託されるもの
陽炎ゆらめく大地の上を、完璧な隊列を維持してスパルタの戦士たちは進む。
その歩調は笛吹きたちが奏でる軍神讃歌のリズムと一体であり、まるでただ一人の巨人が歩んでいるように、全員の足音が完璧に揃って聞こえた。
(すごい)
カルキノスは思わず吐き気を忘れ、ロバの背からその様子を見つめていた。
(美しい……)
その一瞬、不安と恐怖は脳裏から消え去り、ただ、そう感じた。
(美しい)
互いの間隔を保ち、歩調を保ち、掲げる槍の穂先の高さまでも横一直線に保ちつつ、戦士たちは進んでゆく。
ここに来るまでのあいだにも、一糸乱れぬ行軍の様子は見た。
だが、今、彼らは、ただまっすぐに歩いているのではない。
ここは戦場なのだ。
彼方に並んだ敵の軍勢から、ものすごい鬨の声が上がり、進軍のための音楽が響き始めた。
それでも、誰も遅れず、誰も走らない。
今、踏み出す一歩、その一歩ごとに確実に死に近づいていくというのに、彼らは変わらぬ足取りで進んでいく。
スパルタの男たちには、怯んで足を止めるということはないのだろうか。
恐怖に背を押されて走るということはないのだろうか。
自分は、ここにいてさえ、怖くてたまらないというのに。
彼らは、死ぬことが、怖くはないのだろうか――
「死の闇も
陽の射す道も
前を 向いて歩く……」
不意に自分の唇から洩れた声に、カルキノスは驚いた。
これまでこの世になかった詩の一節が、岩からしみ出る水の一滴のように、光の下に出てきた瞬間だった。
これは、自分が考え出した言葉ではない、という気がした。
スパルタの男たちの背中が、足音の響きが、そこにみなぎる精神が――自分という詩人の魂と肉体とを通して、言葉に変わったのだ。
「あ」
ふと我に返って隣を見ると、白いひげをたくわえた老予言者が横に立ち、不審そうにこちらを見上げている。
開戦前の犠牲式で山羊の喉を掻き切ってきた老予言者は、衣の前一面を血に染めて、すでに一戦交えてきたかのような風体だった。
「どうも」
「……その、脚」
カルキノスが口を開くのとほとんど同時に、老予言者が話しかけてきた。
「戦で、傷を負われたのですかな?」
「えっ? ああ、いえ」
ふつう、今、この状況で、この質問をするだろうか。
戸惑いながらも、カルキノスは答えた。
「戦でじゃありません」
「ほう。事故で?」
「いや、事故……というか、これは、怪我じゃなく」
今それどころではないのだが、という気持ちをありありと声に滲ませながら、カルキノスは言った。
「右脚だけ、生まれつき動かないんです」
「ええっ!」
何故、そこまで驚く。
いらいらしながら、カルキノスはスパルタ軍の行進の様子に目を戻した。
もはや両軍の激突は間近だ。
「盾を破る神、戦神アレスよ!」
いきなり老予言者がものすごい声を張り上げたので、カルキノスはもう少しでロバから転げ落ちるところだった。
老予言者は右手を高々と天に差し上げ、大声でスパルタ軍の戦勝を神に祈り、それが終わるとおもむろに、
「生まれつき、ですか?」
と、話を戻してきた。
自分勝手というか何というか、場の空気というものに一切かまわぬ爺さんである。
「はあ」
無視する気力も湧かず、カルキノスはうんざりしながら返事をした。
「何なんですか。スパルタでは、足の不自由な男は、そんなに珍しいですか?」
「いや、そんなことはありません。戦で傷を負う者は、大勢おりますのでな」
「はあ。そうでしょうね」
「しかし、生まれつき脚が不自由だという者は、スパルタにはおりませんな」
「……えっ?」
「おう! 行けえーッ! きえええぇーいッ!」
急に老予言者が両手を振り回しながら絶叫し始め、カルキノスは今度こそ、本当にロバから転げ落ちた。
金属と金属とが激突する、凄まじい物音が起こった。
スパルタの軍勢とメッセニアの軍勢が、真正面からぶつかったのだ。
ロバにすがって必死に立ち上がると、両軍のあいだを激しく投槍が飛び交っているのが見えた。
最前列の戦士が槍で突き合い、盾で激しくぶつかり合うあいだ、三列目以降の戦士たちは、槍を投げて味方を支援する一方、全体重をもって前の者を支え、自軍の戦列全体を押し進めていく。
前の者が倒れれば、後列の者が素早く前に出て戦闘に加わる。
堤防の一部が崩れるたびに土砂で穴を塞ぎ、全体の決壊を防ぐようなものだ。
堤防は、戦列。
穴を塞ぐ土砂は、戦士たちの肉体。
「がんばれ!」
老予言者に文句を言うことも忘れ、ぐるぐる回るロバの手綱を何とかつかみながら、カルキノスは大声を張り上げてスパルタの男たちを激励した。
ここからでは到底届かぬと分かっていながら、叫ばすにはいられなかった。
「がんばれ! がんばれ! がんばれ!」
戦況は膠着している様子だ。
戦列は進みもせず、下がりもしない。
だが、ここから見ているだけでは、それ以上のことは分からなかった。
カルキノスは思わず、脚を引きずりながら、そちらへと歩き出していた。
手綱を引かれたロバも、首を振りながらついてくる。
「危険ですぞ!」
「大丈夫」
熱い地面を踏んでゆきながら、カルキノスは呟くように答えた。
何が、大丈夫なのか。
近づいて、何をするつもりなのか。
自分でも分からない。
(もっと、近くで見なくては)
戦力にもならないのに、邪魔になるだけだ。
自分は戦いもしないのに、もっとよく見ようとするなど、今まさに己の命をかけている戦士たちに対して、恥ずかしくはないのか。
(だから……もっと、近くに)
自分も、命をかけて、その場で見るのだ。
よく見て、覚えておくのだ。
そして、語り継ぐのだ。
(詩で――)
「やめなされ!」
老予言者の乾いた手が、カルキノスの腕を掴む。
その瞬間だ。
男たちの戦列が、撓んだ。
* * *
* * *
がりがりと凄まじい音があがり、衝撃が腕に伝わってくる。
目の前の敵が、押し立てた盾をものすごい力で押し込んでくる。
背後からは、仲間がこちらの背中に肩を当て、さらに凄まじい圧力をかけて押し出してくる。
戦列の最前列に立つということは、ふたつの巨大な波が両側から押し寄せてぶつかり合う、まさにその一点に身を置くようなものだった。
金属の兜ごしに聞こえてくるのは蜂の巣の中に投げ込まれたような凄まじい騒音だけで、仲間の言葉も、笛の音も、ほとんど聞こえない。
すぐ側で、誰かの血がしぶく。
熱い血が目に飛び込んで、視界を塞ぐ。
それが、仲間の血なのか、敵の血なのか、それとも自分の血なのか、分からない。
「ウルアアアアアア!」
獣のように咆哮して、グラウコスは槍を突き出した。
敵味方が密集したこの状況では、槍を大きく振り回すことはできず、ひたすらに突いては引き、また突いては引くしかない。
そして、盾で押す。
押し込み、前進し、押し抜いて、敵の戦列を崩壊させた方が勝者となるのだ。
声にもならぬ唸りを発し、突き出した槍の穂先が、斜め前の敵の顔面を貫いた。
糸が切れたようにくずおれる体を踏み越えて、新たな敵が立ちはだかる。
(この、屑どもがっ……!)
奴隷のくせに武装し、スパルタ人に歯向かう身の程知らずども。
すぐに叩き潰してやる。
そう、思っていたのに。
敵の士気には、凄まじいものがあった。
どいつもこいつも、兜の下で――兜さえ被っていない者もいるというのに!――憑かれたように目を見開き、かっと開いた口から火焔でもほとばしりそうな形相でかかってくる。
奴隷は、スパルタ人とは違う。
戦士の誇りなど持たぬ輩のはずだ。
一人殺せば、武器を投げ捨て、怯えて逃げ散る連中のはずだ。
それなのに。
「自由を!」
「我らが故郷、メッセニアに自由を!」
倒しても倒しても、彼らは狂ったように叫びながら、次々と湧き出てくる。
スパルタ軍の強さの真髄は、完璧に統率のとれた密集隊形の機動にあった。
本能的な恐怖を訓練によって抑制し、強固な盾の壁を崩さず、殺しながら前進する。
彼らの前に立った敵は、ことごとく圧倒され、ほとんど戦わずして潰走する例さえもあったほどだ。
それなのに――
「奴隷として生きるより、自由になって死のう!」
「我らが故郷、メッセニアに自由を!」
戦列が、動かない。
スパルタ軍の前進が阻まれている。
敵の穂先が突き出され、グラウコスの兜の側面を削った。
斜め上から、投槍が落ちてくる。
敵の後方部隊が射かけてくる矢が、死をもたらす放物線を描いて降り注ぐ。
「オオオァァァァ!」
雄叫びと悲鳴。
もはや、戦いの技の巧みさは関係なかった。
生きるも死ぬも、神々の心しだいだ。
ただ、決して退かぬこと。
最後の最後まで、盾を掲げ、槍で突き続けること。
その二つしか、できることはない。
勝利に至る道は、その先にしかない。
たとえ、自らの骸をもって、その道を舗装することになるとしても――
目の前の敵がかざした盾の隙間から、光る槍の穂先が、ありえないほどの正確さでこちらを向いてまっすぐに飛び出してくるのを、グラウコスは見た。
ほんの、一瞬。
ほとんど点にしか見えないその穂先が、右の眼窩を貫き、脳を貫通して、頭蓋を打ち砕く――
一瞬後を幻視したグラウコスの目の前で、敵の穂先は急に左に逸れ、それを振るった者も地に崩れ落ちていった。
敵の喉笛を深々と貫いていたのは、グラウコスの真横から、凄まじい勢いで投げ放たれた槍だ。
(お前か!)
言葉も視線も、交わす余裕はない。
だが、自分を救った者が誰かは分かった。
(ナルテークス!)
変わらず激しく突き交わされる槍だけが、視界の端に映る。
ナルテークスが一本目の槍を投げたと同時に、後ろに控えた戦士が、すかさず代わりの槍を手渡したに違いない。
最前列に立つ戦士は、男の中の男だ。
ものの分かった人間なら、誰しもが尊敬の念を抱く。
たとえ口が利けぬとしても、誰よりも立派に戦えるなら、その男には誰よりも値打ちがある――
ナルテークスの後ろにいた戦士は、そのことをよく理解していたようだ。
(よし!)
終わりの見えぬ戦いの中で、グラウコスが笑みを浮かべたときだった。
不意に、ぐらり、と体が傾いた。
* * *
* * *
最初、カルキノスは、自分の目が眩んでいるのだと思った。
男たちの背中が並ぶ戦列全体が、一瞬、右方向に滑ったように見えたのだ。
「ん?」
と、こちらの腕を掴んだままで戦場を見た老予言者もまた、いぶかしげな声をあげる。
カルキノスはそれで初めて、自分が目にしている光景が現実であることを確信した。
まず、異変が起こったのは、右翼だ。
「あっ」
カルキノスは、息を呑んだ。
整然と並んでいた男たちの背中が、不意にがたつき、大きくたわみ、膨らむ。
(「堤防」が――)
決壊した。
* * *
* * *
(何だッ!?)
激しい戦いの中で、グラウコスは自分の体が急に右方向へと流されるのを感じた。
実際には、わずかに半歩、右に動いただけのことだ。
だが、それはあまりにも大きなことだった。
彼らが持つ盾は、自分自身を守るものであると同時に、自分のすぐ隣に立つ戦士の身を守るものでもある。
ひとつの盾が右に動けば、戦列に並ぶ戦士たちは皆、本能的に右に動く。
一人一人であれば、ほとんど意識にものぼらぬほどの小さな動作が、密集した集団となることによって、何倍にも拡大され――
戦列に「亀裂」が生じた。
それは、ほんの数か所での出来事であったが、そこへ、死に物狂いの敵が突入してくれば、どうなるか。
たちまち戦列ががたつき、分断し――
「いかん!」
* * *
* * *
決壊した堤防から噴出する泥水が全てを飲み込むがごとく、見る間に、辺り一帯が手のつけられぬ乱戦状態になっていく。
(嘘だ)
軍神アレスに付き従うという「潰走」と「恐怖」が我がもの顔に歩き回り、巨大な手で戦場を掻き回していくようだった。
右翼で起こった混乱が、一気に全軍に波及し、戦列が崩壊していく。
(どうして)
あれほど、自らを鍛え上げた男たちなのに。
厳しすぎる訓練に平然と耐え、恐怖を克服したはずの男たちなのに。
(ナルテークスは?)
ふと、その名が脳裏によみがえり、目を見開く。
ナルテークスは、ゼノンは、グラウコスは?
最前列にいた彼らは、無事か。
テルパンドロスは?
そうだ、それに、最初に崩れたのは右翼だ。
王は。
アナクサンドロス王は、無事なのか?
伝説の詩人たちは、歌の力で戦争を止めることもできたという。
これが叙事詩であれば、今こそ、あの大混乱のただ中へと、竪琴を奏で、歌いながら歩いてゆくときだ。
彼が歩みを進めるところ、たちどころに人々は槍を収め、盾を下げ、大地に腰をおろして歌に耳を傾ける。
静まり返った戦場に、平和を歌う、彼の詩だけが響く――
だが実際のところ、カルキノスは凄まじい騒音の中、馬鹿のようにじっとその場に立って、事のなりゆきを見つめているだけだった。
足は、熱い地面にはりついてしまったように、一歩も前に出なかった。
* * *
* * *
「くそったれがッ! どうなってる!?」
「右翼が崩れた……!」
武器を振り回しながら喚いたグラウコスに、ゼノンが怒鳴り返す。
彼がこんなふうに声を張り上げることはめったになかった。
そうしなければ、相手に聞こえないのだ。
「右翼だとッ!?」
飛びかかってきた敵の顔面を盾の縁で力任せに殴りつけながら、グラウコスは目を剥いた。
「陛下は!」
「分からん!」
隣には、ナルテークスがいる。
彼らは互いの死角を補い合うように立ち、波濤の中の小さな岩のように踏み止まっていた。
もはや、戦列も何もあったものではない。
敵味方が入り乱れ、ところどころでは折り重なっての乱戦になっている。
先ほどの奇妙な右への揺れは、崩れた右翼を埋め、王を守ろうとして、戦士たちが動いてしまった結果だったのだろう。
結果的に、それが戦列の崩壊に繋がった。
だが、なぜだ?
アナクサンドロス王は、スパルタの王の名に恥じぬ武勇の持ち主だ。
右翼には、王に付き従う精鋭部隊も共にいたはずだ。
それなのに、なぜ――
混乱の中で盾を掲げ、武器を振るい続ける彼らの耳に、敵が繰り返し叫ぶひとつの名が飛び込んできた。
アリストメネス!
我らが将軍、アリストメネス!
「奴か……!」
メッセニアの将。
反乱軍の首魁。
スパルタのアクロポリスの神殿に、自らの名を刻んだ盾を掲げた男。
アリストメネス自身も、この戦いに加わっているはずだ。
それが、どの男なのか、彼らには分からなかった。
「アリストメネスを殺すしかないッ!」
グラウコスは叫んだ。
「奴を殺せば、敵の士気は崩壊するはずだッ!」
「そうだな……だが」
顔も見たことのない相手だ。
戦いぶりで分かるだろうか。
それ以前に、自分たちが、生きてこの場所を離れることができるだろうか。
また、戦場が揺れた。
大勢の人間の動きは、水の流れのようなもの。
ひとたび動き出し、勢いがつけば、誰にも止めることはできぬ。
メッセニア軍が、どっと押し出してきた。
スパルタ軍は、押された。
撤退、し始めた。
「なぜだ!」
敵の槍を叩き折りながら、グラウコスは泣くような声で叫んだ。
「俺は、退かんぞ! 俺はスパルタの男だ、絶対に退かん! おお、アポロン神よ、なぜ――」
その瞬間、グラウコスの腕をゼノンが掴み、ぐいと引いた。
「放せ!」
グラウコスは喚いたが、ゼノンは力を緩めることなく、痛みを感じるほどの力を込めてきた。
「放せ、ゼノン!」
「カルキノスは?」
グラウコスは思わず振り向き、ゼノンの顔を見た。
兜の下で、ゼノンは、おそろしく真剣な目をしていた。
周囲から、スパルタの戦士たちが退いていく。
メッセニアの戦士たちが、喚声を発しながらその後を追っていく。
このままでは、後方にいる非戦闘員たちは、波にさらわれる川辺の砂のように、押し寄せる敵に呑み込まれてしまうだろう。
ゼノンは、一呼吸のあいだグラウコスの目を見つめ、それからナルテークスを見つめ――
手を放して、走り出した。
人波の向かうほうへ――
それよりも、速く。
「ゼノン!」
* * *
* * *
自分に向かって、大波のように人が押し寄せてくる。
(嘘だ)
カルキノスは、その場に立ち尽くしたままだった。
(スパルタが、負けた……?)
なぜだ。
誰に聞いても、奴隷の寄せ集め軍など、ひとひねりだと言っていたのに。
あの剛胆なアナクサンドロス王が率いていたのに。
どの男たちの槍も鋭く、戦意も充分、犠牲式での占いの結果も吉兆を示していたのに――
(犠牲式?)
はっと我に返って見ると、そこに立っていたはずの老予言者の姿がない。
振り向けば、老人とは思えぬ速さで走って逃げ去る後ろ姿が見えた。
ロバもいなくなっている。
獣の本能で危険を察知し、逃げ出したのだ。
ぼんやりして、手綱を手放していたのが失敗だった。
(これで……終わり……?)
数歩、走って逃げようとして、カルキノスはぴたりと立ち止まった。
身に着けた武具はあまりにも重く、とても走れない。
(終わりだ)
諦めて、振り返る。
ものすごい数のスパルタの男たちが、必死の形相でこちらへ走ってくるのが見えた。
みな、重い鎧を着けているのに、信じられない速さだ。
その光景は、まるで本当の出来事ではないかのように見えた。
(俺は、ここで死ぬんだ)
味方に突き飛ばされて、踏みつぶされる。
敵の槍で刺され、剣で切り刻まれる。
これが運命なのだ。
踏みつぶされるのと、刺されるのと、どちらが楽だろう。
金属同士がぶつかり合う、凄まじい騒音が迫ってくる。
――嫌だ。
死にたくない。
「わぁああああああ!」
カルキノスはくるりと身をひるがえし、走った。
左右に大きく体を振りながら、ぴょんぴょんと跳びはねるようにして十歩ほど走り、石を踏みつけて転倒した。
「あああああああ!」
必死にもがくカルキノスの両脇を、土埃を蹴立てて、スパルタの戦士たちが走り去っていく。
(置いていかないでくれ……!)
だが、その声は出なかった。
自分は、彼らと共に戦っていない。
神託が告げたように、スパルタに勝利をもたらすこともなかった。
自分は、何ひとつ、彼らの役に立たなかった。
得意顔でスパルタにやってきて、塵ほどの役にも立たず、何ひとつ為さずにここで死んでいくのだ。
「あぁああ……」
土を握り締めて、カルキノスは泣いた。
背後から、敵の喚声がどんどん迫ってくる。
死にたくない。
このまま倒れて、死んだふりをしていれば、あるいは見逃してもらえないだろうか――
「カルキノスゥゥゥッ!」
声が、聴こえた。
「馬鹿野郎、起きろ! 何を寝ていやがるこのくそぼけがあああぁッ!」
鎧の首あたりを掴まれ、ものすごい力で引きずり起こされる。
血塗れになったグラウコスの、怪物のような姿が視界に飛び込んできた。
声を聞かなければ、彼だと分からなかった。
ぶつりぶつりという音が聞こえ、ぎょっとして首をねじ向けると、剣の刃が顔の真横にあった。
カルキノスは思わず悲鳴を上げたが、それはナルテークスで、カルキノスが身に着けた鎧の合わせの革紐を断ち切っているのだった。
「走れ」
引っこ抜くようにして兜を脱がされると同時、ひどく切迫した声がした。
がらんと音がして、青銅の鎧が地に落ちる。
一気に軽くなった体が、地面から浮き上がった。
グラウコスとナルテークスが、息を合わせて、カルキノスの体を担ぎ上げたのだ。
「行け、走れ! ……カルキノス!」
持ち上げられて上下逆さまになったカルキノスの視界に、迫り来る敵兵たちの姿と――
その前に、盾と槍とを構えてただ一人立つ、ゼノンの姿が映った。
彼は、一瞬だけこちらを振り返ろうとしたようだったが、兜に隠れて、その表情は見えなかった。
「スパルタを、頼む」
(ゼノン)
カルキノスは口を開けたが、喉が詰まり、声は出なかった。
グラウコスが咆哮する。
そして、彼らは戦場から逃走した。