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みちびきのうた


 グラウコスはすでに歩き出していた数歩ぶんを引き返し、先ほどまで座っていた岩に、再びどっかりと腰を落ち着けた。

 そこに座れ、というような彼の手ぶりを受けて、カルキノスは、ややためらいながら地面に腰を下ろした。

 グラウコスが岩で自分が地面、という差に納得がいかないこともあったが、それ以上に、気にかかることがある。


「その指、先に、きちんと手当てをしておいたほうがいいんじゃ……」


「なあに、この感じなら、完全には折れとらん。ちょっとばかり関節が欠けたってところだな。よくあることだ」


「よくあるの!?」


「今回のは、ビアスの野郎の頭をがつんと一発やったのが原因だろうな。あいつの石頭は、相当なもんだからな」


「頭……」


「まあ、そんなことはいい」


 グラウコスは右手で自分の膝に頬杖をつき、泥の湿布を巻いた左手はぶらりと宙に浮かせたまま、話しはじめた。


「どこから説明したもんかな。そう、まずは、あいつらの――ナルテークスとアクシネの、父上のことだ。名前は、アリストン殿といった。

 アリストン殿は、死んだ。五年前に。……処刑されたんだ」


 カルキノスは、目を見開いたが、声を発することはしなかった。


「罪状は、敵前逃亡。アルカディアとの、国境での小競り合いでのことだ。

 俺たちは、その戦いには参加していなかったから、本当のところがどうだったのか、この目で見たわけじゃない。

 だが、聞いた話では……アリストン殿は、もう一人の仲間と、本隊を離れて偵察に出ていたそうだ。そして、敵の大部隊が、思いがけない方角から本隊のほうへ近づいていくのを見た。このままでは、味方は不意を突かれ、陣形を整える間もなく戦うことになる。

 もしも、俺だったら――いや、分からん。分からんが――俺だったら、きっと、大声を出すか何かして敵の注意を自分に引きつけ、その隙に、もう一人を本隊まで走らせて、危険を報せただろう。

 だが、アリストン殿は、そうしなかった。もう一人の仲間に、本隊に報せに行くようにように言い、自分は、離れた場所で待機していた別の部隊に、応援を頼みに行ったんだ……」


「えっ。それで、応援は」


「間に合わなかった。本隊は、その後すぐに敵の攻撃を受け、大勢の男たちが命を落とした。アリストン殿と共に偵察に出ていて、本隊に急を告げに戻った男も、戦いの末に死んだ。

 もしも、応援が間に合っていたなら……あるいは、話は、少し違っていたのかもしれん。だが、アリストン殿の行動は、誰から見ても、自分の命惜しさに理由を作って戦場から遠ざかろうとした、臆病者のふるまいとしか見えなかった。戦死したもう一人と比べられては、なおさらだ。

 彼は、裁判にかけられ、処刑された。ケアダスに投げ込まれて」


「ケアダス……」


「そういう名の崖だ。重罪人は、そこから投げ落とされるんだ。生きたまま」


「そんな」


「それでも、まだ、いい方だ」


 グラウコスはもつれた髪に右手を突っ込み、乱暴に掻きまわした。


「処刑されなかったとしたら、あとは、もう、自分で死ぬしかないからな。

 敵前逃亡、臆病者、卑怯者……このスパルタで、人からそう呼ばれたら、もう、生きてはいけない。嘲られ、小突かれ、石を投げられる。市場でものを売ってくれる者もなく、共同食事ピディティオンや市の祭儀にも入れてもらえない。人間扱いされないんだ。奴隷よりも悪い……

 昔から、こう言われている。『スパルタでは、死を逃るることこそ死なり』とな――」


「そんな!」


 カルキノスは、我知らず、立ち上がっていた。


「アリストン殿は、別に、命が惜しくて逃げ出したわけじゃなかったんだろう!? 自分が応援を呼んでくれば、皆を助けられるかもしれないと思って――」


「さあな。それは、今となっては、誰にも分からんことだ。

 それまでのアリストン殿は、ガキの頃の俺から見て……そうだな、人の噂にのぼるほどの勇士というわけじゃなかったが、決して、臆病な人でもなかった。だが……」


 グラウコスは、珍しく言い淀んだ。


「俺は……俺も、そのとき、こう思ったんだ。アリストン殿は、このまま戦えば、きっと死ぬことになると思って……死にたくなかったから、自分一人だけ、応援を呼ぶという口実で、戦いから逃げたんだろうと」


 呟くように語るグラウコスの横顔には、軽蔑の色はなく、ただ、痛ましげな表情だけが浮かんでいる。


「いや……死にたくなかったというよりも、死ねない、まだ死ねない、と思ったんだ、多分な。今、自分が死んだら、子供らはいったいどうなるかと、考えてしまったんだろう……」


(子供ら……)


 ナルテークスと、アクシネのことだ。


「ナルテークスの奴は、口がきけない。アクシネは、あの通りだ。結婚も難しいだろう。父親の自分が死ねば、後ろ盾を失った息子と娘は、いったいどうなる? ……アリストン殿は、そう考えてしまったんだろうな。

 だが、それは最悪の選択だった。アテナイから来たおまえには、分からんだろう。スパルタでは、敵前逃亡は最も重い罪のひとつだ。本人だけじゃない。家族まで、周囲から白い目で見られ、馬鹿にされる」


『臆病者の一家の考え方を、俺たちスパルタ人の流儀だと勘違いしてもらっちゃ困るぜ』


 エフェイオスが口にしていた嘲りの言葉が脳裏によみがえった。

 あの「臆病者」とは、アリストン殿のことだったのだ。


(どうしてだ)


 怒りと名付けるには、あまりにもやりきれない感情がこみあげてくる。


(どうして、自分が逃げたんでもないのに、ナルテークスが馬鹿にされなくちゃならないんだ。

 父親のアリストン殿だって、ただ自分の命が惜しかったわけじゃないはずなのに。子供たちのことが心配で、置いてはいけないと思ってしまっただけなのに……)


 親としての、あまりにも切実な思い。

 そのために冒した敵前逃亡は、そそぎがたい汚名となって、父の死後も長くナルテークスたちにのしかかることとなってしまったのだ。


「アリストン殿の妻、つまり、ナルテークスとアクシネの母親は、それを苦にして……」


「まさか」


「ああ、死んだ。自分の胸を、剣で突いてな」


 グラウコスが、沈痛な面持ちながらも淡々とその事実を口にしたことに、カルキノスは大きな衝撃を受けた。

 グラウコスは、その事件を「特異な出来事」であるとは考えていないのだ。

 それは、スパルタでは、悲劇的ではあるが当然のなりゆきと見なされることがらなのだ。

 敵前逃亡を臆病者のふるまいと見なすのは、アテナイでも同じ。

 それを槍玉に挙げ、嘲笑することはあるだろう。

 だが、市全体で爪弾きにして追い詰め、本人はおろか、家族までも死に追いやるなど――


「『皆、見るがいい、私の子供たちが、死を恐れぬ者の血を引いていることを』……彼女は、そう言って死んだのだと、噂では言われている。勇敢な女性だったんだ……

 あいつらの家に、じじいの奴隷がいるだろう、テオンとかいう。その奴隷が見つけたんだそうだ、彼女の血塗れの死体を」


『そのことを、アクシネさんには訊ねないでください。きっと、もう、忘れていると思います。思い出させないでさしあげてほしいのです』


 そう言ったテオンの、食い入るような眼差しがよみがえった。

 あれは、このことだったというのか?


「そのことがあってから、ナルテークスの奴は、変わった。それまでは、図体ばかりでかいのに、それこそ、煮え切らないというか、ぐずぐずしているというか……訓練でも、からっきし覇気がなくてな。

 だが、今日、おまえも見ただろう、あいつの戦いぶりを。あいつは、変わったんだ。多分、アクシネのためにだ」


 グラウコスの右拳が、きつく握りしめられた。


「母親の死が、あいつの心に火をつけたんだ。ナルテークスは、自分が勇猛果敢にふるまうことで、父親の汚名をそそぎ、妹に恥ずかしい暮らしをさせまいと……肝心のアクシネは、まあ、あんな調子だが」


 そこで初めて、グラウコスはカルキノスを見た。

 まるで、泣き笑いのような顔だと、カルキノスは思った。


「だが、俺は……俺には、あいつが、無理をしてるのが分かる。昔からそうだった。あいつは……本当は、戦いなんか好きじゃないんだ。本当はな」


「君も、なのか?」


 カルキノスの問いに、グラウコスは一瞬、何を言われたのか分からないという顔をした。


「グラウコス、君は、戦いが好きか」


 重ねて問いかける。

 当たり前だ何をぬかす、と怒鳴り出すか、愚問だな、と一笑に付されるか。

 以前ならば、そう予想しただろう。

 だが今、グラウコスは、カルキノスが思ったとおり、とても静かな――スパルタの男たちが突撃の直前に見せるような、石像のような表情でカルキノスを見返した。


「勇敢に戦うことは、スパルタの男の義務だ。それができない者は、スパルタの男じゃない」


「死ぬことが、怖くはないのかい?」


「言っただろう。『スパルタでは、死を逃るることこそ死なり』と」


「それは、つまり」


 カルキノスは、まっすぐにグラウコスを見据えて、言った。


「戦いから逃げたところで、結局は、皆から蔑まれて惨めに死ぬしかない。それならば、戦場で、一思いに死んだ方がましだ。――そういうことなのかい?」


 カルキノスの問いかけに、グラウコスはしばらくのあいだ無言でいたが、やがて、


「そうだ」


 と言い、いきなり立ち上がった。

 一瞬、殴られるのではないかと思ったが、グラウコスはそのまま歩き出し、


「少し、長話をしすぎたな。兵舎に戻る」


 足を止めないまま、そう言った。


「あっ……うん。その指、すぐに、ちゃんとした治療を受けろよ!?」


「ふん」


 グラウコスは、何やら口の中でもごもごと呟いた。

 もしかすると礼を言ったのかもしれないが、まったく聞きとれなかった。


 グラウコスの大柄な姿が見えなくなってからも、カルキノスは、その場に根が生えたように立ち尽くしていた。

 それから、ひょこひょこと歩いてグラウコスが座っていた岩に近づき、どすんと腰を下ろした。

 彼の心は、過去に飛んでいた。

 その目にうつるのは、あの敗北の日、ステニュクレロスの野で見た光景。


(美しい)


 自分は、確かにそう思ったのだった。

 こちらに背を向けた戦士たちが、完璧に互いの間隔を保ち、歩調を保ち、掲げる槍の穂先の高さまでも一直線に保ちつつ進んでゆく。

 スパルタの男たちには、怯んで足を止めるということはないのか。

 恐怖に背を押されて走るということはないのか。

 彼らは、死ぬことが、怖くはないのだろうか。


(本当は、怖かったんだ、みんな……)


 彼方に並んだ敵の戦列から鬨の声が上がり、音楽が響き始めても、誰も遅れず、誰も走らない。

 踏み出す一歩、その一歩ごとに、確実に死に近づいていくというのに、彼らは変わらぬ足取りで進んでいく。

 ――そのスパルタの男たちの、強固な鎧におおわれた胸のうちでは、黒々とした恐怖が渦を巻いていたのだ。

 この戦いで自分が死んだら、残された家族はどうなる?

 子供たちは? 妻は? 父や母は?

 この身を、敵の槍の穂先が貫き、血を流して死ぬというのはどんなものなのだろう。

 おお、どうか神々よ、お守りください。

 俺は、こんなところで、死にたくはないのです――


『死は恐ろしい。

 俺たちは、それをあらわさないだけだ。

 そんなことは、許されない』


 まるで叫ぶように何度も文字を叩いた、ナルテークスの表情。


(怖くてたまらないのに、彼らは歩いていく。どんな過酷な訓練にも、彼らは向かっていく。

 それは確かに、ある種の勇気だ。

 だが、本当に心の底から湧き上がってくる勇気じゃなかった。

 彼らには、もっと・・・怖いこと・・・・があるから、それから逃れたくて、やぶれかぶれの強さを演じているだけなんだ……)


 音楽に合わせた整然たる行進は、誰が臆病者で誰がそうでないかをはっきりわかるようにし、こそこそと逃げ出したくなる心を抑え込むため。

 彼らの凄まじい雄叫びは、精神を限界まで高揚させ、黒々と渦巻く恐怖心を打ち消すため。


 合戦訓練に出ることを止められた若者が、泣いて嫌がった理由が、今ははっきりとわかる。

 彼は、どうしても訓練に出たかった・・・・・のではない。

 訓練に出なかった・・・・・ことを、周囲からどう言われるか、それを恐れていたのだ。


『酒を飲み過ぎた程度で訓練に出られなくなるとは、精神が惰弱な証拠ではないか?』


『あるいは、厳しい訓練を恐れて、わざと酒を多く飲み、体調を崩すようにしたのではないか?』


 怯えて戦いから逃げたと見なされた者が、どんな目に遭わされるか、彼らには痛いほどわかっている。

 過去にいくつもの例があったではないか。

 そう、自分たちが嘲り、蔑んできた、アリストン殿のように――


(なんてことだ)


 カルキノスは、両手で頭を抱え込んだ。


『強くあらねばならない』


 その絶対の掟が、スパルタの男たち全員を縛っている。

 男であると認められるために、彼らは、何よりも大切な命を、小石のように投げ捨ててみせなければならないのだ。

 痛いと叫ぶことも、辛いと訴えることも、生き残りたいと呟くことすらもできずに、彼らは死に向かってゆくのだ。


「死の闇も

 陽の射す道も

 前を 向いて歩く……」


 そうやって歩いていく戦士たちの心のうちを知ってしまった今、口から零れたそのことばは、砂のように空虚に響いた。

 彼らはもう、地上で最強の戦士たちには見えなかった。

 恐れも苦痛も覆い隠し、仲間に認められたいと必死にあがく、哀しい男たちにしか見えなかった。


(これでは、勝てない――)


 カルキノスの中で、将軍としての思考の歯車が、すさまじい勢いで回転をはじめた。

 スパルタは、今まさに敗北に向けて滑り落ちかけているところだ。

 戦争とは不思議なもので、川と同じように、流れがある。

 勝っているときは、勝つように勢いがつき、ひとたび負け始めると、今度は負けるように勢いがついていくのだ。


(スパルタの男たちは、硬いが脆い岩のようなものなんだ。今はまだ、皆の矜持と、虚勢でもっているが、ひとたびひびが入ったら、一気に崩壊してしまう。あと一度、負けたら、もうおしまいだ……)


『次が最後。勝利がなければ、死あるのみじゃ。そなたも……この、わしも』


 そうだ。

 アナクサンドロス王も、そう言っていたではないか。


『共に、スパルタを守ろう』


(スパルタを、守る……)


『スパルタを、頼む』


(ゼノン?)


 不意に彼の声が聞こえたような気がして、カルキノスは顔を上げた。

 もちろん、そこには無人の演習場が広がっているだけだ。

 だが、カルキノスの視界の中で、現実の光景は流れるように溶け去り、あの日、怒涛のごとく迫り来る敵を前にただ一人立ちはだかる、彼の背中が見えた。


(あのとき、ゼノンは……逃げなかった……)


 カルキノスは、ふと、何かに気づきそうな気がした。

 つい先ほどと、同じ感覚。

 もう少しで、つかめる。あと、少しで――


(ゼノンは、なぜ、逃げなかった?)


『スパルタを、頼む』


 彼は、そう言った。

 そう言い残して、死んでいった。

 カルキノスを信じて。

 カルキノスが、祖国スパルタを守り抜いてくれると信じて。


(ゼノンは……そうだ、彼だけは、臆病者の悪評を恐れて踏みとどまったんじゃない。

 仲間への顔向けがどうとか、そんなふうに、自分自身のために行動したんじゃないんだ。

 彼は、スパルタを守るためだけに、スパルタのために、死んでいったんだ――)


 もし、皆が、彼のように戦うことができれば。

 本当の意味で恐れを捨て去り、ゼノンのように、捨身の気概で戦うことができれば。

 勝利への道は、拓かれるかもしれない。


(捨身の心……そうだ、誰かとやり合うとき、逃げ腰で向き合っては、かえって相手を調子づかせ、こっちがやられることになる。

 むしろ自分から相手の切っ先へ飛び込むような勢いでかかれば、それだけ敵に深く武器を突き刺し、重い傷を与えることもできるんだ。

 本当に身を捨ててかかってくる者に、太刀打ちできる人間なんて、そうはいない……)


 まばゆい陽の光、吹き抜ける風。

 やわらかな葉ずれの音、草のにおい。

 最も大切な、命。

 失いたくない。

 生き残りたい――


(そのためにこそ……俺は……皆を、生き残らせるためにこそ、俺は……!)


 カルキノスの口が、大きく開いた。

 その口から、歌が、流れ出しはじめる。


(つかんだ――)


 将軍として、そして、詩人として。

 スパルタのために、自分がなすべきこと。


(俺は、スパルタの男たちを死なせはしない)


 そのためにこそ、彼らに、この歌を。


(この歌が、戦場で、彼らを導く)


 詩人とは、己のことばを受け取った者たちの心に、同じ火を灯す者。

 己は死んでも、ことばは残り、人々の心に絶えることのない火を灯す者。

 死の闇も、陽の射す道も、前を向いて歩く……


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