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帰還

     *     *     *

  *     *     *


 ステニュクレロス平野での敗戦は、スパルタに巨大な衝撃をもたらした。


「アリストメネス! 奴の強さは、まるで人とも思えぬ……」


「スパルタの穂先もやじりも、奴の体を避けて通るようだった」


「いずれかの神が、あの男に味方しているとしか思えぬ!」


 スパルタ軍の右翼に突入し、全軍を潰乱せしめたメッセニアの将軍アリストメネスの武名はいよいよ高く鳴り響き、その戦う姿を目の当たりに見たというスパルタの戦士たちは、例外なく顔を蒼ざめさせて語った。


「確かに」


 苦々しく頷いてみせるアナクサンドロス王は、重傷を負うこともなく無事だった。

 だが、その代償は高くついた。

 王を守る精鋭三百人のうち、百人以上が戦死するか、もはや戦列に戻ることのできぬ重傷を負ったのである。


「このたびの敗戦の責は、わしにある。わしが奴をあの場で討ち取っておれば、いや、せめてあの場で踏みこたえておれば……」


 王はすっかり意気消沈し、幕僚たちが何を言っても首を振るばかりで、ほとんど食事もとろうとしなかった。

 何よりも重大な問題は、王の親衛隊のみならず、数多くの勇敢なスパルタ市民たちがこの戦いで命を落としたことだ。

「市民」とは、すなわち戦時には槍を取ってスパルタを守る戦士たちであり、その数が減るということは、そのままポリスの戦力の低下を意味した。

 次の戦いはある。必ずある。

 そのとき、敵の勢力はさらに増大しているはずだ。

 スパルタ恐るるに足らずと勢いづくメッセニア、そして時流を見るに敏な近隣の諸市がメッセニアにくみした連合軍を相手どって、スパルタは戦わなければならない。

 そのときには、若者たちや老人たちをも戦場に駆り出さなければならないだろう。

 だが、今回でさえ勝てなかったのだ。

 このたびの敗戦で大きな打撃を受けた戦列に、戦場の経験が乏しい若年兵たち、力の衰えてきた老兵たちを加えたところで、果たして、勝てるだろうか?


 メッセニア軍がうち立てた戦勝記念碑のかたわらで、取り決めにしたがって戦死者の遺体を回収するスパルタの男たちの表情には、怒りよりも、嘆きよりも、重くのしかかる不安の色があった。

 次の戦いはある。必ずある。

 そして、次の戦いに臨むとき、状況は今よりも悪くなっている。

 戦友たちの亡骸を焼き、立ち昇る煙を見上げながら、男たちは皆、同じことを考えていた。

 自分も、次にはこうなるのだろうか。

 物言わぬ血肉となり、灰と煙になり果てて、魂はさびしい影の国へと迷いこんでいくのだろうか。

 うすら寒い影の国を永遠に彷徨するというのは、どんなものなのだろう。

 そのとき、家族たちはどうなる?

 老いた父と母は? 子供らは?

 逞しい戦士たちを失ったスパルタは、どうなってしまうのだろう――


 戦士たちの帰還は、期待された凱旋ではなく、葬列となった。

 生き残った戦士たちには、遺族らに愛する者が死んだという報せをもたらす、最も気の重い役目が残っている。

 彼らは足取りも重く、荷車の列を引き連れて、遺族の家へと向かった。

 一家の主人、あるいは未来の主人たちを戦場に送り出した家族たちは、今や遅しとその帰りを待ち侘びている。

 戻ってくるのは大勢の行列であるから、近づいてくるその気配を察して、女子供や老人たちが次々に飛び出してきてもいいはずだ。

 よそのポリスであれば、そのはずだ。

 だがスパルタでは、そうではなかった。

 男たちの行列が着いたとき、その家はいつものように静かで、落ち着き払った空気が漂っていた。

 男たちは黙って扉の前に並び、互いに顔を見合わせた。

 彼らが遠慮がちに声をあげて呼びかけると、しばらく経ってから、扉が開いた。


「あら」


 キュニスカは、男たちに向かって微笑んだ。


「皆さん、どうも。御無事のお帰り、何よりです」


 髪をさっぱりと結い上げ、簡素ながらも身ぎれいないでたちで、彼女は、黙りこくっている男たちの顔を見回した。

 沈黙がその場を支配する。

 キュニスカは微かな笑みを唇にとどめたまま、男たちの顔を順番に見渡していった。

 男たちは口を開くことも、何らかの感情をあらわすこともなく、彼女の視線を受け止めた。


「ああ……」


 一番先頭に立ったグラウコスが、二度も咳払いをし、意を決したように言った。


「悪い、報せが」


 その途端、キュニスカの手があがった。

 彼女はまっすぐに手のひらをグラウコスの顔に向け、笑みを浮かべたまま、ゆるゆると頭を振った。


「もう分かっているわ」


 彼女は突き出した手を下ろし、胸の前で組んだ。

 とんとんと爪先で地面を打ちながら、


「悪い報せですって?」


 キュニスカは首を傾げ、微笑みをいっそう深くした。


「あの人は、戦場で敵に背を向けたの? 盾を投げ捨てて逃げた? 敵に命乞いでもしたのかしら?」


「いや」


 グラウコスは、何度か深く息をついてから、一気に言った。


「スパルタの男として、ふさわしい死に様だった。ゼノンは、最後まで、敵に背を向けることなく、戦い抜いて死んだ。いくつもの傷を受けて……最後まで、前を、向いて」


「ああ」


 キュニスカは満足げに頷いた。


「そうだと思った。だって、あの人が、情けない死に様なんて見せるはずがないもの。スパルタのために勇敢に戦って死んだのなら、これ以上に名誉ある死はない。そうね?」


「ああ、そうだ。彼は、スパルタのために死んだ。素晴らしい死に様だった……」


 男たちの列が左右に分かれ、キュニスカの前に道をあける。

 そこには荷車が列をなし、荷台にはたくさんの壺が積み込まれていた。

 グラウコスが取り上げ、差し出した小さな壺を見下ろして、キュニスカはそれに指で触れ、


「ゼノン。あなたは、私の誇り」


 少女のように小さな声で囁き、すぐに顔を上げた。


「皆さん! わざわざありがとう。ここに皆さんの足をいつまでもお留めするわけにはいかないわ。私も、弔いの準備をしなくてはならないし。ありがとう、本当に。さあ、もう、行ってちょうだい」


 キュニスカの笑顔に、男たちはただ頷くばかりだった。

 太い眉をきつく寄せ、両手を握り締めているグラウコスに、キュニスカは慰めるように頷きかけた。


「戦いは、まだ、これから。そうね?」


「ああ」


 グラウコスは、軋るような声で言った。


「必ず、ゼノンの仇を討つ。俺は、絶対に、メッセニア人を許さん」


「ええ。どうか、次の戦いでは勝利を。……あの人が守ったスパルタを、守って」


 そして扉は閉まり、キュニスカの姿は消えた。


「ナルテークス。先に行け」


 荷車の列が動き出すときになって、グラウコスは、ずっと黙って隣に立っていたナルテークスに声をかけた。


「俺は、キュニスカに、あのことを話しておこうと思う」


 ナルテークスは、目を少し大きくしてグラウコスを見た。

 表情には、強い懸念の色が浮かんでいる。

 グラウコスの言う「あのこと」が何を意味するか、ナルテークスにもよく分かっていた。

 キュニスカの夫であるゼノンが命を落としたのは、カルキノスを守るため――

 正確には、グラウコスとナルテークスが、カルキノスを連れて逃げる時間を稼ぐためにだった、という事実だ。

 そのカルキノスは今、ほとんどほうけたようになって先に送り返され、神殿に閉じ込められている。


 事実を話せば、キュニスカは、カルキノスを恨むかもしれない。

 夫を見殺しにしたグラウコスとナルテークスを憎むかもしれない。

 だが、これは隠してはならないことだと、グラウコスは考えていた。

 数々の神話も語っているではないか。

 いかに巧妙に覆い隠されようと、真実は死なない。

 長い年月を経て、再び白日のもとにさらされ、いっそう大きな災いをもたらす。

 気性の激しいキュニスカのことだ。

 知れば、何をするか分からない。

 だが、それでも――


「俺が伝える。お前は、先に行っていろ」


 ナルテークスは、かぶりを振った。


『スパルタを、頼む』


 あのときのゼノンの声が、今でも耳の奥に響き続けている。

 命を賭して、思いを託されたのは、三人とも同じこと。

 グラウコスは顔をしかめたが、やがて小さく頷いた。

 もう一度、扉に近づき、意を決して大きく息を吸う。

 だが、呼びかける声は出なかった。

 かすかな、すすり泣きの声が、男たちの耳に届く。


「あなた、愛しいあなた……」


 扉のすぐ内側で、キュニスカが、泣いている。


「どうして……おお、神々よ! どうして、ゼノンを守って下さらなかったのですか。どうして……!」


 言わなくてはならない。

 真実を、告げておかなくてはならない。

 だが、グラウコスは唇を噛みしめ、拳を握り、扉に背を向けた。


「行くぞ、ナルテークス」


 足音を殺し、その場を足早に離れながら、グラウコスの目は燃えていた。

 いつか必ず、真実を知らせる。

 だが、その前に、なすべきことがある。

 メッセニア人たちに、代償を支払わせなくてはならない。

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