神に愛されし者
杖をつき、森の中の木々のすきまを、せかせかと歩いてゆく。
歩きながら、カルキノスの頭に浮かんでくるのは、つい今しがたの王たちとの密談の内容ではない。
エウバタスたちを打ち負かした飲み比べのことでもない。
* * *
* * *
『君の歌が、聴きたいな』
泥酔したエウバタスと若者が担がれてゆき、奴隷たちも立ち去った後、共同食事の会場に残ったのは、カルキノスとテルパンドロスの二人だけだった。
テルパンドロスは、まるで今までの騒ぎなどなかったかのように微笑みながら、カルキノスの正面の席にまわって腰を下ろした。
『今夜は無理だ』
カルキノスは、手にしたカップに自分で新たな酒を注ぎながら、呟くように言った。
『飲み過ぎたよ』
『ちっとも、そんなふうには見えない』
テルパンドロスは、面白い冗談を聞いたというように笑った。
『牛みたいに呑んでいたのに、顔色も変わっていないじゃないか。君は、本当に酒に強いんだな。まるで、ディオニューソス神の御加護を受けているようだ』
『そんなことはない……ディオニューソス神の御加護なら、もっと、酔って、気分よくなれるはずだ』
そう答えて、ぐいと杯をあおってから、しまったと思った。
ついさっきエウバタスを油断させたように、酔っていることにして、ごまかせばよかった。
『なるほど、そうかもしれないな。それなら、君を守っておられるのは、理性を司りたもう神、輝けるアポロン神だ。そして、きっと、かの神のもとに集う詩歌女神たちも……』
篝火の炎を受けて、テルパンドロスの美しい髪も、目も、きらきらと輝いている。
『ねえ、僕に、君の歌を聴かせてくれ。僕が今夜、ここに来たのは、そのためなんだから』
『いや……』
もしかすると、少しは、酔っていたのかもしれない。
『あんたの前で歌う気には、なれないよ。
いや、気を悪くしないでくれ。あんたが気に入らないからじゃないんだ。
負けることが、分かっているのに、勝負する気にはなれないってことだ』
カップの底にわずかに残った、火色に揺れる酒を見つめながら、カルキノスは言った。
『さっきの、あんたの歌を聴いて、俺は思ったんだ。いや、本当は、あんたの歌を最初に聴いたときから、ずっと分かっていた。
俺は、あんたには勝てないよ。あんたの歌も、声も、本当に素晴らしい。聴く者の心を、一瞬で魅了する。俺なんか、とても及びもつかない……』
『何を言い出すんだい? そんなことないだろ』
テルパンドロスは熱心に言った。
最悪なことに、どうやら、本気で言っているらしかった。
そうだ、こいつを怖いと思うのは、こいつが、本当に詩歌のことだけを考えているから、真剣だからだ。
無理に人前で歌わせようとするなら――人々に対して、カルキノスに対する自分の優位を知らしめ、誇るために歌わせようとするなら、別の対応のしかたがある。
アテナイで、アポロニオスにしたように。ついさっき、エウバタスと若者にしたように。
だが、この男は違う。
二人きりでも、歌が聴きたいという。
それは、ただひたすらに、詩歌の道を究めんがため。
神に選ばれた男の歌から、より高みに昇るための道を見つけ出すため――
『ねえ、君は、他ならぬ輝けるアポロン神に選ばれた男じゃないか! それなのに、なぜ、そんなふうに自分を卑下するんだい?』
『俺は……』
本当は、自分は、相当に酔っていたのかもしれない。
心の奥底にわだかまっていた、最も目を向けたくなかった思いを、口にしてしまったのだから。
『俺は、詩人として選ばれたんじゃ、ないかもしれない』
汝らの将軍をアテナイ市から求めよ――
輝けるアポロン神は、そのように神託を下し給うたという。
カルキノスを選んだことについて、ゼノンが神意を伺ったとき、かの神は「諾」のしるしを与え給うたという。
それは、つまり――
『俺は、多分……詩人としてじゃなく、ただ、将軍として、呼ばれたんだ。
詩を作り、歌うことじゃなく……スパルタが勝つための策を考え出すことが、俺に与えられた役目なんだ……』
『でも』
テルパンドロスは、そんなことは信じられないといわんばかりの口調で言った。
『君は詩人だろう? 戦争については、ほとんど何も知らないんじゃ』
『うるさい!』
カルキノスがテーブルを叩いた激しい音は、闇に響き、消えていった。
『いや』
テルパンドロスは、目を見開いている。
カルキノスは、両手をテーブルの上にのせたまま、ごん、と額を天板にぶつけた。
『ごめん。その通りだ。あんたの言う通りだ……だから、俺は今、腹が立ったんだ。
俺は、まだ、詩人でもない。将軍にも、なれそうにない。中途半端だ。
だから、怖いんだ、俺は……』
声に出すと、この言葉が、そのまま固まって、未来になるのではないかという気がした。
涙が出てくる。
カルキノスがいつまでも顔を上げずにいるのを、どう判断したのか、やがて、テルパンドロスが静かに立ち上がる気配がした。
『輝けるアポロン神の言葉は、決して、外れることはない』
彼は呟いた。
『君は……必ず、立派な将軍になれるよ。……多分、きっと、立派な詩人にだって』
それから、しばらくの間があったのは、カルキノスからの返事を待っていたのだろうか。
『おやすみ。君の心に、詩歌女神の囁きがありますように……』
そして、彼は去った。
* * *
* * *
森を抜けて、杖をつきながら、せかせかと歩く。
ナルテークスの家に戻るのだ。
(必ず……立派な将軍に……)
それが自分にとって喜ばしいことなのかどうか、カルキノスには分からなかった。
だが、間違いなく言えるのは、将軍としての役目を果たすことができないのならば、自分は、スパルタにとって用無しの男だということだ。
苦境にあるスパルタに勝利をもたらすためにこそ、自分は呼ばれたのだから。
そして、ゼノンとの約束。
(俺は……必ず……)
そのときだ。
野原で何かの気配を感じた兎のように、カルキノスは不意に立ちどまり、あたりを見回した。
左手には、大人の身長ほどの高さの崖がのびている。
その上は、林になっている。
右手は、ひらけた畑。
今いる場所は、崖にそって伸びる一本道――
その崖の上に、突然、赤い衣をまとった数人の若者たちが音もなく姿をあらわした。
彼らは野獣のような身ごなしで次々と崖から飛び降り、カルキノスの行く手に立って道をふさいだ。
(しまった!)
おそらく、一人で歩いているところを見られ、回り込んで待ち伏せされたのだ。
道をふさいだ若者たちのうち、幾人かの顔の特徴に見覚えがある。
昨夜のピディティオンで同席した若者たちだ。
先頭に立ち、ひどく暗い顔でこちらを睨みつけている若者は、カルキノスと飲み比べをして負けた当人だ。
(報復――)
そんな単語が頭をよぎり、自分の頭を思い切り殴りつけたくなった。
なぜ、この可能性に思い至らなかったのか。
勝利か、さもなくば死かを叩き込まれたスパルタの男たちが、あんなふうに無様によそものに敗れて、黙って引き下がるはずがないのに――
カルキノスは顔を引きつらせ、杖の先をわずかに地面から浮かせたまま、身動きひとつできなかった。
相手は五人……いや、六人。
下手な動きを見せて、彼らを刺激したら、殺される。
逃げようとしたって、一瞬で捕まってしまう。
殴られて、骨も、歯も、ばらばらに砕かれてしまう――
不意に、背後で、じゃりっという音がした。
そうしてはいけないと思いながら、カルキノスは若者たちに背を向け、振り向いてしまった。
「うっ」
目の前に、エウバタスの巨体があった。
二日酔いは治ったのか。
いや、そんなことより、囲まれた。もうおしまいだ。
何か言って、相手の気勢を殺ぐべきか。
――何も思いつかない。
(殺される)
よってたかって、殴り殺される。
原始的な恐怖が、思考を塗りつぶしていく。
(嫌だ――!)
エウバタスが両手を振り上げるのを見たとき、カルキノスに考える暇などなかった。
ただ、死にたくないという本能の命ずるまま、手にした杖を相手の顔めがけて勢いよく突き出す。
だが、杖の先端は、空を貫いた。
エウバタスが瞬時に身を沈め、その一撃をかわしたのだ。
(終わった)
圧倒的な絶望感と同時、衣の上から、膝を掴まれる。
(折られる――!)
「カルキノス殿!」
「…………………………う?」
杖を中途半端に空中に突き出した姿勢のまま、カルキノスは、妙な声を発した。
おそるおそる視線を下ろすと、エウバタスの頭のてっぺんが見えた。
目の前の地面に、エウバタスの巨体が、うずくまっている。
彼は、カルキノスの膝に両手ですがっていた。
嘆願者の姿勢だ。
「昨夜の共同食事における、あなた様への、礼を失したふるまい……伏して、お詫びを申し上げる! どうか、お許しを願いたい!」
「な、ん……え?」
状況がまったく飲みこめず、カルキノスは目を白黒とさせた。
体をねじって振り向くと、若者たちも皆、こちらに向かって頭を下げている。
「え……な、ん……え? なんで?」
それだけしか、言葉が出てこなかった。
どうやら彼らは、カルキノスに対して嫌がらせをしたことを反省しているらしい、ということは分かった。
だが、飲み比べに負けたからという理由だけで、急にここまで猛省するほど、スパルタの男たちが純朴で素直だとは考えられない。
自分を油断させるための芝居か、と、カルキノスが身構えかけたところで、
「あれほどの大酒を飲んで、顔色も変わらず、体も萎えず、頭も鈍らぬとは……! 尋常の人間では、まず考えられぬことだ。
これはまことに、輝けるアポロン神が、あなた様の理性を守っておいでになるに違いない!
アポロン神の守りのもとにあるあなた様を打ち負かそうなどと、ひとたびでも考えたこの身の不遜、まことに、冷汗の絞られる思い!」
(あ……そっちに、行ったんだ!?)
カルキノスは納得すると同時に、安堵のあまり力が抜けて後ろへ倒れそうになった。
エウバタスの両手が膝のあたりの衣をがっちりと掴んでいたため、引っくり返ることは免れたが。
と、先頭に立っていたあの若者が、急に横手へ走り、
「オエエエエ」
畑に向かって、盛大に吐いた。
彼がひどく暗い顔をしていたのは、カルキノスへの憎悪を滾らせていたのではなく、二日酔いの吐き気を懸命に堪えていたせいだったようだ。
「おお……」
カルキノスは思わず右手を天にさし上げ、高らかに叫んだ。
「輝けるアポロン神よ! あなた様の守りに感謝いたします!」
これまで、人生の様々な場面で神々に祈りを捧げてきたが、まさしく今日このときほどに、神の御加護で命を永らえたと実感した瞬間はない。
あとで、どうにかして上等の肉を手に入れて焼き、感謝の捧げものをしておかなくては。
アクシネに頼んだら、何かしら、狩ってきてくれるだろうか。
「おお……」
カルキノスの祈りの姿を見て、なぜか、スパルタの男たちまでがありがたそうな顔をしている。
「我らをお許しくださいますか、カルキノス殿?」
「えっ……ああ、うん」
物腰が丁重になったわりに、呼び名は「蟹」のままだが。
「よいか、おまえたち!」
立ち上がったエウバタスが、若者たちに向かって大声で言う。
「カルキノス殿は、まことに輝けるアポロン神の神助を受けておいでになる方。我らのつまらぬ試みなど、たちまち跳ね除けてしまわれた。
となれば、その偉大な御力は、必ずや、メッセニアの者どもにも及ぶであろう!
カルキノス殿が、我らの将軍として立ってくだされた今、勝利は、もはや疑いのないところ!
あとは、我らの戦いぶりが神の御心にかなうよう、鍛錬に鍛錬を重ね、いまひとたびの戦に臨むのみ!」
「はい、エウバタス殿!」
(あ……)
一糸乱れぬ若者たちの返答を聞きながら、
(もしかして)
カルキノスは、ふと思った。
(勝利か、死か。スパルタの男には、ふたつにひとつしか許されない……でも、それは、人間同士のあいだのこと。ひとたび神々の力が関われば、人間が、それに逆らえるはずはない。
エウバタス殿は、俺に負けた。若者たちの見ている前で、完敗した。あの隠しようもない敗北を、何とかして正当化するためには、こういうふうに話を持っていくしかなかったんじゃないか――?)
カルキノスが神の加護を受けているならば、そのカルキノスに挑んだ人間が敗れるのは、恥でも何でもなく、当然のことだ。
そう考えることで、エウバタスは、何とか自分を納得させたのかもしれない。
カルキノスはエウバタスの顔をじっと見据えたが、その真意までを見て取ることはできなかった。
(調子に乗るなよ、俺……彼らは、まだ、本当に信じてくれたわけじゃないかもしれない……)
「あ」
複雑な表情で黙り込んでいたカルキノスは、ふと、まったく別のことが気になった。
「ところで君たち、なんで、ここに? 俺がこのへんにいるって、よく分かったね……」
まさか、アナクサンドロス王やメギロスとの密談の様子まで、見られていたのではないだろうか?
スパルタの勝利を願ってのこととはいえ、彼らの伝統的な価値観からすれば「悪」、それも極悪と言われかねない提案をしたという自覚はあった。
もしも、彼らが、その内容を聞いていたとしたら――
「先ほど、この道を歩いてゆかれるところを、ちょうどお見かけしましたのでな。我らは早朝、いったん体育訓練場に集まってから、ずっと、あなた様を探しておったのです」
「え……あ、そうなんだ? じゃあ、あんなふうに忍びよらずに、普通に声をかけてくれればよかったのに」
急に取り囲まれたせいで、真剣に命の危険を感じた。
「少人数で動くときは、相手に気取られぬよう、隠密に、敏速に行動する。我らの習慣です」
嫌な習慣もあったものである。
「昨夜、我らが神罰に恐れをなしているのを見たグラウコスが、あなた様に直接謝罪して怒りを解くのがよい、と知恵をつけてくれましてな」
「知恵」
「あなた様は、細かいことは気にしな――いえ、つまり、たいへん寛大な方であるからして、ちょっと謝っておけばそれで――おほん、そう、心を尽くして謝罪すれば、必ずや許していただけるであろうと」
「………………」
グラウコスが口にした言葉の原文が何となく、というかほぼ完全に推測できたが、当の本人がここにいない以上、苦情を言うわけにもいかない。
「ん?」
そこでまた、急に新たな疑問が湧いてくる。
「そのグラウコスは、今どうしてるんだい? それに、ナルテークスは?」
「彼らは昨日の共同食事のあと、夜遅くから、今日の合戦訓練のための戦神アレス様への供犠や、《イノシシ合わせ》の儀式を行っておりました」
「《イノシシ合わせ》……?」
また、よく分からない単語が出てきた。
「合戦訓練の本番は、まさに今日、正午すこし前から始まりますぞ。グラウコスたちはもちろん、ここにいる若者たちも参加します。……おお、そうだ。いかがでしょう、カルキノス殿? ここはひとつ、若者たちの力戦のようすを御覧になっておかれては」
「えっ。ああ、うん」
エウバタスの熱心なすすめを受けて、何だかよく分からないまま、カルキノスは頷いてしまった。
「合戦訓練ね。なるほど。……で、それって、いったいどういう」
「オエエエエェ」
「そこの君は、キャベツ汁飲んで、日陰で寝てたほうがいいと思うな……」
どんな訓練だか知らないが、戦神アレスに供犠を捧げて行うというからには、二日酔いの体調で乗り切れるほど平和なしろもののはずがない。
その心配が、もちろん当たっている……それも、予想を遥かに超えて当たっていることを、カルキノスはこの後、目の当たりにすることとなる。




