明かされること
心臓が止まるかと思った。
カルキノスは肩を跳ねあげ、我が身をかばうように両手を掲げながら振り返った。
「あれー」
今ので、哀しみを忘れてしまったのか、アクシネがあっさりと声をあげるのが聞こえた。
「われてる!」
赤っぽい陶器のかけらが一面に散らばっている。
それに混じって、乾燥豆がそこらじゅうに飛び散っていた。
その真ん中、中庭の入口に呆然として立っていたのは、テオンだ。
まるで急に死人が起き上がりでもしたかのように目を見開き、口を半開きにして、彼はカルキノスを見つめていた。
「だーいじょうぶだ!」
凍りついたような空気を吹き飛ばし、アクシネの陽気な声が響く。
彼女は手早く腰に斧をぶら下げると、テオンのそばに駆け寄り、しゃがみこんで、割れた陶器のかけらを拾い集めはじめた。
その頬はまだ涙に濡れていたが、表情は、新しい遊びをみつけた子供のそれのようだ。
「申し訳ありません!」
「うん、うん、だいじょうぶ」
我に返ったように膝をついたテオンのほうを見もせず、アクシネは熱心に陶器のかけらを集めている。
「すぐ、なおるからなー。ほら、こうして、こうして……あれ?」
自信に満ちた顔で、両手に持ったかけらをぎゅうっと押しつけたアクシネは、それらが空しくぽろりと地面に転がるのを見て首を傾げた。
当たり前である。
そもそも、左右のかけらの断面が合ってすらいない。
「あれー」
「本当に、申し訳ありません! 怪我をしてはいけませんから……」
「だーいじょうぶだ! わたしが、あたらしいつぼ、もらってくるっ!」
アクシネは弾けるように立ち上がり、破片が散らばったあたりを一挙動で跳びこえると、そのまま、突風のような勢いで走り去っていった。
「新しい壺……って、どうする気なんだ!?」
彼女は『もらってくる』と言ったが、まさか、他人の家や市場にあるものを、そのまま『もらってくる』つもりでは――
盗ったものの値打ちにもよるが、アテナイでは、窃盗に対する刑罰としては、死罪もありうる。
「まずい、止めなきゃ! テオン、何してる! 行ってくれ!」
「大丈夫です」
叫んだカルキノスに、まだ顔色を蒼ざめさせながらも、テオンははっきりと答えた。
「アクシネさんは、善悪の区別はついています。人のものは盗りません。多分、前と同じように、何か得物を仕留めて、それと交換してもらうつもりかと……」
「君、前にも壺、割ったのか!?」
「いえ、アクシネさんがです。ほら、この前、アクシネさんが暴れて、食器をほとんど全部割ってしまったでしょう」
「ああ……」
ゼノンの死を、アクシネに伝えた夜のことだ。
割れたはずの食器が、いつの間にかそろっているとは思っていたが、そういうことになっていたのか。
「本当に、申し訳ありませんでした」
カルキノスが黙り込んでいるうちに、テオンは大きなかけらを集め終えて立ち上がり、そそくさと頭を下げた。
「まだ、小さなかけらが落ちています。この場所は避けて通ってください。後で掃き集めて、豆は、一粒残さず選り分けますので――」
「待て」
こちらに背を向けかけたテオンの動きが、止まる。
カルキノスは、その小柄な背中を、まっすぐに見据えた。
「君は、アクシネの――アグライスの名前を、知っているんだな」
テオンはおそらく、アクシネの狂乱を聞きつけて、様子を見るためにやってきたのだ。
だが、そこで思いがけぬ名を聞き、動揺のあまりに手を滑らせて、持っていた壺を落とした。
カルキノスがこの名を知っていたという事実は、テオンにとって、それほどの衝撃をもたらすものだったのだ。
だが、なぜ?
「なぜ……」
呟き、振り向いてきた彼のまなざしは、あまりにも真剣で、まるで死地に追い詰められた者のようだった。
「なぜ、あなたが、その名を?」
カルキノスは、表面上は顔つきをいささかも動かすことなく、テオンの目を見返した。
何かがある。
自分に対して隠されている、何かが。
今、その尻尾を押さえる好機が巡ってきたのだ。
詩歌女神たちの声を聴こうとするときとはまったく違う、頭がかっと熱くなり、同時にどこまでも冷えていくような感覚があった。
弁の立つ論客と舌鋒をたたかわせているときと、同じ感覚だ。
瞬きひとつするほどのあいだに心の中で論理が展開し、ふさわしい発言、ふさわしくない発言が峻別されていく。
ナルテークスから教えられた、と、本当のことを言うべきか?
だが、ナルテークス自身は、あんなふうに文字でやりとりができるということを、他の者たちには秘密にしておきたいと考えているかもしれない。
これまで、周囲の誰も、ナルテークスが文字で語れるなどとは、一言も言わなかった。
知っていれば、言うだろう。
特にグラウコスなどは、黙っているはずがない。
皆は、知らないのだ、あのことを。
ナルテークスが自分を信頼して明かしてくれた秘密を、勝手に暴露するなど、言語道断だ。
ここまでのことを、ほぼ瞬時のあいだに思考したカルキノスは、ふと、思いついた。
テオンの目を見据えたまま、右手を上げ、揃えた指先で、軽く唇を叩くしぐさをしてみせた。
静かに、と伝えるかのような身ぶり。
あるいは……口のきけないナルテークスを連想させる、身ぶり。
そうだと、はっきり示したわけではない。
どうとでも受け取れる曖昧な身ぶりだ。
だが、もしもテオン自身に少しでも心当たりがあるのならば、勝手にそうだと判断して反応するだろう――
「旦那さまが?」
テオンの目はますます見開かれ、声はかすれた。
「旦那さまが……お話しに?」
これに対しては、はっきりと、かぶりを振る。
ナルテークスは、話してはいないのだから。
「では……」
その瞬間、テオンの手がわずかに見せた動きを、カルキノスは見逃さなかった。
右手が、わずかに持ち上がる。
四本の指が、自然に曲がる。
人差し指と、親指の先が軽く触れあう――
ペンを持ち、文字を書く仕草だ。
間違えようもなかった。
(テオンは、知っていたんだ!)
ナルテークスが、文字を綴ることができるということを。
文字を書く、文章を書くというのは、特殊な技能である。
書くことはおろか、読むこともできない、という者のほうが普通だ。
生まれてから死ぬまで、一度も文字に関わることなく過ごす者の方が、圧倒的に多いのだ。
だから、「文字で伝えた」などという発想は、ふつうは出てこない。
そのことを、もとから知っていたのでもない限りは。
だが、テオンは以前、確かにこう言っていた。
『旦那さまが文字をお書きになっているところは、これまで一度も見たことがありません』――
彼は、カルキノスに対して、ナルテークスが文字を書けるという事実を隠していたのだ。
だが、なぜ?
(それに……)
同じくらい気になったのは、テオンが見せた、ペンを持つ動作だ。
一瞬だったが、完全に無意識の動きであるとわかるほどになめらかな動き、整った構えだった。
学のない者が、見よう見まねでした動きには見えなかった。
あれは、まるで――
「テオン。……君も、字が書けるんだな」
スパルタの男たちが短剣をもって敵の胸元へ飛び込むように、カルキノスは切り込んだ。
質問ではない、断定の口調で。
それを聞いたテオンの顔に、これまでに見たことのないような鬼気がよぎった。
スパルタには、追い詰められた鼠が、王の手に噛みついて逃れたという言い伝えがある。
その瞬間のテオンの表情は、まさに、敵に向かって躍り上がる寸前の窮鼠のそれにも似て――
だが、カルキノスが反射的に身構えるよりもはやく、その気配は霧散してしまった。
「ああ、どうか……お願いです。このことは、どうか、内密にお願いいたします!」
テオンは地面に膝をつき、両腕を上げたまま膝でにじり寄ってきて、嘆願者のようにカルキノスの衣のすそをつかんだ。
(このこと――)
とは、どのことだろう。
字が書けるということか?
「なぜ?」
わざと冷淡な口調で、それだけ言った。
もっと、テオンに喋らせなくては。
彼自身のことばを、引き出さなくてはならない。
「あなたが見抜いておしまいになったとおり……私は、文字が書けます。そのことを知られたら、私は、殺されてしまいます!」
「殺される?」
思わずいつもの口調に戻って、カルキノスは訊き返した。
「スパルタには、そんな法律でもあるのか? 奴隷が文字を書いてはいけない、なんて」
奴隷には、学問など必要ない。
確かに、そう考えられている。
だが、文字が書けるからといって処罰の対象になるなどというのは、聞いたこともない。
「法律で定められているも同然です。スパルタ人は、常に、奴隷が反乱を起こすことをおそれている。文字が書けるなどと分かったら、私は、スパルタにとって危険な存在だと見なされます。密偵だと決めつけられて、処刑されてしまいます、それも、他の者たちへの見せしめとするために、ひどい方法で……」
「まさか、そんな!」
カルキノスは、笑い飛ばそうとした。
ナルテークス、グラウコス、それに、ゼノン。
それぞれに、すばらしい男たちだ。
長老会の爺さんたちも、王も。
確かに戦場に立てばこの上なく恐ろしい男たちではあろうが、彼らが、好きこのんでそんな残虐な真似をするなどとは、信じられない。
「あなたは、まだ、ご存じないのです」
テオンはカルキノスの目を見上げ、呟くように言った。
その目の光は、おそろしく真剣だった。
「もちろん、旦那さま――ナルテークスさまは、そんなことはありません。旦那さまは、お優しい方です。アクシネさんも。けれど、他は違う」
そうだろうか。
本当に、そうだろうか?
カルキノスには、分からなかった。
だが、思い出したことがある。
体育訓練場での、少年同士の凄まじい殴り合い。
それをじっと見つめていた若者、エフェイオスの冷たい目つき――
「スパルタは、奴隷には過酷な地です。どうか……お願いです、どうか……」
「そう、か」
カルキノスは、とりすがるテオンの腕に手を置き、頷いた。
「分かったよ。……言わない。誰にも」
テオンの目が丸くなる。
胸の奥底から深い溜息をもらし、彼は頭を垂れた。
その仕草は、感謝と、極度の恐怖から解放された脱力の両方をあらわしているようだった。
「さあ、ほら、立って! あらためて訊くが……テオン、君は、文字が書けるんだな?」
「はい」
「そして、ナルテークスも、文字が書ける。実をいえば、アグライスという名前は、彼が、そうやって教えてくれたんだ。……君は、ナルテークスが文字を書けることを、前から知っていた」
「はい」
テオンは、観念したように頭を垂れた。
「どうして、そのことを、俺に隠したりしたんだ?」
抑えよう、と思ってはいるのだが、どうしても、声にとがめるような響きが出てしまう。
「もっと早くに分かっていれば、最初から、ナルテークスといろんな話ができたのに。はっきり言うけど、俺としては、最初に言っておいてほしかった」
「申し訳ありません。……しかし、怖かったのです。旦那さまが文字を書けることが分かれば、私が字を書けることも、分かってしまうのではないかと思って」
「……ん?」
テオンの話しぶりは、だいたいにおいて明快だが、今のは、論理の筋道が通らなかった。
「どうして、そうなるんだ?」
「こうなっては、いずれ分かってしまうことと思いますから、あなたは他に漏らしたりなさらないと信じて、正直にお話しいたします。……実は、旦那さまに文字を書くことをお教えしたのは、私なのです」
「え!」
まったく想定していない答えだったので、純粋に驚いた。
「そうなのか? ……そうだったのか。へえ……いつ?」
カルキノスの質問に、テオンは、戸惑ったようだった。
なぜそんなことを訊くのだろう、という顔をしたが、
「私がこの家に来て、すぐに。もう、十年ほども前になりますか」
「十年前……」
カルキノスは呟いた。
「そのときには、ナルテークスは、もう、口が利けなかった?」
「はい」
「アクシネは、あんなふうだった?」
「はい」
「まだ、アグライスと呼ばれていた?」
テオンの表情がかたくなった。
「それに関わることは、私の口からは言えません。旦那さまが、あなたに、その名のことを明かされたのでしたら、いずれは、そのことも――文字で――お話しになるかもしれません。
ただ、ひとつだけ、お願いいたします。そのことを、アクシネさんには、訊ねないでください。きっと、もう、忘れていると思います。思い出させないでさしあげてほしいのです」
一体、何があったというのだろう。
だが、カルキノスは、この件についてさらに踏み込んだ質問をすることをやめた。
どう考えても、よほどの事情がある。
アテナイの広場によくいるような「知りたがり」の「噂好き」のようにはなりたくなかった。
もしも、自分がどうしても知るべきことであるのならば、いずれは、知る機会が自然と訪れることだろう。
「あの」
カルキノスが黙っていると、テオンが逆に問いかけてきた。
「もしも、さしつかえありませんでしたら……一体、どういういきさつで、あなたは、旦那さまが文字で話せることにお気づきになったのですか? まさか、旦那さまが、ご自分から……」
「うーん」
難しい質問だ。
はじめから説明するのは骨が折れるし、第一、それではカルキノス自身の本当の名のことにまで言及することになりかねない。
テオンが言いふらすとは思えなかったが、このことは、まだ、ナルテークスと自分だけの秘密にしておきたかった。
それに、テオンは、ナルテークスが本当は歌うこともできるということを、果たして知っているのだろうか?
「まあ、今は『詩歌女神たちの思し召しによって』とだけ、言っておくよ」
結局、わざと謎めいた言い回しを使って、経緯をごまかした。
テオンは当然、腑に落ちない様子だったが、それ以上、追及してくることはなかった。
「ところで」
カルキノスは、ふと心に浮かんだ素朴な疑問をぶつけてみた。
「テオン。君自身は、いつ、文字を覚えたんだ?」
当たり前だが、奴隷身分の者が読み書きを学ぶ機会など、普通はない。
「昔……幼い頃に、習ったんです」
「ああ……」
テオンは、生まれながらの奴隷ではなく、もとは自由民だったが、奴隷の身分に落ちたということか。
アテナイでも、負債を抱えこんだ末に、自由民の身分を剥奪されてしまう例はよくある。
借金の返済のために売られるはめになったのか……あるいは、戦争捕虜となったのか。
これ以上、深くたずねるのも気が引けて、カルキノスは話題を変えることにした。
「なぜ、ナルテークスに文字を教えようと思ったんだい?」
「なぜ……とは?」
「だって君は、奴隷が文字を書けることを明かすのは危険だって、さっき、自分で言っていたじゃないか。それなのに、どうして……」
「あなたも、詩人であるならばお分かりになるはず」
そう答えたテオンの口調には、一切の迷いがなかった。
「旦那さまは、口がきけません。ことばで、己の思いを伝えることができない。それが、どれほど辛く、苦しいことか……当時の旦那さまは、それはそれは苦しそうで、私は、とても見ていられなかったのです」
「だから、文字で、話せるようにした?」
「はい。それからというもの、旦那さまは、兵舎から家に戻ったときにはいつも、文字を綴って、私に心のうちを打ち明けてくださいました。訓練の辛さや、アクシネさんのこと……いろいろなことを。
もちろん、私ごときが解決できるような悩みではありませんが、思いを吐き出して、楽になっていただけただけでも、ずいぶん意味はあったと思います。
いえ、申し訳ありません。このような、傲慢な物言い……」
カルキノスは、ゆっくりとかぶりを振った。
実のところは、少し、泣きそうになっていた。
「君は、本当に、ナルテークスのことが好きなんだな」
そう言うと、テオンは少し驚いたような顔をして、それから、かすかに笑った。
「私には、子がありませんから。……いや、いや、私ときたら、いったい何を言ってるんでしょう? 忘れてください。とんでもないことです」
「いや、いや、分かるよ。……分かるような気がするよ」
カルキノスは大きくうなずき、笑った。
「ナルテークスは、幸せだな。君みたいな主人思いの奴隷を持って」
その瞬間、
「長老会から、使いっす!」
不意に、表から、アイトーンの鋭い声がひびいた。
テオンの顔が石のようにこわばる。
カルキノスは、彼と目を見合わせた。
――いや、違う。
今の会話が聞かれていた、などということは、ないはずだ。
「カルキノス様に、話があるそうっす!」
「俺に? ……分かった、今行く!」
「邪魔するぞ」
カルキノスが歩き出そうとするよりもはやく、いかめしい顔つきの中年男が、中庭の入口にぬっと姿をあらわした。
顔は記憶になかったが、長老会の使いだというのだから、そうなのだろう。
テオンと同じくらいの年齢に見えるが、体の厚みが、テオンの倍ほどはありそうだった。
あっ、そこ踏まないで! とカルキノスが警告を発するよりもはやく、男はずかずかと中庭に踏み込んできた。
顔色も変えなかったから、幸運にも、そこらじゅうに散らばっているはずの陶器の破片を踏まずにすんだらしい。
豆は踏んだが。
「カルキノスよ」
「はあ」
踏みつぶされた豆を見つめながら生返事をしたカルキノスに、
「はあ、ではないわ! しゃきっとせい、しゃきっと」
これだから最近の若いもんは、とひとしきりぶつぶつ言った後、男は、いかにも嫌そうな顔をして告げた。
「喜べ。貴様は、ピディティオンへの参加を許された」
「ぴ?」
「誇り高きスパルタの軍を、外国人などに指揮させるわけにはいかんからな」
「ん?」
「ピディティオンには、エパイクロンを持参するように。もしもできるならばな」
「えぱ?」
男がいったい何を言っているのが、カルキノスには、半分も理解できなかった。
「確かに伝えたぞ。では、会場でな」
居丈高にそう宣言し、男は、分厚い肩をそびやかして踵を返した。
破片が散らばっているはずのあたりを、帰りも思い切り――豆も――踏みつけて出ていったが、やはり、何の反応も見せなかった。
「あの、今の方……足……」
「『ぴでぃてぃおん』って、何だ?」
テオンとカルキノスが、それぞれに呟きながら顔を見合わせた、そのときだ。
「うおおおおぉ!?」
表から、すっとんきょうな悲鳴が聞こえてきた。
「足の裏から血が! おのれカルキノス! 呪いでもかけおったか!?」
「わあああ! やっぱり踏んでた!」
「グナタイナ、薬草だ! 血止めの薬草を今すぐに持ってきてくれ……っ!」
大騒ぎになった。




