つたえたいこと
* * *
「ヘイラ」
集まった長老たちと、カルキノスとを前に、アナクサンドロス王は重々しく告げた。
長老たちがざわめく。
なるほど、と互いに目配せを交わしあう者。
あるいは、意外そうに目を見開く者。
最初のざわめきがおさまると、一同は、そろってひとつの方向に顔を向けた。
期待に満ちた視線。
どうします、という声が今にも聞こえてきそうな、食い入るような視線。
カルキノスは、そんな皆の視線をしずかに受け止めた。
真顔のままで二度、瞬きをしてから、かくりと首を傾げる。
「……どこですって?」
長老たちの何人かが白目を剥き、ちょっと天を仰いだが、そんなカルキノスを声高に嘲弄する者は、もはや誰もいなかった。
アナクサンドロス王がうなずき、片手を振る。
壁際に控えていた若者たちがすみやかに動き、大きな地図を運んできて床に広げた。
遊戯盤の駒も、いくつか持ちだされる。
地図の表面には、無数の線や模様がかきこまれていた。
それを囲んで、一同がしゃがみ込む。
カルキノスは一番遅れて、曲がらない右脚をぐるりと回し、床の上に座りこんだ。
「これが、エウロタス川じゃ。そして、タユゲトスの山々。――我らの市、スパルタ」
地図の上で、大きな手を順に動かしながら、アナクサンドロス王が土地の名を読み上げてゆく。
「スパルタの南に、アミュクライ。パリス。ブリュセアイ。……まあ、このあたりは良いとして、西のメッセニアへと移ろう。よいかな。
コイリオス川。パミソス川。ここが、ステニュクレロス。大掘割」
その地名が出たとき、幾人かの男たちがちらりと目を上げて、カルキノスに尊敬の眼差しを送った。
当のカルキノスは、そんなことには気づきもせず、地図の上をゆっくりと動いてゆくアナクサンドロス王の手を目で追っている。
「さて、このパミソス川を、北へとさかのぼる。メッセネ。イトメ山。さらに北へ……ヘイラは、このあたりじゃ」
王の指先が止まり、駒が音を立てて置かれたその場所に、全員の視線が集まった。
「メッセニアの将軍アリストメネスが、今、ここにいるのか」
置かれた駒をにらみつけて呟いたカルキノスに、王がうなずく。
「メッセニアの残党どもが多数、ヘイラに集結しておるとのこと。住み着いていた土地を捨て、家族ごと移り住んだ連中もおるという話じゃ。アリストメネスが、そやつらの指揮をとっておる」
「ヘイラ……」
カルキノスは、その名を記憶に刻みつけるように呟いた。
必ず倒すべき男がいるはずのその場所は、地図上では、何の書き込みもない、ただの空白にすぎない。
「どんな場所なんですか?」
「アルテミス女神の領域ですな」
答えたのは、カルキノスよりも数歳年長と見える、やや小柄な男だった。
長老メギロスの信頼厚く、若くして斥候たちの束ねを任されている。
彼もカルキノスと同じように、長老という立場ではないが、その能力ゆえに列席を許されていた。
「私も、この目で見たわけではありませんが。みなの報告によれば、山々が連なり、緑におおわれた土地だそうです。森のせいで、見通しは利きませぬ。
メッセニア人どもは、連なる山々のいずれかの頂上に砦を築いているものと思われますが、まだ、はっきりとした位置までは……見張りの目が厳しく、斥候たちも調べあぐねているのです」
「なるほど」
カルキノスは顔をしかめ、じっと駒をにらんだ。
いまだ見たこともないヘイラの山々のすがたが、心の中に浮かんでくる。
その中に、メッセニア人たちが集まり、暮らしている――
「もともと住んでいた土地を捨てて、家族ごと移り住んだとすれば、女子供だっているだろう。相当な人数になる。食糧は、どうしているんだろう?」
カルキノスの発言に、長老たちは目を見合わせた。
この年若い将軍は、いつでも彼らに、物事を別の方向から見てみるようにと促すのだ。
「そうですな」
長老たちの視線を受けて、斥候の束ねである男が難しい顔をしながら口を開いた。
「逃げこむ際に持ちこんだ蓄えもあるでしょうが……ヘイラの周辺は、メッセニアの耕作地帯です。そこからあがる収穫物を、奴らは山へ運びこんでいるのですな。また、略奪隊を送り出し、スパルタに運ばれるはずの収穫物を奪い、運び去ることもしております」
「そうか。それなら……ヘイラ山の周辺での耕作を、一時、禁止にするというのはどうだろう?」
貧弱な顎ひげを指先でねじりながら、カルキノスは考え考え、言った。
「ヘイラ山に立てこもっている奴らが、食糧をたやすく手に入れることができないようにするんだ。武器のときと同じだよ。
耕作地から手に入るものがなくなれば、彼らは、いっそう頻繁に略奪隊を送り出してくるに違いない。それを、よく見張っておくんだ。彼らを捕らえることができれば、ヘイラについての詳しい情報を手に入れることができるかもしれない」
スパルタの男たちは表情を輝かせ、再度、目を見合わせた。
「なるほど……見事な策ですな!」
「相手を追い詰め、向こうのほうから出てくるように誘う。盤上の遊戯と同じというわけか」
「さすがは、カルキノス殿!」
「うん、ありがとう……本当は、水を絶つことができれば一番はやいんだけど、これは、たぶん、湧水か何かがあるんだろう。彼らが住みついたということは、そこには必ず水があるはずなんだからね。
だが……これ以上、ヘイラの人口が増え続けるなら、そのうち水が不足して、どこからか水を運び上げるか、水路を引くか、しはじめるかもしれない。そういう動きも、よく見張っておくべきだ」
「はっ! 監視の者たちに伝えます」
「うん……そうやって、少しずつ追い詰めていけば、そのうち食糧や水が不足して、女子供たちが、山を下ってくるかもしれない……」
「おお! そこを捕らえて、皆殺しにするのですな!」
「え?」
自分自身の思考に深く入りこみ、ヘイラの山の状況を想像し続けていたカルキノスは、一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「……いや、違う! 違うよ」
理解できた瞬間、自分でも驚くほどの大声が出た。
「は? しかし……」
「おおっ! 分かったぞ。女子供は生かして捕らえ、人質として使うのですな!?」
「なるほど! ヘイラの男どもに対し、貴様らが山を下らねば、こやつらの喉を一人ずつ順に切り裂くと……」
「違うってば!」
カルキノスは、平手でばんばんと地図を叩いて叫んだ。
「そうじゃない。助けてやるんだ!
麦粥でも食べさせてやって、絶対に、危害を加えてはいけない。そうやって、スパルタに従ったほうがいいと思わせるんだ。
もし『山を下りれば、必ず捕まって殺される』ということになれば、立てこもっている者たちは、どうすると思う? どうせ殺されるならと、ますます固く立てこもり、いざ打って出るときには死兵と化しているだろう。それは、まずい。その逆になるように仕向けるべきだ」
長老たちの顔を順に見渡しながら、腕を広げ、熱弁をふるう。
「ヘイラ山に立てこもり続ければ、死が待つだけ。でも、山を下りれば生き延びられる……メッセニア人たちに、そう思わせることができれば、しめたものだ。
ヘイラ山に立てこもる男たちの中には、アリストメネスに心酔する決死の戦士たちも多いだろう。だが、そこまでではない者たちも多いはず。飢え、渇けば、なおのことだ。
そういう者たちの心を揺らがせ、ヘイラ山の男たちを割る。そして、内側から崩す!」
「なるほど!」
「なんと、そこまでの深慮が……」
「ともかく、まだまだ情報を集める必要があるよ。まずは、彼らの正確な居所を知ることだ。斥候たちに、木にのぼって見るように伝えてくれないか?」
「木、ですと?」
「ああ」
カルキノスは頷いて、指先を上に向けてみせた。
「空の見えるところへのぼって、煙の筋を探すんだ。メッセニア人たちは用心して、日頃の炊事では、なるべく煙を出さないようにつとめているかもしれない。だが、神々に犠牲を捧げるときには話は別だ。犠牲式では、天高く煙を立ち昇らせるだろう? それを見つけるんだ。ということは、祭日が狙い目だね」
「見事、見事!」
もっとも年嵩の長老が、ばんばんと手を叩いて、子供のように喜んだ。
「何もかも、理にかなっておるわい。見事な策じゃ!」
「まったく、その通りですな」
「今、送りこんである斥候どもは、皆、引き上げさせたほうがよいな。ここに、もっと適任者がおるぞ!」
「いや」
カルキノスはちょっと笑って、片手を振った。
「俺じゃ、物見の役には立ちませんよ。足は遅いし、いざというときに戦えないし。
それよりも、今まさに命をかけてメッセニアの奥深くまで入りこんでくれている皆こそ、一番の功労者です。彼らの報告がなければ、策なんて、立てようにも立てられないんですから……
じゃ、俺はこれで。そろそろ、次の役目がありますので」
「おお。少年たちの、歌唱の時間かな?」
「ええ」
アナクサンドロス王からの問いかけにカルキノスが答えると、男たちはますます感心してざわめいた。
「いやはや、カルキノス殿は、お忙しいのう」
「我らもぼやぼやしてはおれんぞ!」
「カルキノス殿、ただいまの話、すぐに斥候たちに伝えさせます」
「うん。皆に、気をつけて任務にあたるようにと伝えてください」
斥候の束ねの男にそう言いおいて、カルキノスは男たちに見送られながら、杖をついて議場から出た。
(確かに、慌ただしいな。だが、弱音を吐いている暇はない。今まさに、命をかけて斥候の任務にあたっている男たちがいるんだ。俺は、ここで、俺にできることをしなくちゃ……)
* * *
今度の行き先は、運動場のそばの広場だ。
道ですれ違う男たちが、立ちどまって丁寧な挨拶を送ってくる。
それに応えながら、できるかぎりの速さで広場を目指す。
ずっと日陰のない道を歩いてきたために、汗がふきだして顔と背中をびっしょり濡らし、それが足元まで流れ落ちてきた。
(少し遅くなった。もう、みんな集まって、待ってるんじゃないだろうか……ん?)
道の先に、何かちらちらと動くものが見えたような気がして、カルキノスは汗まみれの顔を上げた。
曲がり角に生えている木の陰から、少年の顔がふたつ、出たり引っこんだりしている。
目が、合った。
「きた!」
「きたっ!」
甲高い叫びをふたつ残して、その姿は、あっという間に見えなくなる。
(あそこか――)
いっそう足取りを速め、ふうふう言いながら角を曲がったカルキノスは、驚いて足を止めた。
「ようこそ、いらしてくださいました!」
ずらりと整列した少年たちが、一糸乱れぬ挨拶でカルキノスを出迎えたのだ。
「カルキノス先生! あなたのような方が、僕たちのもとを、おたずねくださったことを、とても、光栄に思います!」
籤か推薦かで、代表に選ばれたのだろう。ひとりの少年が、一歩進み出て、大声で言った。
「この地区の、少年の組の全員が、ここに集まっています。皆、あなたの歌を聴くことができるのを、心から、楽しみにしていました!」
「どうも、ありがとう」
カルキノスがそう答えると、表情に緊張をみなぎらせていた少年は、ほっとしたように頬をゆるめ、列の中にさがった。
「カルキノス様」
今度は、少年たちの右横に控えていた、いっとう背が高く体格もよい若者が進み出た。
「初めてご挨拶申し上げます。俺は、ラカレスと申します。この組の監督を任されている者です」
「ラカレスくんか、よろしく。さあ、皆を、そっちの日陰に座らせてくれ。さっそく始めよう!」
「はい!」
まるで大人の戦士たちが戦列をととのえるように、少年たちは見事にそろった動きで日陰に集まり、肩を寄せ合って半円形に腰を下ろした。
カルキノスがその真ん中に立つと、腰かけと、彼の竪琴とが運ばれてくる。
カルキノスの家付き奴隷が、あらかじめここまで運んできておいたものだ。
「では、始めようか」
少年たちのまっすぐな目が、カルキノスを見上げる。
カルキノスは腰かけに座り、弦の調子をととのえると、朗々と歌いはじめた。
戦に背を向けるか? 臆病風に吹かれ
持ち場を放棄して?
引きさがってゆくのか? 誇りをなげうって
友たちを見捨てて?
我らスパルタの 男と生まれた
戦場の子として
勇気なき者は 男にはあらず
気概ふるわせて 決して退くな――
スパルタで重んじられるものは、剣と竪琴。
彼らは、武技と同様に、音楽のわざを尊ぶ。
詩歌女神がもたらしたもう音楽と、それにのせて歌われる詩は、名誉と勇気、あるべき生き様を、人の心に吹き込むものだからだ。
すぐれた歌を聴き、また歌うことは、昔から、教育の一環として取り入れられてきた。
子供たちを正しく導き育てることは、将来、盾と槍とを構えてスパルタを守る、精強の戦士たちを育てることに他ならない――
カルキノスの歌を間近に聴いた少年たちは、顔を輝かせた。
「大掘割の戦い」は、まだ戦場に出たことのない少年たちのあいだでは、ほとんど神話の中の出来事のように語られている。
他ならぬその戦いにおいて、スパルタに勝利をもたらした名高い詩人。
その人が、今、目の前で歌っているのだ。
彼らはみな、目を皿のようにしてカルキノスの演奏を見、その歌声を聴いていた。
「さあ」
自分が歌い終えると、カルキノスは片手を動かして、少年たちを促した。
「今度は、皆で一緒に歌おう!」
少年たちはいっせいに立ち上がり、足を踏ん張り、胸を張った。
張り上げる声も勇ましく、カルキノスの竪琴の音にあわせ、そろって体を揺らしながら歌う。
見よ、彼を! 最前列に
盾と槍とを構え
退かぬ背に 不滅の誉れ!
語り継げ
彼の名を
永遠に!
(ああ……)
竪琴を弾きながら、カルキノスの胸中には、さまざまな思いが浮かび、消えていった。
いつかは、この連中がみんな、自分から俺のまわりに集まってくる。
俺の詩を聴くために。
そして、俺の詩の中に自分の名が歌いこまれることを至上の誇りと思い、俺の詩を自分たちも声に出して歌うことを、何にもかえがたい喜びとするようになるのだ――
あれは、スパルタにやってきた最初の日。
誰からも馬鹿にされ、こんな男は何の役にも立たない、と言われたあの日に、自分は、そう思ったのだった。
あれから、もう何十年も経ったような気がする。
あの日に考えたことは、今、すべてが実現していた。
皆の尊敬を集める立場となり、晴れがましいことだと思う。
自分の詩が認められ、人々から熱く求められ、市民全員が歌うことができるまでに広まっていることに、大きな喜びもある。
自分の歌が、男たちの勇猛心を奮い立たせ、スパルタを守ったのだという自負心もある。
だが、なぜだろう。
明るい部屋に、ふと、一筋の影が落ちるように、どこか――
『あんまり、よくないなー』
はっとして、カルキノスは弦をひとつ弾き違えたが、少年たちが最後の音を力いっぱい歌い切ったために、その間違いは誰にも気付かれることはなかった。
少年たちは満足げに小鼻をふくらませ、互いに顔を見合わせ、まるで本当に自分たちが戦列に立ち、隣の者と力を合わせて敵を打ち破りでもしたかのように晴れやかな顔をしている。
ラカレスと名乗った若者もまた、合唱の余韻を噛みしめるように黙って目を輝かせていたが、ふと自分の役目を思い出した様子で、表情を引き締めた。
「おい!」
何の前触れもなく、少年のひとりを指して、詰問するような調子で言う。
「おまえは、今の歌から、何を学んだか?」
「勇気です!」
指された少年は、ほとんど質問とひとつづきに聞こえるほどの素早さでそう答えた。
(おお)
カルキノスは、反射的に衣を握りしめた拳をゆるめ、胸中で胸をなでおろした。
(よかった。上手に答えることができて……)
スパルタの男たちが少年たちを教育する方法のひとつが「問答」だ。
短剣で敵の心臓を刺すように、研ぎ澄まされた寸言をもって相手を黙らせることがスパルタの弁論術の真骨頂である。
そのわざを磨くため、スパルタの少年たちは幼いころから、年長者の質問に対して的確に、簡潔に返答することを徹底して訓練される。
この一年のあいだに、カルキノスは何度もこのような場に招かれ、「問答」の訓練のようすを目にしてきた。
若者の組ともなれば、そのやりとりはまるで短剣の切っ先の応酬のように鋭く、見ているこちらの腹が痛くなってくるほどの緊張感があった。
それは、ナルテークスが耐えてきた辛さを思い出してしまうからでもあった。
質問に対して口ごもったり、見当外れの答えをした者は、年長者から容赦なく罰せられる。
緊張しやすい者や、口下手な者にとっては、あまりにも厳しい試練だ――
「よし、いいだろう。おまえはどうだ?」
「はい。一歩も引き下がらないことです!」
「よし。おまえは?」
「どんなときも戦列にとどまる、ということです!」
この組の少年たちは、問答の成績がとても優秀であるらしい。
どの少年も胸を張り、まっすぐにラカレスを見返し、堂々と返答している。
同じ歌について問われるのであるから、当然、後の方で当てられる者は不利だ。
自分が言いたかったことを、先の者に、すっかり言われてしまうかもしれないからだ。
だが、少年たちは、似たようなことであっても、うまく言い回しを変えて、まるっきり同じにはならないように返答していた。
これまでの訓練の中で、彼らは、瞬時にそうできる能力を鍛えてきたのだ。
その過程で、いったい、どれほどの辛いことがあったか。
あるいは、今ここに立つことを許されなかった少年たちも、いたのではないか……
そういったことは、できるだけ、考えないようにした。
(きっと、大丈夫だ。だって、このラカレスは、少年たちのことをきちんと考えているようじゃないか)
それというのも、先ほどからラカレスが指名するのは、少年たちの中でも年長と見える者たちばかりだったからだ。
ラカレスと、年上の少年たちとのやりとりを、訓練に入ったばかりと思われる幼い顔つきの少年たちは、食い入るように見ている。
彼らはこうして、自分自身が問答の訓練を受けるときに、どのように答えればよいのかを学んでいるのだ。
「ん?」
ひととおりの問答を終えたところで、ラカレスが、ふと不思議そうな声をあげた。
カルキノスも思わずそちらを向き、ラカレスが何を気に留めたのかを確かめようとして首を伸ばした。
少年たちの中でも、もっとも年少にあたるくらいの歳の少年が、前に進み出ている。
じっとラカレスを見つめる顔つきは、まるで、僕を指名してください、と無言で訴えているかのようだった。
(あれ?)
カルキノスは、首を傾げた。
記憶の端に、かすかに触れるものがあった。
この子と……前に、どこかで、会ったことがあるような気がする。
カルキノスは眉を寄せ、少年の顔をじっと見つめた。
「何だ。おまえも、答えたいのか?」
「はい」
ラカレスの問いに、少年は、いまだ幼さを残した高い声で、はっきりと答えた。
(声には……覚えは、ない)
でも、なぜだろう。
この子の顔を、確かに、どこかで――
「ほう?」
ラカレスは、ずいと少年に顔を近づけた。
「勇気があるな。おかしなことを答えたら、ひどい目に遭わせるぞ。いいな?」
「はい」
凄んでみせても、少年の表情は変わらない。
ラカレスは眉を上げて、問いかけた。
「では訊いてやる。おまえは、今の歌から、何を学んだか?」
「死は美しい、ということです!」
はっ、と息を飲む音があがった。
それが、自分自身の喉がたてた音だと、カルキノスはしばらく気付かなかった。
「それではだめだ」
ラカレスが腕を組み、怖い顔をしてみせる。
「それは、歌のなかにある言葉だからだ。おまえは、歌に対するおまえの考えを、おまえ自身のことばで話さなくてはならない。もう一度、答えてみろ!」
「はい!」
少年はますます胸を張り、凛として答えた。
「スパルタのために死ねば、歌に残り、みんなに尊敬される。
だから、死ぬことは、何も怖くない。美しいんだ、ということです!」
(違うよ――)
カルキノスは、もう少しで、そう声を出すところだった。
死は美しい
祖国のため
共に死のう!
自分は、確かに、そう歌った。
だが、死ぬためにではない。
生きるためだ。
恐怖に打ち勝ち、死を恐れず戦うことで皆が生き延びるようにと、祈る思いで歌った。
『死は恐ろしい』
顔を歪め、その言葉を何度も叩いていたナルテークスの表情が思い出された。
首をかしげ、眉を寄せたアクシネの顔も。
『あんまり、よくないなー』
(違うよ)
そう言おうと口を開きかけて、カルキノスは、動きを止めた。
少年が、まっすぐに、こちらを見ている。
ねえ、詩人さん、そうでしょう? とでも言いたげな、緊張と期待とが入りまじった表情で。
(今のは……俺に、向かって、話していたのか?)
スパルタの男たちは、年長者に対する敬意というものをとても重視する。
訓練を始めたばかりの少年が、遥かに年上の名高い詩人にいきなり話しかけるなど、あってはならないことなのだ。
(だから……この子は、ラカレスの問いに答えることで、自分の言葉を、俺に聞かせようとした……?)
なおもしばらく、少年の顔を見つめているうちに、
(あっ)
カルキノスは、ようやく彼のことを思い出した。
(あの子だ)
ステニュクレロスでの敗戦の、直後のことだ。
確か、長老会からの帰り道でのこと。
道を歩いていた自分に、石を投げつけてきた少年がいた。
あのときと比べて、背がずいぶん伸びているのと、髪を全部剃り上げているせいで、すぐには気付かなかったのだ。
あの日、彼は、目に涙をいっぱい溜めてカルキノスを睨み、石を投げつけてきた。
きっと、彼の家族が、ステニュクレロスで死んだのだ。
『なぜだ。おまえは、救い主じゃなかったのか。
それなら、なぜ、スパルタは負けた。なぜ、父さんは死んだんだ。僕の父さんを返せ!』
そう詰め寄ってくるかのような、あの日の彼の視線は、恐ろしかった。
カルキノスは、ただ目を逸らし、逃げだすことしかできなかった。
そして、今。
彼が向けてくる、まっすぐな、ひたむきな視線は、あの日よりも、ずっと恐ろしかった。
『ねえ、詩人さん。僕、あのときは何も分かっていなかったけど、今は、分かるようになったよ。
僕の父さんは、英雄になったんだね』
これまでに、いくつもの地区で、数え切れないほどの少年たちの前で、あの歌をうたってきた。
何度も、同じように、はっとさせられたことがあった。
『死は美しい』
自分でうたった言葉だ。
だが、その言葉が少年たちの口から出るのを聞くたびに、心の中で、少しずつ違和感が膨れ上がっていった。
今、それが、弾けそうになっている。
目の前の少年は、あの日、肉親の死に怒り、それを防ぐことができなかったカルキノスの無力に怒っていた。
それなのに、今、彼は微笑んでいる。
もう、カルキノスに怒ってはいない。
それどころか、これでは、まるで――感謝さえ、しているような――
『スパルタのために死んだ父さんは、あなたの歌になって、みんなに歌われて、永久に尊敬される。
スパルタのために死ぬことは、美しいことなんだ。
僕たちも、いつか、そんなふうにならなくてはいけない』
(違うよ!)
そう言いたかった。
だが、言葉は出てこなかった。
ナルテークスのことを、思った。
カルキノスが少年の言葉を否定すれば、少年は「問答の答えを誤った」ことになるのだ。
ラカレスは「おかしなことを答えたら、ひどい目に遭わせるぞ」と言っていた。
言ったからには、彼は、容赦しないだろう。
少年は、殴られるかもしれない。
皆の前で、鞭で打たれるかもしれない。
別の地区の少年がやられていたように、親指の付け根を力いっぱい噛まれるかもしれない――
「そう、だね」
カルキノスは、呟くように答え、少年に向かって笑いかけてみせた。
「君たちは……恐れることなく、勇敢に戦って、スパルタを守るんだ。すぐに、そうなる。その日のために、励んでくれ」
「はい!」
少年は、胸を張って、叫ぶように答えた。
偉大な詩人に声をかけられたという喜びに、頬を紅潮させながら。
「うん……」
カルキノスは、慌てたように立ち上がった。
「それじゃあ、俺は、これで」
大声で別れの挨拶を叫ぶラカレスと少年たちから逃れるように、カルキノスは、右脚が許すかぎりの早足でその場を離れた。
なぜかは分からないけれども、涙があふれそうになっていた。
この顔を、少年たちに見せるわけにはいかないと思ったのだ。
(違う)
まっすぐな眼差しで見つめてくる少年の表情が、頭から離れない。
『死ぬことは、何も怖くない。美しいんだ、ということです!』
(違うよ!)
そのときだ。
「やあ」
とうとう足を止め、顔をおおったカルキノスの前に、ふらりと人影があらわれた。




