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風の吹く丘

 カルキノスが歩いてゆく姿を、道の端から、家の陰から、いくつもの顔が見つめてくる。

 女たち、子供たち、老人たち。

 投げかけられる視線はどれも、好意的なものではない。

 しばらく行くうちに、カルキノスも、それをはっきりと感じはじめた。


(嫌だな)


 絶妙にうまく運んだ長老会ゲルーシアでの、長老たちやアナクサンドロス王、そして自分の発言を反芻して昂揚していた気分が、急速に冷えていった。

 おそらくは、長老会ゲルーシアへと向かう道すがらにも、今のように見られていたに違いない。

 だが、そのときは話の進め方を脳内で繰り返し予行演習することに没頭していたせいで、まったく気付かなかったのである。

 あるいは恨みがましく、あるいは、もっと露骨に敵意を込めて、こちらを見据えてくる視線。


(負けたのは、俺のせいじゃないのに)


 決して目を合わせないように、地面だけを見つめて歩きながら、カルキノスは思った。

 アテナイから将軍がやって来たならば、必ず勝てる。

 そのはずだったのに、期待を裏切られた、ということだろう。


(俺は、何もしていないのに……)


 さらに正確に言えば「何もさせてもらえなかった」のだ。

 俺のせいじゃない。

 ――だが、本当に?

 メッセニア人たちは、一体どうやって武器を手に入れているのか。

 もしも自分が、少しでも頭を働かせていれば、もっと早く――それこそ、初めて「将軍」と呼ばれたその日にでも、事態の奇妙さに気付くことはできたのではないか。

 その疑問を一言、口にしてさえいれば、スパルタは、あんな敗戦を味わわずにすんだのではないか。

 大勢の男たちや……ゼノンも、死なずにすんだのではないか。


(でも、俺のせいじゃない。スパルタ人たち自身が、もっと早く気付くべきだったんだ。俺が言うまで、誰も気付いていなかったじゃないか。あんな簡単なことに――)


 だから、俺のせいじゃない。

 迫り来る敵兵の壁を前に立ち、こちらを振り向こうとしたゼノンの姿が脳裏にちらついた。

 兜に隠されて、その顔は見えなかった。


『スパルタを、頼む』


(分かっているよ、ゼノン)


 ここからだ。ここから、仕切り直す。

 先ほど、最初の一手を先ほど打ってきたばかりだ。

 次の手。次の一手だ。考えろ。何かないか。

 何か、自分にできることは――

 不意に、カルキノスの杖の先で、かちん、と音がした。

 反射的に見ると、すぐそばの木の陰に、小さな男の子が立っていた。

 彼は、小さな手いっぱいに小石を握りしめ、カルキノスをにらみつけていた。

 かちん。

 その小石が、カルキノスの足元で弾ける。


(何だよ、やめろよ)


 そう言おうとしたが、言えなかった。

 男の子は、両目に涙をためていた。

 きっと、彼の父親か兄が、あの戦いで死んだのだ。そうに違いない。


(やめろよ……)


 かちん。ぱちん。

 カルキノスは、泣きそうになった。


(俺のせいじゃないよ。俺に石投げたって、しょうがないだろ。恨むなら、メッセニア人を恨めばいいじゃないか)


 だが、その言葉は出てこなかった。

 カルキノスは急いで目を逸らし、ひょこひょこと跳びはねるように歩き出した。

 体が揺れると、涙が零れそうになった。

 だいぶ進んでから、男の子が追いかけてきているのではないかと恐れて振り向いたが、その姿は、もう見えなかった。


(やっぱり、家に帰ろう)


 アクシネにあれこれと絡まれるかもしれないが、この際、それくらいは何でもない。

 家に戻ったら、しばらくのあいだは、出歩くのを控えよう。

 そう、自分が立案した作戦が功を奏し、スパルタの人々が自分のことを見直してくれるようになるまでは――

 そう決意して、カルキノスが逃げるように体の向きを変えたときだ。


「おーい!」


 遠くから、呼びかける声が聞こえた。

 ずいぶん遠いのに、狙い澄ました矢のように耳に届いたその声の響きに、覚えがあった。


(この、ややこしいときに、ややこしい奴が来た……!)


「やあ、君!」


 詩人テルパンドロスである。

 彼がステニュクレロスの戦いでどんな戦いぶりを見せていたのかは知らないが、その体に、目立った傷はないようだった。

 輝くような金の巻き毛も、名匠の作品が生きて動き出したかのような美貌も健在である。

 ただ、今日は取り巻きを一人も連れておらず、竪琴も持っていない。

 敗戦のことを言われるだろうか、とカルキノスは内心で身構えたが、


「久しぶりだね! ところで、僕たちの歌比べのことだが」


「え?」


 思ってもみなかったことを勢いよく話しかけられて、思わず目を見開いた。

 歌比べ。

 そういえば、そんな話もあった。

 あれから、あまりにも重大なことが立て続けに起こったせいで、すっかり忘れていた。


「戦の前に、中途半端なかたちで終わって、そのままになっていただろう? あれからずっと気になっていたんだ。いつ、やる? ちょうどここで会えたんだ、今、決めておこうじゃないか!」


「いや、あの」


 相手のあまりの熱心さに気圧されて、カルキノスは口ごもった。

 はっきり言わせてもらえば、今、それどころではない。

 自分は今、スパルタが打つべき次の一手を考えるという「将軍」としての重大な仕事を抱えている。

 失敗すれば、次はない。

 だから、今、詩のことなど、考えている余裕はないのだ――

 そう言いたかった。

 しかし、カルキノスは、その言葉を口にはしなかった。


「すまないが……」


 自分自身を、詩人であると思う矜持が、それを口にさせなかった。


「俺は、今、将軍としての仕事で忙しいんだ。歌比べは、その仕事が片付くまで待ってもらえないかな」


「ああ、将軍か」


 そういえばそうだったね、というような調子で、テルパンドロスは頷いた。


「噂を聞いたよ。今朝は、長老会に呼び出されていたそうだね?」


「え? あ、いや……」


(呼び出されたんじゃない。俺は、呼び出した・・・・・ほうだっての!)


 何とも、おさまりの悪い気分だ。

「将軍」として無理にまつりあげられ、責任を押し付けられると、俺は本来そうじゃないんだと逃げ出したくなる。

 だが、逆に「将軍」としての役割を認められなければ、いや、俺は「将軍」として働いている、立派に仕事をしているんだと主張したくなる。

 ――「詩人」としても、同じではないか?

 詩人として真剣勝負を挑まれれば、今は別のことで忙しいからと逃げ、かといって、詩人として認められなければ、何とかして認められたいと願い――


(中途半端だ……どっちも、中途半端だ、俺は)


 目の前に立つテルパンドロスがまぶしく見えるのは、彼の姿の美しさのためだけではない。

 持てる力の全てを、詩作に捧げる生き方。

 それを可能にしている、神々から与えられた才能。

 羨ましい。

 勝てない、勝ちたい。

 尊敬する、悔しい、自分だって――


「次は、勝てるのかい?」


 そう問いかけてくるテルパンドロスの口調は、あまりにも軽やかで、切実すぎるこちらの思いなど、羽一枚ほどの重さにも感じていないようで。


「まるで他人ごとじゃないか」


 カルキノスは、声が尖るのを抑えられなかった。

 テルパンドロスは呑気に構えているが、スパルタがこの戦争に負ければ、彼だって大変なことになるのだ。


「もちろん、戦いには参加するとも。それが男の義務だからね」


 そう答えるテルパンドロスの声は、相変わらず軽やかだ。


「だが、僕は、戦争は好きじゃない。暑苦しいし、埃っぽいし、ゆっくり詩作にふける暇もない。すべて美というものは、ふんだんな余暇、余裕があってこそ生みだされるものなんだ。早いところ、スパルタがメッセニアをおさえてしまって、世の中が落ち着けばいいのに。騒々しく槍なんかを振り回していたのでは、詩歌女神の囁きも耳に入ってこないよ、まったく!」


「今のセリフ、あの爺さんたちには絶対に言うなよ……」


 カルキノスは、そう言わずにはいられなかった。

 はじめは圧倒されたが、いまやカルキノスは、テルパンドロスに対して、少しばかり呆れるような気持ちにもなっていた。

 いくら何でも、考え方が俗人離れしすぎてはいないか。

 今は戦争中だというのに――


「君は、戦争が好きなのか?」


 テルパンドロスが不意にそう問いかけてきて、カルキノスは一瞬、言葉に詰まった。

 並んだ槍の穂先、逞しい男たちの背中、悲鳴と怒号、軍勢が潰乱する凄まじい光景が脳裡によみがえった。

 野営地で車座になって座り、カルキノスの歌声に声を合わせて気持ちよさそうに歌っていた男たち。

 彼らのうちの何人もが、血塗れの骸になり、踏み荒らされた大地に横たわった――


「大嫌いだ」


 それ以外に、答える言葉はなかった。


「だいいち、危ないじゃないか。槍で突くのも、突かれるのも、考えただけでぞっとする。それに――」


 こちらを振り向こうとするゼノンの最後の姿が、また浮かんできた。

 死ぬのは嫌だ。

 あんなふうに、友が死んでいくことも、嫌だ。


「どうして、スパルタの男たちは、あんなふうに戦えるんだろう」


 カルキノスは、ぽつりと言った。

 死ぬかもしれない場所に、どうして、あんなふうに歩いていけるのだろう。

 絶対に死ぬと分かっていて、どうして踏みとどまれるのだろう。


「子供たちでさえ、死に物狂いで殴り合う。まるで、負けは死も同然みたいに。男たちは、戦列に並んで、死の待ち構える戦場に落ち着き払って歩いていく。……死の闇も、陽の射す道も……」


 あのとき心に浮かんだ詩の一節を思わず口にしかけて、カルキノスは慌てて口をつぐんだ。

 いずれ歌比べで争うことになる相手に手の内をさらけ出すことは、賢明とは言えない。

 だが、テルパンドロスは、大して注意を引かれた様子がなかった。


「『負けは死も同然』――その通りさ。彼らは、まさにその通りに教育されるんだ。スパルタのために戦い、勝利を掴み取る戦士であること、それだけが男の存在意義だと彼らは考えている。そうなれない者たちは、みんな払い落とされてしまうんだ。年端もいかない少年のうちにね。まったく、野蛮な風習だよ」


「たとえば、俺みたいな奴は、ってことかい?」


「いいや」


 テルパンドロスは、まっすぐにカルキノスを見た。


「今、僕は、誤った言い方をしてしまった。戦士であることだけが男の存在意義だと彼らは考えている、と僕は言ったけど、もうひとつあった。

 彼らが尊敬するものは、戦士と、詩人さ。彼らは、戦の技と詩歌の技を同様に尊ぶ。……僕に言わせれば、まったく馬鹿げているけれどね。戦の技と詩歌の技が同列だなんて。どちらのほうが、より尊いかなんて、自明のことなのに」


「あんたは、スパルタの男たちのことを、見下しているのかい?」


 どこか突き放したようなテルパンドロスの言葉に、カルキノスは、反感を覚えはじめた。

 確か、テルパンドロスは、レスボス島から来たと言っていた。自分と同じ、スパルタでは異邦人だ。

 だが、自分はもう、スパルタの男たちのことを、こんなふうに他人事のようには話せない。

 ゼノン。アクシネ。

 ナルテークス。グラウコス。

 アナクサンドロス王や、自分の歌を喜んでくれた戦士たち。

 あの、頑固な長老たちでさえも。

 もはや彼らは、自分と無関係な人々ではない。

 アポロン神の神託によって、自分たちの運命は、分かちがたく結ばれてしまったのだ。

 それだけではない。

 親切にしてくれた人たちがいる。

 命を賭けて、守ってくれた男がいる。

 テルパンドロスは、そうではないのだろうか?

 この自分よりも、二年も早くスパルタに来て、友人たちや、生徒たちだって多いだろうに――


「あんたは、彼らの合唱の教師なんだろう? 彼らは、あれほどあんたの歌を喜び、あんたを尊敬しているじゃないか。それなのに、まるで――こんな言い方をして、気を悪くしないでほしいんだが――あんたは、まるで、彼らを馬鹿にしてるみたいだ」


「馬鹿に?」


 心外だ、という表情を見せて、テルパンドロスは言った。


「そうじゃないさ。僕はただ、詩歌の技は、戦の技なんかよりも尊いものだ、と言いたいだけなんだ。僕はそう信じている。だって、僕は詩人だからさ。……君だって、そうじゃないのかい?」


 カルキノスは、答えられなかった。


「スパルタの男たちは、まだ、そうは考えていないけれどね」


 テルパンドロスは、肩をすくめて続けた。


「彼らにとっては、武勇こそが至上のものなのさ。だからこそ、今回の敗戦は、彼らにとって相当堪えているはずだ。ねえ、君、次は勝てると思うかい?」


「勝てるさ」


 勝たなければならない。

 それ以外に道はない。

 この自分が、勝たせてみせる。


「策があるんだね?」


「それは、まだ言えない」


 カルキノスはできるかぎり重々しく言い、片手をあげて対話を終わらせる意思を示した。

 テルパンドロスは、よく分かったというようにうなずいた。


「心おきなく君と歌比べができる日が、はやく訪れるよう、神々に祈りを捧げておくよ」


 そして、身をひるがえして立ち去っていった。

 颯爽と歩いてゆくその後ろ姿を見送りながら、カルキノスは、しばらく呆然と立っていた。

 次の一手。歌比べ。作戦。

 スパルタが勝つための。

 テルパンドロスに勝つための。

 勝たなくてはならない。勝ちたい。勝ってみせる――

 二つの戦いについて、いろいろな思いや考えが同時に湧き起こり、頭の中がごちゃごちゃしてきた。

 

(いかん……いったん、頭を休めよう。そうだ、ぼうっと景色でも眺めて、一度、頭を空っぽにするんだ……)


 カルキノスは人気ひとけのない方へ、ない方へと歩いていき、やがて、市のはずれまで来た。

 一面にオリーブ畑が広がり、少し離れたところに、小高い丘が見えている。


(あの丘の上まで、行ってみるか)


 オリーブの濃い緑と銀の葉かげで、無数の果実が膨らみかけているのを眺めながら、ごつごつとした幹のあいだを通り過ぎてゆく。

 やがて、地面が緩やかな上り坂になりはじめた。

 オリーブ畑は終わり、野生の、何ともつかない低木や草がごちゃごちゃと生え始める。


「よっ、と」


 丈高く、香りも高い草――名前は知らない――の茂みを杖で分けながら、カルキノスは斜面を登っていった。

 ところどころで、他の草のあいだからにゅっと突き出て揺れているのは、大ういきょうナルテークスだ。


(彼は今頃、どうしてるんだろうな……やっぱり、訓練かな。グラウコスも一緒に)


 そんなことを思いつつ、さらに登っていく。

 足が不自由なのに、と驚かれることもあるが、カルキノスは、こうしてちょっとした丘の上に登るのが好きだった。

 見晴らしも居心地もいい木陰を見つけて、そこに落ち着き、景色を眺めながら、ただぼんやりと座る。

 しばらく、ぼうっと座っているうちに、絡まった糸がぱらぱらとほぐれるように心が片付いていって、そのうち、必死に考えても思いつかなかったようなことが、ふと心に浮かび上がってくるのだ。

 斜面の一番上まで登ってしまうと、そこが、丘の頂上で、ちょっとした広場のようになっていた。

 木陰を作ってくれるような木はなかったが、大きめの茂みがいくつかあり、その近くに座るか寝そべれば、どうにか日陰に入ることはできそうだ。

 カルキノスは、スパルタの家並みを眺めることができる位置に陣取り、香草の茂みがつくり出す涼しい影の中に座りこんだ。

 風が吹いている。

 誰に見られることもなく、こうして青空の下に座っていると、スパルタ人たちのあいだで肩肘を張り続けていた緊張が少しずつ解け、固くこわばっていた胸の骨が、ゆっくりと開いてくるような気がした。


(あ……鳥が、鳴いてる)


 あれが、彼らの詩なのだろう。

 古の詩人たちは、鳥たちの鳴き声から、詩歌の着想を得たという。

 カルキノスは腕を枕にして寝転がり、空を見上げた。

 遥かな天空を、白い雲が動いてゆくのが見える。

 あそこまでのぼっていって、天上の澄んだ大気アイテールを胸いっぱいに吸いこむことができたら、どれほど素晴らしいだろう。

 全身が軽くなって、ぴかぴか光り出すかもしれない。

 風のように空を駆けて、サフラン色の長衣をなびかせる詩歌女神ムーサたちにだってお目にかかれるかもしれない。

 もしかすると、輝けるフォイボス・アポロン神アポローンその方にだって――


(駄目だな……俺はまだ、授かった役目を果たしていないんだから)


 スパルタが勝利をおさめてもいないのに、うかつに顔など出したら、銀の矢で射落とされてしまいそうだ。

 思わず、苦笑いが浮かんだ。


(いや、俺は、何を考えてるんだ? まるで子供みたいなことを思い描いたりして。空なんか飛ばなくたって、こうして、涼しい影のなかに寝転がってるだけで充分だ。本当に、ここは居心地がいい――)


 香りのいい風が、鼻先をくすぐっていく。

 今この瞬間に、こうして寝そべっていられるということは、あるいは、この上もなくすばらしくとうといことであるのかもしれなかった。

 死ぬということは、この全てを失うということなのだ。

 まばゆい陽の光も、吹き抜ける風も、やわらかな葉ずれの音も、草のにおいも――


 それから、どれくらい経っただろう。

 いつの間にか閉じていた目を、はっと見開いたとき、カルキノスは一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


(……あ!? 俺、寝てた!?)


 太陽がさほど位置を変えていないことからして、眠りこんでいたのは、それほど長い時間ではなさそうだ。

 だが、頭の下で組んでいた両手は完全に痺れが切れており、カルキノスは、凄まじくむずむずする両腕をかかえて悶絶するはめになった。

 確かに昨日は、長老会ゲルーシアでの演説のことを考えすぎて、よく眠れなかった。

 だが、まさか、こんなふうに動物みたいに草の上で眠りこんでしまうとは。

 今の眠りは、短時間ではあっても相当に深いものであったらしく、頭がすっきりと冴え、軽くなったように感じられた。

 手は、凄まじく痺れているが。


(痺れが取れたら、さっさと帰ろう)


 横になったまま、両腕をあげてぶらぶらと振っていた、そのときだ。

 そのままの姿勢で、カルキノスは、急に石と化したかのように、ぴたりと動きを止めた。

 今……気のせいか?

 風の音か、鳥の声を、聞き間違えたのだろうか?

 いや、違う。

 歌が、聞こえるのだ。

 誰かが歌っている。

 横たわったままのカルキノスの、頭の方向――茂みの向こう側にいる、誰かが。



「キュクロプスの力に ボレアスのはやき足

 ティトノスしのぐ美貌

 ペロプスの王位に ミダスの富と宝

 アドラストスの美声


 たとえその全て 兼ね備えようと

 讃える者はない

 我らが尊ぶ 徳はただひとつ

『勇気』それこそが 戦士の誉れぞ――」



(これ、は)


 空中に腕を突き出したままの姿勢で、カルキノスは、目を見開いていた。

 これは、自分の歌だ。

 言葉も、旋律も、間違いなく、カルキノス自身が作った歌だ。

 それを歌っているのは、知らない男の声だった。

 劇場に立った歌い手のような朗々たる声ではない。

 どちらかというと、声量を抑えた、ただ自分自身のためだけであるかのような歌い方だ。

 だが……その男らしい声に秘められた響きの、なんと豊かなことだろう。

 込められた哀切の情の、なんと深いことだろう。


輝けるフォイボス・アポロンさまアポローン……?)


 人間の男の声であるとは思われなかった。

 もしや、今この瞬間、神その方がこの丘の上に降りまして、自分の詩を口ずさんでおられるのではあるまいか。



「見よ、彼を! 最前列に

 盾と槍とを構え

 退かぬ背に 不滅の誉れ!

 語り継げ 彼の名を 永遠に!」



 両目から涙が溢れ出て、体が震えた。

 自分の詩を、これほどの歌い手が。

 詩に、いま、本当の命が宿った――


(どなたなのですか)


 カルキノスは、茂みの陰で、音を立てずに起き上がった。

 たとえ、そこにおわすのが恐ろしきアポロン神その方であったとしても、たとえ、人の身でその御姿を仰いだ罰として両目の視力を奪われることになるとしても、一目、見ずにはいられなかった。

 立ち上がる。


(……え)


 カルキノスは、硬直した。

 ただ、その両目だけが、だんだんと見開かれていった。

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