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対決

『ピディティオン』とは、会食シュッシティオンをスパルタ流に呼ぶことばであった。

 とはいっても、ただの会食ではない。

 強制参加だ。それも、毎日。


「毎日!?」


 と、テオンから説明を受けながら、カルキノスは思わず叫んだ。


「夕食を、毎日、赤の他人と顔を突き合わせながら食べるっていうのかい?」


「私たちは、違います」


「ああ、うん……つまり、スパルタの自由民は、みんなそうすることになってるのか?」


「はい」


「えー……」


 カルキノスは、眉間と鼻にしわを寄せてうなった。

 毎日、それも岩石の親類のようなスパルタの男たちにまじって飲み食いするなど、気持ちがくつろがないにも程がある。

 せっかく、一日の終わりにゆっくりと味わう夕食だというのに。


(それなら、アクシネと食べるほうがずっといいよ……) 


共同食事ピディティオンへの参加は、スパルタの自由民に課せられた義務です。出席が免除されるのは、遠くへ狩りに出ていて間に合わないときと、神々への犠牲式を行っているときだけです」


「うわー……面倒くさい。激しく面倒くさい」


「立法者リュクルゴス以来の伝統だとか」


 その男の名は、スパルタに来て以来、何度も耳にしていた。

 現在のスパルタで守られているレートラーの大半を定めたという、伝説的な人物だ。


「リュクルゴスさん、余計なことを……」


 あからさまにげんなりした口調のカルキノスに、掃き集めた砂の中から豆を一粒ずつ拾い出していたテオンは、少しばかり苦笑したようだった。


「ぜめて会場では、もう少し、嬉しそうになさったほうがいいですよ。スパルタの自由民にしか、ピディティオンへの出席は許されません。あなたは、スパルタの男の一員として認められたのです」


「うーん……」


 カルキノスは、複雑な表情で唸った。


『誇り高きスパルタの軍を、外国人などに指揮させるわけにはいかんからな』


 と、長老会からの使者は言っていた。

 アテナイから来たカルキノスが、スパルタの将軍をつとめる。

 それは、とりもなおさず、アテナイの男が、スパルタの男たちの上に立つということだ。

 スパルタ人たちは、そんな事態を許したくなかったのだろう。


(要するに、自分らの体面を守るためなんだよな)


 カルキノスを真に仲間の一員として受けいれたわけではなく、形式上「スパルタ人枠」に入れておくことにした、というだけのことだ。

 何ともいえず、不愉快だった。

 軽く見るなよ、と思う。

 しかし、断るわけにもいかなかった。

 本心としては断りたかったが、それで、カルキノスの存在を快く思わない一派に、ますますへそを曲げられても困る。


「ピディティオンには、これをお持ちください」


「……なんで?」


 テオンが渡してきたのは、砂の中から選り分けたばかりのほこりっぽい豆が詰まった袋だ。


「ピディティオンには、各自が何らかの食材を持ち寄るならわしになっているのです。ですが、今、しらせがあっての今夜ですから、大したものでなくとも文句は言われないでしょう」


「いや、でも、これ、さっきばらまいた豆……」


 カルキノスがごにょごにょ言っているところへ、


「おい、カルキノス! いるな!?」


 今度は、なぜかグラウコスがずかずかと入ってきた。

 テオンが地面を掃き終わった後でよかった、と思ういとまもあらばこそ、


共同食事ピディティオンに参加することになったそうだな! 俺やナルテークスと同じ組だ。俺たちに恥をかかせるなよ。……ほら、これ持っていけ! ひとまず、今日のエパイクロンとしてな!」


 グラウコスが、どんとばかりに薪割り台の上に置いたのは、籠に山盛りになったパンだった。

 エパイクロンというのは、共同食事の後半に配られる食べ物のことだと、テオンが教えてくれた。

 何でなければならない、というきまりはなく、持ち寄りで、自分がそのとき出せるものを出すのだそうだ。


「誰が何を持ってきたかは、同席する皆の前で発表される。重要なのは第一印象だ、第一印象ッ!」


 グラウコスの口から「第一印象」などということばが出たことも驚きだが、


「えっ、でも、このパン、グラウコスの家族の分なんじゃ」


「姉上のところから、無理を言って借り受けてきたッ!」


「姉上!? 姉さん、いるんだ!?」


 グラウコスを女にしたような女性が「ぐわはははは」と笑っている図を想像してしまい、一瞬、眩暈がしそうになる。


「いいか」


 グラウコスのほうは、真剣だ。


「俺たちの共同食事の組を取りしきっているのは、エウバタス殿だ。さっき、いらっしゃっただろう」


「ああ、さっき、壺の欠片を踏んでいったおじさん……」


「壺? ……まあとにかく、エウバタス殿は、老人たちからも信頼されている実力者でな。あの人に認められることが重要だが、エウバタス殿は、はっきり言って、おまえのことをものすごく嫌っとる」


「うわあ」


 絶対そうだろうとは思っていたが。


「いいか、共同食事の席では、何も要らんことを言わず、とにかく静かに座ってろ。おまえに話をふる者がいたら、まずは、俺が応対する」


「え! なんかそれ、かえって心配……」


「黙れ。おまえは、将軍として皆を率いる立場になったんだ。もともと最悪な印象を、これ以上下げたら、皆の士気に関わるッ」


「もともと最悪……」


「今言ったこと、忘れるなよ。いいなッ! 場所は『双子のプラタナス』の広場! 遅れずに来い!」


 こちらに指を突きつけて、一方的にそれだけ言い残し、グラウコスは去っていった。

 現れ方と去り方が、壺が刺さったおじさん――エウバタス殿?――とそっくりだ。

 テオンが地面を掃き終えた後で本当によかった、と、カルキノスはあらためて思った。

 そうでなければ、先ほどとまったく同じ騒動が展開されていたおそれがある。

 さて――


(遅れずに、とか言っときながら、肝心の刻限を言ってくれないんだもんなあ)


 念のために早めに出かけたカルキノスは、誰よりも早く会場に着いてしまった。

 足のこともあり、遅れるようなことがあっては大変と余裕をもって出たのだが、少々、余裕を見過ぎたようである。

 おかげで、後から三々五々やってくる男たちを迎えては、いちいち立ち上がって挨拶するはめになった。

『双子のプラタナス』の広場、という謎の地名については、テオンが教えてくれた。

 呼び名のまま、二本の巨大なプラタナスの老樹が並んでそびえる空き地だ。

 そのあいだに天幕が張られ、テーブルと席とが用意されている。

 そこに、続々と男たちが集まってきた。

 給仕を担当する奴隷たち。そして、彼らの主人たちだ。

 筋骨隆々の、壮年の男たち。

 長年の炎暑と風雨によって刻みあげられたような風貌の老人たち。

 しなやかな足取りで、夕闇の中から音もなく歩み出てくる若者たち。

 そして、頭をつるつるに剃りあげた、訓練期間に入ってまだ間もないのであろう少年たち。


(こんな子供まで来るのか……そういえば、テオンがちらっと言ってたな)


 カルキノスは誰かが来るたびに立って挨拶をしたが、男たちのほとんどは、ちらりと目を向けてきただけで、そのまま黙って着席した。

 子供たちだけは、好奇心を抑えることができないのか、ちらちらとこちらに視線を投げてくるのだが、見返すと、慌てて視線を伏せる。


(どんな会食だよ!)


 全員が、無言で座っている。

 雰囲気が悪いにも程があった。

 とりあえず、小声で奴隷の一人を呼んで、持ってきたパンの籠と、埃っぽい豆の袋を押しつける。

 そうこうしているうちに、グラウコスとナルテークスも来た。

 グラウコスもまた、普段のうるささが嘘のように黙りこくって、カルキノスの左隣にどっかと座った。

 ナルテークスが、そのさらに左隣に、無言のままで座る。

 そこへ、


「ああ!」


 出し抜けに、異様に澄んでよく通る声が飛んできて、カルキノスはびくっとして席から飛びあがった。


「今夜は、君と食事を共にすることができるんだね! 嬉しいよ。僕は毎晩、いろいろな共同食事の会場を回らせてもらっているんだけど、君が来ると聞いて、今夜が本当に楽しみだった」


 詩人テルパンドロスだ。

 美しい顔をとりまく髪が、篝火のあかりを受けて黄金のように輝いている。

 スパルタの男たちが静まり返っているぶん、彼の声は、一節一節が上等の楽器の音色のようにくっきりと響きわたった。


「皆さんも、こんばんは! プラタナスの葉の囁きも美しい夜ですね」


「ええ、本当に」


「夜風もちょうど心地好いあんばいで」


「先生に同席していただけるとは、喜ばしいかぎりです」


 テルパンドロスの挨拶には、スパルタの男たちは皆、声をあげて応えた。


(露骨だな、おい!?)


 自分のときとの、あまりの反応の違いに、カルキノスは憮然とするのを通り越して唖然とした。

 子供ガキか、こいつらは。


「共同食事への参加、おめでとう」


 そのへんの事情を知ってか知らずか、テルパンドロスは再びカルキノスに向き直り、無邪気に笑顔を向けてくる。


「ああ、まだ早いか。これから「パンくず」アポマグダリアの儀式があるんだものね。でも、まあ、形式上のものさ。輝けるフォイボス・アポロン神アポローンの御言葉によって招かれた君を「壺」カッディコスする者なんて、この場にいるはずがないよ」


(……何の儀式で、ナニをされるって!?)


 何やら怪しげな響きである。

 裏の世界の者たちの符牒のようだ。

 テオンもグラウコスも、そんな話は一言もしていなかった。


(時間も場所もはっきり言わないし、そんな大事そうな情報も言わないし、これだから、スパルタの男はああああ!)


 真横にいるグラウコスを睨みたかったが、慌てているように思われても嫌なので、平静を装い、にっこりと笑い返しておく。

 全部で三十人ほどが集まったところで、一番あとから「壺が刺さったおじさん」こと、エウバタス殿があらわれた。

 テオンが巻いた膏薬と包帯は取ってきたらしく、何事もなかったかのような足取りだ。

 何となく、その場の全員が威儀を正した。


「いや、皆さん、遅参して申し訳ない。人数分のエパイクロンを用意させるのに手間取りましてな」


 エウバタスが言い、一同がうんうんと頷く。


「本日は、喜ばしきことに、テルパンドロス先生の御臨席も賜っております」


 またもや頷く一同。

 テルパンドロスはにっこり笑って、一同に会釈した。


「また、本日から、我らのあいだに一席を占めたいと望む者がおります」


(いや別に望んでないけど……)


 とは言わず、カルキノスは、何となくその場に立ち上がった。


「では、パンくずアポマグダリアを回します」


(――って、俺の紹介は無し!?) 


 と叫びたかったが、ぐっと飲みこみ、静かに着席する。

 奴隷たちが皆のあいだを回り、男たちに何かを手渡していった。

 横目で見ると、どうやらそれは、パンの外側の固い部分を取り除き、やわらかい中身だけにしたもののようだ。


(――って、俺の分はっ!?)


 パンを配る奴隷は、平然とカルキノスだけ飛ばしていった。

 ここまで来たらはっきり言ってやらねば、とカルキノスが立ち上がりかけたとき、


カッディコスを」


 とエウバタスが言い、今度は、壺を持った奴隷が一同のあいだを回りはじめた。

 男たちは、手を壺の中に突っ込んでは、その中にパンを入れていく。


「投票だ」


 ぼそりと、横からグラウコスの囁き声が聞こえた。


(……あ、そういうことか!)


 だから、カルキノスにはパンが配られなかったのである。

 カルキノスには知る由もないことだったが、共同食事に新たに加わる者があると必ず行われるのが、この「パンくず」アポマグダリアの儀式だった。

 参加者たちは、新参者の参加を承知するなら、渡されたパンをそのままに。

 不承知ならば、パンをかたく握りしめて潰し、投票する。

 壺をあけてみて、ひとつでも潰れたパンが見つかれば、その者の参加は許されない。


「では、開票いたします。……御一同、お確かめください」


 カルキノスが、投票の仕組みをまったく理解できずにいるうちに、エウバタスが厳かに宣言した。


「この通り、皆の総意により、新たな一人の参加を許すこととなりました」


(あ、いけたんだ!?)


 絶対に九割くらい反対票が入ると思っていた。


(いや……当たり前か。彼らは「アテナイ人」がスパルタ人を指揮することを、認めたくないだけなんだから……)


 かたち上、カルキノスが「スパルタの男」枠に入ることを認めておかなくては、意味がない。

 そもそも、そのためにこの共同食事に呼ばれたのである。


(なーんだ)


 ほんの一瞬、この場の全員が自分を仲間として認めてくれたのかと思い、嬉しくなった自分が、少し虚しかった。

 投票がすむと、エウバタスが場を仕切りつつ、共同食事は淡々と進んでいった。

 皆でアポロン讃歌パイアーンを歌い、食事が出される。

 大麦のパン、茹でた豚肉。もはやおなじみとなった黒いスープ。

 食事の合間に、老人たちがかわるがわる、昔の偉大な王や戦士たちの逸話を語り、若者たちや子供たちがそれに聞き入った。


(へー)


 完全に無言の食卓になるか、それとも、ちくちくと嫌味を言われ続けるかと覚悟していたから、老人たちの語りは、カルキノスにとっても非常にありがたかった。

 黒いスープも、風味にすっかり慣れたせいか、普通に美味いと感じる。

 自分で思う以上に、知らずしらず、スパルタに染まってきたのかもしれない。

 黒いスープを飲みほして、ふと器のふちから見ると、少年のひとりがじっと観察するようにこちらを見ていた。

 少し、目が大きくなっている。

 外国人にしては慣れた様子で平然と黒スープをすする様子に驚いていたのかもしれない。

 カルキノスからの目配せに、少年が慌てて目を逸らしたとき、


「エパイクロンを回すように」


 エウバタスがそう命じ、奴隷たちがやってきてテーブルの上を片付け、新たな器を並べていった。


「ジュズカケバトの丸焼き、こちらは、エウバタス殿から皆さまへ!」


 係の奴隷が、食材とその提供者を大声で発表し、料理が皆に配られはじめる。


(なるほど、これか)


『誰が何を持ってきたかは、同席する皆の前で発表される』とグラウコスが言っていたことの意味が、これで分かった。

 ハトの丸焼きが、大人全員の分、テーブルの上に並べられる。ものすごい眺めだ。

 皿の上にハトが置かれるたびに、おお、と声があがった。


「豪勢ですね!」


「今夜は、テルパンドロス先生がおいでになるということでしたので」


 にこやかに賛嘆するテルパンドロスと、それに応じるエウバタス。

 まあ、普通のやりとりではあったが、


(うーん……)


 カルキノスとしては、どうも、エウバタスが自分のことを故意に黙殺しているような気がしてならなかった。

 考えすぎだ、ということで自分を納得させようと思うのだが、初参加のカルキノスのことに、ここまでまったく触れないというのは、さすがに不自然である。

 さらに穿って考えるならば、わざと詩人に・・・詩人を・・・ぶつけてきたのではないか、という見方もできた。

 普段はあちこちの会場を回っているというテルパンドロスが、カルキノスが初めて共同食事に参加する今夜に限って、この会場に来ることになったのは、果たして偶然なのか?


「小麦のパン、こちらは、カルキノス様から皆さまへ!」


 沈黙。


(……おまえら……)


 半ば予想はついていたが、さすがに、ちょっといらいらしてきた。


「美味そうだ!」


 グラウコスが、急に怒鳴るように言って、むしゃむしゃとパンを食べ始める。


(いや、これ、グラウコスの姉上のところのだから……っていうか、ひょっとして、彼も怒ってる?)


 よし、落ち着こう。

 カルキノスは、深く息を吸い込み、吐き出し、自分もパンをとってむしゃむしゃと食べはじめた。

 これは、心理戦だ。

 敵の思惑に、まんまと乗ってやることはない。


(平常心だ、平常心! 平然と食べて飲んで、平然と帰ろう!)


 子供たちは、配られた練り菓子を美味そうに食べている。

 カップに入った葡萄酒が配られた。


(……ん?)


 置かれたカップを取り、中身を一口すすった瞬間、カルキノスは思わず眉をひそめた。

 明らかな違和感。

 毒? ――いや、そうではない。


(これは、の酒じゃないのか?)


 普通、葡萄酒は、混酒器クラテルで水と混ぜてから供されるものだ。

 アクシネとの夕食のあとで出される葡萄酒も、常に割ってあった。


(スパルタの共同食事では、生の酒を飲むことになっている? ……いや、違うな。スパルタ人は、生の酒を飲むことは避けているはずだ。と、いうことは、これは……)


 ははあ、とカルキノスが事態を察した、そのときだ。


「テルパンドロス先生!」


 エウバタスが立ち上がり、大きな声で言った。


「せっかく、いらして下さったのですから、ここはひとつ、我々のために歌っていただけませんかな?」


「おお、それはよい!」


「よろしくお願いいたします」


 男たちが、一斉に手を叩く。


「もちろん、喜んで!」


 テルパンドロスは笑みを振りまき、立ち上がった。

 そのまま、輝くような微笑をカルキノスに向ける。


「ああ、しかし、今夜はがいます。皆さん、せっかくですので――」


「さようですな」


 テルパンドロスの言葉を丁寧に、しかし有無を言わさぬ調子でさえぎり、エウバタス。


「しかし、テルパンドロス先生。そうであるからこそ、まずは、ぜひとも先生の歌からはじめていただきたいと思うのです。スパルタにふさわしい歌とはどのようなものか、分かってもらうためにも」


(……何だって?)


 飲み下した酒が燃える水に変わったかのように、腹の底がかっと熱くなった。

 今の言葉。

 口調こそ、ものやわらかだったが、裏を返せば「カルキノスの歌は、スパルタにはふさわしくない」と言い放ったのと同じではないか。

 カルキノスは、カップを握りしめ、もう一口、ぐびりと酒を飲みこんだ。


「それでは」


 テルパンドロスは、他意のない様子で一同を見渡す。


「御言葉に甘えて、僕から歌わせていただこうかな。それならば、ここは、そう、詩人を迎えるにふさわしい歌にしよう」


 すうっ、と彼が息を吸う音――

 次の瞬間、食器の音も咀嚼の音も、すべてがその場から消え失せた。



  「いざヘリコン山なる詩歌女神ムーサらの

   讃歌ほめうたより歌い始めん

   きよらけく高き峰の上

   すみれの色した泉の

   クロノスの御子のかたえにて

   足取りやさしく舞いたもう――」



 目を閉じてその声に聴き入りながら、カルキノスは、胸の奥がじいんと震え、痺れるような感覚が指先にまで広がってゆくのを感じた。


(美しい――)


 声が、膚を透して肉に浸み入り、魂そのものを微細に震わせてくるようなのだ。

 涙が出てくる。

 美しい。

 そして、自分は、こんなふうには歌えない。

 ふと、カルキノスは目を開けて、横を見た。

 グラウコスが、やや上を向き、膝の上で両の拳を握り、感極まったような表情で目を閉じている。

 その向こうで、ナルテークスは静かにテーブルを見つめ、彫像のように身動きひとつしないで座っていた。


(君も、歌えばいいのに)


 カルキノスは、思わずそう言いたくなった。

 あの、風の吹く丘の上で聴いた、ナルテークスの歌声。

 テルパンドロスに勝るとも劣らぬ力を持った、声。


(歌ってほしいんだ。君が――俺の、歌を――)


 不意に、わあっと歓声が上がり、無音の真空に落ち込んでいたかのようなカルキノスの物思いをやぶった。


「さすが、先生!」


「何度聴いても、胸に迫るものが」


「もっともっと続けていただきたかったですな!」


「これは、とても長い歌ですからね」


 ふき出た汗を、奴隷が差し出した布で爽やかにぬぐい、テルパンドロスは、またカルキノスに微笑みかけた。


「僕ばかりが歌ってもつまらない。さあ、次は、ぜひ――」


「そう、そろそろ、次の演目に移らねば」


 エウバタスが、もったいぶった調子で言った。

 カルキノスは、少し腰を浮かせつつ、ナルテークスをちらりと見た。


(歌おう、ナルテークス)


 彼はまだ、じっとテーブルを見ている。


(君と、俺の、歌を――)


 どじゃーん! と、下品な金属音が鳴り響き、カルキノスはもう少しでテーブルに突っ伏して額を打ちつけそうになった。


(何だっ!?)


 まさか、このふざけた効果音に合わせて、歌えということか?

 そのときは、相手がエウバタス殿だろうが何だろうが、関係ない。

 皿をぶん投げて、暴れてやる――

 どんじゃがどんじゃが、鳴り物の乱打は続いた。

 ピーヒョロピョー、と、間の抜けた笛の音も加わる。

 楽器の音色、というか騒音の源は、奴隷たちだ。

 そこへ、別の奴隷たちの一団が、どたどたと並んで出てきた。


(何だよ、これ……)


 彼らは皆、テオンと同じくらいの年の奴隷たちだった。

 全員が、顔を真っ赤にし、苦しげな様子で定まらぬ足踏みをしている。

 酔っているのだ。

 それも、泥酔というに近いほど。

 彼らは音楽とも呼べぬ音楽に合わせて、鈍重に手足を上げ下げした。

 踊っている。

 ――踊らされている。

 子供たちが、互いに顔を見合わせ、吹きだした。

 老人たちは酒を口に含みながらにやにやし、あるいは、腹を抱えて笑った。


(何だよ、これ)


 その中で、カルキノスの顔色だけが、急速に白くなっていく。

 横にいるグラウコスとナルテークスがどんな表情をしているのか、カルキノスは、もはや見ていなかった。


(何だよ、これ!)


 明らかに無理やり、大量の酒を飲ませて、奴隷たちを酔わせ、その様子を笑いものにしているのだ。

 醜悪。

 ――この上ない、醜悪さだ。

 奴隷たちの姿が、ではない。

 こんなことをさせる者の根性がだ。


「子供たち、ならびに若者たちよ!」


 エウバタスが、太い腕を振り、大声で言った。


「よく見ておくのだ。おまえたちは決して、このようになってはならぬ。酒に呑まれ、醜態をさらすようなことにはな。それは、スパルタの男として、この上ない恥である。よく覚えておくように!」


「はい、エウバタス殿!」


(醜い……)


 カルキノスの顔が、今度は、真っ赤になりはじめる。

 極度の怒りで、頭に血が昇っているのだ。

 このような残酷な真似をしておいて、得意満面で語るエウバタスも、それを見て喜んでいる連中も、心根の腐った馬鹿ばっかりだ。

 こんなまちだったのか、スパルタは。


『あなたは、まだ、ご存じないのです。スパルタは、奴隷には過酷な地です』


 テオンの悲痛な訴えが、耳の奥によみがえった。

 本当だった。

 こんなまちだったのか。

 こんな市を、守るために、俺は、将軍として戦うのか。

 馬鹿ばかしい。

 帰ろうか。


(…………帰、る?)


 その考えは、まるで、分厚い雲の隙間から不意に射してきた光のように思われた。

 アテナイに、帰る。

 そうだ。帰ってしまえばいいのではないか。

 事情も分からず呼びつけられて、戦場で死にそうな目に遭い、人々からは疎まれ、無視される。

 こんな連中のために、なぜ、俺が苦労しなければならないのだ――


(アテナイに帰ろう)


 そう、思った。

 だが、カルキノスは、なぜか立ち上がろうとはしなかった。

 何かが、彼を引き留めている。


『スパルタを、頼む』


 脳裏に響く、声がある。

 そうだ。

 約束、した――


「はいはい、はーい!」


 まったくもって、出し抜けに。

 自分でもびっくりするほどの大声を張り上げながら、カルキノスは、その場に立ち上がっていた。

 奴隷たちを含めた全員が、ぎょっとして全く同時にこちらを向く。

 打楽器の騒音が止まる。

 全き沈黙が、訪れる。

 その中で立ち上がったカルキノスは、満面の笑みを浮かべて、右手を高々と挙げていた。

 必ずや教師に指名されようと意気込む生徒のようにだ。


「質問でぇーす!」


「おい、カルキノス……!?」


 隣のグラウコスが、腰の後ろを引っ掴んで座らせようとしてくる。

 ものすごい力だったが、カルキノスはテーブルについた両手を断固として突っ張り、踏み堪えた。


「エウバタス殿っ! それはうまり、いや、つまーり、スパルタの男ならぁ、いくら飲んでも、絶対に、こうは、ならなーい! って、ことですかぁー!?」


 口から飛び出すのは、呂律の回らぬ、やたら間延びしたドラ声だ。

 電光のように視線を交わしあっていた子供たちが、堪え切れずに、派手に吹き出した。


「……その通り」


 エウバタスは、カルキノスの様子にも動じることなく、奇妙に愛想のいい、優しげなとさえ言ってもいい調子で応じた。


「我らスパルタの男に、酔い潰れるなどということはないのだ。そちらの出身地・・・では、どうか知らんがな……」


「ちっ、ちっ、ちーっ!」


 カルキノスは、声に出してそう言いながら、指を左右に振った。

 陽気に両腕を振って卓上のカップを示し、


「もーっちろん、俺だって、酔い潰れたりなんか、しませんよーだ。たーった、これっぽっちの、葡萄酒なんかじゃねえ!」


「何じゃと!」


 関係ないところで、老人たちが怒りだした。

 カルキノスが「出される酒の量が少ない」とけちをつけている、と思ったのだろう。


「ちっがーう!」


 カルキノスは、ばんばんと両手でテーブルを叩いて喚いた。


「違いまーっす。ほらほら、見てくださいよお。こんなに、たっぷり、素敵なラコニア産の葡萄酒があるっていうのに、あなたがたときたら、ちーとも、飲んでないじゃないですかあ!

 俺あねえ。あなたがたは、ちーと、飲みが足りないんじゃ、ないですかーって、言ってるんですよお!」


「なに?」


「――しょぉおおおおおうっ!」


 カルキノスは、怪訝そうに歪んだエウバタスの顔に、ど派手な動作で指をつきつけた。


「俺と、あなたとで、ひとぉつ! 男と男の勝負、飲み比べ、と、いきましょーや!

 この人らと同じくらい飲んで、それでもブッ潰れなけりゃあ、御立派なもんだ! あっはっはははははははは」


 頭のたがが外れたような馬鹿笑いを発しながら、カルキノスは、奴隷たちを指さした。

 その目が、ちっとも笑っていないことに、この場にいる者たちは、果たして気付いただろうか。

 勝負を申し込まれたエウバタスの顔が、徐々に紅潮してくる。

 だが、声はまだ平静だ。


「愚かな。このように度を越した飲酒を行わぬ・・・、という節制こそが、スパルタの男子の美徳なのだ」


「『度を超した』つーたって、ねえ! あんたがただって、ねえ! 好きで飲んだわけじゃないよ、ねーっ!?」


 カルキノスは奴隷たちに対して同意を求めるように呼びかけたが、何らかの反応があるよりも早く、いやむしろ、それに先んじようとするかのように、


「鍛えに、鍛えあげられた、鉄の理性があるならばっ!

 たとえ、しこたま飲もうともっ!

 酒に、脳みそとろかされ、醜態さらしはしないはずっ!

 さあさあさあさあ、俺とあんたと!

 男と男の、勝負だよーっ!?」


 市場の熟練の売り子のように、名調子をつけてべらべらとまくしたてた。


「馬鹿ばかしい! こんな、酔っ払いの戯言――」


「あれ、逃げるの?」


 カルキノスが放ったその一言に、エウバタスの動きが、ぎしりと止まった。


「あれあれあれぇー?」


 へらへら笑いながら、カルキノスは両手をひらつかせ、なおも煽る。


「おっかしーなーっ? 決して、退かないはずの、スパルタの男が。

 あんた、俺との勝負から、逃げるんですかーっ?」


「馬鹿をぬかせ!」


 今にもカルキノスを踏みつぶさんばかりの剣幕で、エウバタスは怒鳴りつけた。


「スパルタの男は、いかなる勝負からも、逃げはせん!」


「じょーとー、じょおーとおー!」


 呆然と突っ立っている給仕役の奴隷にふらふらと歩み寄って、杓子を奪い、混酒器クラテルから二つのカップにたっぷり酒を満たしつつ、カルキノスは莞爾と笑う。


「じゃーね、じゃー、もーしーも、あんたが先につぶれたら……

 うーん! そうだなあ、俺の言うこと、何でも、はい、はいって、聞いてもらいますよーん!

 だって、俺、将軍れすからねえ、しょおーぐん!」


「何だと……!」


 人類ヘレネスが自らの歴史というものを記録しはじめて以来、これほどまでに威厳のない調子で自らを将軍であると名乗った男が、かつていただろうか。

 いや、いなかっただろう――


「そーのかわりっ!」


 ぱーんと景気よく平手で卓を叩き、痛そうにその手を振りながら、カルキノスは叫ぶ。


「俺が、先につぶれたらぁ! つぶれたら、れすよぉ!?

 俺あねえ、俺あ、今夜のうちに、荷物まとめてアテナイへ、帰りまぁす、よーっ!」


「カルキノス、この、くそ馬鹿野郎ッ!」


 席を蹴り倒さんばかりの剣幕でグラウコスが立ち上がり、両手でぐいぐいとカルキノスの首を絞めあげてきた。


「貴様ァ! 何を、勝手なことをぬかす!? ゼノンのことを忘れたか!? こんなくだらん賭けに負けて、つとめを放棄したりしたら、俺は、貴様を殺す!」


「らいじょぶ、らいじょぶー!」


「何が一体どう大丈夫なんだッ!?」


「なはははははははははは」


「――面白い!」


 グラウコスにがくがくと揺さぶられながら笑い続ける、そのカルキノスの馬鹿笑いを断ち切るかのように、エウバタスが大きく頷いた。


「その賭け、のった!」


「よろしい」


 カルキノスが応じた。

 その瞬間、グラウコスが、反射的に手を放した。


「御一同」


 間延びしきった馬鹿笑いは一瞬にして鳴りをひそめ、カルキノスの声には、歴戦の勇士の背筋をさえぞくりとさせるほどの冷たさが宿っていた。


「神々の御名にかけて、真剣勝負に手出しは無用、小細工も無用。いざ――」


 杯を、掲げた。


乾杯イェー・パイアーン




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