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希望

 集団というものは、ひとたび方向性さえ定まれば、地勢に導かれる水流のごとく一気に突き進んでゆくものだ。


「投げいッ!」


 声だけで敵を打ち倒すことができそうな、気魄のこもった号令が発される。

 それに続いて、幾本もの細長いものが空中を飛んだ。

 大人の男の背丈よりもやや長い、木を削り出した棒だ。

 先端を少し太くし、重心の位置を投槍のそれに近づけてある。

 指をかけるための革紐も巻いてある。

 練習用の投槍は、やや頼りない放物線を描き、次々と地面に落下した。


「馬鹿たれィッ! 何だ、今のは!? あんなもの、敵に届かんだろうがーッ!」


 暑苦しい怒鳴り声が飛んだ。

 声の主は、もちろんグラウコスだ。

 その左手の人差し指はまだ包帯で固められていたが、もう痛みなど塵ほども感じていない様子である。


 怒鳴りつけられて、一列に並んだ男たちがびくびくと身をすくめた。

 スパルタの市民たちではない。

 解放を望み、スパルタの戦列に加わることを志願した奴隷たちだ。


 カルキノスが提案し、長老たちから猛反対された『奴隷たちを戦列に加える』という案であるが、驚いたことに、うやむやのうちに可決されていた。


『例の話は、わしに任せよ』


 ナルテークスが歌った日、周囲が興奮と熱狂のるつぼと化す中で、カルキノスに、そっと囁いた声がある。

 例によって、事前にすべての筋書きを了解していたアナクサンドロス王である。

 王はメギロスたちと協力し、長老たちの興奮に乗じて、みごとに話をまとめてくれた。


(危ないところだったけど……今回も、紙一重で、うまくいった)


 奴隷たちの訓練の様子を日陰から見守りつつ、カルキノスは胸中でひとりごちた。

 カルキノスとナルテークスの歌は、スパルタの男たちの心に火をつけた。

 彼らの胸にわだかまる不安と迷いとを打ち払い、その心を戦場へと駆り立てたのだ。

 

 スパルタは、その総力をもってメッセニアと対決する。

 だが「総力」に加えられた奴隷たちの大部分は、戦いの素人だ。

 これまで、槍など持ったこともないという者ばかりである。

 スパルタ人たちは、奴隷には決して武器を持たせようとしなかったのだから、それも当然のことだ。

 素人に、いくら付焼き刃の訓練をほどこしたところで、とても最前列など任せることはできない。

 あの重圧と恐怖、そして激突の衝撃に耐えることができるのは、何年にもわたってそのための訓練を受けてきた本物の戦士たちだけだ。


 奴隷たちは、戦列の中ほどに加わることになっていた。

 最後尾もまた、逃亡や裏切りのおそれがあるというので、中段に配し、背後から本物のスパルタの戦士たちが目を光らせるという寸法だ。

 奴隷たちは、投槍や投石で、前列の戦士たちを支援する。

 そのための訓練が、今、突貫で進められていた。


「見ろ!」


 グラウコスは、そばでびくびくしていた奴隷の手から練習用の槍をむしり取り、みずから投擲の構えをとった。


「はじめの脚の位置は、こう。そして……」


 脚を踏んばり、右手に槍を振りかぶる。

 一瞬、ぴたりと静止したグラウコスの姿に、カルキノスは思わずみとれた。

 腕から肩、背中にかけての筋肉がくっきりと隆起し、オリュンピア競技優勝者の像と見紛うばかりに美しい――


「こうだッ!」

 

 鞭のように体全体をしならせての、投擲!

 空気を切り裂く鋭い音がして、グラウコスの手から放たれた槍は完璧な放物線を描き、奴隷たちが投げた槍の四倍ほども飛んで地面に突き刺さった。

 奴隷たちのあいだから、畏怖のまじった賞賛の囁きがあがった。

 ぱらぱらと、拍手まで起こる。


「馬ッ鹿もおおおん!」


 再び、グラウコスの怒声が炸裂した。


「のんきに手を叩いている奴があるかッ! 貴様ら、これができるようにならなければ、戦場で役には立たんのだぞッ! 役立たずの男など、この俺が、残らずケアダスに蹴り込んでやる! それが嫌なら、死ぬ気で訓練に励めッ!」


 奴隷たちが、慌てて姿勢を正す。

 皆、緊張のあまりか肩に力が入りすぎて、石でこしらえた祭儀用の人形みたいになっていた。


「いいか、貴様らッ! 腕だけで投げようとするなよ。大切なのは、肩の動き……それ以上に、体全体のひねりを使うことだッ! こう、ではない、こうだッ!」


 グラウコスは、悪い動きと理想的な動きを、わざわざもう一度、交互にやってみせてから、


「おい! そこの貴様、来い! やってみろッ!」


 一番体格のよい、見た目が戦士向きの若者を呼びつけた。

 若者は、顔を引きつらせながら前に出てきた。

 完全に腰が引けている。

 こうしてスパルタ人に直接呼びつけられるということは、彼らにとって、恐怖以外のなにものでもなかった。

 若者は、カルキノスの目から見てもはっきりと分かるほどがちがちに緊張しながら、槍を構え、投げた。

 案の定、距離はまったく伸びなかった。


「馬鹿たれィッ、全然、飛んどらんじゃないかーッ!」


 グラウコスが喚き、両腕を振り上げる。

 若者は、反射的に目をつぶった。

 殴られる。殴り殺される――


「寝起きのジジイか、貴様はッ!? ふらふらするな、ぐっと踏んばって腰を入れろ! 最初の脚の構えは、こう! そして、腕はこうだッ!」


 グラウコスは若者の腰、脚、腕を次々に引っつかみ、全身の構えをととのえて、ばん、と相手の両肩を叩いた。


「この姿勢を、よく覚えておけ! そして、踏み込みと同時に体全体をしならせ、全身の力を、指先にまで余すところなく伝えるんだッ! ……返事はッ!?」


「へっ、はっ! ハイッ!?」


「もう一度ッ!」


「はいっ!」


「よし、投げてみろ!」


 相手の右手に練習用の槍を握らせ、グラウコスが後退する。

 若者は二度、三度、教えられた動きを繰り返してから、ぐうんと振りかぶり、投げた。

 先ほどよりも、遥かに遠くへ飛んだ。


「ふん!」


 またもぱらぱらと起こる拍手の中、グラウコスが盛大に鼻を鳴らす。


「奴隷のわりには、なかなか筋がいい、と言えんこともないな! もちろん、生まれながらのスパルタの男には、遠く及ばんがなッ!

 ――皆、今のを見たか! あの通りにやれ。練習だ!」


 奴隷たちが散らばり、教えられた型を熱心に繰り返しはじめる。

 その様子を腕組みして睨んでいたグラウコスだが、しばらくすると、ずかずかとこちらに歩いてきた。

 カルキノスは慌てて横に動き、場所をあけた。

 日陰に入ったグラウコスは、木の枝にかけていた革袋をとり、ものも言わずにぐびぐびと水を飲んだ。

 その額から、滝のように汗が流れ落ちている。


「グラウコス……」


 カルキノスは、心から言った。


「君、実は、教師とかに向いてるんじゃないか?」


「馬鹿たれィッ」


 グラウコスは怒鳴り、そのひょうしに水が気管にでも入ったのか、激しくむせ返った。

 顔が真っ赤になっている。

 単に咳き込んだからか、それとも、照れくさかったのだろうか。


「だいたい何の因果で、この俺が、こんなことをしなければならんのだッ!? ……カルキノス! 全部、貴様のせいだぞッ!」


「俺!? ……ああ、うん。まあ、それはそうかな」


「開きなおるなッ!」


 だんだんだん、と地面を踏みつけておいて、グラウコスは、ふと真顔になった。

 指先で小さく手招いてくる。

 カルキノスがすぐ隣に立つと、グラウコスは、奴隷たちの監視を続けるふりをしながら、小さく口を動かして言った。


「何が、あった。……あの日、起きたことは、いったいどういうことなんだ?」


 ナルテークスが歌った、あの日。

 スパルタの男たちはみな、ナルテークスが歌い、カルキノスが奏でるその歌を、声を合わせて力のかぎりに歌った。

 まるで、神話の中の出来事のようだった。


 あの日以来、カルキノスとナルテークスはあちこちの地区から引っ張りだこになり、ほとんどあらゆる部隊の訓練や共同食事に参加し、歌で戦士たちを激励してまわっている。

 今日、ようやくこの地区に戻ってくることができた。

 ナルテークスは久々に家に戻り、カルキノスは、グラウコスたちの顔を見にきたというわけだ。

 つまり、あの日以来、グラウコスとまともに言葉をかわすのは、今が初めてなのである。


輝けるフォイボス・アポロン神アポローンの、御力だろうな」


 カルキノスは、それだけを言った。

 ナルテークスが、本当は文字で話せること。

 話すことはできないが、歌は歌えたこと。


『今、敗北の恐怖に怯える人々は、君が歌うこの歌に導かれて戦い、勝利を得るだろう。

 そして、もう誰も、君を馬鹿にする者はいなくなる――』


 そういった詳しいことは、何も言わなかった。

 神が下したもう予兆に、こざかしい理屈や説明などは必要ないのだ。

 もし、そういった事情が明らかになれば――グラウコスが自分から言いふらすとは思えなかったが、万が一、口が滑るということもある――、この『奇跡』の値打ちが下がってしまう。

 だから、グラウコスに対しても、それ以上は何も言わず、


「どうだった?」


 とだけ、訊いた。


「どうもこうもない」


 グラウコスは厳つい顔をしかめた。

 不快の念をあらわしているのではなく、自分自身の思いを整理しかねるといったふうだった。


「最初は、頭が真っ白になった。体が震えたな。戦場でも震えたことのないこの俺が、だぞ。信じられなかった。まさか、あいつが、あんな……」


 そこで不意に言葉を切り、グラウコスは、カルキノスを鋭い目で見据えた。


「おい。おまえに、ひとつ、訊きたいことがある」


「えっ。何?」


「あの歌は、おまえが・・・・作った・・・ものだな?」


 カルキノスは、一瞬、言葉につまった。

 このことを、はっきりとたずねてきた者は、これまでにいなかった。

 自分が作ったのではない、と言うこともできる。

 詩歌女神ムーサが囁きたもうた歌。

 アポロン神から賜った歌。

 そうだ。そのほうが、ずっと重みがある――


「ああ」


 カルキノスは、自分でもそれが正しいことなのかどうか判断がつかないまま、頷いていた。


「そうだ。俺が・・作った・・・。……どうして、君は、それを?」


「アクシネが言っとった」


 急に出てきたその名に、ふたたび、言葉に詰まる。

 だが、考えてみれば、自然ななりゆきだ。

 あの日、ナルテークスが歌うのを目にしたグラウコスは、最初の衝撃から脱すると、この驚くべき出来事を最初に伝えるべき人間――アクシネのところに走ったのだろう。

 そして、ナルテークスが歌ったことと、それがどんな歌だったのかを、彼女に語り、実際に歌って聞かせたのだろう。


『あのうた!』


 と、きっと、アクシネは言ったのだ。


『カルキノスが、うたってた』


 と。


「おまえが作った歌を、ナルテークスが、歌ったということだな」


「ああ……」


 カルキノスは、自分の頭の中が急速に冷えてゆくのを感じた。

 あの感覚だ。

 将軍として策を練るときの、理路整然として、冷徹な。


「あの歌が、はじめてできたとき……アクシネと、ナルテークスに聴かせた。彼の家で。

 ナルテークスは、それを覚えていてくれたんだ。アクシネも。

 そして、あのとき……アポロン神の後押しで、彼の口から、あの歌が流れ出したんだ――」


 よし、そうだ。これでいい。

 どこかに穴はないか、理屈の穴は?

 大丈夫。ちゃんと、話の筋が通っている――


「そういうことか」


 グラウコスはうなずいた。

 だが、その表情は、まったく納得したようには見えなかった。


「話はわかった。だが、……だが、俺には、まだ気になることがあるぞ。

 おまえは、いったいどういうつもりで、あの歌を作ったんだ。それを、なぜ、あいつらに聴かせた?」


 畳みかけるように問うグラウコスの表情が、だんだんと険しさを増してくる。


「合戦訓練の日に俺が話したことを、忘れたとは言わさんぞ。あれは……あの歌が言っているのは、あいつらの父親のことじゃないか。俺は、言うな、と言ったはずだ。

 それに、あいつは、戦いなんか好きじゃない。それも言ったはずだ」


 怒っている、というわけでは、ないようだった。

 グラウコスの表情は、どこか――


「あの歌は、確かに、強い力をもっている。人の心を動かす歌だ。スパルタを、動かす歌にだってなるかもしれん。

 だが、答えろ。おまえは、なぜ、あんな歌を」


「あの、歌は……」


 伝えなければならない。

 グラウコスには、伝えておかなければならない。

 そう感じた。

 カルキノスは、顔をあげ、まっすぐにグラウコスの目を見た。


「あの歌は、さかさま・・・・の歌のつもりで作ったんだ」


「さかさま、だと?」


「ああ……」


 何から、言えばいいのだろう。

 冷ややかで論理的な感覚は薄れて、さまざまな感情が噴き出してきた。


「グラウコス……俺は、思うんだ。この世に、命ほど大切なものはない。人は、生き残るためにこそ、戦うんだ。

 だから、俺は、あの歌を作った……」


「はあ!?」


 グラウコスの眉間に、盛大に皺が寄る。


「まったく、わからん! それこそ、さかさまじゃないか。おまえの言ってることと、おまえの歌とは、まったくのあべこべだ!」


「そうだ。――聞いてくれ、グラウコス」


 伝えなければならない。

 グラウコスには、分かっておいてほしい。


「俺は、ずっと……スパルタの男は、恐怖なんて持たないものだと思っていた。君たちは、死の待つ戦場へと、あまりにも平然と、まっすぐに歩いていくから。だから、俺は……君たちは、死を恐れていないのだとばかり思っていた。

 だが、あの合戦訓練の日、君の話を聞いて、そうじゃないということがわかったんだ。

 君たちは、死を恐れていないんじゃない。

 厳しい訓練によって、恐怖をあらわさないすべを身につけているだけだ」


 グラウコスの表情は、動かない。

 カルキノスはその目から視線を外さず、続けた。


「でも、もう、恐怖を隠すことができるだけではだめだ。メッセニアとの次の戦いは、スパルタにとって、滅亡か、存続かの分かれ道になるだろう。戦力的には、本当にぎりぎりの戦いだ。

 この、ぎりぎりの戦いに、全てが懸かっている。全員が、本当の意味で恐れを捨て、身を捨てて、ひとつになって戦うことができなくては勝利はない。本当の……本当の、勇気……」


 三たび、言葉につまる。

 本当の勇気。

 死を恐れぬ勇猛。

 死の闇も、陽の射す道も――


「つまり……野良犬に出くわしたとき、こっちの勇気がくじけて、怯んで後ずさりすれば、犬はますます吠え猛って噛みついてくるだろう? だが、こっちが勇気を出して、大声をあげて真っ向から突進すれば、たいていは、尻尾を巻いて逃げていくものだ……」


 自分の言っていることが、だんだん支離滅裂になっていくのがわかる。

 理解してもらいたいがために、多くの言葉を費やし、喩え話を語っても、どこか空疎に響くのはなぜだろう。

 本当の、勇気。

 そんなものを、盾と槍を持って戦闘に加わったこともない自分が語って、許されるのか。

 そうだ。

 だから、ナルテークスに、あの歌を歌ってもらいたかった――


「俺は、スパルタを守りたいんだ。スパルタの皆を。俺の歌で、皆の心に本当の勇気を吹き込み、スパルタに勝利をもたらしたい。

 誰かとやり合うとき、逃げ腰で向き合っては、かえって相手を調子づかせ、こっちがやられることになる。むしろ自分から相手の切っ先へ飛び込むような勢いでかかれば、それだけ敵に深く武器を突き刺し、重い傷を与えることもできるんだ。

イリオンの歌イーリアス』で、あのアガメムノーンや、アイアースも呼びかけているじゃないか。『恥を知る者はかえって討ち死にを免れ、生き残ることが多いものだ。敵に後を見せるようでは、名を挙げられぬのは素より、わが身を守ることもできぬぞ』と――」


 まばゆい陽の光、吹き抜ける風。

 やわらかな葉ずれの音、草のにおい。

 最も大切な、命。

 死にたくない。

 生き残りたい――



    死は美しい

    祖国のため

    共に死のう!



「俺が、あの歌を作ったのは、君たちに、死んでほしくないからだ」


「さかさま、か」


 グラウコスの眉間に寄っていた皺が、


「つまり……」


 ぱっと、音を立てるような勢いで消えた。


「死ぬ気で戦って、生き残れということだな!?」


「そう、それ!」


 太い指を目の前に突きつけてきたグラウコスに、カルキノスは、まったく同じ動きで答えた。

 詩情もくそもない。

 だが、的を射ている。


「ナルテークスとアクシネにあの歌を聴かせたことは、確かに、俺が浅はかだったかもしれない。でも、俺はもともと、この歌をスパルタじゅうに広めるつもりだったんだ。そうなれば、そのうち、嫌でも二人の耳に入ることになるだろう? そのときになって嫌な思いをさせるより、むしろ、最初から、俺が自分で二人の耳に入れておきたかったんだ。

 まさか、それをナルテークスが歌うなんて、予想外だったけど……」


 最後に、さらりと嘘をついた。

 奴隷たちの参戦を認める案を通したときと、同じやり方。

 興奮の中で、狙うことを、すっと流れに紛れこませる――


「おまえの考えが、よくわかった。これですっきりしたぞ」


 グラウコスは笑顔になって、カルキノスの肩をどかどかと叩いた。


「痛い痛い、痛い! ……あっ。ところで」


 グラウコスの手の下からひょいと抜け出し、カルキノスはたずねた。


「アクシネは、何か言ってたかい?」


「何かって、何だ?」


「いや、だから、ナルテークスが歌ったことを聞いて……」


「ああ」


 また、グラウコスの眉間にしわが寄った。


「多分、あいつには、よく分からなかったんだろうな。ぼうっとして、『へー』とだけ、言っとった」


「あ、そう……」


 実際に目にしていないから、実感が湧かなかったのだろうか。


「あいつには、それよりも気になることがあったみたいでな。ぶつぶつ、おまえの歌にケチをつけとったぞ」


「ケチ!?」


「ああ。『あのうた、あんまりよくないなー』と言っとった」


「そうか……」


 わかっていたことだが、やはり、何とも力が抜けるというか、残念な気分にさせられる。

 肩を落としかけた、その瞬間、


「コラァッ! そこッ!」


 突然、真横でグラウコスの怒号が炸裂し、鼓膜が破れるかと思った。


「誰が、休憩と言った!? 勝手に休むなーッ! 何度でも繰り返して、動きを体に叩き込むんだッ!」


 練習用の槍にぐったりと寄りかかり、荒い息をついていた奴隷たちが、飛び上がって姿勢を正す。

 それなりの重量がある槍を、投げては、走って取りに行き、また投げるの繰り返しである。

 荷物を運ぶとか、畑を耕すとか、奴隷たちが普段行っている労働とはまったく違う動作だ。

 当然、使う筋肉も違う。

 さらに、この炎天下となれば、疲れ方は、ひととおりのものではないだろう。


「やれやれ! 奴隷どもに戦い方を教えるなど、スパルタの戦士のすることではないッ! だいたい、どいつもこいつも、基礎がまったくなっとらん! こんなことで――」


 ぶつぶつと文句を言っていたグラウコスの目が、カッと見開かれる。


「あッ、そこッ! だめだ、だめだ! はじめの構え方が違うッ!」


 怒鳴りながら走り去り、奴隷のひとりをつかまえて、熱心に指導をはじめた。


(文句を言ってるわりに、ちょっと楽しそうな気がするんだけど……あ、ひとり倒れた) 


 軟弱者め、何してる、こいつを日陰に運べ、水を持ってこい! と大騒ぎをしているグラウコスをおいて、カルキノスは、ひょこひょこと歩き出した。


 少し離れた広場では、簡易な武装を身につけた別の奴隷たちの一団が、ひたすら行進、停止、行進を繰り返している。

 音楽の合図に合わせて、間違いなく行動するための訓練だ。

 この場の訓練を受け持っているらしい若い戦士たちが、カルキノスの姿をみとめて笑顔になり、頭を下げてくる。

 そして、よい機会だとばかりに怒鳴った。


「休憩だ! 水を飲め!」


 奴隷たちは、水がめに駆け寄る元気も出ない様子で、いっせいに土の上にへたり込んだ。

 いったいいつから行進し続けていたのか知らないが、こちらでも、日陰に何人か倒れている。

 ここに参加していたら、自分も間違いなく倒れている組の仲間入りだな……と思いながら、カルキノスは愛想よく戦士たちに手を振り、それから、きょろきょろとあたりを見回した。

 探している顔があるのだ。


「あっ。……アイトーン!」

 

 呼びかけると、『疲労せる奴隷』と題がつきそうな姿勢で地面に突っ伏していた若者が、がばっと顔をあげてきた。

 額に土がついている。

 彼は目をぱちぱちさせ、あたりを見回していたが、カルキノスが手招いているのを見つけると、すぐに立ち上がってやってきた。

 いや、気持ちとしては、そうしたかったのだろうが、いつもの彼の俊敏な身ごなしを思えば、動作がいかにも鈍重で、足取りもおぼつかない。


「あの、すみません! ちょっと言いつけることがあるので、うちの奴隷を連れていきますよ。すぐに、訓練に戻しますから!」


「ええ、どうぞ!」


 若い戦士たちに断りを入れたうえで、カルキノスは、アイトーンをつれて手近の林の中に入っていった。


「がんばってるみたいだな!」


「ええ!」


 汗と土にまみれた顔で、アイトーンがうなずく。

 彼もまた、スパルタの戦列に加わることを志願していたのだ。


「どうだい、調子は?」


「いや、もう、本気できついっす。想像してた百倍はきついっすわ……こんなこと毎日やってるスパルタの男は、みんな化け物っすわ……」


 アイトーンが首をふると、短い髪の先から、汗がしずくになって飛んだ。


「うん、俺も、そう思うよ」


 わざわざ林に入ったのは、奴隷と、こんな会話をしているところを、他の者に見られるわけにはいかないからだ。

 カルキノスはしみじみとうなずいてから、ふと気になって、


「志願したこと、後悔してるかい?」


 と訊いた。


「いいえ!」


 驚いたことに、その返答は、即座にあった。


「後悔はしてません。カルキノス様には、感謝してるっす!」


「え? ……俺に?」


「ええ。皆、噂してるっすよ。戦に参加した奴隷を解放する件を、長老会で提案してくださったのは、カルキノス様だって。そのために、長老たちと、殴り合いの喧嘩までしてくださったって!」


「えっ? ああ……うん、まあ」


 正確には、一方的に殴られただけだが。


「夢みたいっす。この俺も、市民みたいに、自由になれるかもしれないんすから。そんなの、これまで夢にも思ったことがなかったっす。正直、今でもまだ、夢みたいっすよ」


 アイトーンの、疲労の色の濃い顔に、まぎれもない輝きが宿っている。

 希望という名の光だ。


「この機会、絶対に無駄にはしません。訓練はきついけど、乗り越えてみせます。戦場で手柄を立てて、自由になるっす!」


 力説するアイトーンに、カルキノスは、ふと、問いかけてみたい気がした。


「怖くは、ないのかい?」


 戦に出るのだ。

 以前に話したときに、アイトーンは、生まれながらの家内奴隷だったと聞いた。

 家内奴隷である母親から生まれたからだ。

 だから、彼は、戦場で戦ったことはないはずなのだ――


「死の闇も 陽の射す道も

 前を 向いて歩く……っすよね?」


 不意に、アイトーンの口から聴き覚えのある一節が流れ出て、カルキノスは、目を見開いた。


「ええ、分かってます。市民のための歌を歌うことは、奴隷には許されてない。

 でも、すばらしい歌です。スパルタの男たちが歌ってるのを聴いて、覚えたんです。

 この歌を胸の中で歌ってみると、勇気が湧いてくる。どんなことがあろうと、恐れずに戦おうって気持ちになります。何しろ、旦那様が――」


 アイトーンは、嬉しそうに笑った。


「あの旦那様が、歌ったんだ。神様の思し召しですよ。だから、何も怖がることはない。こっちが勝つに決まってます」


 奴隷の分際で、市民のための歌を口にし、あまつさえ批評まで加えたのだ。

 スパルタの掟に照らせば、殴りつけるか、鞭打って罰しなければならないところだ。

 より厳格な主人であれば、舌を切るか、喉を潰すかしたかもしれない――


「ありがとう……アイトーン、ありがとう」


 カルキノスは、呟くように言った。


「共に、スパルタを守ろう!」


「ええ、まあ、俺の場合は、スパルタのためっつうか、自分のためですけどね。……いや、それだけでもないか。まあ、グナタイナのためでもあるっつうか」


「え?」


「この戦争が終わったら、俺、グナタイナと結婚するつもりなんす」


「えっ? ……え! あっ!?」


 予想外の話の展開に、カルキノスは無意味に相手を指さして、その指をぶんぶんと振った。


「そうなんだ!? あ、えーっ、そう!? 君たちは、そういう……」


 けっこうな時間を同じ家の中で過ごしてきたのに、まったく気付かなかった。


「いやいやいや、もちろん、まだ、何もないっすよ!? 旦那様やアクシネさんの目をかすめてあれやこれや、なんてことは、何も! いや……うん、とにかく、子供ができるようなことはしてないっす!」


「子供……」


「ほんとですって!」


 ばたばたと手を振りながらも、アイトーンはどことなく嬉しそうだった。


「だって、そんなことになったら、グナタイナが追い出されることになっちまうかもしれないじゃないっすか。俺は、そんな真似、絶対にしませんよ」


 もし仮にグナタイナが身ごもったとしても、ナルテークスやアクシネが、それを理由に彼女を追い出すような真似をするとは思えなかった。

 だが、スパルタでは、それぞれの家付きの奴隷たちは、半分は公共物のような扱いを受けている。

 市民たちの許しなく、勝手に家族を持つことなど許されないのだ。


「でも、自由になれば、彼女と結婚だってできる。

 ……いや、解放されるって言ったって、生粋のスパルタ市民と同じ扱いになんか、絶対ならないことはわかってます。

 でも、だからこそ、グナタイナと一緒になることだって、できると思うんすよ!」


 スパルタ市民と奴隷との恋愛も、結婚も、あってはならないことである。

 だが、解放奴隷という身分ならば、あるいは――?

 熱っぽく語るアイトーンの表情を見るうちに、カルキノスは、胸が熱くなってきた。

 この未来を、希望を、切りひらく手助けを自分はしたのだ。


「本当に、彼女を愛してるんだな」


「ええ。俺が、もし、あなたみたいに歌えるんだったら、彼女のために一晩中でも歌います」


 そう言った、自分よりも遥かに逞しいアイトーンの肩を、カルキノスはしっかりと掴み、叩いた。


「望みをかなえたいなら、死ぬ気で、戦ってくれ」


 でも、死んじゃだめだ。

 その一言は、口から出さなかった。

 かわりに、こう言った。


「アイトーン、君に、神々の守りがあるように」


「ええ。じゃ、俺は訓練に戻ります」


 彼は、にやりと笑って答えた。


「カルキノス様と旦那様に、詩歌女神ムーサさまがたの導きがありますように」



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