はたらく者たち
* * *
* * *
若い娘がさしのべた右手の先、微妙に上下する指先から、細く、真下へ伸びるすじがある。
羊毛の、細い束である。
その羊毛のすじにぶら下がり、地面近くでくるくると回っているのは、下部に錘のついた細長い紡錘だ。
羊毛の束は、紡錘の回転によって縒りをかけられ、たちまちのうちに、ひとすじの糸となってゆく。
「ほーいほーい、ほーいっ、と……」
紡錘を持ち上げ、縒り上げた糸をくるくると軸に巻き取った娘は、左手につかんだ雲のような羊毛の塊から、次に縒るぶんの羊毛のすじを巧みな手さばきで引き出した。
それを紡錘の頂点のかぎにかけ、ふたたび垂らし、手で紡錘に回転をかけながら糸を紡いでゆく。
流れるような手際のよさだ。
技術が体にしみついている。
「……はいっ、と。まあ、こういう感じですね」
「おおお」
照れたように言った家付き奴隷のグナタイナに、カルキノスは、思わず小さく拍手を送った。
ナルテークスの家の、中庭である。
風の吹く丘の上で、ナルテークスと別れたのが、今から五日ほど前のこと。
彼は、あれから一度もこの家に戻ってこない。
唐突な、居心地の悪い別れだった。
『死は恐ろしい』
そう記したときの彼の険しい表情が、目に焼きついている。
次に会ったら、最初に何と話しかけようか。
まずは、謝るべきか。
――だが、何と言って?
無神経なことを言ってごめん、と言えばいいのだろうか。
だが、カルキノスは、ナルテークスがどうしてあんなふうに腹を立てたのか、まだ理解できていなかった。
そもそも、彼は、本当に腹を立てていたのだろうか?
『死は恐ろしい』
あのときの、彼の表情。
あれは――
「ふるさとでは、こういうもの、ごらんにならなかったんですか?」
「そりゃ、母や姉たちが、家でやってたけど」
愛想よく話しかけてくるグナタイナに、カルキノスは物珍しそうに答えた。
奴隷とこんなふうに談笑するなど、スパルタで暮らす自由民にはあるまじき行動だ。
だが、ナルテークスは兵舎から戻らず、アクシネはほとんど一日じゅう野山をほっつき歩いて、家にはあまり帰ってこない。
そぞろに竪琴を爪弾き、何か新しい詩歌ができはしないかと待ってみることもあったが、どうも、うまくいかなかった。
何かが、心に引っかかっている。
それが、流れ出ようとする言葉を堰き止めている。
『死は恐ろしい』――
「でも、アテナイでは、糸紡ぎや機織りは女部屋でやるんだ。だから、ちゃんと見たことはなかったな。こういう仕組みになってたとは、初めて知ったよ」
「けっこう面倒ですけど、慣れれば、はやく、きれいにできますよ。それに、スパルタでも、普通は女部屋でやる仕事だと思いますね!」
カルキノスは、ここ五日間、この家から一歩も出ていない。
そのあいだに、テオンは言うに及ばず、男奴隷のアイトーンや、今のようにグナタイナとも、よく言葉を交わすようになっていた。
ナルテークスは不在、アクシネとは会話が成立しない、暇になれば集まって笑い騒いだアテナイの友人たちは遥か彼方――
話し相手になりそうな相手といえば、あとはもう、奴隷たちくらいしかいない。
そんな後ろ向きな理由で始めた交流ではあったが、いざ言葉をかわしてみると、これが意外と面白く、色々な発見がある。
奴隷たちのほうも、はじめは警戒して極端に口数の少なかったが、カルキノスがあれこれと質問するのに答えるうちに、すっかり打ち解けてきた。
「確かに、ふつうは一家の女主人が監督してする仕事だよな。うちでは、母がそうだった」
「そうですね」
グナタイナは苦笑した。眉が下がって、けっこう可愛い。
「アクシネさんは、糸紡ぎが嫌いなんですよ。うまくできない! おもしろくない! って」
「ああ……」
はだしで野山を駆けめぐり、弓矢で獣たちを射止めるのが好きな彼女のことだ。
こんなふうに一つ所で根気よく進めなくてはならない手先の仕事には、根本的に向いていない。
もじゃもじゃになった羊毛を引きちぎって暴れるアクシネの姿を想像し、カルキノスは、思わず遠い目になった。
「それは、そうだろうなあ」
「そうなんですよ。糸紡ぎは女の仕事ですから、この家で、アクシネさんがやらなきゃ、あたしがやるより他にしようがない。かといって、アクシネさんが留守のあいだに、あたしが勝手にアクシネさんの部屋に入って仕事をするわけにはいかないでしょ? だから、こうして中庭で――」
「なに?」
急に、ひょいとアクシネの頭がのぞいた。
「うおぉ!?」
カルキノスは思わず、腰をおろしていた薪割り用の台から、後ろ向きにずり落ちた。
アクシネの頭がひょっこりとあらわれたのは、人間の背丈よりも高い塀の上からだったのである。
「よんだかー?」
言いながら、アクシネは軽々と塀の上によじ登ってきた。
その長い脚の付け根までが丸見えになって、カルキノスは慌ててあっちを見たり、こっちを見たりした。
「アクシネさん、お帰りなさい!」
「うん。よんだ?」
「いいえ。ちょうど、アクシネさんは糸紡ぎが好きじゃない、って話をしていたんです」
「ふーん」
それだけで納得したのか、もともとあまり気にしていなかったのか、アクシネはにこにこ笑い、
「ホウッ!」
と叫んで塀の上から飛び下りた。
重い手斧を腰にぶら下げているというのに、空中で体勢を崩すこともない。
本物の獣のように、着地の瞬間に両手と両足をつき、音すらも立てなかった。
「あのなあ、しごと! わたしは、しごとをしてきたぞっ! まきをなー、まきを、あれっ?」
すぐさま跳ね起きてアクシネが喋りだしたところへ、
「待ってくださいよ……!」
ひいひい言いながら、山のような薪を背中に担いだアイトーンが中庭に入ってくる。
「あっ、あった、まき! ほらな、こーんなに、まきをあつめたっ! えらい、えらい! わたしは、とってもえらいなあ!」
「ご苦労さん……」
汗まみれになって息を荒らげているアイトーンに、カルキノスはそっと声をかけた。
多分、アクシネは腰にぶら下げた手斧をふるって大量の薪を集めたはいいが、持って帰るのをすっかり忘れて走り出したのだろう。
アイトーンはその薪を拾い集めて担ぎ、女主人のあとを追って、必死に走ってきたのだ。
「よく走れたなあ、そんな大荷物せおって……」
「うっす……自分、走りには、自信あるんで……名前も『燃え上がる』なんで……ほら、よく言うっしょ、『野火が広がるみたいに速い』って……」
「あれ? あんた、赤ん坊のころに火がついたみたいに泣き喚いてたから、そういう名前になったんじゃなかった?」
「それは、赤ん坊の頃の話で……物心ついてからは……野火のほうってことにしてるんだよ、俺が」
「勝手に言ってるだけじゃん!」
グナタイナが叫び、意味が分かっているのかいないのか、アクシネがわははははと笑う。
カルキノスも声をあげて笑った。
ここが、人の目の届かない中庭でなければ、絶対にありえない光景だ。
「アイトーン、とにかく水飲め、水」
「どうもっす」
大量の薪を地面に下ろし、カルキノスに一礼して、アイトーンが水瓶のほうへ歩いていく。
アクシネはにこにこしながらその背中を見送っていたが、急に跳びはねるような足取りで近づいてきたかと思うと、アイトーンが下ろした薪をひとつ取り上げて、ひょいと薪割り台にのせ、
「ホウッ!」
何の警告もなく一挙動で手斧を振り上げ、振り下ろした。
「うおあああああぁ!?」
薪は軽快な音をたてて真っ二つになり、カルキノス――その薪割り台からずり落ちた、その場所に、そのままの姿勢でいた――は、全力で悲鳴をあげた。
「われた、われた! やったぞお」
アクシネはさっそく、次の薪を拾いに行っている。
カルキノスはずるずると後ろ向きに這って、必死に薪割り台から遠ざかった。
本当は走って逃げたかったが、さっきので腰が抜けたのだ。
「ホウッ! われた、われた! やったぞお」
アクシネは一回ごとに、まったく同じ盛り上がり方で喜んでいる。楽しそうだ。
「あっ、また! ……アクシネさん!」
アイトーンが、慌てて駆け戻ってきた。
「いけませんって! 薪割りは、俺がやるっすから」
「むりー、わたしがやるううううう」
「いや、おかしいっすから! アクシネさんを働かせたりしたら、俺が怒られるっすから!」
単純作業の肉体労働は、奴隷の仕事である。
スパルタの自由民が、それも女性がみずから薪を割るなど、本来あるはずのないことだ。
「いやだー! しごと! わたしは、しごとをするうー!」
アクシネは口をとがらせ、斧を振り回しながら熱弁した。危険なことおびただしい。
「あ!」
しかし、次の瞬間には、あっというまに斧を下げて、
「それ、なんだ、それ!?」
薪は放り出し、グナタイナのほうに走っていく。
アイトーンは、特に感想を述べるでもなく、黙々と薪を拾って割り始めた。慣れている。
「これは、糸紡ぎをしてるんですよ」
「これは?」
「紡錘です」
間違いなく以前にも見たことがあるはずなのだが、アクシネはグナタイナの隣にしゃがんで、まるで初めて見るもののように、くるくる回る紡錘と、その上でたちまち縒られてゆく糸を見つめた。
「これは?」
「羊の毛です」
「ひつじって、あれか、あの、ひつじ。ふわふわ!」
「そうですね、ふわふわです」
「おー」
紡錘の回転を目で追っているのか、瞳がものすごい速さで左右に揺れている。
「いいな、いいな! わたしもやる」
「でも、アクシネさんは、糸紡ぎが嫌いですよ?」
「だれが?」
「アクシネさんです」
「わたし?」
「そう。おもしろくない! って、言ってましたよ、前に」
「だれが?」
「アクシネさんです」
――こちらも慣れている。
しばらくのあいだ、アイトーンが薪を割る規則正しい音だけが、その場に響き続けた。
アクシネは不可解そうな顔でグナタイナを見つめていたが、やがて、回転する紡錘に目を戻し、
「ふーふふふーん……ふーふふふーん……」
身体を揺らしながら、謎の鼻歌を歌いはじめた。
何度も繰り返す、ゆったりとしたその音は、どことなく子守唄を思わせた。
「アクシネ。それは、何の歌だい?」
「おかあさん」
突然口にされたその単語に、カルキノスはぴくりと肩を揺らした。
だが、アクシネ自身は、穏やかに笑っている。
「なんかなー、おもいだしてきた。おかあさんが、こうやってるときに、うたってた。ふーふふふーん、ふーふふふーん……ほらあ!」
急に叫んで立ち上がり、アクシネはカルキノスに腕を振ってきた。
「おまえもうたえ!」
「なんでっ!?」
「うた、すきだろー」
うんうん、と満面の笑みで頷きかけ、ふーふふふーん、ふーふふふーん、と鼻歌を続ける。
真似をして一緒に歌え、ということだろうか。
「まあ、うん……」
それでもいいのだが、詩人としては、そこに音があれば、ことばを与えたくなる。
カルキノスは数呼吸のあいだ、沈黙すると、アクシネの鼻歌に合わせて即興で歌いはじめた。
「まわれよ紡錘よ 糸紡ぎ
ふわりの雲に 縒りかけて
きれいな糸を 紡ぎましょう
きれいな糸が 紡げたら
サフラン色に 染めあげて
あなたの衣を 織りましょう――」
「うわあ!」
アクシネの顔が、ぱあっと輝いた。
「いいうた!」
「ほんと、いい歌ですね! 仕事がはかどりそうですよ」
歌の三周目から、グナタイナも加わった。
「まわれよ紡錘よ 糸紡ぎ
ふわりの雲に 縒りかけて
きれいな糸を 紡ぎましょう
きれいな糸が 紡げたら
サフラン色に 染めあげて
あなたの衣を 織りましょう――」
グナタイナが加わって二周、歌ったところで、不意にぷつりとアクシネが鼻歌をやめた。
なにげなくそちらを見て、
(え!?)
カルキノスは、目を見開いた。
アクシネは、眉をぎゅうっと寄せ、口をへの字に曲げて、目にいっぱい涙を溜めていた。
(なんで!?)
「おかあさん……」
顔じゅうをくしゃくしゃにして、彼女はだしぬけに、幼い子供のように叫んだ。
「おかあさん、おかあさあああああぁん! うあああああああぁん!」
泣き叫びながら、アクシネはなぜかアイトーンのほうに突進していった。
薪割り台に薪を置いた姿勢で唖然としていたアイトーンを突き飛ばし、そのまま、竜巻のように斧をぶん回して薪をぶち割りはじめる。
薪を、割るというより、破壊する勢いだ。
「どっ、ど、ど――」
予想だにしない展開に激しくうろたえて、カルキノスはふたりの奴隷たちを見た。
「避難しましょう!」
「逃げるっす!」
アクシネの狂乱は、もはや自然災害と同じ扱いであるらしい。
グナタイナとアイトーンはそれぞれの仕事道具をひっつかむと、一目散にカルキノスの横をすり抜け、中庭から走り出ていった。
(おおおおおい! ちょっ……もう! これだから奴隷はぁ!)
カルキノスは思わず胸中で天を仰いだが、たとえ完全武装した自由民の男であったとしても、この状態のアクシネと同席したいとは、まず思うまい。
「アクシネ……! 落ち着いて!」
万が一、あの斧で殴りかかられたら、死ぬ。
カルキノスは両腕を突き出し、じりじりとアクシネの真後ろに回りながら声をかけた。
彼女は野獣の遠吠えのような声をあげながら、まだ薪を叩き割り続けている。
「アクシネ、聞いてくれ! アクシネ……! おいってば!」
こちらからの呼びかけは、耳にさえ入っていないようだ。
一体どうすれば、と考えたそのとき、いずれかの神が囁きかけたように、ふと、ひとつの案がひらめいた。
カルキノスは、おそるおそる一歩、もう一歩、アクシネの背中に近づき、
「……アグライス?」
彼女の真の名で、呼びかけた。
その瞬間。
陶器が割れ砕ける、とんでもない音が、カルキノスの背後で響いた。




