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ロバに乗る男

     *     *     *

  *     *     *



 尻が、死ぬほど痛い。

 これまでの人生で経験したことがないほどの痛さだ。

 だが、その若者は意志の力を総動員して、平静な表情を保っていた。

 ――自分ではそう思っているのだが、実際には額に脂汗が浮き、不自然に唇を噛みしめ、乗っているロバが少しでも体を揺らすたびに「うぐ」とか「おふ」などと声が出ている。

 もう五日間も、日のある間はほとんどずっと、このロバに乗りづめなのだ。

 聞かされた話によると、道のりはもうあと少し、今日の日暮れまでには着くというが、本当だろうか。

 もしも、もうあと一日乗り続けなければならないとしたら、間違いなく尻が擦り切れて死ぬ。

 まだ着かないのか、と、よほどたずねようかと思ったが、ぐっとこらえた。

 ロバに乗る若者の周囲には、三人のたくましい戦士たちが、徒歩でつきしたがっている。

 若者の故郷、アテナイの風習に照らしてみれば、異様な風体をした男たちだ。

 三人とも、髪を長く伸ばしている。

 身にまとうのは古びた赤い毛織の外衣ヒマティオン一枚で、皆、はだしだ。

 気の毒なことである。

 彼らの都市国家ポリスは、よほど貧しいのだろう。

 まあ、その「よほど貧しいのであろうポリス」こそが、今の自分の行き先なのだが……


(でも、衣がみすぼらしいわりに、槍は、どれもこれも立派なものだよな)


 三人の男たちは皆、輝く槍を携えていた。

 穂先が、だけではない。

 輝いているのは、とねりこ材の柄だ。

 よほど使いこまれたものらしく、なめらかに黒ずみ、油を塗りこんだような艶を帯びている。


(で、まだ、着かないのか……!)


 あれこれと考えを巡らしては、意識をよそへ逸らそうとするのだが、無駄な努力であった。

 思考はすぐさま、じんじんと痛む尻に引き戻されてしまう。

 その途端、踏んだ石がぐらりと動いたらしく、ロバが大きく体を振っていなないた。


「ぐおうあッ」


 思わず、断末魔のような声が出た。

 ロバをひく戦士と、あとの二人の戦士が立ち止まる。

 ロバも立ち止まる。

 若者は、三人の男たちの視線を一身に浴びるはめになった。

 なぜか、ロバまでが首をまげて、こっちを見ている。


「ぐ、むむむ」


 若者は急に、脂汗にまみれた額をおさえて大げさにうなった。


「むむむむ……聴こえる。詩歌女神ムーサの声が聴こえるぞ! 諸君、このへんで、ちょっと休憩にしないか。俺は、あそこにある樹のかげで、少しばかり新作の構想を練りたいと思う」


 戦士たちは、無言で顔を見あわせた。

 ロバをひいていた、おそらく一番若い男と、左後ろについていた一番体格のいい男が、そろって右後ろの男の顔を見る。

 右後ろの、金髪の男は、やはり黙ったまま、小さくうなずいた。


(助かった!)


 本当にごまかせたのかどうかは不明だったが、今は、そんなことはどうでもよかった。

 一刻もはやく、尻を休めなければ。

 若者はずるずるとすべり落ちるような格好でロバから下りると、背にかついでいた杖をつきながら、ひょこひょこと木陰のほうへ進んでいった。

 杖をついていることも、歩き方がぎこちないことも、ロバに乗り続けて尻と股を痛めたせいばかりではない。

 彼の右脚は、生まれつき、うまく動かなかった。

 骨が固まって、踝のところが曲がらず、膝もわずかにしか曲げることができない。

 尻の痛みをこらえながらも、ロバに乗り続けざるを得なかったのは、この脚のためであった。

 ようやく逃げ込んだ木陰は、栄養不良のひょろひょろとした無花果いちじくによるものだったが、ほんのわずかに陽光をさえぎってくれるだけでも、今はこの上なくありがたい。

 彼は無花果いちじくの幹にすがり、慎重に尻をかばいながら、ほとんど横向きに寝転がるようにして腰をおろした。

 肩からさげていた革袋を取り、わずかしか残っていない貴重な水を口にふくむ。

 そのとたんに、ここまでの道中の疲労が、どっと襲いかかってきた。

 うっかり目を閉じたら、数呼吸もせぬうちに眠ってしまいそうだ。

 彼は自分の外衣ヒマティオンのすそを持ち上げ、わざと強く額や首筋をこすった。

 その顔立ちは、疲労のあまり多少ぼんやりしているが、まあ、可もなく不可もない部類に入るであろう。

 少しばかり、目が細い。その程度の印象である。

 黒髪を、故郷の風習に従って短く刈っていた。

 中肉中背の体つきは、きかない右脚をかばって動くためにやや均整を欠いていたが、こうして寝転んでいれば、目立つほどでもない。


(あの、連中)


 ともすれば勝手に閉じそうになるまぶたを必死に見開きながら、若者は考えた。

 三人の戦士たちは、それぞれ従えている従卒たちから革袋を受け取り、水を飲んでいる。

 その従卒たちがまた、一言もしゃべらない。

 一行の後から粛々とついてくるのだが、あまりにも静かすぎて、いるのだか、いないのだか、振り向いて確かめるまで分からないくらいだ。

 彼らのポリスには、よほど無口な男が多いらしい。

 食糧や水の他に、巨大な円形の荷物――革製の覆いをかけた、主人たちの盾だ――を亀の甲羅のようにかついだ従卒たちは、やはり何も言わないまま、うやうやしく革袋を受け取って引き下がると、思い思いの場所にわずかな影を見つけて座り込んだ。

 三人の戦士たちもまた、談笑するでもなく互いに離れて背を向け、三方向をそれぞれに見て立った。

 歩哨だ。

 ここは戦場か。


(連中には『疲れる』ってことがないのか?)


 五日間、ロバに乗り続けてきた自分もなかなかに辛かったが、彼らは徒歩なのである。

 それなのに、弱音を吐くどころか普通の会話さえ交わさず、あたりを見回すことさえもせずに、真顔で、ひたすら黙々と歩くのだ。

 いったいこいつら、何が楽しくて人生を送っているのだろう。


(もしも、行った先にいる奴らが、全員こんな感じだったら、俺はいったいどうしたら……)


 しゃべりもせず、笑いもせず、苦行者のような日々を送るはめになるかもしれない。


(それに、これほどのり・・の悪そうな連中が、本当に、歌と踊りを好むんだろうか?)


 ここまでの道中をかえりみるに、不安しかない。


(いや!)


 若者は胸中で力強く拳をにぎり、不安を打ち消そうとした。


(デルフォイの神託にあやまち・・・・はない。かの神は、言い回しは曲がりくねってはいても、常に、真実だけをお告げになるのだ。俺が、かの地で輝かしい成功をおさめることは、輝けるアポロン神フォイボス・アポローンによって約束されているのだ!)


「おい」


 そのとき、三人の戦士たちのうちの一人が急にしゃべったので、若者は思わず勢いよく首だけを起こした。

 声を発したのは、三人の中で統率者の役にあるらしい、金髪の男だ。

 だが、金髪の男は、若者に話しかけたのではなかった。

 あとの二人が身構える。

 金髪の男自身は、槍を構えた。


「え、何?」


 若者は、きょろきょろした。

 危険が迫っているのか?

 寝そべった姿勢から、慌ててがさがさと立ち上がろうとしたが、


「おごうァ」


 腫れあがった尻が布地とこすれて激痛が走り、はずみで尻もちをつき、その場で悶絶するはめになった。


「止まれ!」


 金髪の男が鋭く叫び、槍を突き出す。

 その穂先をあざやかにかわし、凄まじい勢いで、何か・・が跳びかかってきた。



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