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長老会

     *     *     *

  *     *     *


 長老会ゲルーシアは紛糾していた。

 スパルタは、メッセニアに敗れた。

 一度目のデライの戦いのときのような引分けではない。

 誰の目にも明らかな、完全なる敗北だ。

 スパルタが被った人的な損害は甚大であり、それ以上に、


『市民の軍が、奴隷の軍に敗れた』


 この恐るべき結果がもたらした人心への衝撃は、あまりにも大きかった。

 誰かが、責任を取らなければならない。


「石打ちじゃ!」


 長老の一人が、唾を飛ばして叫んだ。


「奴は、スパルタに何をもたらしたか? 勝利どころではない、災厄じゃ、それも最悪の災いじゃ!」


「さよう! このような屈辱的な敗北、スパルタが味わったためしはかつてなかった。その男が来たせいじゃ! 石打ちにして、死体は烏に喰わせてしまえ!」


「まあ、まあ、待たれよ!」


 長老会は二十八人の長老たちと、二人の王による合議の場だ。

 拳を振り上げて怒鳴り立てる者たちも多かったが、それに対して反論する者たちもいた。


「落ち着かれい! おのおのがたは、輝けるフォイボスアポロン神・アポローンが我らに下された御言葉を忘れたのか? 『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』――」


「そうだ。その男は、他ならぬアポロン神の神託によってスパルタに来た! 殺せば、我らは、神の怒りを買うことになるやもしれぬのだぞ!」


「さよう、神託によってな」


 ぎろりと目を動かした長老が、憎々しげに言った。


「しかしながら、皆の衆! アポロン神の御言葉を今一度、思い起こしてみよ。一言一句そのままにな!

『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』

 これだけじゃ。後にも先にも、これだけしか、アポロン神は仰せにならなかった。……つまり、そこの・・・男を・・呼べなどとは、アポロン神は、一言も仰せになっておらぬのじゃ!」


 長老が指さした先に、一人の若者がうずくまっている。

 衣も肌も垢じみ、もつれた髪の下の顔は憔悴しきっていた。

 カルキノスだ。

 長老たちはざわめき、互いに顔を見合わせた。


「い、言われてみれば、確かに……」


「まさか……人違い・・・であったということか!?」


 満座が異様などよめきに包まれても、カルキノスは何の反応も見せず、この場に引き出されてきたときと同じ、虚ろな顔つきでうずくまっているだけだった。


「おい!」


 地面を踏みつけながら、長老の一人が喚いた。


「何とか申せ! この期に及んで、申し開きをすることがあるのならばな!」


 怒り狂っている老人の方に、カルキノスは、のろのろと顔を向けた。

 頬がこけ、乾いた涙と鼻水がこびりついたその顔は、まるで地下からよろぼい出てきた見苦しい死霊のようで、長老たちは汚物でも見るような目で彼を見返した。

 血走ったカルキノスの目から、新たな涙が流れ落ちた。

 彼は何も言わずにかぶりを振り、両膝に顔を埋めた。


「皆、見よ、この有様を! この男ではなかった! この男は、スパルタに勝利をもたらす者などではない。疫病神じゃ!」


「殺せ! 殺せ!」


「石打ちにせよ!」


(ゼノン)


 喚き散らす老人たちの声を遠い出来事のように聞きながら、カルキノスは、死んだ男のために涙を流し続けていた。


(すまない……俺なんかのために……)


 あの悪夢のような敗走の直前に、彼が言い残した言葉が、まだ耳の中で響き続けている。


『スパルタを、頼む』


 迫り来る敵兵を前にして、彼は、ただ一人で立っていた。

 今にも凄まじい嵐に襲われようとする、荒野に一本きりの樹のように。

 素晴らしい戦士だった。

 あの槍さばき。物に動じぬ胆力。冷静さ。

 いずれは一部隊を率いる隊長に、いや、将軍にだってなっただろう。

 いい男だった。

 こんな、何の役にも立たないような男を信じてくれた。

 信じて、ただ一人で、死んでいった。


(すまない、本当に……! あんたじゃなく、俺が、死ぬべきだったんだ! 何の役にも立たない俺なんかより、あんたのほうが、ずっと……)


 アポロン神に選ばれし男だと自負し、意気揚々とスパルタにやってきた。

 だが、選ばれし男は、自分ではなかったのだ。

 神に選ばれた男でないのだとすれば、自分は、一体何だろう?

 何の役にも立たなかった。

 自分自身では戦うこともできず、皆に虚しい希望を持たせ、ゼノンのような優れた戦士に、無駄に命を捨てさせてしまった。


(俺じゃなかったのに)


 また熱い涙が流れて、汚れた衣にしみ込んでいった。


(ゼノン、俺は、あんたを無駄死にさせてしまった――)


「王たちよ! 王たちのお考えはいかに?」


「そうじゃ。王たちは、この者の処遇について、どのように考えておられるのか!」


 会議は新たな局面を迎えようとしていた。

 スパルタには、常に王は二人いる。

 アギスの血統に連なるアギアダイ家の王と、エウリュポンの血統に連なるエウリュポンティダイ家の王だ。

 このたびの遠征を率いたのは、アギアダイ家のアナクサンドロス王。

 王は、これまでの会議を黙したまま俯いて聴いていたが、このときになって、ゆっくりと顔を上げた。

 そのやつれたような表情は、極めて抑制されてはいたものの、カルキノスのそれと、とてもよく似ていた。

 王は、居並ぶ長老たちの顔を順に見渡していった。

 どの顔も殺気立ち、どの目も食い入るように王を見つめている。

 王の視線はのろのろと動いてゆき、最後に、うずくまっているカルキノスの上に止まった。


「わしは――」


「おのおのがたッ!」


 満座の目が、弾かれたように、声の源に向いた。


「どうか、一言! 一言だけ、申し上げたいッ! よろしいか!?」


 グラウコスだ。

 長老会の場に乱入してきた――などというわけではない。

 そんな真似をすれば、事情のいかんに関わらず、王の親衛隊に斬り殺される。

 グラウコスは、ナルテークスと共に、呼び出されてこの場にいたのだ。

 カルキノスを連れ帰り、敗走の瞬間の彼の振る舞いを最もよく見聞きしていた者が、他ならぬグラウコスとナルテークスの二人だからだ。

 これまでは特に発言を求められることもなく、黙って立っていたのである。

 いや、グラウコスのほうは、先ほどからずっと何か言いかけては、ナルテークスに手で抑えられていた。

 それが、溢れ出した。


「何じゃ、おのれは!?」


「若輩の分際で王の言葉をさえぎるとは無礼な! 鞭打ちじゃ!」


「鞭打ちなど、後でいくらでも受けるッ! 今、ここで一言、よろしいかと訊いている!」


「よろしいわけがあるか! 黙れ!」


黙らん・・・ッ!」


 横からナルテークスに組みつかれながら、グラウコスは叫んだ。

 長老たちは目を剥き、口を開け閉めしたが、声は出なかった。

 スパルタで、若者が年長者の言葉を重んじることは、他のポリスの比ではない。

 年上の者、それも長老と呼ばれるような男たちの言葉に真っ向から逆らうなど、彼らの常識を超えたふるまいだ。


「人違いなどではない!」


 グラウコスは目を見開き、激しく断じた。


「絶対に、人違いなどではない! その男を殺せば、スパルタは、アポロン神の意に背くことになる! 殺してはなりません!」


「黙れ、愚か者!」


 長老の一人が猛然と躍りかかり、グラウコスの顔面を殴りつけた。


「貴様、先ほどの話を、何も聞いておらなんだのかっ!? 『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』じゃ! その男のことなど、一言も告げられてはおらぬ!」


「そちらこそッ!」


 鼻血を流しながら、グラウコスは一歩も退かず、それどころか胸板が接するほどの距離まで老人に詰め寄って、怒鳴り返した。


「ゼノンが、あなたがたに申し上げた言葉を、聞いておられなかったのかッ!? ゼノンは、こう言ったはずだ! カルキノスをスパルタに伴うにあたり、犠牲を捧げ、この決断がアポロン神の御心に適うものであるかどうか、神意を・・・伺った・・・と!」


 一瞬、しんとなった。



『アポロン神は「この男をスパルタに伴うことをよみする」というしるしを、私が捧げた犠牲獣の肝臓のかたちに、はっきりとあらわしておられました』



 そう淡々と語った金髪の若者の姿が、声が、全員の脳裏によみがえる。

 王と長老たちは目を見開き、互いに顔を見合わせた。

 そして、もう一人。


(そう、だった……)


 カルキノスもまた、ゼノンの言葉を思い出していた。

 そうだ。

 ゼノンは、確かに、そう言っていた。


「このような場で、許しも得ずに物を言う無礼は、重々承知!」


 グラウコスの熱弁は、まだ続いている。


「しかしッ! 俺は、スパルタが神意に逆らい、みすみすアポロン神の怒りを受ける道を選ぶのを、黙って見過ごすことはできませんッ!」


「では……このたびの敗戦は、何じゃ!?」


 長老たちも、負けじと怒鳴り返す。


「アポロン神の御言葉に従い、我らは確かに、アテナイ市から将軍を求めた! 仮に、その将軍が、確かにそこの男でよかったのだとしよう! ……ならば、なぜ、我らがスパルタは奴隷どもの軍に敗れたのじゃ!?」


「その通りじゃ! アポロン神の御言葉は、必ず実現されるはず。それなのに、なぜ……」


「《斜めの君ロクシアス・アポロン神アポローンは、並の人間には解しがたい神託を下されることも多くあるという。となると……もしや……ゼノンは、犠牲獣の肝臓にあらわされたしるしの解釈を、誤ったのではないのか?」


「何ですと」


 その瞬間、グラウコスの髪が怒りのあまりに逆立った。


「全ては、ゼノンの誤りのせいだったと言われるのか? ……ならば、俺からも言わせていただく。このたびの敗戦は、あなた・・・がたの・・・判断の誤りによるものであったのかもしれませぬぞ!」


「何だと!?」


「『将軍』とはッ!?」


 片足で踏み抜かんばかりに地面を踏みつけ、グラウコスは叫んだ。

 興奮のあまりが、先ほど殴られた鼻が腫れ上がり、新たな血がだらだらと流れ落ちていたが、そのことに気付いてすらいないようだった。


「『将軍』とは、どのような者のことか!? 

『汝らの将軍をアテナイ市から求めよ』

 アポロン神は、そう仰せになった!

 あなたがたは、カルキノスを本当に『将軍』として遇していたか? ただ、武装させ、ロバに乗せ、戦場に連れていっただけではないか! まるで、祭に使う人形を荷車に乗せて牽いてゆくようにな! とうてい、将軍を遇するやり方ではない! アポロン神が、スパルタは神託に従っておらぬと見なされたとしても、無理もないというものだ!」


「お、おの、おの、おのれは……」


 怒りのあまりに震えてすらいる指先を、最も年嵩の長老がグラウコスに向けた。

 その顔は、血が昇りすぎて赤黒くなっている。


「ならば、おのれは、そこの、ぼろきれのようにうずくまっておる、何の役にも立たんアテナイ人が、我らの将軍として戦えると、本当に思うておるのか? ……だとすれば、おのれは、気が狂うておるわ!

『将軍』とは、じゃと!? ――将軍とは! 全軍の最前列の右端に立ち! 敵と真っ先に激突し! 退くときは、全軍の最も後に退く! そのような戦士、勇者、最強の男のことじゃ!

 おのれは! そこの男に、それが、できるとでも言うのか、ええ!? できるというなら、やらせてみせい! どうじゃ、ええ!? やらせてみせいッ!」


「それは……」


「できぬじゃろうが! ええ!? できるわけがないわ! こんな、何の役にも、立たぬような奴……」


「そうじゃ、人違いだったに違いない!」


「ゼノンの勘違いじゃ……」


「何という悲劇よ!」


 怒鳴り立てていた最年長の老人は、自らの喉元をつかみ、ぜいぜいと息を荒らげながら言った。


「ゼノン! 素晴らしい若者であったが、スパルタにこのような災いをもたらすとは! 彼には、わしも目をかけておったのに……このような重大な誤ち……見込み違いであったわ!」


 そのときだ。

 不意に、立ち上がった者があった。

 ぼろきれのようにうずくまっていた、何の役にも立たぬアテナイ人が。

 カルキノスが、立ち上がっていた。


「……どうした」


 思わず黙った一同にかわり、アナクサンドロス王が呟くように問い掛けた。

 カルキノスの両目からは、いまだ涙が流れ続けている。

 幽鬼のようなその顔の中で、見開かれた両目だけが、らんらんと燃えている。

 彼は、口を開いた。



「キュクロプスの力に ボレアスのはやき足

 ティトノスしのぐ美貌……」


 

 怒鳴り付けようとした老人たちは、虚を突かれ、沈黙した。

 しわがれ、ひび割れた声。

 誰も聞いたことのない歌だった。

 怪力の一つ目巨人キュクロプス、目にも止まらず駆け抜ける北風の神ボレアス、曙の女神にさえ寵愛された美青年ティトノス


「な……何じゃ?」


 カルキノスの目から、新たな涙が溢れた。


(ゼノン)


 押し寄せる敵を前に、ただ一人立ちはだかる、その姿。

 今度は。


(俺が、守る。ゼノン……あんたの名誉を、俺が……!)


 彼は、カルキノスを守って死んだ。

 無駄に、死んだ。

 今のままならば。


(ゼノン、あんたは、俺を信じて託した。だから……!)

 


「キュクロプスの力に ボレアスのはやき足

 ティトノスしのぐ美貌

 ペロプスの王位に ミダスの富と宝

 アドラストスの美声


 たとえその全て 兼ね備えようと

 讃える者はない

 我らが尊ぶ 徳はただひとつ

『勇気』それこそが 戦士の誉れぞ――」



 血を吐くような声だった。

 朗々とした美しい震えも、豊かにふくらむ響きもない。



「見よ、彼を! 最前列に

 盾と槍とを構え

 退かぬ背に 不滅の誉れ

 語り継げ 彼の名を 永遠に!」



 男たちは皆、はからずも胸を突かれた。

 誰しもの脳裏に、一人の男の姿がまざまざと描き出されていた。

 今にも凄まじい嵐に襲われようとする、荒野の真ん中に一本きりの樹のように、迫り来る敵兵の前にただ一人で立つ戦士の姿が。

 それは、ゼノンを讃える歌であり、戦いに倒れた全ての勇気ある男たちを讃える歌であった。


「見よ、彼を……最前列に、盾と槍とを構え……」


「退かぬ背に、不滅の誉れ……」


 男たちは、呟くように歌い始めた。

 怒り狂っていた最長老が、涙を流している。

 彼は、この戦で、二人の孫を失った。


「よい歌じゃ」


 アナクサンドロス王が、ぽつりと言った。


「スパルタに、ふさわしい歌じゃ」


「ゼノンを……悪く言わないでほしい」


 カルキノスは言った。

 囁くような声で、だが、その場の最も端にいる一人にまで届くほどに、強く。


「彼は、間違ってなんかいない。……この俺が、スパルタに、勝利をもたらしてみせる」


 グラウコスとナルテークスが、顔を見合わせた。

 長老たち、王たちは、呆気にとられたように動きを止めている。


「俺が……スパルタを守る……」


 気でも狂ったのか、と怒鳴り立てる者は、もはやいなかった。

 みすぼらしい姿で、体を傾けて立つアテナイの若者を、皆、黙って見つめている。

 やがて、


「次の戦に、スパルタの命運がかかっておる」


 アナクサンドロス王が、静かに言った。


「カルキノスよ。そなたには、今度こそ本当に、将軍として働いてもらおう。

 次が、最後。勝利がなければ死あるのみじゃ。そなたも……この、わしもな」


 驚いてその顔を見た一同のほうを、かすかに笑って見返し、王は、カルキノスの目を見て頷いた。


「共に、スパルタを守ろう」


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