいで、遅れているのかもしれぬ」


「そんな男が来ても、あの・・アリストメネス・・・・・・・を倒す役には立たんだろうがッ!」


 メッセニアのアリストメネス将軍。

 デライの戦いを経て、その男の名は、メッセニア人のあいだにもスパルタ人のあいだにも高く鳴り響くこととなった。

 戦場において、アリストメネスはとても一人の人間のしわざとは思えぬほどの働きを見せ、大勢のスパルタ人を殺した。

 その戦いぶりは古代の英雄たちのごとく、まさに神々自身が彼を先導し、あるいは背後に立って激励しているとしか思えぬほどのものだった。

 スパルタ人たちは目下、この男を片付け、メッセニアの反乱を鎮圧するという大問題にかかりきりになっている。


「だが」


 しきりにやりとりを繰り広げていた二人のうちのひとりが、わざと、ゆっくりとした調子で言った。


「他ならぬ輝けるフォイボス・アポロン神アポローンの御言葉なのだ。従わぬわけにはいくまい。『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』とな……」


「くそっ! なぜだ!」


 先ほどからずっと憤慨している若い男は、地面を踏みつけて叫んだ。


「我らスパルタの男だけでは、この戦に勝てぬというのか!」


 大きな困難に直面したとき、この時代の男たちが必ず行うことがある。

 自分たちがとるべき道について、神々の意向をうかがうのである。

 当時、各地に大きな「神託所」が存在し、巫女や神官たちが神々の声を人々に伝えた。

 無数に存在する神託所の中でも、特に隆盛を誇ったのが、デルフォイの神託所だ。

 そこにおわすのは、輝けるフォイボス・アポロン神アポローン

 遠矢射る君ヘカエルゴスとも呼ばれる美しく、誇り高く、恐ろしい男神は、決して的をはずさぬというその言葉で、これまでに数限りない人々とまちの運命を予言してきた。

 スパルタの男たちはデルフォイに使者を送り、ねんごろに供儀を捧げ、対メッセニア戦争に勝利するための方法をアポロン神にたずねた。

 その結果、下されたのが、先ほどの神託である。


『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』


(何故!?)


 使者たちは、愕然とした。


『軟弱で、へらへらした、おしゃべり野郎どものまち


 スパルタ人たちがアテナイ人に対して抱いている意識は、おおむねそんなものだった。

 そんなまちから、この剛勇のスパルタを指揮する将軍を招けというのか?

 アポロン神は、斜めの君ロクシアスという異名を奉られるほど、ときに難解な神託を下すことでも知られている。

 だが、こればかりは他に解釈のしようがなかった。


『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』


 斜めの君ロクシアスらしからぬ、これ以上なく明快な御言葉である。

 スパルタの男たちは、非常に納得のいかぬ思いながらも、神託に従うことにした。

 あの誇り高きアポロン神に神託を伺っておいて、その結果を故意に無視するなど、いきなり強力な疫病を送り込まれて住民全員抹殺されても文句を言えないほどの不敬にあたる。

 そのようなわけで、使者たちがアテナイに送り出されてから、はや十日。

 彼らの将軍は、まだ、やってこない。


「その男が来たら、まず俺が勝負を挑んで、実力を試してやる!」


「そういきり立つな、グラウコス」


「これが怒らずにいられるかッ!」


 先ほどからずっと憤慨している若い男――グラウコスは叫び、どんどんと地面を踏みつけた。

 彼は大きく手を振り、周囲の様子を示した。

 屋外の体育訓練場ギュムナジオンである。

 そこには彼らだけではなく、大勢のスパルタの男たちが集っていた。

 皆、全裸である。

 運動競技は全裸で行うものだ。

 たゆまぬ訓練を通して、自分自身を強く美しく鍛え上げ、神々の嘉される優れた人間となる。

 それは全ギリシアに共通パンヘレニクの理念であったが、特にスパルタの男たちは、その考えを徹底して追求した。

 居並ぶ男たちは、どの一人をとってみても見事な肉体を持った戦士である。

 腕や脇腹、顔にいくつもの傷跡を持つ者もいたが、それは美を疵つけるものではなく、むしろ勇敢さの証ととらえられていた。

 敵と正面から向き合い、敵の武器の届く位置にまで踏み込んだ証だ。

 反対に、多くの後ろ傷を持つ者はいなかった。

 少なくとも、今この場にはいなかった。

 背中の傷は、敵に背を向けた証拠である。

 後ろ傷しか持たぬような男は「臆病者」と呼ばれた。

 それは、スパルタにおいては最も恥ずべき呼び名であり、人々から露骨に笑いものにされ、爪はじきにされ、誰からもまともな人間とは認めてもらえなかった。


「誇り高きスパルタの戦士が、アテナイから来た軟弱野郎の命令に従うなど、恥辱の極みだ! そんな野郎は、即刻叩きのめして、エウロタス川にぶちこんでやる!」


「落ち着けというのに。そうかっかしていては、肝心のそいつがやって来るより先に、疲れ果ててしまう――」


「うおおおおおォーいっ!」


 急に、とんでもない大声が体育訓練場ギュムナジオンに響きわたり、さまざまな運動競技を行っていた男たちは残らず動きを止めて、あっちを見たりこっちを見たりした。

 その表情は、一様に引きつっていた。

 誰もが、その声に聴き覚えがあったのである。

 間違いない。あいつ・・・だ――


「いたぞ! あそこだっ!」


「な!? ……あんなところにッ」


 男たちは口々に叫び、怪物でも出たような調子で指をさした。

 体育訓練場ギュムナジオンと隣りあって建てられた小屋の屋根・・の上・・に、ひとりの女が、すっくと立っている。

 いったいどうやって、あんな高いところに登ったのか。


斧女アクシネッ!」


「おーう!」


 非難と嫌悪、そして隠しがたい驚きをにじませた男たちの叫びに、手斧を腰にぶら下げたアクシネは、元気よく両手を振ってみせ、


「きたきた、きたぞ! す・く・い・ぬ・し・が! きたぞーっ!」


 それだけ叫ぶやいなや、身をひるがえし、建物の向こう側へ飛び降りた。

 下手をすれば地面に激突し、全身骨折しかねない勢いだ。

 だが、男たちがあわててその場に駆けつけたとき、アクシネの姿は、すでに影もかたちもなかった。

 今のしらせを伝えるため、次の場所へ走っていったに違いない。


「化け物か……!? まったく、とんでもない女だ!」


「いや、待て、それどころではないぞ!」


「そうだ。あの女、何と言っていた?」



『救い主が来たぞ』



 一瞬、しんとした。


「使者たちが戻ったのだ!」


 体育訓練場ギュムナジオンは、にわかに騒然となった。

 男たちは体から汗と砂を掻き落とすことも忘れ、我先に自分の赤い外衣ヒマティオンをひっつかむと、暴走する牛の群れのような勢いで走り出した。

 先頭はむろん、例のグラウコスである。

 彼らの目指す先はただひとつ。

 使者たちが帰ってくる、スパルタ市の門――


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