恐れをしらぬ者たち
風が吹いている。
爆発的な笑いの発作が去ると、二人の男はどちらからともなく草の上に腰を下ろし、並んで眼下の風景を眺めた。
何ともいえず、くつろいだ気分だった。
相手と自分とのあいだに、これまでとはまったく違うつながりが生まれていることを感じる。
「俺は、もうしばらく、蟹ってことでいいや」
彼は不意にそう言い、驚いたように見返してくる相手に、にっと笑ってみせた。
「だって、同じ名前じゃ、まわりが混乱しそうだからな。こっちも、呼びかけられたとき、どっちのことだか分からないし。だいいち、君のほうが、ここには長くいるんだから……」
だから、君は本当の名を名乗るようにするといい、という意味で言った。
彼ほどの戦士が、草の名前などで呼ばれて軽んじられていいはずがない。
すると、
『俺もだ』
小石がすばやく走り、文字を綴った。
『俺も大ういきょうのままでいい』
「いや、さすがに、草はちょっと……」
思わず言うと、
『蟹も、どうかと思う』
すかさずそんな文言が返ってきて、カルキノスは思わずまた笑い出してしまった。
ことばで心のやり取りができるということは、これほどまでに、人と人との距離を近づけるものであったのか。
これまでずっと、ことばをあやつる者として自負してきながら、今日、はじめてそのことに気づかされた。
「草と蟹、どっちもどっちだが……だからこそ、まあ、いいか!」
陽気に言って、また、二人で笑う。
(そうか)
笑いながら、カルキノスは、不意に思いついた。
(このことを、まだ、誰も知らないんだ)
ナルテークスの本名が、スパルタでどの程度知られているのか、それは分からない。
だが、少なくともこの自分の本当の名は、スパルタでは、まだ誰も知らぬ。
それに。
「君が、こんなふうに文字を書けること、皆は知ってるのか?」
『いいや』
その答えを見た瞬間、
(――使える)
そう、思った。
「何に」ということまでは、まだ分からない。
だが、今ここに、同じ名を持つ二人の男がいる。
詩人と、戦士と。
そして、ことばを持たぬと思われていた戦士が、本当はこれほどまでに雄弁に語り、歌うことができた――
これは、とても大きなことだと、彼の直感は告げていた。
人々の心を大きく動かすだけの威力を持つ真実だ。
日常の中の、ちょっとした珍事として話題にのぼる程度で終わらせてしまっては、いけない。
(伝説に、する)
詩人らしい発想の飛躍が、ここでもあらわれた。
(もしも、古の偉大な人々の生涯のように、俺たちの一生が語り継がれる日が来るのなら……これは、一章を割かれるに値することだ)
もののついでのような、半端なときに明らかにするのではだめだ。
酒の席のような、雑然とした場でもだめだ。
ふさわしい時、ふさわしい場、そして、ふさわしい演出が必要である。
「このことは、まだ、誰にも言わないでおこう」
カルキノスは、ナルテークスの肩に手を置いて言った。
「なっ。俺たちだけの秘密。約束だ!」
口に出してから、あまりにも子供っぽいことを言ってしまったかと反省したが、ナルテークスは、にっと笑って頷いてきた。
彼がこんなふうに笑うことがあるなどとは、これまでは、想像したことすらなかった。
「あっ」
その表情を目にしたとたん、浮かび上がってきた、別の面影がある。
「もしかして……君の妹……アクシネにも、本当の名前がある?」
ナルテークスは頷き、書いた。
ΑΓΛΑΙΣ
「おお……」
カルキノスは複雑な表情で唸り、黙り込んだ。
アグライス。
女神アグライアーを思わせる名だ。
アグライアーは優美女神たちの一柱で「輝き」の女神である。
手斧をぶらさげてうろつき、泥と埃に汚れた手足でにこにこと笑う、あの姿。
正直に言って、優雅さとも、美しさとも程遠い。
だが――「輝き」というところだけは、たしかに通じるものがあるような気がした。
「いい名前だね」
最終的な感想としては、それだけ述べるにとどめる。
「じゃあ、彼女も、まだしばらくは斧女のままってことで……」
彼女の本名を明らかにすれば、必然的に、それが判明した経緯も言わざるをえないからだ。
それに、――そうだ、テオンが「人からアクシネ、アクシネと呼ばれるので、自分の名前をアクシネだと思っておられるのですよ」と言っていたではないか。
自分が「アクシネ」ではなく本当は「アグライス」である、などという大きな事実を彼女に理解させようと思ったら、ひと悶着どころか、とんでもない騒ぎを覚悟しなくてはならない。
(待てよ?)
不意に、思考が横っとびに跳び、別の疑問が発生した。
いったい、いつから彼女は「アクシネ」などと呼ばれるようになったのだろう?
まさか、赤ん坊の頃からではあるまい。
手斧を持ち歩くから「アクシネ」というあだ名がついたのだ。
だとすれば、それは、ある程度の年齢になってからのはずで、幼い頃には本当の名で呼ばれていたはずだ。
彼女は、そのことを覚えていないのだろうか。
(アクシネは、ゼノンが死んだことを知ったとき、「おとうさんとおかあさんとおんなじだ」って言ってた……)
両親の死をはっきりと記憶しているのならば、両親が健在だったときのことも、いくらかは覚えていてもいいだろう。
そのとき、両親から呼ばれていたはずの名のことを、彼女は記憶していないのだろうか。
――そう、その、両親。
父親は戦で死んだ、母親は病で死んだ、という。
『あんた……ナルテークスの預かりになってたよな、確か。何を聞いたか知らんが、臆病者の一家の考え方を、俺たちスパルタ人の流儀だと勘違いしてもらっちゃ困るぜ』
体育訓練場で出会った、冷たい目をした若者――エフェイオスは、そう言っていた。
もしかして、あれは、ナルテークスの両親――父親のことだったのか?
この機会に、訊ねてみようか。
(いや、駄目だ!)
喉元まで出かけた言葉を、カルキノスは胸の奥底に叩き込んだ。
今、訊ねるのは、拙速に過ぎる。
せっかくナルテークスが心を開いてくれたのに、それに乗じて、敏感な領域に無遠慮に踏み込むような真似はできない。
「ところで」
話を変えることにした。
ある意味では、こちらのほうが本題であるとも言える。
「そもそも、君は、どうしてここに? さっき、俺の歌を歌ってくれてたけど……」
ナルテークスは、目を細めた。
どこか、遠くを見るような表情になった。
『ゼノンのことを偲びたかった』
書いて、彼はもう一方の手にずっと持っていた小さな壺を持ち上げて揺らしてみせた。
かすかな水音に、カルキノスはその中身を悟った。
二人の男はおもむろにその場に立ち上がり、姿勢を正した。
ナルテークスが栓を抜き、壺を傾けて、中に満たしてあった飲み物を大地に注いだ。
蜂蜜、乳、水、葡萄酒、オリーブ油などを混ぜ合わせた死者への供物である。
昔ながらの作法からいえば、これは相当おかしなことで、子供のままごとめいているとさえ言えた。
死者への捧げものは、当然、墓地でするべきだからだ。
だが、ナルテークスは真剣そのものだった。
彼は目を閉じて何事か黙想しているふうだったが、やがて目を開け、小石を動かして書きつけた。
『ゼノンも、ここが好きだった。
俺たちはよくここに来た。
彼は、自分は死んだらここに来たいといつも言っていた』
ざあっと音を立てて、風が吹き抜けていった。
やわらかな葉ずれの音。草のにおい。
ゼノンもまた、かつて、ここにいたのだ。
ナルテークスと並んで、草の上に腰を下ろし、まばゆい陽射しに目を細めながら、スパルタの市を見下ろしていたのだ。
「もしかして……ゼノンが、俺たちをここで引き合わせてくれたのかもしれないな」
カルキノスは、思わずそう呟いた。
ナルテークスは答えなかったが、微かに笑った。
その考え方は、悪くない。そう言っているかのようだった。
やがて、彼は岩のまだ文字で埋まっていない面を探し、そこにことばを綴った。
『長老会で、お前の歌をきいたとき、心が動き、体が震えた。
ゼノンのことを思い出すことができた。
お前の歌を歌えば、いつでも彼のことが心によみがえる』
「ありがとう……」
カルキノスは、小さな声で言った。
実のところは、今にも泣き出しそうになっていたのだった。
自分が生み出した詩を、こんなふうに評されたことは今までになかった。
「面白い」「言い回しが軽妙だ」「よくできている」
いつも、そんなふうに言われた。
自分の詩によって「心が動き、体が震えた」と言ってくれる者が、今、ここにいる。
その事実がどれほど深くまで心にしみとおり、奥底から力を呼び起こしてくれるものであるかを、カルキノスは、初めて知った。
(そうか)
また、ひとつのことを、悟ったと思った。
(あのとき、ことばは、俺の奥底から噴き上がってきた……)
衝撃。怒り。
ゼノンの名誉を守りたい、自分が守らねばならないという強烈な意志。
(俺の心が動いたから、ことばに、その力がこもったんだ)
心の激動を、ことばという不変のかたちに変えて、永遠のものに。
そのことばを受け取った者たちの心に、同じ火を灯す者。
己は死んでも、ことばは残り、人々の心に、絶えることのない火を灯し続ける者。
(俺が、彼らを永遠にする)
あの日、ステニュクレロスの野に斃れた男たちのことを。
命を懸けて守り抜いてくれた、ゼノンのことを。
死の闇も、陽の射す道も、前を向いて歩く……
「知りあってから、短いあいだしか一緒にいられなかったけど……ゼノンは、本当にすばらしい戦士だった」
万感の思いをこめて、カルキノスは言った。
「彼だけじゃない。君もだ。そして、グラウコスも。
俺は、スパルタの戦士たちを尊敬する。君たちほど勇気のある男たちを他に知らない。どうすれば、あんなことができるのか分からない。
君たちは皆、死ぬことを少しも恐れていないようだ――」
『違う』
不意に、石のかけらが割れて飛び散った。
そのことばを刻んだナルテークスの剣幕に、カルキノスは、思わず息を呑んだ。
『違う』
ナルテークスはカルキノスを見て、自分自身が記したことばを何度も手で叩いた。
まるで、大声をあげて訴えるかのように。
さらに続けて何かを書こうとして、ナルテークスはためらった。
その視線が、左右に揺れる。
周囲に誰もいないかどうかを確かめたのだ。
やがて、彼は、はっきりと書いた。
『死は恐ろしい』
カルキノスは最初、自分の読み間違いかと思った。
「でも」
思わず、目を見開いて反駁した。
「君たちは、戦場で、まっすぐに前を向いて、敵のほうへ歩いていったじゃないか。竪琴の音に合わせて、一糸乱れぬ歩調で、槍の穂先の向きさえ揃えて……
まるで、そっちには誰もいないみたいだった。敵なんかいないみたいだった。次の瞬間には死ぬかもしれないのに、君たちは、少しも怖がっていなかったじゃないか」
ナルテークスの表情が険しくなった。
腹を立てているというのではない。
目の前の男はどうやらとんでもない勘違いをしているらしい、と、気付いたような顔だった。
『死は恐ろしい』
もう一度、岩を叩いてその言葉を繰り返し、
『俺たちは、恐れを、あらわさないだけだ』
と続け、少しだけためらってから、
『そんなことは、許されない』
と結んだ。
それから、ナルテークスは急いで大きめの石を拾い上げると、がりがりと岩の表面を擦って、これまでに綴った文字をすべて削り消しはじめた。
その動作のあまりの激しさに、カルキノスは息を呑み、じっと見つめていることしかできなかった。
文字がすっかり読めなくなるまでめちゃめちゃにすると、ナルテークスは息を荒くしながら体を起こした。
そして、不意に踵を返し、足早に歩き去ろうとした。
「どうしたんだ……!? 待ってくれ、ナルテークス!」
カルキノスの叫びに、ナルテークスは、最初と同じ悲しげな顔で振り向いてきた。
まるで、今の出来事はすべて、夢かまぼろしであったかのように。
彼はそのままカルキノスに背を向け、一人で丘を下っていった。




