死の闇も 陽の射す道も
長老会は、三度、紛糾している。
いや、もはや紛糾などという段階ではない。
乱闘だ。
拳を振りまわして殴りかかる長老たちを、別の長老たちが羽交い絞めにして止めている。
相手に後ろから組みついたまま、ずるずると引きずられていく者。
最初は止めていたはずが、自分が殴られてかっとなり、乱闘の当事者になっている者。
「そこのアテナイ人を、こっちに出せ! 殴り殺してやる」
「落ち着かれよ!」
老人とは思えぬ筋骨隆々の体躯で壁のように立ちはだかり、怒鳴ったのはメギロスだ。
「まずは、この者の言葉を最後まで聞こうではありませんか! 話はそれからですぞ!」
メギロスの背中にかばわれている「この者」とは、むろんカルキノスである。
彼がこのたびの長老会で主張した策は、長老たちの大部分の逆鱗に触れた。
いや、今回は、触れるどころではない。直撃した。
財貨をもってアルカディア王を買収するという計画――では、ない。
「聞く必要など、あるものかッ!」
両腕を振りたて、唾を飛ばして長老のひとりがわめく。
「我らの戦列に、奴隷どもを加えるなど! 我らは奴隷の軍などではない、スパルタの自由民の軍ぞ!」
「さよう! あんな連中と盾を並べて戦うなど、できるものかッ!」
「盾どころか! 奴隷どもに武器を持たせるなど、危険すぎる! 役に立たぬならまだしも、きゃつらは、戦場でいつ我らを裏切るやもしれぬのだぞ!」
前回のステニュクレロスの戦いで、スパルタは多くの男たちを失った。
精鋭と呼ぶにふさわしい戦士たちをだ。
次の戦いにのぞむにあたり、なんとかして、その穴を埋めなくてはならない。
まずは、動員する男たちの年齢を、下は引き下げ、上は引き上げる。
だが、それで補充されるのは、戦場の経験が乏しい若年兵たち、力の衰えてきた老兵たちだ。
頭数はそろったように見えても、戦力は低下している。
前回でさえ、負けたのだ。
対する敵は、以前よりもさらに勢いを増しているであろう。
このままでは、勝てない。
だから――
『奴隷たちに武器を持たせ、戦列に加える』
カルキノスが提案した、その案に、長老たちの怒りが爆発した。
「いかにも、アテナイから来た者の考えそうなことよ!」
「さよう、我らスパルタ人は、そのような真似はせぬ! スパルタの名折れじゃ!」
「奴隷どもの手を借りて、勝ちを拾ったなどと……父祖に対して顔向けができぬわ! そのような不面目に陥るくらいならば、いっそ、潔く皆で討ち死にし、滅びたほうがましじゃ!」
「滅びたほうがまし?」
メギロスの背後から、カルキノスが、ぬっと顔を出した。
「まし、じゃないよ。……スパルタは、滅びる。今のままでは、間違いなく、そうなるんだ!
その未来を、何としてでも避けるために、俺は、できるだけのことをしようと言ってるんだ。打てる手も打たず、何もしないなんて、馬鹿のすることだ!
潔く滅びるだって? そんな自己満足に、まわり全部を巻きこまないでくれ!」
「なっ……おっ」
カルキノスの言葉に、長老たちは今にも沸騰した血液が脳天から噴き上がりそうな顔で、口を開け閉めした。
怒りのあまりに言葉が出てこない様子だ。
あるいは、痛いところを突かれて二の句が継げなかったのか――
「我らには、誇りがある」
かろうじて冷静さを取り戻した長老の一人が、ことさらに静かな声で、言った。
「スパルタの男としての誇りだ。誇りを失ってなお、不面目な生き様を晒すくらいならば、死んだほうがよい。当然のことではないか?」
「誇り、ね」
対するカルキノスの声もまた、静かだ。
馬鹿にする調子ではない。
真剣だ。
「あなたがたは、死ぬことが、怖くはない?」
「無論だ」
「だが、死よりも恐ろしいものは、ある」
長老は、黙っている。
カルキノスの言葉の意味が、意図が、理解できないのだ。
「そう、あなたがたが何よりも恐れるのは、誇りを失うこと。自由を失うことだ」
「ああ、その通りだ」
「人間にとって、誇りほど大切なものはない。誇りを失えば、人は、獣に堕ちる」
「そうだ。そう言っている」
「だから」
カルキノスの目が、食い込むように長老を見据えた。
「だから、彼らは裏切らない。
奴隷たちを戦列に加えるにあたって、条件を出すんだ。
『諸君らが、スパルタの軍勢の一員としてこの戦いに参加すれば、勝利のあかつきには、諸君らを解放し、自由を与える』と!
人は、何よりも、誇りを、自由を求めている! あなたがたが今、そう言ったんだ。それは、奴隷たちも同じ。自由を手にするためならば、彼らは、スパルタのために死に物狂いで戦うだろう!」
「何を言っておるのだ!」
長老は、地団駄ふんでわめいた。
「自由! メッセニアの連中は、まさにその自由を求めて反乱を起こしておるのだ! 奴隷どもは、我らの側にはつかぬ。武器を手にすれば、機に乗じてメッセニアに与し、スパルタを叩き潰し、我らの主人に成りあがることを望むだろう!」
「ああ」
カルキノスの声は、再び静かになっている。
「確かに、愚か者は、それを望むかもしれない。……だからこそ、決してそうはならないということを見せつけなくてはならない。
この戦い、スパルタが勝つんだ。メッセニアではない、決して!」
長老たちは、黙った。
その表情は、完全に意表を突かれた者のそれだった。
カルキノスは、長老たちの顔を順に見渡していった。
思いもよらぬことを聞いた、という顔。
おまえは何を言っているんだ、という顔。
正気なのか、という顔。
スパルタが、勝つ――?
「まさか」
カルキノスは、呆れ返ったというように言った。
「あなたがたは、負けるつもりでいるのか?」
「何、だと」
「あなたがたの顔から!」
カルキノスは両腕を振り回し、声を跳ね上げてわめいた。
「この場の空気から! まるで、書き記された文字みたいに、まざまざと恐れが読み取れる! 避けがたい敗北への不安、恐怖だ!
あなたがたは、もう、負ける気でいる。負けるならば、どうやって負けようかと、さっきから、そのことばかりを考えているじゃないか!」
詩人の目は燃え、その口は火を噴くようだった。
「スパルタは、負けない! そのために、策を練るんだ! どんなふうに滅びるかの話なんて、今、していない! 俺は、どうやって勝つかの話をしているんだ!」
「黙れ、アテナイ人め!」
制止しようとしたメギロスの腕をはねのけ、長老の一人が、カルキノスの顔面を平手で殴りつけた。
驚いたことに、カルキノスは、倒れなかった。
彼の体は突風を受けた草のように大きく曲がって傾いたが、踏みとどまり、ぐんと立て直して、まっすぐに立った。
左の鼻孔から、たらりと血が垂れ、唇と顎をつたって衣にしたたった。
「俺は、もう、スパルタの男だ」
自分を殴った長老を燃えるような目で睨みつけ、カルキノスは言った。
「ゼノンとの約束を果たすために……俺は、スパルタを守る」
「この――」
「やめよ!」
再び腕を振り上げた長老の前に、メギロスが岩塊のような拳を固めて立ちはだかった。
「この者は、輝けるアポロン神の任命を受けた者である! それ以上の手出しは、かの神の怒りに触れることになるやもしれぬぞ!」
「さよう」
別の声が、響いた。
アナクサンドロス王だ。
「我らは、父祖より受け継いだこのスパルタの地を守り抜かねばならぬ。
男たちの数が絶対的に足りぬという今の状況で、それを成し遂げるためには、いったいどうすればよいのか? 皆、わしの考えを聞いてくれ。
これまで、我らは戦場に出て敵と対面し、雌雄を決することばかりを考えてきた。だが、今の場合には……無理に打って出て決着をはかるよりも、むしろ、守りを固めることに専念するべきではないだろうか?」
沸き立つ湯に清水が注ぎこまれたかのように、皆が口を閉じ、王の言葉に耳を澄ました。
「男たちの数が足りぬ。ならば、どうすればよいのか? 攻めるよりも、守るほうが、少ない人数であっても力を発揮しやすいのではないか?
防壁を高くし、堅固に守るのだ。我らが、それぞれの持ち場を断固として動かず、力の限りに守備するならば、その守りを抜くことのできる軍勢など、この世にはおらぬ」
「おお……」
「確かに、それならば」
「王の仰るとおりじゃ」
発火せんばかりに高まっていた場の圧力が、目に見えてゆるみ、一同のあいだからぱらぱらと呟きが起こる。
「防壁を築く仕事にこそ、奴隷どもを使えばよいのだ」
「どの地区の組が、どこを守るか、担当を決めなければなりませんな」
「それよりも、まずは地形を調べ、もっとも攻められやすい場所を――」
「だめだ! だめだ! だめだ!」
長老たちと王が、弾かれたようにそちらを見た。
カルキノスが叫び、杖を振り回している。
「そんな消極案、何にもならない! 籠城だって? いつまで立てこもればいい? どこから援軍が来るんだ? 食糧はもつのか? 今、スパルタの食糧の供給源であるメッセニアが離反しようとしているんだぞ。話にならない!
だいたい、どこに立てこもるんだ! スパルタには、まともな防壁がないのに! 急造の防壁なんて、勢いづいて押し寄せる軍勢の前には、簡単に打ち壊され、踏み倒されてしまう。何の意味もない!」
彼はメギロスを押しのけるようにして、一同の真ん中にひょこひょこと進み出ていった。
興奮しすぎた年寄りのように、手にした杖を何度も地面に叩きつけながら。
「打って出るんだ! そうして、相手を蹴散らすんだ! さもなければ、ここにいる皆、いずれはメッセニア人のために畑を耕し、麦をかついで運ぶことになる。大酒を飲まされて、踊らされるんだ、あなたも、あなたがたの妻や子供たちも! このスパルタの大地が蹂躙され、皆、自由を失う。あなたがたは、それを座視するというのか!」
がっと木片が飛び散り、杖が折れた。
傾いた肩を激しく上下させながら、カルキノスは、スパルタの男たちを睨みつけた。
「死は恐ろしい。そうなんだろ。正直に言えよ。
あなたがたは、戦うことを、恐れているんだ!」
「黙れ!」
もはや止めようがなかった。
激昂した長老たちが、肉食獣の群のようにカルキノスに飛びかかり――
見よ、彼を
カルキノスの体があっという間に引き倒され、勢いあまった一同が、その上に折り重なって倒れ込む。
「死ね! この口先ばかりのアテナイ人め、我らを侮辱して――」
「重い! どけ、どけ! わしの上からどけ!」
「わしのケツを掴むな、誰じゃ!」
最前列に
最初に、そのことに気付いたのは、一番上に折り重なっていた長老だった。
彼は、もがく一同の上に両手をついて身を起こし、怪訝そうにあたりを見回した。
盾と、槍とを構え……
誰かの声が、きこえる。
まるで呼んでいるような歌声が。
罵倒と怒声は泡のように消えて、長老たちは、きょとんとした顔であたりを見回した。
その歌は、表からきこえてくるようだった。
長老たちは、しばし無言のままで顔を見合わせていたが、やがて折り重なった一番上から次々に立ち上がり、声のする方に向かって急いだ。
そして、一歩、外に踏み出したところで、彼らは凝然と立ち止まった。
一人の男が、そこにいた。
こちらに背を向けて立っている。
彼なのか?
いや、そんなはずはない――
「ナルテークス……か?」
彼の両腕がひらいた。
脇腹が動き、大きく息を吸い込んだことがわかった。
死は美しい……
かすれ、消え入りそうになった声を撃ち抜くように、一音が響いた。
はりつめた弦の響き。
竪琴の音色。
一同は振り向き、詩人が、もはや折れた杖ではなく、竪琴をその手に抱えているのを見た。
地面に座り込んだままのカルキノスの指先が、続けざまに竪琴の弦をふるわせる。
まるで、歌声に寄り添い、その手をとって駆けのぼるように――
戦に背を向けるか? 臆病風に吹かれ
持ち場を放棄して?
引きさがってゆくのか? 誇りをなげうって
友たちを見捨てて?
我らスパルタの 男と生まれた
戦場の子として
勇気なき者は 男にはあらず
気概ふるわせて 決して退くな
死の闇も 陽の射す道も
前を 向いて歩く
恐れるな 今 時は来た
駆け抜けよ
死出の道
先駆けよ!
声が、神韻を帯びる。
音が、彼岸に達する。
なぜ恐れているのか? なぜ後退するのか?
なぜ耳を塞ぐのか?
聴け、アレスの雄叫び 見よ、ゼウスの導き
我らを呼んでいる!
男がその名を 残すは戦に
みごと倒れたとき
永久の栄光が その身を飾りて
祖国ある限り 歌い継がれん
見よ、彼を! 最前列に
盾と槍とを構え
退かぬ背に 不滅の誉れ!
語り継げ
彼の名を
永遠に!
盾に盾 槍には槍で
命には命で
ぶち当たり 食らいついて
共に死のう
笑いながら
誇り高く!
死は美しい
祖国のため
共に死のう!
その瞬間に爆発した声を、あらわす文字はない。
王と長老たちが叫んだ。声をかぎりに。
皆、涙を流していた。
「おお、輝けるアポロン神……」
誰かが呟いた。
彼らの上に、運命が下ったのだ。
言葉を失ったはずの男が、この上もなく美しい声で歌っている。
戦いの歌を。
黒い恐怖を打ち払い、男たちのゆくべき道を指し示す歌を。
立ち上がったカルキノスが、足を引きずりながら、ナルテークスのとなりに立つ。
そして彼らは、歌いながら歩き出した。
王と長老たちが、その後に続いた。
死の闇も 陽の射す道も
前を 向いて歩く……
詩人に先導された男たちの一団が、高らかに歌いながら道をゆく。
行きあった者たち、何事かと家から出てきた者たちは、しばし呆然と立ってその光景を凝視した後、次々と道に飛び出し、行進に加わった。
死は美しい
祖国のため……
包囲されてちぢこまりながら最後の瞬間を待つのではなく、飛びかかり、打ち倒し、この身を引き裂かれながらも敵を引き裂いてゆく捨身の心。
殺戮の化身となって突進し、相手を殺さずしては死なぬ、殺して死ぬという気魄。
詩人とは、人々の心に火をともす者――
胸に同じ火をともされた者たちが、声と音とで、ひとつになる。
「うって出よう!」
「共に死のう!」
「そうだ、我らの、最後の戦となろうとも――」
祭礼の行進のように、男たちの列が続いてゆく。
すべての目が、先頭に立つ二人の詩人を見つめていた。
誰もが、笑っていた。
すべての口が、同じ歌を歌っていた。
死は美しい
祖国のため
共に死のう!




