ロバに乗る男
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尻が、死ぬほど痛い。
これまでの人生で経験したことがないほどの痛さだ。
だが、その若者は意志の力を総動員して、平静な表情を保っていた。
――自分ではそう思っているのだが、実際には額に脂汗が浮き、不自然に唇を噛みしめ、乗っているロバが少しでも体を揺らすたびに「うぐ」とか「おふ」などと声が出ている。
もう五日間も、日のある間はほとんどずっと、このロバに乗りづめなのだ。
聞かされた話によると、道のりはもうあと少し、今日の日暮れまでには着くというが、本当だろうか。
もしも、もうあと一日乗り続けなければならないとしたら、間違いなく尻が擦り切れて死ぬ。
まだ着かないのか、と、よほどたずねようかと思ったが、ぐっとこらえた。
ロバに乗る若者の周囲には、三人のたくましい戦士たちが、徒歩でつきしたがっている。
若者の故郷、アテナイの風習に照らしてみれば、異様な風体をした男たちだ。
三人とも、髪を長く伸ばしている。
身にまとうのは古びた赤い毛織の外衣一枚で、皆、はだしだ。
気の毒なことである。
彼らの都市国家は、よほど貧しいのだろう。
まあ、その「よほど貧しいのであろうポリス」こそが、今の自分の行き先なのだが……
(でも、衣がみすぼらしいわりに、槍は、どれもこれも立派なものだよな)
三人の男たちは皆、輝く槍を携えていた。
穂先が、だけではない。
輝いているのは、とねりこ材の柄だ。
よほど使いこまれたものらしく、なめらかに黒ずみ、油を塗りこんだような艶を帯びている。
(で、まだ、着かないのか……!)
あれこれと考えを巡らしては、意識をよそへ逸らそうとするのだが、無駄な努力であった。
思考はすぐさま、じんじんと痛む尻に引き戻されてしまう。
その途端、踏んだ石がぐらりと動いたらしく、ロバが大きく体を振っていなないた。
「ぐおうあッ」
思わず、断末魔のような声が出た。
ロバをひく戦士と、あとの二人の戦士が立ち止まる。
ロバも立ち止まる。
若者は、三人の男たちの視線を一身に浴びるはめになった。
なぜか、ロバまでが首をまげて、こっちを見ている。
「ぐ、むむむ」
若者は急に、脂汗にまみれた額をおさえて大げさにうなった。
「むむむむ……聴こえる。詩歌女神の声が聴こえるぞ! 諸君、このへんで、ちょっと休憩にしないか。俺は、あそこにある樹のかげで、少しばかり新作の構想を練りたいと思う」
戦士たちは、無言で顔を見あわせた。
ロバをひいていた、おそらく一番若い男と、左後ろについていた一番体格のいい男が、そろって右後ろの男の顔を見る。
右後ろの、金髪の男は、やはり黙ったまま、小さくうなずいた。
(助かった!)
本当にごまかせたのかどうかは不明だったが、今は、そんなことはどうでもよかった。
一刻もはやく、尻を休めなければ。
若者はずるずるとすべり落ちるような格好でロバから下りると、背にかついでいた杖をつきながら、ひょこひょこと木陰のほうへ進んでいった。
杖をついていることも、歩き方がぎこちないことも、ロバに乗り続けて尻と股を痛めたせいばかりではない。
彼の右脚は、生まれつき、うまく動かなかった。
骨が固まって、踝のところが曲がらず、膝もわずかにしか曲げることができない。
尻の痛みをこらえながらも、ロバに乗り続けざるを得なかったのは、この脚のためであった。
ようやく逃げ込んだ木陰は、栄養不良のひょろひょろとした無花果によるものだったが、ほんのわずかに陽光をさえぎってくれるだけでも、今はこの上なくありがたい。
彼は無花果の幹にすがり、慎重に尻をかばいながら、ほとんど横向きに寝転がるようにして腰をおろした。
肩からさげていた革袋を取り、わずかしか残っていない貴重な水を口にふくむ。
そのとたんに、ここまでの道中の疲労が、どっと襲いかかってきた。
うっかり目を閉じたら、数呼吸もせぬうちに眠ってしまいそうだ。
彼は自分の外衣のすそを持ち上げ、わざと強く額や首筋をこすった。
その顔立ちは、疲労のあまり多少ぼんやりしているが、まあ、可もなく不可もない部類に入るであろう。
少しばかり、目が細い。その程度の印象である。
黒髪を、故郷の風習に従って短く刈っていた。
中肉中背の体つきは、きかない右脚をかばって動くためにやや均整を欠いていたが、こうして寝転んでいれば、目立つほどでもない。
(あの、連中)
ともすれば勝手に閉じそうになるまぶたを必死に見開きながら、若者は考えた。
三人の戦士たちは、それぞれ従えている従卒たちから革袋を受け取り、水を飲んでいる。
その従卒たちがまた、一言もしゃべらない。
一行の後から粛々とついてくるのだが、あまりにも静かすぎて、いるのだか、いないのだか、振り向いて確かめるまで分からないくらいだ。
彼らのポリスには、よほど無口な男が多いらしい。
食糧や水の他に、巨大な円形の荷物――革製の覆いをかけた、主人たちの盾だ――を亀の甲羅のようにかついだ従卒たちは、やはり何も言わないまま、うやうやしく革袋を受け取って引き下がると、思い思いの場所にわずかな影を見つけて座り込んだ。
三人の戦士たちもまた、談笑するでもなく互いに離れて背を向け、三方向をそれぞれに見て立った。
歩哨だ。
ここは戦場か。
(連中には『疲れる』ってことがないのか?)
五日間、ロバに乗り続けてきた自分もなかなかに辛かったが、彼らは徒歩なのである。
それなのに、弱音を吐くどころか普通の会話さえ交わさず、あたりを見回すことさえもせずに、真顔で、ひたすら黙々と歩くのだ。
いったいこいつら、何が楽しくて人生を送っているのだろう。
(もしも、行った先にいる奴らが、全員こんな感じだったら、俺はいったいどうしたら……)
しゃべりもせず、笑いもせず、苦行者のような日々を送るはめになるかもしれない。
(それに、これほどのりの悪そうな連中が、本当に、歌と踊りを好むんだろうか?)
ここまでの道中をかえりみるに、不安しかない。
(いや!)
若者は胸中で力強く拳をにぎり、不安を打ち消そうとした。
(デルフォイの神託にあやまちはない。かの神は、言い回しは曲がりくねってはいても、常に、真実だけをお告げになるのだ。俺が、かの地で輝かしい成功をおさめることは、輝けるアポロン神によって約束されているのだ!)
「おい」
そのとき、三人の戦士たちのうちの一人が急にしゃべったので、若者は思わず勢いよく首だけを起こした。
声を発したのは、三人の中で統率者の役にあるらしい、金髪の男だ。
だが、金髪の男は、若者に話しかけたのではなかった。
あとの二人が身構える。
金髪の男自身は、槍を構えた。
「え、何?」
若者は、きょろきょろした。
危険が迫っているのか?
寝そべった姿勢から、慌ててがさがさと立ち上がろうとしたが、
「おごうァ」
腫れあがった尻が布地とこすれて激痛が走り、はずみで尻もちをつき、その場で悶絶するはめになった。
「止まれ!」
金髪の男が鋭く叫び、槍を突き出す。
その穂先をあざやかにかわし、凄まじい勢いで、何かが跳びかかってきた。