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詩人の名 戦士の名

 風が、吹いている。

 草をなで、枝葉を揺らした風が、二人の男のあいだを吹き抜けていった。

 その音が消え去った後に、完全な沈黙が残る。

 カルキノスは口を開け、閉め、また開けた。

 だが、言葉はなにひとつ出てこなかった。

 驚愕と、巨大な疑問が、他の全てを圧倒している。

 なぜ。そんなはずがない。ありえない。

 今の歌を、本当に、彼が?


「ナルテークス……?」


 やっとの思いでしぼり出した相手の名は、かえっていっそうの非現実感をもたらした。

 色褪せた衣に包まれた、がっしりとした長身。

 堂々たる体格に似合わず、少し肩をすぼめたその立ち方。

 槍と盾は持たず、短剣だけを腰に帯びたナルテークスは、訓練を終えてすぐにここに来たのだろう。手足に細かい砂をつけたままだった。

 その彼もまた、カルキノスと同じくらい驚いていることを、大きく見開かれた目が雄弁に語っている。

 再び、風が吹いた。

 その風をもってしても、この場に降りた沈黙を吹き払うことはかなわず、二人は石と化したかのように互いの目を見つめ続けた。

 ふと、カルキノスの心に一点の疑いが生じた。

 先ほどきこえたと思った歌声は、実は、自分の夢だったのではないか?

 ナルテークスは、口がきけないのだ。

 スパルタまでの旅のあいだも、体育訓練場ギュムナシオンでも、ただ一人の家族であるアクシネといるときにさえ、彼は一言も言葉を発さなかった。

 そうだ、奴隷のテオンも、はっきりと言っていたではないか。『旦那さまは、口がきけません』と――


 ナルテークスが、不意に身をひるがえし、そのまま立ち去ろうとした。


「待ってくれ!」


 その瞬間に呪縛は解け、カルキノスは思わず叫んでいた。


「さっきの……あの、さっきの素晴らしい歌声は、君が?」


 輝けるフォイボス・アポロン神アポローンその方がこの丘に降りたもうたかと思うほどの、心打つ声の響き。

 夢などではない。

 あれほど美しい声は、夢にも聞いたことがない……

 ナルテークスは動きを止め、ゆっくりと振りかえってきた。

 独特の上目遣いと、ものがなしいような表情のまま、じっとカルキノスを見返した。


「君が、俺の歌を……歌ってくれていたのか……?」


 カルキノスが祈るような心持ちで見つめるうちに、やがて、ナルテークスは小さくうなずいた。

 その瞬間、カルキノスの全身を貫いた感覚は、これまで生きてきて一度も経験のないものだった。

 膝から下の力が抜けたようになってがくがくと震え、全身に鳥肌が立った。

 それは、神のしるしを初めて目の当たりにした人間が抱かずにはいられない、圧倒的な畏怖の念であった。

 口のきけないナルテークスが、歌えるようになった。

 他でもない、カルキノスが作った歌を、歌えるようになったのだ。

 これがアポロン神のはからいでなくて何であろう。


「おお……おお……!」


 涙をあふれさせながら、カルキノスは、ふらふらとナルテークスに歩み寄っていった。

 ナルテークスは明らかにうろたえた様子を見せたが、避けようとはせず、その場にとどまった。

 そのナルテークスの手を、カルキノスはしっかりと握りしめ、泣きながら、何度も上下に振った。


「良かった。良かったなあ! ナルテークス……良かったなあ!」


 最初は本当にそれだけしか言葉が出てこなかったが、十回ほども繰り返したところで、さすがに、言葉をあやつる者としての矜持がよみがえってくる。


「おお、神よ! 本当に……本当に驚いた! まだ信じられない。君が、話せるようになるなんて!」


 そのときだ。

 ナルテークスが、はっきりとかぶりを振った。


「え?」


 反射的に、カルキノスは続けて口にした。


「……『違う』?」


 ナルテークスがゆっくりとうなずく。


「えっ? じゃあ……『話すことができない』?」


 再びのうなずき。


「えっ……え? でも……さっきの歌は、君が、歌っていたんだろう?」


 ――肯定。


「さっき、急に、歌が歌えるようになった?」


 ――否定。


「え? ……歌うことができない?」


 ――否定。


「ん!? ちょっと、待ってくれ」


 わけが分からなくなってきた。

 混乱のあまり胸の前で両手をわきわきと動かしたカルキノスは、そのままの姿勢で突然、ぴたりと動きを止めた。

 ふと、あるもの・・・・が目に入ったのだ。

 半分ほど草に埋もれた大きな岩だ。

 そして、周囲に散らばった、いくつかの石ころ。

 カルキノスは吸い寄せられるように近づき、石ころのひとつを手に取った。

 手の中の石をじっと見つめ、それから、ナルテークスを見た。

 そしてカルキノスは、岩の表面を、拾った石の、尖った先端で引っ掻きはじめた。

 

『ΠΟΙΗΤΗΣΕΙΜΙ』


 俺は、詩人だ。


 一息にそう書きつけて、またナルテークスを見た。

 ナルテークスは、岩の表面に走る小石の軌跡をじっと目で追っていたが、それが途切れると目を上げ、カルキノスを見た。

 ナルテークスの手が、ゆっくりと上がる。

 はっきりとカルキノスを指さし、ナルテークスは大きく頷いた。


「読める……?」


 カルキノスは、またしても少し震えはじめた手で小石を持ち上げ、ナルテークスの目の前に差し出し、小さく揺らした。


「そして……もしかして、書ける?」


 ナルテークスは手を伸ばし、小石を受け取った。

 そして、小石を岩に当て、力強く動かした。


ΠΑΝΥああ


 その瞬間にカルキノスが感じた衝撃の大きさは、そうとは知らずナルテークスの歌声を耳にした瞬間を超えるほどのものだった。

 それは、世界の大転換にも等しい出来事だった。

 物言わぬ魚や石や木々が、そこらじゅうで突然おしゃべりを始めたようなものだ。

 そんなことは不可能だと思っていた相手と、ことばによって、意志を通わせることが可能になったのである。

 カルキノスは何度も口を開け閉めしてから、やがて、一気に問いかけ始めた。


「さっき、歌っていたのは、君だったのかい?」


『そうだ』


 流れるように綴られる文字の速度は、昨日今日、習い覚えたものではない。


「いつから、歌を歌えるようになった?」


『ずっと前から』


「――ずっと前から?」


 カルキノスは思わず、相手が記した言葉を声に出して繰り返した。


「でも……えっ? 君は、話せないんじゃなかったのか? グラウコスも、テオンもそう言っていたけど」


 ナルテークスの手の動きが止まっている。

 聞いてはならないことだったか、とカルキノスは一瞬ひやりとしたが、ナルテークスは、単にふさわしいことばを選ぼうとして考えこんだようだった。

 再び小石が動き、ことばを綴り始める。


『歌うことはできる 話すことはできない』


「なぜ?」


 カルキノスは、そう問わずにはいられなかった。

 同じ声を発するという行為でも、ただ話すより、歌う方が難しいに決まっている。

 それなのに、歌えるが話せない、などということがあるのだろうか。


『歌は考えではないから』


 ナルテークスは、そう書いた。

 カルキノスには、その意味が理解できなかった。


『歌の言葉は 俺の考えではないから』


 ナルテークスがことばを補い、カルキノスの顔を見た。

 カルキノスには、まだ理解できなかった。


『決められた言葉 決められた音 俺の考えではない』


 文字が綴られる速度が上がっている。

 ナルテークスが、このことを理解されることを望んでいる、それも強く望んでいるのだということに気付き、カルキノスは表情をひきしめた。


「つまり……君は……あらかじめ決められた言葉ならば、口から出せる?」


 ナルテークスの顔が輝いた。

 いつもどこか悲しげで陰気な表情しか見せたことのなかった彼が、笑ったのだ。

 その表情に、カルキノスは思わず目を奪われた。

 賛成。反対。喜び。怒り。

 単純な動作と表情だけで、人は、他者に様々な意志を伝えることができる。

 だが、より複雑で観念的な内容は、ことばによらなければ、決して伝えることはできない。

 今、ナルテークスとカルキノスのあいだで、それが成ったのだ。


「あれ。でも、待てよ?」


 カルキノスは、両手を突き出した。

 ひどく絡まった糸を何とかしてほどこうとするときのように、ひとつの結び目がようやくほぐれたかと思えば、また、次の結び目があらわれる。


「でも、君、皆で歌うときには、黙ったままだったじゃないか」


『他の人間がいるところでは できない』


「なぜ?」


 ナルテークスは、また動きを止めた。

 小石を持つ手がほんのわずかに動き、止まることを、幾度か繰り返した。

 カルキノスは、何も言わずに待った。

 今度は、かなり長い時間がかかった。それでも、待った。

 やがて、小石が動いた。

 止まり、つかえながら、文字が綴られた。


『聞かれたくないから』


「もったいない!」


 その瞬間のカルキノスの剣幕をもってすれば、一瞬ならば、軍勢の進撃だって止めることができたかもしれない。

 カルキノスは感情を抑えかねて、再びナルテークスの手をつかんだ。

 死をも恐れぬはずのスパルタの男が、ぎょっとして後ずさるほどの勢いで。

 だが、カルキノスは、ナルテークスの手を放さなかった。


「ナルテークス! 俺は……俺が、君の歌声を聞いたとき、どんなふうに感じたか言おうか?

 俺は、アポロン神その方が地上に降りて歌っておられると、本気で思ったんだ。感動して、涙が出てきた。本当に、本当に、素晴らしい歌声だった! 俺は、できるものなら、一生に一度だけでもいい、君のような声で歌ってみたいよ。本当に素晴らしかった!

 君の声は間違いなく、神々からの贈り物だ。あれほど素晴らしい声をしているのに、それを、人に聞かれたくないなんて!」


 絶叫にも似たカルキノスの声を浴びながら、ナルテークスは目を見開いていた。

 その目に、うっすらと涙が浮かんできたように見えたのは、カルキノスの目の迷いだっただろうか。

 カルキノス自身が泣いていたために、そう見えただけだっただろうか。


「ごめん」


 つかんでいた手を放し、衣の裾を持ち上げて目をぬぐいながら、カルキノスは呟いた。


「すまなかった。つい、興奮してしまって。……そうだ。せっかくこうして話せるようになったのに、俺、一番大事なことを、まだ訊いてないよな」


 カルキノスは姿勢を正し、目の前に立っている男に呼びかけた。


「君の、本当の名前は? ……本名が大ういきょうナルテークスじゃないよな、まさか」


 その問いかけに、目の前の男は微笑んだ。

 彼はもう、あの上目遣いではなく、まっすぐにカルキノスを見つめていた。

 ゆっくりと小石を動かし、大きな文字で、自らの名を記した。


   ΤΥΡΤΑΙΟΣテュルタイオス


「えっ。……えっ?」


 カルキノスは、奇妙な声を発して固まった。

 相手の怪訝そうな視線を受けてなお、しばらくはものも言えなかったが、やがて、自分自身の胸を指さし、言った。


「同じだ」


 知らずしらず笑みが広がり、囁くような声が跳ね上がって歓声になる。


「俺と、君! 同じ名前だ!」


 もしもこのとき、この丘の上の様子を見ることができる者があったとしたら、あまりにも奇妙な光景にぽかんとしただろう。

 二人の男が、向かい合い、肩を叩き合って笑い転げている。

 ひとりは、体の傾いたアテナイの男。

 ひとりは、逞しいスパルタの男。

 彼らは交互に互いを指さしては、涙が流れるほど笑い、いつまでも互いの腕を、肩を叩き合った。

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