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運命

「おうッ! 先生!」


「先生!?」


 グラウコスの言葉に、カルキノスは思わず声をあげた。

 自分と年齢がほとんど変わらないように見える、このテルパンドロスという男が、彼らの「教師」だというのか?


「テルパンドロス先生は、俺たちに合唱を教えてくださっている」


 横から、いつもの淡々とした調子でゼノンが解説した。


「スパルタには、合唱隊の少年部、青年部、老年部があってな……」


「老年部!?」


「ああ。テルパンドロス先生は、それらすべての合唱隊の指導をなさっている」


「その通り!」


 テルパンドロスは目を細め、カルキノスを見つめた。


「ぼくは長老会ゲルーシアに招かれ、二年前にスパルタにやってきた。この地を、ぼくの生涯の理想、歌と音楽により人々の心が導かれ高められる地とするためにだ」


(ちょっと、待ってくれ)


 カルキノスは、混乱していた。


(こんなすごい奴が、もういるのに……俺、なんで呼ばれたんだ!?)


 完璧な肉体、朗々とした声の響き。

 ただその姿を見、言葉を聞いているだけで、輝きに圧倒されそうになる。

 しかも彼は、自分と同じ異邦人でありながら、スパルタの男たちから「先生」と呼ばれ、尊敬を勝ち得ているのだ。

 この自分は「カルキノス」呼ばわりされているというのに――

 相手が、ただ美しいだけの男なら、こんな気持ちにはならなかった。

 だが、こいつは、詩人・・だ。


「ぼくは知りたいんだ」


 テルパンドロスは、カルキノスを見据えたまま、熱っぽく言った。


「君は、輝けるフォイボス・アポロン神アポローンに選ばれたそうじゃないか。このぼくというものがありながら、アポロン神は、スパルタにはなお、いまひとりの詩人が――すなわち、君が必要だと仰せになった。ならば、君は、ぼくにはない何かを持っているはずだ。ぼくは、ぜひとも、それが何であるのかを知りたい!」


 そして、それが何であるのかを見極めたあかつきには、それを余さずつかみ取り、飲みこみ、自分のものにしてみせる。

 そんな言葉の続きがきこえてきそうな、食い入るような目つき、口調だった。


(こいつ……) 


 テルパンドロスの表情にも、口調にも、こちらを軽んじるような響きはまったくない。

 貪欲さ。

 いや、違う。

 もっと純粋で、それゆえに妥協を許さず、容赦のない真摯しんしさ――


(怖い)


 自分は、こいつが思っているほどのものでは、ない。

 ちっぽけで、つまらぬ、何者でもないものだ。

 相手のまばゆさに、自分の小ささを照らし出されてしまいそうな気がした。

 だが、そんな思いと同時に、


(負けるな)


 胸の底から湧き起こる、もうひとつの声があった。


(俺は、詩が好きだ。これまで、ずっと続けてきた。それなのに、戦う前から逃げ出すのか? 俺から詩を取ったら、あとに何が残る? ……俺は、詩人だ。ゼノンが神託をうかがったとき、輝けるフォイボス・アポロン神アポローンは、俺を認めてくださった。……俺は、逃げないぞ。俺は、俺を信じる!)


「いいだろう!」


 カルキノスは、周囲の男たちが驚くほどの堂々たる声で答え、テルパンドロスに指をつきつけた。


「あんたの挑戦を受けよう!」


「おお、カルキノス! 貴様も男だったかッ!」


 まったく関係ないグラウコスが、横で感動している。

 今までは何だと思っていたのか。


「では、パンクラティオンで」


「それは全力で断る!」


 おもむろに横から片手を差しこもうとしてきたゼノンに、カルキノスは慌てて叫んだ。

 スパルタの男は、勝負といったら殴り合いしか頭にないらしい。

 テルパンドロスが声をあげて笑った。


「ゼノン。詩人は拳で争わないものだよ。楽器を奏でる指が傷つきでもしたら大変だろう?」


「そうですか。では、スタディオン走……」


「詩人の勝負といったら、昔から、歌比べと決まっている」


 ゼノンの言葉をさらりと無視し、テルパンドロスは両腕を広げた。


「だが、詩人が歌で競うのは、スパルタ人が戦場で武勇を競うのと同じ、命をかけた戦いだ!」


(命を、かけた……)


 大げさに言っているのか、それとも本心か。

 いずれにせよ、そんな言葉がさらりと出るような相手と、これから自分は戦うのだ。

 周囲の男たちはすっかり静かになり、目を輝かせて事のなりゆきを見守っている。

 心臓が急に耳元まで上がってきたみたいに、どんどんとやかましく鳴り始めた。

 これまでに、たくさんの詩を作ってきた。

 どの作品を出すか。やはり、古の英雄たちの戦いを歌ったものがいいか。

 いや、だめだ。ホメーロスを子供が真似したようなものだと言われるかもしれない。

 では、恋の歌は。

 だめだ。脳みそまで筋肉でできたスパルタの男たちが、恋の歌を高く評価するとは思えない。

 グラウコスあたりが「軟弱だ!」と喚き出すさまが目に見えるようだ。

 いっそ、面白おかしい戯れ歌でごまかすか……?

 いや、論外だ。

 現にテルパンドロスは、ついさっきのカルキノスの戯れ歌について、一言も触れてこないではないか。


『あれはお遊びとして、さあ、今からおまえの本気を見せてみろ』


 そういうことなのだ。

 ここで、笑いにごまかしたら、軽蔑されるだろう。

 失望されるだろう。


(こいつにだけは……負けたくない)


 顔も、姿もはるかに及ばず、立場でも完全に負けている。

 それでも、詩でだけは、負けたくない。

 では、どうする。

 どうすれば?


「では」


 カルキノスは、ゆっくりと頷いて、テルパンドロスに片手を差し出した。


「どうぞ、君から歌ってくれ。君のほうから、勝負を申し出たのだから」


 まずは敵に手の内を出させて、様子を見る。

 これも戦術というものだ。

 テルパンドロスは、にっこりと笑った。


「もちろん、喜んで」


 彼がさっと片手をあげると、彼の「弟子」だろうか、驚くほどの美少年が恭しく竪琴を運んできた。

 ちょっと羨ましい。

 いや、そんなことはどうでもいい。集中だ――


「あれ?」


 集中だ、と思いながら、カルキノスはつい、指さして言わすにはいられなかった。


「なんか……え? なんか、多くないか、弦が!?」


「ああ、これか」


 テルパンドロスは金の巻き毛を払い、ふふんと笑った。


「よくぞ気付いてくれたね。これはぼくの発明、七弦の竪琴さ!」


「えー!? 何だそれ、ずるいぞ! こっちの竪琴には、四弦しかないのに!」


「黙りたまえ! ぼくの理想である完璧な音楽を実現するためには、これが最もふさわしいんだ!」


「えー……いや、やっぱ駄目だろ、それは!? 同じ条件で勝負しなきゃ、優劣がつけられないじゃないか!」


「安心したまえ! 弦は多くとも、ぼくは、伴奏に多くの音は用いない!」


「じゃあ、そもそも増やす必要なかったんじゃ……」


 カルキノスの心からの呟きを、テルパンドロスは華麗に無視した。


「たくさんの音で聞き手を惑わそうなどというのは、奇術師のすることさ。スパルタの地に必要なのは、簡潔にして力強く、荘重な調べ……」


「いや、だから、そもそも増やす必要」


「まあ、まあ、いいから! ともかく、ここに座って、ぼくの歌を聴いてくれたまえ!」


 意外な強引さを見せてカルキノスを石段に座らせると、テルパンドロスは咳払いをし、弟子から七弦の竪琴を受け取った。


(なんか、こいつ、ちょっとおもしろいかもしれない)


 お高くとまったやつかと思ったら、意外と子供っぽいところもある。


(それに、第一、この場でまともな勝負が成り立つんだろうか?)


 スパルタの男たちはすっかり開演を待つ聴衆と化して、二人の歌比べが始まるのを今か今かと見守っている。

 もしも、彼らが盛り上がって大合唱でも始めたら、もはや勝負どころではなくなるだろう。


(いや、待てよ? それはそれで、ありがたいかもしれない!)


 正直に言えば、こんな相手とまともにやり合うのは不安だ。

 さっきのナルテークスたちの争いのときのように、笑いに紛れて勝敗をうやむやにできるなら、それが一番いいような気がする。


(頼む。誰か、歌ってくれよ……!)


 カルキノスがこっそり心の中で祈っているうちに、テルパンドロスが竪琴をかまえ、すうっ、と息を吸った。

 そして、彼の指が動き、竪琴の音色が流れ始めた。

 カルキノスは、目を見開いた。

 これまでに聴いたことのない旋律。

 単純な音の繰り返しの中に、奇妙な力強さが――


詩歌女神ムーサよ歌え、スパルタに

 くだりてあまねく人の子に

 うるわしき楽の響きもて

 まことの歌を聴かせたまえ」


 息が、止まった。

 美しい。

 声の質が、発声が、音程が、完璧に調和している。

 そして、伴奏と吟唱があますところなく結びつき、とけあって、ひとつの音楽をなしている。

 そこにいるのは、ひとりの人間ではなく、天上の音を地上に顕現させるための、ひとつの楽器であった。

 鳴るために生まれ、鳴ることを喜び、ますます豊かに響きわたる――

 帯ひだ深き詩歌女神たちムーサイがテルパンドロスのかたわらに立ち、その肩に手を置いているのが見えたような気がした。

 誰も、立ち上がって歌いだしたりはしなかった。

 テルパンドロスの声が朗々と響くにつれて、スパルタの戦士たちは目を閉じ、美しい音色に包まれる感触を味わうように、ゆらゆらと体を揺らした。


 「若人わこうどらの槍は輝き

 詩歌女神ムーサの声は澄み渡りて

 正義の女神ディケーは歩む、道幅も

 広き、我らのこのまちを――」


 その中で、カルキノスはひとり、凍りついたように目を見開き、美しい詩人の姿を見つめていた。

 涙が滲んできた。

 天才だ。

 こいつは、本物の、天才だ。

 最後の一音が響き、吟唱が終わっても、しばらくは誰も身動きひとつしなかった。

 さりげなく目の下をこすっている男たちは、思わず涙を流したに違いない。

 テルパンドロスが竪琴を下ろし、にこやかに礼をして初めて、嵐のような賞賛と感動の呟きが湧き起こった。


「……おい」


 石像と化したように立っていたカルキノスの脇腹を、グラウコスが肘でつついた。


「お前の番だぞ!」


 お前の番?

 この次に、何を歌えというのか?

 まるで宝石と並んだ土くれ、剣と並んだ木っ端、駿馬と並んだロバ――


「次は、カルキノスの出番だ!」


「おい、詩人! 行け!」


「カルキノス!」


「歌え!」


(……『歌え』?)


 カルキノスは真ん中へ押し出され、呆然と男たちの顔を見た。


(何、を……?)


 そのときだ。


「おい、皆! ……皆のものよ! 聞けえい!」


 不意に体育訓練場ギュムナシオンに駆け込んできたのは、髪も髭も白い長老の一人だった。

 老人の身で、ここまで全力疾走してきたのか、ぜいぜいと息を荒らげている。


「大変じゃ」

 

 慌てて駆け寄った若者たちの支えを、腕を振って断り、老人は一同を見回した。

 容易なことでは驚きも、恐れもおもてに表さぬはずのスパルタの長老の目が、血走っている。


「大事も大事、一大事ぞ! 皆のもの、即刻、アクロポリスへ参集せよ。青銅の神殿アテナ・におわすアテナ女神カルキオイコスのもとへ!」


 男たちが互いの顔を見合わせたのは、ほんの一瞬だった。

 全員が一気にどっと動き出し、それぞれの赤い外衣ヒマティオンを引っつかんで、外へ飛び出した。


「しかたがない。勝負は一時、預けよう。! ……さあ、君も来たまえ!」


 叫んで、テルパンドロスもまた走ってゆく。


「ぬわにを、ぼうっとしてやがるんだッ! 遅いッ!」


 立ち尽くしたままのカルキノスの腰に、がっ、と太い腕が回された。

 グラウコスだ。

 さらに、音もなく近づいてきたゼノンが、カルキノスの手からすばやく竪琴を取り上げる。


「そりゃあッ!」


 ぶおん! と世界が半回転し、カルキノスは悲鳴をあげた。

 グラウコスが気合いとともにカルキノスの体を持ち上げ、幅広い肩の上に担ぎあげたのだ。


「あっ……軽ッ!? おいカルキノス、貴様、そこらへんの棒切れか!? もっと食って鍛えて、筋肉をつけんかッ!」


「行くぞ」


 ゼノンが言って、カルキノスの竪琴を抱えたまま、飛ぶように走り出す。

 その後を追って、グラウコスも駆け出した。

 貧弱とはいえ男一人を担いでいるとは信じられぬほどの走りっぷりだ。

 カルキノスは、グラウコスの肩の上で袋のようにぼんぼん跳ね上がりながら、また悲鳴をあげた。

 首ががくがくと揺れ、歯ががちがちと鳴る。


「馬鹿、舌を噛むぞッ! 歯ァ食い縛ってろッ!」


 グラウコスはそこから一度も立ち止まることなく、カルキノスを担いだまま道を駆け抜け、神殿の前まで走り切った。

 木造の壁を青銅の板で飾った、アテナ女神をまつる美しい神殿の前には、すでに大勢の男たちが集まっている。

 地面に降ろされた瞬間、カルキノスはそのままぶっ倒れ、朝食べたものを全部その場に吐いてしまった。


「ああッ!? 貴様、何してる! 神殿の前を汚すなッ!」


「神殿の中ではなくて良かったではないか」


 先に到着していたゼノンは、息ひとつ乱していない。


「それに、お前の肩の上でなかったのもな」


「当たり前だ。俺に引っかけたりしやがったら、道にぶん投げてたところだッ! おい、しっかりしろ、カルキノス! しゃんと立て!」


 グラウコスに肩をつかまれ、強引に引き起こされたところで、不意に人ごみが大きくどよめき、ついで静まり返った。

 神殿の入り口に、長老会の男たちと、顔を蒼ざめさせた神官たちが姿を現したのだ。


「皆のもの、これを見よ!」


 神殿の中から運ばれてきた品物を、集まった一同は爪先で伸び上がって見ようとした。

 それは、盾だった。

 スパルタの戦士たちが代々父親から受け継ぐ、戦士の誇りの象徴である丸盾だ。

 いや――


「何だ、あれは!?」


「そんな……許せぬ」


「まさか、あの男が!?」


 盾の表面に、のみで刻みつけたように、文字列が並んでいる。

 神官が大声で読み上げるよりも先に、カルキノスは、その内容を見て取った。



『我、将軍アリストメネス

 スパルタの兵より奪いし

 丸盾を女神に捧げまつる

 我らがメッセニアに自由を』



(ア、リ、ス、ト、メ、ネ、ス……)


 カルキノスは、自分の人生を変えることになるその男の名を、このとき初めて知った。


「夜の間に、何者かが神殿に入り込み、これを壁に掲げていった」


 長老が語る言葉を、戦士たちは、食い入るような眼差しで聴いている。


「本当に、アリストメネス本人がやったのか? あるいは、間者のしわざか? それは、分からぬ。しかし……ひとつだけ分かっておることは、我らスパルタの男は、このような侮りを受ければ、断じて、相手を許してはおかぬということじゃ」


 獣にも似た唸り声があがった。

 その場の空気そのものがたわむような猛気を、男たちの集団が発している。


「支度をせよ。――戦ぞォ!」


 長老の声が雷鳴のようにとどろき、男たちは一斉に鬨の声をあげて応えた。


「メッセニアの男どもを皆殺しにせよ! ――アテナイから来た詩人よ!」


 男たち全員の目が、カルキノスのほうを向いた。

 吐物で汚れた衣をつまみ、蒼い顔をしたカルキノスは、石と化したように動かず、一同を見返した。


「協議の末、我らは、輝けるフォイボスアポロン神・アポローンの御心にどこまでも従うこととした。カルキノスよ。そなたは、将軍として我らと共に戦場におもむき、スパルタに勝利をもたらせ!」


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