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対峙

     *     *     *

  *     *     *


 それから、十日の後――

 メッセニアのステニュクレロス平野は、異様な静けさに包まれていた。

 空は、どこまでも青い。

 オリュンポス山におわす神々は、古のトロイアの戦いのときのように、高い峰の上から、この場所をご覧になっているのだろうか。

 この平原を決戦の場として整列した軍勢の、武具のきらめきを。

 あとわずかの時の後には激突し、大地に赤い血を流すことになる男たちの姿を――


「遅いッ!」


 グラウコスは、部隊長の耳に届かぬように囁くような声で、隣に立つ男に文句を言った。

 もちろん、姿勢はぴくりとも崩さない。

 彼らスパルタ軍は今、右翼、中央、左翼の三隊に分かれ、メッセニアの反乱者たちの軍勢と向き合っている。

 グラウコスは、中央で八段の隊列を組んだスパルタの戦士たちの、最前列に立っていた。

 槍の石突きと盾の縁を地面につけ、夏のおそるべき陽射しの中で、石のように身動きせずにいる。

 彼らは今、兜をかぶっていなかった。

 完全武装のごつい男たちが、そろって花冠をかぶり、微動だにせず並んでいるのだ。

 開戦直前の犠牲式――戦勝を祈願し、山羊をいけにえに捧げる――にあたり、全員が花冠をかぶるのがスパルタ軍の伝統だ。


「まだ、始まらんのかッ? この暑さでは、突っ立ったまま、パンのように焼き上がっちまいそうだッ」


「焦るな」


 グラウコスの左側に立った男が、抑えた声で答えた。

 ゼノンだ。

 戦を目の前にしても、あいかわらず表情に乏しい。

 彼も当然のように花冠をかぶっていた。

 整った顔立ちに、可憐な小花が妙に似合っている。


「もうすぐ始まる」


 両陣営の予言者による戦勝祈願の儀式も終わり、あとは開戦の号令を待つばかりだ。

 それぞれの戦列には、同盟諸市からの援軍も加わっていた。

 スパルタ側には、コリントスとプレオスから。

 一方のメッセニア側には、エリス、アルカディア、アルゴス、シキュオンの各都市から。


「くそったれどもが……こんな面倒くさいことになっちまったのも、一度目のデライの戦いで、メッセニアの連中を叩き潰すことができなかったせいだッ」


 しきりに瞬きをして目に流れ込んだ汗を追い出しながら、グラウコスは毒づいた。


「エリスやアルカディアの馬鹿どもめ、風向きを見て、メッセニアにつきやがったッ! 俺たちスパルタの力を削り取ろうという策だ。そうはいくか! 見ていろ、メッセニアを潰したら、今度は奴らを叩きのめしてやるッ! ……なッ、そうだな、ナルテークス!」


 いきなりそう話を振られ、グラウコスの右側に立った若者は、いつもの通り、かすかに頷いた。

 その顎の先から汗のしずくが落ち、からからに乾いた地面にあっという間に吸い込まれていった。

 ゼノン、グラウコス、ナルテークス。

 彼らは間違いなく、スパルタにおける最も精強な若者の一員であり、それを認められて今、この場所に立っている。

 ギリシャヘラスにおける戦いは、双方の戦士たちが隊列を組んで前進し、真正面からぶち当たり、相手を押し崩したほうが勝つという単純なものだった。

 彼ら自身は、戦いに弓矢などの飛道具を用いることはなかった。

 臆病者の武器・・・・・・は、非市民や、外国人部隊の受け持ちである。

 隊列の一番前、すなわち最前列は、真っ先に敵とぶつかる場所であるから、最も危険が大きく、最も名誉ある部署とされていた。

 自分と隣の仲間の身を守る盾、そして輝く穂先の槍。

 あとは鍛え上げた肉体と、決して後退せぬ勇気だけをもって、敵に向かってゆく。


「神々は、必ず我らスパルタの側に立ってくださる」


 ゼノンが前を向いたまま、ぼそぼそと言った。


「カルキノスも来ているのだ。輝けるフォイボス・アポロン神アポローンもまた、我らの味方だ」


「おう!」


 グラウコスは嬉しそうに言ったが、すぐに表情を曇らせた。


「あいつ、大丈夫かな。歌うときだけは元気だったが、行軍のあいだ、何度も吐いてたらしいぞ」


「九回だそうだ」


 顔色も変えず、ゼノンが補足する。

 故郷スパルタを出発し、このステニュクレロス平野に到着するまで、彼らは部隊ごとに完璧な隊列を組んで行進してきた。

 彼らがカルキノスの顔を間近で見ることができたのは、彼らの風習である、食事の前の「歌唱の時間」だけだった。

 集まった中で最も年長の男が、戦場の心得やそのほか若者たちの役に立つような話をひとくさり聞かせ、その後で神々や英雄を讃える歌を皆で歌い、神々への献酒をすませて初めて、飲み食いが始まるのだ。

 カルキノスは「従軍詩人」としていそがしく各部隊をまわり、スパルタに伝わる伝統的な歌を歌っては喝采を浴びていた。

 朗々と歌い、笑顔で男たちを盛り上げるカルキノスの様子のかぎりでは、そこまで調子が悪そうには思えなかったが、ゼノンは、忙しく行き来する従者や奴隷たちから、ぬかりなく「詩人」の体調の情報を仕入れていた。


「聞けば、初陣らしい。緊張しているのだろう。そういう者もいる」


「いや、九回は、ちょっと……さすがに情けなさすぎるぞ」


 憤慨を通り越して呆れ果てた口調で、グラウコス。


「本当に大丈夫なのか?」


「神託を信じよう」


 まっすぐに前を――メッセニアの軍勢を見据え、ゼノンは呟いた。


「スパルタは、必ず勝つ」


  *     *     *


(死ぬかもしれない)


 先ほどから、その言葉だけが、頭の中をぐるぐると回っている。


(俺、もう、死ぬかもしれない……)


 いつ全身の血が沸騰して死んでもおかしくないと思うほど、暑い。

 暑いのに、血の気が引いているせいか、額とこめかみの辺りだけが寒かった。

 先ほどから、なぜか花冠などかぶらされているのだが、どう考えても、つばの広い帽子をかぶったほうがいい。

 ロバに乗ったカルキノスは、我知らず胃のあたりを押さえようとして、小さく悲鳴をあげた。

 両肩にのしかかる青銅の鎧の表面は、調理でもできそうなほどに熱くなっていた。

 革の裏打ちがついていなければ、皮膚に焼きついていただろう。

 武装の熱だけでなく、重さも相当辛いのだが、それを言うなら、一番迷惑しているのは、今カルキノスを背に乗せているロバだ。


「がんばれ、がんばれ……すぐに終わるから……」


 カルキノスは震える手を伸ばし、何度かロバの首を叩いた。

 その言葉の半分以上は、自分自身に向けたものだった。

 時折、目の前の光景がちらつく。

 それが、あまりの猛暑からくる眩暈なのか、強烈な日差しの反射光で目がやられているのか、カルキノスには分からなかった。

 吐き気がする。


(彼らは、平気なんだろうか? ……きっと、平気なんだろうな。スパルタの男だから……)


 ゼノン、グラウコス、ナルテークス。

 今まさに最前列に並んでいるはずの彼らのことを思い起こし、カルキノスは必死に自分を奮い立たせ、意識を保とうとした。

 今、この場所から、彼らの姿はまったく見えない。

 カルキノスがいる場所は、右翼、中央、そして左翼と三隊に分かれて整列した軍勢の、中央の、最後列からさらにずっと下がったところだった。

 ここから見える光景といえば、最後尾の戦士たちの、ずらりと並んだ背中だけだ。

 一糸乱れず整列した男たちの背中は、スパルタを守る壁そのもののようで、まるで、叙事詩の中の光景のようだった。

 戦士たちの鎧兜と槍の穂先が、容赦なく降り注ぐ陽光にぎらぎらと輝き、今にも煙を発して燃え上がりそうに見えた。

 一方、こちらでカルキノスと共にいるのは、従軍医師たちや、開戦前の犠牲式をつつがなく終えて引き上げてきた予言者だ。

 要するに、非戦闘員たちである。


『安心せよ。そなたに、槍をとって戦えなどとは、誰も言っておらぬ!』


 開戦が決まったあの日、アテナ女神をまつる青銅の神殿の前で、長老たちは、ばんばんとカルキノスの肩を叩きながら言った。


『そうじゃ。むしろ邪魔じゃ!』


『さよう。倒れたところを踏みつぶしやせんかと、気が気でないわい!』


『その足では、スパルタ軍の行進の速度についてゆけぬことは、火を見るよりも明らか』


『戦列が一箇所でも崩れると、周りが迷惑するからのう!』


 思いやりの欠片もないが、反論もできないせりふを次々に吐くと、


輝けるフォイボス・アポロン神アポローンは、こう仰せになったのじゃ。「汝らの将軍をアテナイ市から求めよ」とな。この神託に、従ってさえおれば、わしらは勝てる。……つまり、そなたは、将軍という身分で我らと行動を共にし、戦場に赴くのだ。しかし、実際の戦いには加わらんでよい。もちろん、指揮も執らんでよい』


 カルキノスの肩に手を置いた長老が、そう締めくくった。


『えっ……ああ……はい』


 カルキノスは、人形のようにかくかくと頷いた。

 正直な話、まず湧き上がってきたのは、圧倒的な安堵感だった。

 これで、死なずにすむ。

 部隊長の経験すらないのに、将軍として軍勢を指揮するなどという、馬鹿みたいな大仕事もしなくてすむ。


『分かりました。……あの、じゃあ、俺は、一緒に行って、何をすれば?』


『何もするな』


 長老たちは、揃ってにこやかに頷いた。


『わしらは、わしらの将軍を、アテナイ市から求めた。これで、神託は遂行された』


『あとはもう、余計なことはせんでよい。戦のことは、わしらに任せよ』


『ただ、死ぬなよ? うっかり流れ矢などに当たって死ぬでないぞ?』


『そうじゃ! そなたが死んでは、アポロン神がお怒りになるかもしれぬ。まじない師どもと一緒に、できるだけ後ろに引っ込んでおれ!』


(確かに、それは、そうなんだけどな)


 本当に・・・何も・・しない・・・でいるというのは、人間にとって、かなり難しいことである。

 自分以外の人間がことごとく大回転で働いている時は、特にそうだ。

 メッセニアへと宣戦布告の使者が発ち、男たちが戦の準備に取り掛かると同時に、カルキノスは輝けるフォイボス・アポロン神アポローンをまつる神殿に駆け込んだ。

 勝利を神に祈願するため――ではない。

 もちろん、それもあるにはあったが、さらに重要な目的があったのである。

 彼は神官たちに頼み込み、ほとんど神殿に泊まり込む勢いで、スパルタで伝統的に歌い継がれてきた様々な讃歌、戦勝祈願歌、武装行進歌の手ほどきをしてもらった。


『音楽とは、他でもないアポロン神その方が、我ら人間にもたらしてくださったもの』


 と、神官たちは言っていた。


『あなたさまは、輝けるフォイボス・アポロン神アポローンが、スパルタのためにお招きになった方。あなたさまの歌の力で、スパルタに勝利がもたらされますよう……』


 どうか、と食い入るように見つめてくる神官たちに向かって、カルキノスは、力強く頷いてみせた。

 だが、自信たっぷりな態度とは裏腹に、内心では重圧に押し潰されそうだった。


(どうしても、スパルタに、勝ってもらわなくては)


 スパルタが、この戦いに勝つためにこそ、自分はアテナイ市から招かれたのだ。

 他ならぬ、輝けるフォイボス・アポロン神アポローンその方の神託である。

 きっと……いや、必ず、勝てるだろう。

 勝てば、カルキノスは――別に何もしてはいないが――勝利の立役者として祭り上げられ、その名は一気に上がり、彼の作る詩も人々にもてはやされることだろう。


(でも……もしも、勝てなかったら?)


 そう考えるだけで、胃の腑がぎゅっと縮み、石のように固くなるような気がした。

 そんなことになったら、スパルタ人たちの悲嘆と怒りは、どれほどのものになるか。

 彼らの怒りの矛先は、おそらく、カルキノスに向けられることになる。

 先ほどの儀式で喉を掻き切られた山羊のように、今度は、カルキノス自身がばらばらにされてしまうということにもなりかねない。


(頼む、頼む……勝ってくれ! ゼノン、グラウコス、ナルテークス……それに、テルパンドロス! スパルタの皆! どうか、頼んだぞ!)


 そう、詩人テルパンドロスもまた、武器をとり、隊列に加わっているはずだった。

 他の多くの詩人たちがそうであるように、彼もまた、詩人であり戦士だ。

 レスボス出身の彼は、他の非市民の戦士たちとともに、スパルタ人たちに前後を挟まれ、戦列の半ばに並んでいるはずである。


(俺も、戦うことができればよかったのに……)


 自分自身の力によって、なりゆきが左右できる事柄であれば、まだ、結果に納得もいくし、諦めもつく。

 だが、カルキノスの場合、戦闘に関しては、まったくの他人任せにせざるを得ない。

 この脚では、他の戦士たちと歩調を合わせて行進することはできないし、そもそも、今すでに倒れかけているこの状況では、最初の突撃の途中でぶっ倒れて味方に踏みつぶされるのがおちだ。

 だから、これまでに、できる限りのことをしてきた。

 食事のたびに、習い覚えた伝統の歌で男たちの士気を高め、できるだけ堂々とふるまい、戦士たちのあいだに余計な動揺が広がらないようにつとめてきた。

 だが、それでも。


(せめて、自分も、戦うことができたら……テルパンドロスのように、皆と肩を並べて奮戦することができたら……もしも、負けたとしても、その働きに免じて、殺されることはないかもしれないじゃないか)


 勝利か、死か。

 自分の運命は、この一戦に――スパルタの男たちの戦いぶりにかかっている。


(怖い)


 死にたくない。

 吐き気が、する――


「将軍よ」


 カルキノスが花冠の下で蒼い顔をしていると、急に、横からにこやかに話しかけてきた男がいた。

 やや背が低く、豊かな黒髪と、もじゃもじゃの髭が、特大の花冠から盛大にはみ出している。

 大きな盾を持ち、重そうな槍を肩にかついでいた。


「今日は、ずいぶんと暑いのう!」


 男は、ゆったりとした口調で、大声で言った。

 カルキノスはそちらを見たが、何も答えなかった。

 今、話しかけてきている男が誰なのか、カルキノスは知っていた。

 断じて、無視などしてよい相手ではない。

 だが、今、少しでも口を開いたら、そのまま吐いてしまいそうだったのである。


「まったく、暑い、暑い」


 男はそう繰り返したが、そう言うわりに、一滴の汗も流していない。

 彼の背後には、一目で精鋭と分かる、見事な男ぶりの戦士たちがつき従っていた。

 この男こそ、スパルタの王――

 アギスの血統に連なる、アナクサンドロス。

 スパルタは、数ある都市国家の中でも特異な「二王制」をとっていた。

 アギス家は、その二つの王家のうちのひとつだ。

 アナクサンドロス王の穏やかな顔つきと話しぶりは、音にきくスパルタの王とは、とても見えなかった。

 そして、これから命を賭した戦いに赴こうとしている男のようにも、まったく見えなかった。

 スパルタにおいては、戦場を前にして、いかに平時と変わらず泰然としていられるかこそが、男としての器を物語るのである。


「将軍、くれぐれも、よろしく頼むぞ。わしも、詩歌女神さまがたに、念入りに供犠を捧げておいたからな。わしらの戦いぶりが、よき歌として、後世に長く伝えられるようにな。そなたは詩人であり将軍として、後方におるが、わしらと戦いを共にするのだ。これで、わしらの勝利は疑いなし」


 アナクサンドロス王は、ロバから降りようともせず黙ったままのカルキノスに腹を立てるでもなく、にこにこと、それだけ言うと、


「では、始めようかのう」


 そう呟き、次の瞬間、形相を一変させた。


「――戦ぞ、皆の者ォ!」


『応ッ!』


 王の体から湧き上がった、雷鳴のような声に、全軍が完全に一体となった声が応える。

 戦士たちが槍の石突きで足元を打ち、地面が揺れた。

 ロバが怯えて激しく暴れ、カルキノスは、必死にその首にしがみついた。


「蹴散らせ!」


『応ッ!』


「叩き潰せ!」


『応ッ!』


「勝利!」


『応ッ!』


 戦士たちの手から、花冠が高らかに宙に舞う。

 そして彼らは、深々と青銅の兜をかぶった。

 笛吹きたちが一斉にアウロイを口に当て、高らかにカストール讃歌を吹奏しはじめる。

 アナクサンドロス王は、呆然としているカルキノスに、もう一度にっこりと笑いかけた。

 そして、自分自身も花冠を外して兜をかぶり、盾と槍とを軽々と持ち上げ、親衛隊を引き連れて自分自身の部署、全軍の最右翼へと歩いていった。

 そして――

 スパルタ軍全体が、ゆっくりと前進を始めた。

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