アクシネ
「ホウッ!」
と、そのものは高く叫んだように聴こえた。
突き出された穂先をやすやすとかわして跳躍し、一番体格のいい黒髪の戦士めがけて飛びかかる。
その戦士は胸を一撃され、なすすべもなく地面に打ち倒された。
戦場で誰もが立ち向かうのをためらうような大男が、ただの一撃で――
「あーにきィ!」
そのものは嬉しそうに声をあげると、仰向けに倒れた戦士の胸板に頬ずりした。
「おっかえりー! ずいぶん、おそかったなあ!」
女だった。
人間の。
若者は尻の痛みも忘れて身を起こし、その異様な女を見つめた。
(兄貴、と言ったか!?)
では、あの黒髪の戦士と、この女は、きょうだいなのか。
草の種まみれの肌着に、ぼさぼさの黒髪。
数日間、森の中をさまよった狂信女と言われれば、そのまま信じてしまいそうな風体だ。
女は、倒れた兄の腹の上に座りこむかっこうで、かえるのように両脚を開いてしゃがんでいる。
日焼けし、健康的に引き締まったむき出しの脚から、若者はあわてて目をそらした。
若者の故郷、アテナイにおいては、女性がこのように肌着一枚で出歩き、あまつさえ男の目の前に脚をさらすなど考えられないことだった。
まさか、彼らの市では、これが普通だとでも――?
と、そのときだ。
急に、女がくるっと振り向いてきた。
視線がまともにぶつかる。
若者は、ぎょっとした。
「おおーっ!」
見たこともないほどの笑顔でそう叫んだ女が、いきなり駆け寄ってきたのだ。
頭突きができそうなほどの至近距離に顔が迫る。
その目の輝きに、若者は思わず視線を奪われた。
普通の女ではない。
そう、思った。
普通の女は、この歳になれば、これほどあけっぴろげで、これほどまっすぐな、これほどきらきらした眼差しは持たないものだ。
「おい!」
すぐ目の前から、女が叫んでくる。
「なあ、おまえ! おまえが、すくいぬしなのか?」
「えっ」
『救い主』
その言葉に少なからず驚きはしたが、次の瞬間、若者は大きく胸を張り、
「ああ、その通りだ」
堂々と、言い切った。
「俺は、アポロン神の神託によって選ばれ、あんたたちの手助けをするためにやってきた!」
「おおーっ!」
女は満面の笑みを浮かべ、きらきら光る目で若者を見つめた。
「でも、みためは、よわそうだな!」
率直である。
そこへ、
「ふんッ!」
突然、金髪の男が走り寄り、何の警告も手加減もなく槍を振るった。
目の前を、うなりを上げて槍の穂先が行きすぎ、若者は危うく失禁しそうになったが、女のほうはそうではない。
穂先の一薙ぎを受ける寸前、獣のように地面に転がって逃れ、金髪の男が追撃するよりもはやく跳ねおきて身構えた。
その手には、一丁の手斧が握られていた。
ぎらりと陽光を跳ねかえす刃の輝きは、飾りもののそれではない。
まともに打ち込めば、肉をぶった切り、骨を叩き割る実用品だ。
「えへへへへ」
女は楽しそうに笑った。
子供が鬼遊びで「こっちまでおいで」とやるときのような笑い方だ。
(こ、こいつら……何なんだ!? まともじゃない!)
「失せろ、アクシネ!」
槍を突き出し、じわりと前に出ながら、金髪の戦士が怒鳴りつけた。
斧女。
本名だろうか。いや、まさか――
「いやだあ」
逃げようともせず、目を見開いて相手の動きを凝視しながら、女――アクシネの顔は、まだ笑っている。
「わたしは、もっと、すくいぬしとしゃべりたい!」
「串刺しになりたいか?」
「へへへへへ。むーりー」
挑発している。
金髪の戦士の表情が、いっそう険しくなった。
これは危険だ、と直感し、
「お嬢さん!」
若者は、両者を制する手つきをしながら、アクシネのほうを見て大声をあげた。
この二人のあいだに割り込んで制止する度胸も、腕前も、自分にはない。
ならば、ここは自分の得意とするところ、弁舌をもって場をおさめるしかないだろう。
「わざわざのお出迎え、まことにありがとう! 俺も、あなたとゆっくり話したいのはやまやまだが、それは、あなたがたのポリスに着いてからにしたほうがいいだろう。もう、すぐ、そこだと聞いているが?」
「なにが?」
話が、ちっとも通じていなかった。
天を仰ぎたくなるのを辛うじてこらえ、若者は、無理にこしらえた笑顔をアクシネに向けた。
「あなたの、住んでいるところは、ここから、近いのか?」
人によっては「馬鹿にしているのか」と怒り出すかもしれないほどにゆっくり、はっきりたずねると、アクシネはしばらくのあいだ、真顔で黙っていた。
それから急に、ぱあっと顔を輝かせると、自分の背後に伸びてゆく道を指さして叫んだ。
「スパルタ!」
これは、通じたととるべきなのだろうか。
質問への回答は得られていないが。
「そう、スパルタ」
兄貴、なんとか言えよ、と思いながら、若者は調子をあわせて繰り返した。
ちらりと様子をうかがうと、妹にまともに突き倒された兄のほうは、のっそりと立ち上がったまま、土だらけの衣を払いもせず、こちらを見ている。
(だから、何か言えって!)
後の二人の戦士たちも無言のままなので、結局、若者が一人で続けるはめになった。
「スパルタ市までは、あと、どのくらいで着くんだ?」
「それはなあ、あのな、それはなあ、すぐ、そこ!」
「良かった……」
これは、心の底から出た言葉である。
「では、悪いのだけれども、君は、先に行って、俺たちがもうすぐ到着するということを、皆にしらせておいてはくれないか?」
「なにを?」
この女、わざとやってるんじゃないだろうな。
思わずじっと目を見返したが、若者の疑惑は、アクシネのきらきらした眼差しに跳ねかえされてしまった。
「えー、つまり……君は、伝令だ! 俺たちが、もうすぐ着くと、スパルタの人々に、伝えてくれ!」
「でんれい……」
再び真顔で、ゆっくりと繰り返し、
「おおおっ!?」
アクシネは、いきなり、その場にとびあがった。
比喩ではなく、本当に両足が宙に浮いた。
「しごとかっ!」
「そう!」
その勢いに、思わずこちらも力が入る。
アクシネは満面の笑みを浮かべ、
「すーぐに、しらせてくるっ!」
あっという間に身をひるがえし、土煙を立てそうな勢いで走り去っていった。
その後ろ姿を、若者は呆然と見送った。
西風もかくやという俊足で、アクシネの姿は、すぐに見えなくなる。
「相変わらず、いかれた女だな」
それまで一言も喋らなかった、ロバをひいていた男が、ぼそりと呟いた。
「よせ」
金髪の戦士が、槍をかつぎ直しながら言う。
さっきは殺しかねない勢いで槍を向けておきながら、今度は庇うのか、と若者は思わず彼を見たが、
「口にしてもどうにもならんことを、口にするものではない」
単に、あきらめていただけだった。
(で、兄貴、あんたはっ!?)
見れば、黒髪の戦士は無言でたたずみ、妹が走り去っていった道を見つめている。
いくら無口といっても、これは少々、度が過ぎてはいないか。
騒ぎのあいだ、道のわきで黙々と草を食んでいたロバが、小さくいなないた。
「出発する」
金髪の戦士が言い、若者は頬を引きつらせた。
すっかり忘れていたが、尻が、猛烈に痛いのだった。