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わかれ

     *     *     *



   見よ、彼を! 最前列に

   盾と槍とを構え

   退かぬ背に 不滅の誉れ!

   語り継げ

   彼の名を

   永遠に!



(まだか)


 カルキノスはロバの上で竪琴をきつく抱きしめ、彼我の軍勢の動きに目を凝らしながら、祈る思いでいた。


(まだ……アルカディアは、動かないのか!?)


     *     *     *

  *     *     *


『ところで』


 森での密談を終えた別れ際に、アナクサンドロス王は、ふと思い出したように言った。


『アルカディアの王を買収するという、そなたの策についてだが。

 はたして、それを、長老会で提案する必要があるかな?』


 立ち去ろうとしていたメギロスが、ぴたりと足を止めた。

 カルキノスも振り向き、王の顔を、真顔で見返した。


(買収工作は……許さないというのか?)


 スパルタには、もはや後がない。

 打てる手は全て打っておくべきだ。

 たとえ、それが、どんなに「スパルタにはふさわしくない」手であったとしてもだ――


『そうではない』


 カルキノスの思考を読んだかのように、王は穏やかに笑った。


『わしが言っておるのは、この作戦の実施にあたり、わざわざ、皆にはかる必要があるだろうか? ということだ』


 その言葉の意味が理解できると同時、王の顔を見つめる視線はそのまま、カルキノスは、目を丸くした。


『それは……それは、つまり』


 さしものメギロスが、言葉をつかえさせながら言う。


『長老会を通さず・・・に、この作戦を進めると?』


『極秘裏に進めなければ、何の意味もない策じゃ』


 王は、当たり前のように言った。


『味方に、このことを知る者が多くなれば、敵に漏れる危険もまた、それだけ大きくなるであろう』


『しかし……』


 自分から提案したことでありながら、カルキノスは、思わず口ごもった。

 事が事である。

 万が一、露見したならば、ただではすまない。

 スパルタの男たちは激怒するだろう。

 勝利を金で買うということは、彼らが何よりも重んじるスパルタの戦士の「恥」と「名誉」を地に投げ捨てるに等しい行為だからだ。


『なあに、失敗したときと、話が漏れたときには、我らが責任を取ればよいだけのこと。スパルタが存続するためならば安いものじゃ。――カルキノスよ』


 王は、その大きな手で、力づけるようにカルキノスの肩を叩いた。


『やろう。万が一のときは、わしとそなたと二人で、石打ちにでも何にでもなろうぞ――』


     *     *     *

  *     *     *


(どうか)


 言葉にせねば届かぬはずの神への祈りを、今、口にすることはできない。

 カルキノスは食い入るように戦場を見つめながら、心の中で絶叫するように祈り続けた。


輝けるフォイボス・アポロン神アポローンよ、これまでに俺が、そしてスパルタの男たち女たちが営々と御身に捧げ奉った供物が、わずかなりとも御心にかなうものでありましたならば、どうか今ひとたび、そのことを思い起こされ、我らの策を成らせてください!

 この通り、アテナイの……いいえ、スパルタのテュルタイオスが、命を賭けて祈願いたします!

 この祈願をお聞き届けいただけましたならば、スパルタは百頭の牛ヘカトンベーをあなたに捧げます。

 アルカディア王の心を迷わせ、スパルタに光明を……どうか!)


 この策が成らなければ、ふたつの軍勢はまともに激突し、おびただしい数のスパルタの男たちが死ぬ。


(どうか、彼らを、黒き死からお守りください!)

 


   盾に盾 槍には槍で

   命には命で



 彼我の戦列が近づく。

 最前列の盾がぐっと上がり、槍の穂先が一斉に下がる。


(まだなのか!?)



   ぶち当たり 食らいついて

   共に死のう

   笑いながら

   誇り高く!



 凄まじい号令がとどろき、ばらばらと投石が飛び交いはじめる。


(だめだ、始まる……!)


 そのとき、カルキノスは、ぎくりとして視線を落とした。

 そして、自分の両手がいつのまにか腰に巻きつけた革紐の結び目をつかみ、必死に揉みほぐそうとしていたことに気付いて愕然とした。

 覚悟を決めたはずだった。それなのに、自分はまだ、逃げだそうとしているのか?

 だらりと両手を下ろす。

 情けなかった。戦士たちに申し訳ないと思った。自分の弱さが、哀しかった。

 だが同時に、人間の本能がもつ、生への執着の強烈さに驚かされる思いでもあった。


 死にたくない。

 生き残りたい――



   死は美しい

   祖国のため

   共に死のう!



 そのときだ。

 不意に、大地そのものが、滑った・・・ように見えた。


     *     *     *


「何だ!?」


 盾を掲げ、槍を構えたまま、グラウコスは目を見開いた。

 これは夢なのか。

 自分たちの目の前で、大地が横ざまに滑っていく――

 そのように、見えた。


「これは……」


 思わず前進を止めて瞬きをし、エウバタスも呻いている。

 地割れか。地滑りか。

 だが、それにしては、自分たちの足元の地面はわずかにも揺らいではいない。

 動いているのは――


「あ……」


 目の当たりに見ても、とうてい信じられない光景だった。

 グラウコスたちの目の前で、アルカディア軍が――メッセニアの同盟軍であるはずのアルカディア全軍・・が、突如として真横に転進したのだ。

 アルカディア軍は、スパルタ軍に横腹を見せながら、ものすごい速度で東へ――メッセニア軍・・・・・・のほうへ・・・・と進み始めたのである。

 彼らはそのまま、メッセニアの軍勢の後ろ半分を大きく抉るようにしながら戦場から離脱し、駆け足で退却していった。


「なっ……」


 一瞬、誰も理解できなかった。

 いったい、何が起こっているのか。


     *     *     *


「おおおお!」


 カルキノスの目から、涙が流れた。


(策が……成った!)


 アルカディアが動いた。

 命をかけた渾身の祈りを、アポロン神は、聞き届けてくださったのだ。

 彼は歓喜のあまり泣きながら笑い出し、隣であんぐりと顎を落としている老予言者に飛びついて、彼を力いっぱい抱きしめた。


「勝利だ!」


     *     *     *


 アルカディア勢の突然の転進に混乱したのは、スパルタの男たちだけではない。

 メッセニアの軍勢は、大混乱に陥った。


「何だ!? どうした!」


「どうなっている!? これは――」 


「アルカディアが!」


 ようやく現実を認識した者たちの、悲鳴のような声がそこかしこで上がった。


「アルカディア勢が、退いていく……!」


     *     *     *


「王よ! 本当に、よろしいのですか!?」


「うむ!」


 太い指でしきりに顎をこすり、髭をむしり取りながら、アルカディア王アリストクラテスは、親衛隊とともに全速力で駆けている。


「聴け、あの歌を! スパルタの男どもは、残らず死兵と化しておる。このまま戦えば、我らアルカディアの軍は、恐るべき痛手をこうむることとなるだろう!」


「しかし……」


「そもそも、メッセニア人どもめ、我らを崖の真横に布陣させるなど、ふざけた話よ!」


 アルカディア王は、部下の上から押しかぶせるような勢いで、唾を飛ばして叫んだ。


「メッセニア人どもは、逃げ場のない状況で我らをスパルタ王の率いる精鋭部隊にぶつけ、我らを共倒れにしようと考えていたのだ。この戦いで、スパルタの土地のみならず、我らがアルカディアまでも手に入れようという魂胆よ!」


「なるほど! 王は、それを見抜いておられたのですね!」


「当たり前じゃ! それ、とっとと退却するぞ!」


 ――これで、スパルタからの密書にあった頼みは果たした。


『交戦の直前になって兵を引き、以降の戦闘には一切、関与しない』


 そればかりか、こちらは、より混乱を拡大するため、わざわざメッセニア軍の戦列の後ろ半分を――真横に崖があるために、そちらにしか移動できなかったというのが真相ではあったが――抉るように突っ切って通るという危険すらも冒したのだ。

 このことで、スパルタ側から贈られる財貨が、どれほど上乗せされるか。

 それを思い、自然と緩みそうになった頬を アルカディア王は慌てて引き締めた。


「退け、退けい! こんな戦いで無駄に命を落とすことはない。アルカディアに引き上げるのだ!」


 背後からは、メッセニアの連中の悲鳴と呪いの声が聞こえたが、そんなことはどうでもよかった。

 どれほどの金も、宝石の輝きも、命あってこそ役立つものなのだ。


     *     *     *


(敵が、割れた)


 アルカディアが、メッセニアを裏切ったのだ。

 その事実が、全員の意識に浸透した瞬間、狂気ともいえる爆発的な興奮がスパルタ全軍をとらえた。


男を殺すエニュアリオス・戦神アレスよアンドレイフォンテース!」


 白熱した炎が、理性の箍を吹き飛ばし、男たちを殺戮の化身へと変える。

 強靭な肉体を突き動かすのは、鍛錬によってしみついた動作。

 槍を振るい、敵を殺す――

 グラウコスの喉から、裂帛の気合がほとばしった。


「我が血と、我が敵の血を、御身に捧げ奉らん! 突撃だアァァァ!」


 スパルタの戦士たちが咆哮する。

 彼らは、猛牛の群のようにメッセニアの戦列に突入した。

 メッセニア人たちには、現状を受けいれ、新たな状況に立ち向かうべく態勢を整えるだけの時間は与えられなかった。

 燃える青銅の津波と化して、スパルタの戦士たちが突っ込んできたからだ。

 たちまち金属のぶつかり合う凄まじい物音があがり、あたりは雄叫びと血と悲鳴に満たされた。

 

   盾に盾 槍には槍で

   命には命で


「ウオオオオオオォッ!」


 グラウコスが突き出した穂先が、大きく開いた敵の口のど真ん中を貫き、首の後ろから飛び出して兜を吹き飛ばす。

 彼はすぐさま槍を引き抜き、繰り出して、その隣にいたもう一人の敵の腿を刺し、その顔面を盾の縁で殴りつけてよく熟れた果物のように叩き潰した。


   ぶち当たり 食らいついて


「殺せえええええ!」


 スパルタの男たちの刃が、メッセニアの男たちを切り刻んでいく。

 身を守ろうと武器を掲げた腕が飛ぶ。血がしぶく。

 命乞いをするかのように開いた口が、真横に真っ二つに切り裂かれる。


「俺たちに逆らった報いを思い知れぁあああああ!」


「皆殺しにしろおおぉ!」


 

 怒号と悲鳴の合間に、アウロイが甲高く鳴り響く。

 憤怒に燃えるスパルタの男たちは、もはや、人間のようには見えなかった。

 全身を血に染めて躍りかかる「死」そのもののようだった。

 彼らの猛攻の前に立ちはだかり、踏みとどまる勇気を持つ者は誰ひとりとしていないようだった――

 そのときだ。

 不意に、スパルタの戦士の一人が盾を取り落とし、空をつかむような仕草をしながら、地面に倒れた。

 その眼窩に突き立っていたのは、一本の投槍。

 仲間の死を察知した蟻たちが波紋のようにざわめき、動きを止めるように、スパルタの戦列に動揺が走った。


     *     *     *


 その、ほんの少し前。


「アリストメネス将軍!」


 メッセニアの若い部隊長が、兜の上からでもはっきりとわかるほど顔を蒼ざめさせて叫んだ。


「アルカディアが! アルカディアの軍勢が、勝手に退いていきます!」


「あのくそったれどもめが、裏切りおったのですぞ!」


 メッセニアの男たちは口々に喚いた。

 喚きながら、彼らはみな、ただひとりの男を見つめていた。

 まだ若いのに、どこか老人のように見える男だった。

 スパルタの戦士たちが迫り来る恐ろしい物音の中で、メッセニアの戦士たちはその男の口元を食い入るように見つめ、自分たちの運命を切りひらくであろう一言が発されるのを待った――


「アテナイから来た将軍はどこだ」


 男――アリストメネスは、そう言った。

 その目は、兜の下で暗く翳って見えた。

 彼は普通の将軍のように、最右翼の最前列にはいなかった。

 中央、中段のほんの少し高くなった場所にいて、彼我の軍勢の動きを見つめている。

 男たちは、はっと顔を見合わせた。


   『汝らの将軍をアテナイ市より求めよ』


 デルフォイの神託所において、メッセニアを打ち破る方法をスパルタ人たちがたずねたとき、アポロン神がそのような神託を下されたという話は、彼らの耳にも入っていた。

 その「将軍」は、前回のステニュクレロスの戦いにも従軍していたという。

 神助ある者。

 ステニュクレロスで、今一歩のところまで迫りながらもスパルタ人たちを取り逃がし、全滅させることができなかったのも、その男の存在があったからではないのか――


「将軍だというならば……右翼か!?」


「違う、後ろだ!」


「そうだ、ステニュクレロスでは、スパルタの戦列の後方にそれらしき者がいました!」


「その男を殺せば、スパルタは神助を失う」


 アリストメネスは呟くように言い、無造作に進み始めた。

 狂った牡牛の群のように押し寄せる、スパルタの戦列に向かってだ。


「無茶だ! あなたが死ねば、メッセニアの人々は最後の希望を失う!」


「将軍、退いてください! ここは退いて、態勢を――」


「命を惜しんだ先に、自由はない」


 そう言ったアリストメネスの槍の穂先が、まっすぐに、スパルタ軍の戦列をさした。


「あれを」


 ただそれだけアリストメネスが口にした、その意味を、メッセニアの戦士たちは瞬時に理解した。

 目を背けることなく見据えれば、動きでわかる。

 彼らの真正面。

 スパルタの戦列の、中央。

 その中段を埋める者たちの動きの遅れ、がたつき――

 精鋭ではない。

 頭数を揃えるためにかり出された、経験の浅い兵たちだ。


「俺に続け。槍のように、貫き、突き通す!」


「できますか――」


 若い部隊長が叫んだときには、もう、アリストメネスは駆け出している。

 メッセニアの男たちは、もはや迷わなかった。


「行こう! いざ!」


「将軍に続け!」


 彼らに、命を惜しむ気持ちはない。

 奴隷として自由を奪われたままで生き続けるよりも、死の危険を冒して戦うことを選んだ男たちだ。


「自由を」


 アリストメネスに続いて疾駆する男たちの口から、火のような叫びがほとばしった。


「我らがメッセニアに自由を!」


 最前列から飛び出したアリストメネスの手の中で、投槍が夢のように軽やかに握り直され、唸りをあげて飛んだその穂先が、ひとりのスパルタの戦士の眼窩に突き立った。


     *     *     *


(勝てる!)


 アイトーンは、興奮していた。

 投槍は地面に置き、腰の袋にいっぱいにつめこんだ石を取り出しては、メッセニアの軍勢に向かって休みなく投げ込み続けている。

 いったい何が起こっているのか、彼の位置からではよく見えない。

 だがそれでも、大きな物音と全体の空気とで、敵陣が大混乱におちいっていることと、味方が大いに有利であることだけははっきりと分かった。


(勝てるぞ!)


 旦那様とカルキノス様の歌が、神々の心を動かして、スパルタに神助を呼びこんだ。

 カルキノス様は、本物の「救い主」だったのだ。


『俺たちのことを、助けてくださったんだ』


 前に、スパルタ人たちの目を盗むようにして、顔見知りの奴隷たちがそっと教えてくれた。


『リュコスが酒を飲まされて倒れそうになったときに、あの方が助けてくれた』


『スパルタ人に意見して、俺たちを庇ってくださったんだ』


『アテナイから来た、あの将軍は、俺たちの味方だよ……』


 その話を最初に聞いたときには、とても信じられなかった。

 家の中で見たことのあるカルキノス様の様子は、一日中、部屋にこもって竪琴をかき鳴らしているか、アクシネさんに振り回されて慌てているかくらいしかなかったからだ。

 優しい人だとは思っていたが、あの方が奴隷たちを庇うためにスパルタ人に食ってかかったり、将軍として戦の指揮をとったりするようなことは、どうしても想像できなかった。


(本当に、そんなにすごい人なのか)


 ずっと半信半疑でいたが、あの歌を聴いたとき、全てが変わった。

 祭礼の行進のように、スパルタ人たちが皆、あの方の歌を歌いながら歩いていく。

 その行列の先頭をゆく、二人の男の姿を見たとき、本物だった、と思った。


(旦那様が、歌っている――)


 一生ついていこう、と心に決めた。

 あの方は、動かないはずのものを動かし、変わらないはずのことを変えてくださる方なのだ――

 そのときだ。

 記憶の薄紙を破るように、わあっと凄まじい物音が耳に届いた。

 水路が崩れて、水が噴出するように、目の前でスパルタの戦士たちの壁が崩れる。

 そこから、凄まじい勢いで突入してきたのは、メッセニアの戦士たちだ。


「将軍に続け!」


「我らがメッセニアに自由を!」


(あれが!?)


 敵の喚き声を聞いて、アイトーンは戦慄した。

 メッセニアの男たちを束ね上げ、精強のスパルタに立ち向かわせた男。

 アリストメネス。

 これまで、名前と評判を聞いたことしかなかった。

 その男の姿が、今、視線の先に現れたのだ。

 猛然と槍を振るい、盾で殴りつけながら突き進んでくるその姿からは、神でさえも身を引くのではないかと思われるほどの猛気が感じられた。

 目の前に立てば、圧倒され、手も足も出せないまま打ち殺されてしまいそうだ。

 だが、少し、遠い。


(やれる……んじゃ、ないのか?)


 アリストメネスの猛攻に耐えきれずに下がってくる戦士たち、新たに突っかかってゆく戦士たち。

 二つの動きが入り乱れる乱流の中、アイトーンは、奇妙に静かな世界に立っていた。

 彼は、握っていた石を捨て、足元に置いていた投槍を拾った。

 スパルタの戦列のど真ん中を貫いて突き抜けようというのか、アリストメネスとその配下たちは、槍の穂先のようにまっすぐに進んでくる。

 こちらに向かってくるのではなく、わずかに、右方向に逸れている。

 ここから、充分に、狙いを、つければ――


男を殺すエニュアリオス・戦神アレスよアンドレイフォンテース!」


 切り裂くような雄叫びと共に、味方を跳ねとばす勢いで横手から突っ込んできた一人のスパルタ戦士が、アリストメネスに襲いかかった。

 頭から壺いっぱいの生血をかぶったかのような姿は、まるで化け物だ。


(グラウコスさま!?)


 それが主人の親友だと、アイトーンには分かった。

 グラウコスはアリストメネスに肉薄し、凄まじい刺突を繰り出したが、メッセニアの将軍はそれをからくも盾で逸らした。

 お返しとばかりに飛んだ雷光のごとき穂先が、グラウコスの兜の側面を削る。


「貴様がアリストメネスかァ! 死ね、奴隷がァ!」


 兜の下で、暗い目がぎろりと光った。


「貴様らには奴隷でも」


 このとき初めて、男たちは、アリストメネスの肉声を聞いた。


「俺たちは、人間だ!」


「黙れ、死ね! 冥府に落ちて烏に食われろ!」


 乱戦になる。

 アリストメネスの前進は、止まっていた。

 敵将の存在に気付いたスパルタの男たちが、続々と集まりはじめる。


「将軍!」


 アリストメネスのまわりを、メッセニアの男たちが盾となって取り囲んだ。


「お退きください! このままでは――」


「あなたが最後の希望です! どうか……!」


「どかんかァ! 雑魚は、引っ込んでいろッ!!」


 鎚の一撃のように重いグラウコスの突撃を、まともに盾で受け、ざざっと踵を滑らせながらメッセニアの戦士が叫ぶ。


「ここは我らが! どうか、退いてください――!」


「パナス!」


(どうか、メッセニアに自由を)


 パナスの口がそんなふうに動いた。

 アリストメネスの表情が歪んだ。

 彼は、身をひるがえし、仲間とスパルタの戦士たちに背を向けて駆け出した。


「逃がすかッ!」


 槍を投げつけようとしたグラウコスに、雄叫びをあげてメッセニアのパナスが襲いかかる。

 一斉に突進したスパルタの戦士たちは、メッセニアの男たちの肉の壁に阻まれた。


「追え、追え! アリストメネスが逃げるぞォ! 追えーッ!」


(やれる)


 アイトーンは投槍を握りしめ、逃げる得物を見据えたまま森の木々をよけて進む狩人のように、入り乱れる戦士たちの間をすり抜け、敵味方の死体をまたぎ越えてアリストメネスを追った。

 そこにいても、いないのと同じ。誰にも、気に留められることはない。

 奴隷はそういう存在だ。

 そんな自分が、この戦争を終わらせる。

 古の英雄のように。

 旦那様、カルキノス様。グナタイナ――


(当たれ!)


 アリストメネスと自分自身とのあいだに、遮るものが何もなくなったとき、アイトーンは立ち止まり、投槍を大きく振りかぶった。

 アリストメネスが、不意に振り向いた。

 兜の下で目が動き、彼を見た――


     *     *     *


 巣を崩されて右往左往する蟻たちのように、メッセニア軍が、潰乱していく。


「おお……おお……」


 スパルタの勝利、疑いなし。

 そう占いの結果を述べておきながら、そうなったことが自分自身でも信じられないという顔をして、老予言者が呻いている。


(勝った)


 ほとんど虚脱したような半笑いの表情で、カルキノスはその場に立ち尽くし、逃げ遅れたメッセニア人たちをスパルタの男たちが取り囲んで斬り殺してゆくのを見つめていた。

 そのときだ。

 分厚く天をおおっていた雲が、不意にひとすじ、切れて、そこから黄金色の光が射しこんできた。


「うわっ」


 カルキノスは、あまりのまばゆさに思わず顔を覆った。

 スパルタの戦士たちは、振り返り、その光景を見た。

 何人かが、声もなく口を開け、指をさした。

 花冠をかぶり、大きな岩のかたわらに立つ詩人の姿が、天からそそぐ金色の光に照らしだされるのを。

 まるで、アポロン神その方が、天上から、彼に恵みをそそいでおられるかのように――


 爆発的な歓声があがった。

 彼らは歌を歌いはじめた。

 スパルタを勝利へと導いた歌。

 彼らの運命を、光の射すほうへと切りひらいた歌を。

 彼らは敵の死体を踏み越え、またぎ越えながら、偉大な詩人のもとへと集まりはじめた。

 血に染まった武具がきらきらと光り、男たちの顔もまた輝いている。

 勝ったのだ。

 スパルタは、守られた。


 男たちはカルキノスを取り囲むと、自分を縛った革紐がどうしても解けずにもぞもぞしていた彼を、紐を断ち切って高々と肩に担ぎ上げ、まるで神殿に奉納する宝物のように、えい、おう、えい、おうと声を上げながら練り歩いた。

 周囲のぐるりはあの歌の大合唱に包まれていたが、皆が笑顔で歌っているために、もはや悲愴感はなく、歓喜と誇りに満ちた祝祭の雰囲気が漂っていた。


「すまん!」


 ようやく地面に下ろされたカルキノスのところへ、全身を血に染めたグラウコスが駆け寄ってくる。


「グラウコス……!」


「奴だ。奴がいた!」


 カルキノスの両肩をつかみ、血まみれの中でそこだけは白い目玉をぎょろつかせて、グラウコスは喚いた。


「この目で見たんだ。アリストメネスだ! それなのに、俺は、奴を取り逃がしてしまった……一生の不覚だッ!」


「いいんだ」


 カルキノスは小さくかぶりを振って、グラウコスの腕をつかんだ。


「君が、無事だったなら、それでいいんだ」


 不意に、男たちの一角からどよめきが起こり、人ごみがわかれて道が開いた。

 その道を、長身の若者が、こちらに向かって歩いてくる。


「ナルテークス!」


 カルキノスは思わず駆け寄り、ぶつかる一歩手前で立ち止まった。

 グラウコスと同じように全身を血にまみれさせたナルテークスは、兜を脱いで、何も言わずにカルキノスを見返した。

 その表情はいつもと同じように静かで、少し哀しげで、戦いの興奮の余熱など微塵も感じさせなかった。

 不思議な緊張感の中で、スパルタの男たちは口をつぐみ、二人の若者をかわるがわる見比べた。

 ナルテークスの口元に、あるかなしかの微笑が浮かび、彼は、右手を差し出した。

 カルキノスが、両手でその手を握った。

 戦士たちの歓声が爆発し、歌声はいっそう大きなものとなり、二人の若き詩人を押し包んだ。

 二人の名前を交互に叫ぶ声、死の闇も、陽の射す道も……と合唱する声、えい、おう、えい、おう、と槍を突きあげて繰り返す声。

 もはや収集もつかぬ興奮の中で、男たちにもみくちゃにされながら、


「あっ」


 カルキノスは、不意に目を見開き、動きを止めた。

 それから、押し寄せる男たちのあいだをぐいぐいとかき分けて、どこかへ向かおうとしはじめた。

 新たな男たちが次々とまわりから詰めかけてくるために、遅々として進まなかったが。


「カルキノス殿!?」


「何だ、どうしたんだ?」


「おい、どうした、カルキノス……!?」


「アイトーン!」


 慌てて引き留めようとしたグラウコスの手を振り払い、カルキノスは、死に見舞われた者たちが転がる戦場へと、跳びはねるようにして走っていった。

 幾人かのスパルタの戦士たちが槍を手に歩き回り、まだ息のある敵の体に穂先を突き立て、とどめをさしている。

 ただ呆然とその場に突っ立っている者や、座り込んで泣いている者たちもいた。

 この戦いで初めて実戦に出た奴隷たちだ。

 極度の恐怖と緊張から解放され、虚脱してしまっている。


「なあ、君、アイトーンを見なかったか!?」


 そのうちの一人の肩をたたき、呼びかけたが、じっとこちらを見返した表情は、仮面のようにこわばって動きがなかった。

 カルキノスはあきらめて、ふたたびアイトーンの姿を探し始めた。

 地面に転がるたくさんのメッセニア人たちの死体に混じって、あるいは若い、あるいは壮年のスパルタの男たちの亡骸があった。

 彼らは皆、スパルタのために勇敢に戦い、命を落としたのだ。


(歌を――)


 彼らのことを、人々の記憶にとどめるための詩を作らなくては。

 詩に歌われた者は、永遠に生き続ける。

 歌に終わりがなければ、その人の命にも、終わりはない――


「アイトーン!」


 もう何度目になるか分からない声を張り上げたとき、ようやく、見覚えのある姿が目に入った。

 アイトーンは、ちょうどこちらに背を向けて、仲間と背中合わせになるようにして座り込んでいた。


「勝ったよ!」


 おめでとう、君たちは自由だ――

 そう叫ぼうとして駆け寄ったカルキノスは、急激に速度をゆるめた。

 戦いの凄惨さに衝撃を受けたのか、アイトーンは、少しうつむいたまま、身動きひとつせずにいる。

 この大声が、聞こえないのだろうか。

 それとも――?


「アイトーン?」


 かさかさにかすれた声で呼びかけながら、一歩、踏み出したとき、カルキノスの目にも、ようやくそれ・・が見えた。

 アイトーンの首に深々と突き刺さり、その長さのほとんどが背後に抜けた槍の柄が。

 自分を見舞った運命に驚いているかのように、アイトーンは軽く目を見開き、口を開けていた。

 だが、その目には、もう何も映っていない。

 その口が誇らしげに希望を語ることも、もうない。

 だらりと投げ出された手のそばには、ついに飛ぶことのなかった投槍が転がっていた。


「やれやれ、今どきの若い者は!」


 敵の生き残りにとどめをさして回っていたエウバタスが近づいてきて、槍を振り、嘆かわしそうに言った。


「勝利だ、勝利だと浮かれて、最後の後始末まできっちりしておこうという者がおらん! もし、死体に紛れて敵の生き残りが伏せ、急に立ち上がって攻撃をしかけてきたらどうするのか。一人も生かさぬ心がけでいなくては、思わぬところで足元をすくわれる――」


 大声でそこまで言って、エウバタスは、カルキノスがじっとアイトーンの亡骸を見つめていることにようやく気付いたようだった。


「いや、本当に、素晴らしい策でしたな。さすがはカルキノス殿!」


「え」


 カルキノスは目を見開き、エウバタスの顔を見た。

 今、彼は、と言った。

 なぜ、彼がそのことを知っている?

 アルカディア王との密約の件は、王とメギロスと自分以外、誰も知らないはずなのに――


「奴隷どもを戦列に加えるという、このたびの策ですよ」


 エウバタスは笑顔で答えた。


「戦に志願してくるのは、腕に覚えのある若い奴隷たちだ。つまり、それだけ、我らに反抗したときの危険も大きいということ。メッセニアの連中のようになられてはかなわん。

 解放という餌をぶらさげて、力のある奴隷どもを志願させ、メッセニア軍にぶつけて、どちらの力も打ち砕く、というわけですな! 素晴らしい。まさに、一つの石で二羽の兎を――」


 鈍い音がして、エウバタスの鼻から、たらりと赤い血が流れ落ちた。

 エウバタスは目を見開いて、ゆっくりと自分の顔をさわり、真っ赤に染まった指先と、自分を拳で殴りつけた詩人とを不思議そうに見比べた。

 痛みを感じた様子はなく、ただ、今の出来事を理解しかねているようだった。


 カルキノスは、その場にくずおれて、号泣した。

 髪をむしり、衣を引き裂き、胸をうち叩いて泣き叫んだ。

 ぱらぱらと集まってきたスパルタの男たちは、鼻血を出しているエウバタスと顔を見合わせ、不可解そうに瞬きをした。

 誰も、何も言わなかった。

 戦勝の最大の殊勲者である詩人が、ひとりの奴隷の死体の前で泣き叫んでいる。

 その、あまりにも理解しがたい光景に、皆、どういうことなのか、どうすればよいのか、少しも分からなかったのである。


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