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決意

     *     *     *

  *     *     *


 その日、決戦の場所として選ばれたのは「大掘割」の地であった。


 障害物のほぼない平坦な土地が、西側で急に切れ落ちたように下がっている。

 スパルタの軍勢は、この崖を右手に見て布陣していた。

 アナクサンドロス王が陣取る最右翼は、いわば崖と味方の軍勢とに挟まれて、左右の機動を封じられる状態となっている。

 王自身が、そのような布陣を決定した。


 左右の機動は、ない。

 後退も、ない。

 前進して敵を打ち破るか、踏みとどまって潰滅するか、ふたつにひとつだ。


 スタディオン競走の勝者ならば駆け出してから20も数えぬうちに突入することができるであろう距離に、敵方の最前列が見える。

 盾に描かれた模様の特徴からして、敵方の右翼側をメッセニア勢が、崖と接し、アナクサンドロス王と向き合う左翼側をアルカディア勢が占めていることがわかった。

 その意気は軒昂たるもので、先ほどからずっと勇壮な音楽が鳴り響き、波の音のような鬨の声が響いてくる。

 対するスパルタ軍の側は、静まり返っていた。


「暗いですな」


 槍を手に、微動だにせず立ったまま、兜の下の目をぎょろつかせてグラウコスは囁いた。

 灼熱の太陽の下ではぎらぎらと輝くはずの槍の穂先も、磨き上げられた鎧も、今はくすんだような鈍い光を放つにとどまっている。


「うむ」


 グラウコスの右隣から、唸るように答えたのは、例のエウバタス殿だ。


「だが、あの人殺しのような太陽の下で戦わずにすむのだ。かえって好都合だな」


 エウバタス殿はそう言ったものの、言葉ほどに意気が揚がっている様子はなかった。 

 全天にどんよりと雲が垂れこめて薄暗く、空気は重苦しい。

 まるで上空から巨大な手がおおいかぶさり、この「大掘割」の地に集結した男たちを押しつぶそうとしているかのようだ。

 いや、この重苦しい気分の原因は、天候ばかりではなかった。

 

(目の前の敵と戦っているときに、背後から石と投槍の雨を浴びる破目にだけは、なりたくないな)


 グラウコスは顔をしかめた。

 自軍の中段に控える奴隷たちが、果たして、どこまで使えるようになっているか。

 突貫の訓練で鍛えてはみたものの、幼い頃から戦場でのふるまいを叩き込まれて育ち、幾多の実戦に身をさらしてきた自分たちと同じ動き、判断など、とうてい期待はできぬ。

 過剰な興奮、怯え、混乱……

 後段に控えるスパルタの男たちがいくら叱咤激励し、武器をもって脅したとしても、あの人数がひとたび狂乱状態に陥ったら、抑え切ることはできないだろう。


(カルキノスは、奴らを信じているようだったが)


 彼は、本物の戦を知らぬ。

 戦神アレスに付き従い戦場を自在に馳せ回る「潰走ポボス」と「恐慌ダイモス」の手に触れられたとき、人間に正気を保たせ、最後まで持ち場を守らせるもの。

 それこそが戦士の「恥」と「名誉」だ。

 奴隷たちは、そのどちらも持たぬ。

 よほど有利な戦というならばともかく、このぎりぎりの戦いで、奴隷たちの神経がどこまでもつか。

 それに、


(あいつらがいないというのが、どうにも、物足らん)

 

 それこそが、この重苦しい気分の最大の原因であるのかもしれなかった。

 初陣からこれまで、どんなときも肩を並べてきた頼もしい戦友たちが、今日は、傍らにいないのだ。


(ゼノン……ナルテークス……)


 ナルテークスは今、最右翼の王の側にいる。

 あの歌を歌うためだ。

 失われたはずの声を取り戻した『神助ある者』として、その力が王に、さらにはスパルタ軍全体に及ぶことを期待されているのだ。


 そして、ゼノン。

 もうこの世にはいない戦友の姿を、グラウコスは思い描いた。

 この戦いで、もしも、自分が命を落とすことになったら。

 あの世で再び出会ったとき、自分には、彼がわかるだろうか。

 いや。


『神託を信じよう』


 メッセニアの軍勢をまっすぐに見据えて、あの日、ゼノンは呟いたのだった。


『俺たちのスパルタは、必ず勝つ』


(そうだ……そうだった、な)


 思えば、あの神託に導かれて、自分たちはここまで来たのだ。


   『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』


 ステニュクレロスの戦いのときと同じように、カルキノスは、この光景を後方から見守っているはずだ。

 だが、あのときとは違うことがある。

 彼は、スパルタの男になった。

 単なる飾りとしてではなく、名実ともにスパルタの将軍として、そこに陣取っているのだ。


(ゼノンよ、おまえの言葉……俺たちの手で、必ず実現してみせるぞ)


 グラウコスは、ぐっと槍を握りしめた。

 すでに犠牲式は終わっている。

 臓腑を用いた占いの結果は――《スパルタの勝利、疑いなし》

 あとは、神助を信じ、戦友たちを信じ、突撃するのみだ。

 槍を握る手に力をこめ、敵陣を睨みつけて何度も呼吸を繰り返すうちに、迷いが消え、手足が熱くなっていくのがわかる。

 この槍で、敵を殺す。

 この盾で、仲間を守る。

 この身をもって、スパルタを守り抜く――

 アナクサンドロス王が、一同の前に、ゆっくりと進み出てきた。


「我ら、生還を期せず」


 そう宣言した王の顔には、穏やかな微笑みがある。


「もはや、語るべき言葉もなし。

 ただ進み、殺し、退かず!」


「進み、殺し、退かず!」


 数千のスパルタの男たちの声が、まるでただ一人の声のように完璧に唱和した。

 張り詰めた弦のように力強く、一切の迷いを感じさせぬ声。

 彼らの表情、目も同じだった。

 どの目も大きく見開かれ、まっすぐに敵陣を見据えている。


「我ら、生還を期せず!」


「我ら! 生還を期せず!」


「死は美しい!」


「祖国のため、共に死のう!」


 男たちが口々に叫び、やがて、その声も静まった。

 アウロイの音色が響き始める。

 戦列が、滑り出るように前進をはじめた。

 同時、彼らは声を合わせて歌いはじめた。


     *     *     *

 

 まるで、ただ一人の巨人が歩いてゆくかのような男たちの足音とともに、歌がきこえてくる。

 あの歌だ。

 この指先から、この喉から、生まれてきた歌。

 詩人の肉体を通して、光の中にあらわれ出た、スパルタの男たちを導く歌――


「ずいぶんと、様子が変わられましたな」


 感心したような声が聞こえた。

 自分に向かって言っているのだとわかって、カルキノスは、静かにそちらを見下ろした。

 そこに立っていたのは、ステニュクレロスの戦いのときと同じ老予言者だ。

 今日もまた、犠牲式を終えたばかりの血塗れの姿で、カルキノスを見上げている。


「実に御立派。以前よりも、男としての重みが増したように見えますな。服装は、別ですが……」


 あの日と同じように、カルキノスはロバに乗り、戦場の遥か後方から戦士たちの進軍を見守っている。

 だが、あの日とは違い、今日のカルキノスは青銅の鎧をまとっていなかった。

 身に着けているものは、馬鹿みたいにでかい花冠と、色褪せた赤い外衣ヒマティオンが一枚きりだ。

 あとは、腕に抱いた竪琴。


「あの立派な鎧は、どうなさったのです?」


「置いてきました」


 カルキノスは、言葉少なに答えた。

 家に、ではない。

 あの日、ステニュクレロスの戦場に置いてきた――


「そうですか。しかし、今回の御姿は、将軍としては少しばかり……いや、あまりにも、軽装すぎるのではありませんかな?」


「いいんです」


 カルキノスは淡々と答えた。


「これで、いいんです」


「なるほど」


 老予言者は、大きくうなずいた。


輝けるフォイボス・アポロン神アポローンの御神助を、心より信じておられるのですな。確かに、かの神がお守りくださるのならば、盾や鎧などなくとも、矢も槍も、その身からことごとく逸れてゆくに違いありませんからな!」


 カルキノスは少し笑って、何も答えなかった。

 防具など、必要がないのだ。

 もしも、ここまで敵の武器が届くということがあるのならば、それはスパルタの戦列が打ち崩されたときだ。

 ステニュクレロスの野での、あの悪夢の敗戦の日のように。


(この戦いに負ければ、全てが終わる)


 あらゆる手を尽くした盤上で、起死回生を狙って駒を進める、ただ一度きりの一手。

 これに敗北すれば、スパルタは滅びる。

 男たちはことごとく殺され、女たちは奴隷とされるだろう。

 この戦いを語り継ぐスパルタの歌は、時の流れに埋もれ、永久に消え去るだろう―― 

 カルキノスは、一瞬、目を閉じた。


(ゼノン)


 まぶたの裏に浮かぶのは、金髪の戦士の面影。

 この日が来るまでに、あらゆる手を尽くし、できることはすべてやってきた。

 今、この時に至って、自分にできることは何もない。

 ナルテークスやグラウコスたちのように最前列に立ち、盾と槍とを持って戦うこともできない。

 アイトーンたちのように、中段に加わって、投槍や投石で援護することもできない。

 自分は、あの日と同じように、ここにいて、戦士たちを送り出すことだけだ。


(だから)


 カルキノスは、決然と目を開いた。

 彼らが、ことごとく命を落とすときには、自分もまた死ぬ。

 その覚悟を決めている。

 それが、美しき死カロス・タナトスを讃える歌を歌い、大勢の男たちを戦いへと駆り立てた自分にできる、ただひとつの責任のとり方だ――


「あ」


 カルキノスはふと思い出したように声をあげると、よいしょ、と声を出してロバから降り、その背に積んであった長い革紐の束を持ち上げた。


「すみませんが、ちょっと手伝ってもらえますか」


 怪訝そうな顔の老予言者に、革紐の片端を投げ渡しておいて、もう一方の端を、自分の腰にぐるぐると巻きつけ、あらん限りの力を込めて固く結んだ。


「そっちの端を、そこの岩にくくりつけてください。絶対にほどけないくらい、強く」


「はあ?」


 老予言者は隠そうともせず、呆れたような声を発した。


「それでは、あなたは、ここから動けなくなってしまいますぞ」


「ええ。俺は、ここを動きません」


「しかし、退却のとき――」


「退却はない」


 そう言い放ったカルキノスの目には、最前列に並んだスパルタの男たちのそれと同じ光があった。


「『我ら、生還を期せず』――アナクサンドロス王は、そう仰った。俺も、同じ気持ちです。この手と足で戦うことはできなくとも、心は、戦士たちと共にありたいのです」


「ははあ」


 呆れ果てたとも感じ入ったともつかぬ調子で呻き、頭を振りながら、老予言者は受け取った紐を地面から突き出た岩にくくりつけはじめた。

 わざわざ岩のくびれた部分に革紐を回し、引けばすっぽりと抜けることがないようにしている。

 万が一に備えて少し緩めておく、ということもなく、岩に片足をかけ、全体重でもって、ぎゅうぎゅうと結び目を締めあげた。


「まったくもって、見上げたお覚悟ですなあ」


「あなたは、走って逃げてくれていいですよ。ロバと一緒に」


 カルキノスの皮肉がわかったのか、老予言者は苦笑した。


「いやはや、この歳になって、戦場で死にとうはないものですよ。

 若者にならば、何でも似合う。凛々しい立ち姿も、死んで倒れた姿もです。

 ですが、髪の白い年寄りが、血と砂にまみれて大地に転がっているなどという光景は、どうにも、こうにも、見苦しくてしようがないものだ」


「彼らだって、同じですよ」


 カルキノスはそう言った。

 老予言者は黙った。

 カルキノスが、何をさして「同じ」と言ったのか、理解しかねているようだった。


「誰も、戦場で死にたくなんかない」


 カルキノスは言った。

 彼の目はまっすぐに、進んでゆく男たちの背中を見ている。


「その、一番大切な命を、彼らは懸けているんだ」


     *     *     *


 メッセニアとアルカディアの連合軍から、大地そのものがうなりをあげたかのような鬨の声が発され、戦列が動き始めた。

 大波のように、押し出してくる。


 スパルタの男たちは、まっすぐに敵を見据えながら歩き続けた。

 誰も速度を緩めず、横一直線の戦列を保ちながら。

 全員の口が、同じように動き、同じ歌を歌っている。

 まるで、ただひとりの男が歌っているかのように。



   戦に背を向けるか? 臆病風に吹かれ

   持ち場を放棄して?

   引きさがってゆくのか? 誇りをなげうって

   友たちを見捨てて?


   我らスパルタの 男と生まれた

   戦場いくさばの子として

   勇気なき者は 男にはあらず

   気概ふるわせて 決して退しりぞくな――



(無論だ)


 グラウコスは、その目を爛と光らせた。


(あの日とは違う。たとえ、この身が屍と化そうと、もう、一歩も退かぬ)


     *     *     *


   死の闇も 陽の射す道も

   前を 向いて歩く

   恐れるな 今 時は来た

   駆け抜けよ

   死出の道

   先駆けよ!



(これが、戦か)


 戦列の中段で、アイトーンは、体の奥底から湧き上がってくるような震えを感じていた。

 恐怖ではない。

 周囲のすべて、前に立つ男も、両隣りに立つ男も、背後に立つ男も、そして自分も、ただひとつの同じ歌を歌っている。

 勝利のためには、黒き死をも恐れぬという歌を。

 圧倒的な体験だった。

 凄まじい高揚感に包まれて、まるで、自分が神代の英雄になったような気がした。

 腹の底から発した武者震いが、手足の指先にまで伝わる。

 アイトーンは、石のようにかたくなった手のひらで投槍を握りしめた。


(勝てる……!)


     *     *     *

 

   なぜ恐れているのか? なぜ後退するのか?

   なぜ耳を塞ぐのか?

   聴け、アレスの雄叫び 見よ、ゼウスの導き

   我らを呼んでいる!


   男がその名を 残すは戦に

   みごと倒れたとき

   永久とわの栄光が その身を飾りて

   祖国ある限り 歌い継がれん――



(熱き、歌よ)


 焼窯の中で赤熱し、やがて白く輝く陶器のように、自軍を満たす熱が最高潮に高まってゆくのをアナクサンドロス王は感じていた。


(若い頃を思い出すぞ)


 かつて戦いのたびに感じていた、燃え滾るような衝動が、今ふたたび身の内を駆け巡っているのを感じる。

 男の心に火をつけ、ごうごうと風を送り込んでいるのは、この歌だ。

 皆の歌声を聴き、顔を見ればわかる。

 彼らは、歌に導かれ、歌の言葉がさししめす通りに進んでいる。

 真っ白な光を放つような昂揚、陶酔が、黒き死への恐怖を忘れさせる――


(カルキノスと、ナルテークス……二人の若者が、これほどの歌をな)


 素晴らしい詩人たちだ。

 この戦いを生き延びることができたら、この手で彼らの功績を讃え、栄誉を与えたい。

 アナクサンドロス王はわずかに頭を動かし、すぐ側にいるナルテークスの方を見た。

 目深にかぶった兜に隠されて、彼が今、どんな顔で歌っているのかは、見えなかった。


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