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ただひとつのこと

『臆病者』


 その一言に、体育訓練場ギュムナシオンの空気が凍りついた。

 ひとたびこの言葉が出てしまったら、死人が出ずには収まらない――

 それが、スパルタだ。

 細い目の若者の表情が険しくなった。

 彼はカルキノスに背を向け、身構えた。

 その視線の先、遠くにいた若者の一団のなかから、ひときわ長身の姿が歩みでてくる。


(ナルテークス……)


 カルキノスは、その裸身を初めてまじまじと見た。

 がっしりとした体躯を、分厚い筋肉がよろっている。

 共にスパルタへの道をたどった旅路のあいだは、威圧感などほとんど感じなかったのに、今、こちらに近づいてくるナルテークスの姿は、まるで叙事詩に歌われる英雄のように美しく、恐ろしかった。

 彼がもし、他ならぬ自分自身のほうへと向かってきたのだとしたら、腰を抜かさずに踏みとどまれるかどうか、カルキノスには自信がなかった。

 ナルテークスは、細い目の若者の前、あと数歩のところで立ち止まった。

 わずかに首を傾げるようにして、相手の目をじっと見すえている。


(そうか)


 スパルタまでの旅路のあいだ、ナルテークスから不思議と威圧感を感じなかった、むしろ、どこか頼りないようにさえ感じた理由がようやく分かった。

 彼の立ち方の癖だ。

 顎を引いてうつむきがちに立ち、彼の方が背が高いのに、上目づかいに相手を見る。

 がっしりとした肩は下がりぎみで、身をすぼめているか、意気消沈しているかのような印象を与えた。

 恐ろしげなのに、どこか悲しげな――相反した、奇妙な印象。

 彼の表情もまた、同じ印象を与えた。


「スパルタの男なら、臆病者の一家と言われて、黙ってはおれん! そうだな、ナルテークス?」


 腕組みをしたグラウコスが、体育訓練場ギュムナシオンじゅうに響きわたるほどの大声で言った。

 だが、黙ってはおれんも何も、ナルテークスは口がきけないのではないか。


(あっ)


 カルキノスは目を見開いて、グラウコスを見た。


(だから……グラウコスは、彼の代わりに?)


「俺たちスパルタの男が、母親から受け取るものは、ふたつある。ひとつは、頑健な肉体。そしてもうひとつは『臆病者と呼ばれたら、その噂をすぐに取りのぞくか、それとも命を絶つかせよ』という教えだ!」


「え!?」


「お前は当然、悪い噂を取りのぞくほうを選ぶだろうな、ナルテークス?」


 横で硬直しているカルキノスには目もくれず、グラウコスは言った。

 ナルテークスは、かすかに頷いた。

 今、こちらに背を向けている細い目の若者の表情は、カルキノスからは見えない。

 だが……気のせいだろうか?

 その腕が、指先が、ぴりぴりと細かく震えているように見えるのは。

 全身が緊張し、わずかに肩が上がっている。

 カルキノスは、ふと違和感をおぼえた。


(『臆病者』を相手にするのに……どうして、彼はこんなに緊張しているんだ?)


「では、パンクラティオンで」


「うお!」


 突然、横から冷静極まりない声がかかり、カルキノスは思わず転びそうになった。

 あの金髪の男、ゼノンだ。

 平然と進みでて審判の位置に陣取った彼は、両者のあいだに片手を突き出し、


「はじめ!」


 さっとその手を引き、同時に一歩下がった。

 その瞬間、怪鳥のごとき気合いとともに、細い目の若者が突進した。

 カルキノスは、呼吸を忘れた。

 いずれかの神の力によって時の流れが歪められたかのように、あらゆる光景がゆっくりと、くっきりと見えた。

 若者が駆け寄りざまに繰り出した蹴りが、ナルテークスの腹に突き刺さる。

 ナルテークスの長身が折れ曲がり、後方に吹っ飛んだ。

 ゼノンが、川べりに座って水面を眺める老人のような表情で身をかわす。

 細い目の若者は砂の上に両手両足で着地し、牙を剥く野獣のように、倒れたナルテークスに襲いかかった。

 全体重を乗せた飛び膝落としで、無防備の脇腹を狙う。


「ああっ!」


 カルキノスは思わず悲鳴のような声をあげた。

 あんな一撃をまともに食らったら、腹が破れて死ぬ――

 と、倒れていたナルテークスの体が、嘘のような速度で横ざまに転がった。

 細い目の若者の膝は、目標を失ってやわらかい砂にめり込み、彼は衝撃で体勢を崩した。

 そこへ、ナルテークスの蹴りが襲いかかる。

 だが、最初に受けた一撃の痛みが狙いを鈍らせたのか、その爪先は狙った相手のこめかみではなく、肩口を抉った。


「グウッ」


 低い呻きをあげて細い目の若者が吹っ飛び、ナルテークスが追撃する。

 すさまじい殴り合いが始まった。


「エフェイオス! エフェイオス! エフェイオス!」


「ナルテークス! ナルテークス! ナルテークス!」


「誰か、止めろよっ!?」


 カルキノスの悲鳴のような叫びは、完全に黙殺された。

 パンクラティオン。

《全ての力》を意味するその競技では、殴る、蹴る、捻る、折る、潰すなど、相手の体のほとんどあらゆる部位に対する、ほとんどあらゆる攻撃が認められていた。

 例外は「噛みつき」と「目潰し」のふたつだけだったが、それらの例外すらも、激しい攻防の中ではしばしば偶然に、あるいは故意に発生した。

 グラウコスをはじめとする若者たちも、少年たちも、拳を振り回し、声を振りしぼって双方を応援している。

 戦士たちの動きにあわせて人垣は膨らみ、また縮み、じりじりと移動した。

 男たちは一様に歯を剥き出し、目を血走らせ、狂気に憑かれているとしか思えなかった。

 ただ一人の例外はゼノンだったが、血みどろになって戦う二人の若者を冷静に見下ろすその目つきは、一番狂気じみて見えた。


「もういい、もういい! いい加減にしろ!」


 必死に叫ぶカルキノスは、興奮した集団から弾き出され、砂の上に倒れ込んだ。

 体をひねり、背負っていた竪琴だけは必死に守る。

 砂の上を這って、離れたところに竪琴を避難させると、飛び起きて、人垣の一番外側の連中につかみかかっていった。

 だがそれは、猛牛に素手でつかみかかったようなものだった。

 あっけなく跳ね飛ばされ、また倒れ込む。

 男たちの頭の隙間からちらりと見えたのは、顔面を血にまみれさせたナルテークスが、細い目の若者の首に背後からがっちりと腕を回し、絞め上げている姿だった。


「殺せ! 殺せ! 殺せ!」


(だめだ!)


 ナルテークスが勝って良かった、とは、カルキノスは思わなかった。

 もちろん負けるよりはましだが、こんなことはいけない。

 こんな、競技祭でも何でもない日の、喧嘩の延長のような争いで、若者同士が殺し合っていいはずがないではないか。


「殺せ! 殺せ! 殺せ!」


「やめるんだ!」


 細い目の若者に対する怒りは、もはや消えていた。

 首を絞め上げられても、若者は、降参の仕草をしていなかった。

 ナルテークスの逞しい腕に爪を食い込ませ、白目を剝きながら、必死にもがいていた。

 勝利か、死か。

 彼らには、本当に、それ以外はないのだ。

 それ以外の道を、教えられていないのだ。


(だめだ、だめだ、だめだ!)


 ナルテークスは、きっと、性根が穏やかな男なのだ。

 強い戦士だが、心は優しいのだ。

 だって彼は、妹に飛びかかられて地面に倒されても、ちっとも怒らなかったではないか。

 キュニスカに侮辱されても、手をあげようともしなかったではないか。

 その彼が、今、後に引けなくなっている。


(こんなことは、あってはいけない!)


 ナルテークスが、無駄な殺しをするのを見たくなかった。

 カルキノスは、怪我をした蛙のような不格好な全力疾走で、男たちの集団から離れた。

 思いついたのだ。

 今、自分にできる、ただひとつのこと。

 腕力でも、説得でも、彼らを制止することができないのならば――



詩歌女神ムーサよ歌え、スパルタの

 ナルテークスにエフェイオス

 若者たちの力戦を

 体育訓練場ギュムナシオンに力を競い

 血潮と汗にまみれつつ

 勝利を得んとぞ猛り立つ」



 男たちが、いっせいに振り返った。

 彼らの視線の先には、必死に竪琴をかき鳴らして歌うカルキノスの姿があった。


「おお、スパルタの男子おのこらよ

 何ゆえ君らはそうまでに

 一途に勝利をもとめしや

 君らの血の気の多さでは

 体育訓練場ギュムナシオンに血の雨の

 降らぬ日とてもあらざりき」

 

(うまい!)

 

 歌唱と演奏とに全神経を注いでいるふりをしつつ、カルキノスは自分で自分に拍手喝采を送った。

 歌の文句が、ではない。こんなものは、口から出るに任せた戯れ歌だ。

 だが今、男たちは、カルキノスの歌を耳にして狂的な興奮を忘れ、すっかり静かになっている。

 ばらばらと崩れた人垣のあいだから、立っているナルテークスの姿と、その足元に白目を剥いてぐったりと倒れている若者の姿が、ちらりと見えた。

 そばにいた二人ほどが屈みこみ、倒れた若者の血塗れの顔に手をかざして呼吸を確かめ、笑顔で頷き合っているのが見えた。

 どうやら、息はあるようだ。

 この状況で笑える神経が、カルキノスには信じられなかったが。


「人差し指立て、降伏の

 仕草を恥とや定めけん

 恥よりも死のその意気を

 味方より敵に向けたまえ」


(まずい)


 思わず、スパルタの風習を非難するような文句になってしまった。

 男たちの太い眉がぴくりと動いたのを見逃さず、カルキノスはすぐに戦法を変えた。


「おお、アテナイの男子おのこらは

 君らの鉄の根性に

 とてもついてはゆけぬなり

 いつか私の心胆も

 君らのごとくくろがね

 ごとき強さを得るべきか

 エウロタス川の水を浴び

 黒いスープを十年も

 飲んでみたなら得るべきか」


 こちらを下げて、相手を持ち上げる作戦だ。

 狙い通り、男たちがどっと歓声をあげた。

 少年たちもにやりとして顔を見合わせ、肘で互いをつつき合った。


「一杯、一杯、また一杯

 黒いスープを腹いっぱい

 飲んで眠れば疲れは癒えて

 声も冴えるし心も軽く

 真っ赤に腫れた我が尻も

 すっかり元気を取り戻す!」


 尻のくだりで、とうとう男たちは爆笑し、場の雰囲気は完全にくつろいだものとなった。

 あちらこちらで、少年たちがさっそく「一杯、一杯、また一杯」と声を合わせはじめる。

 隅に引きずられていった細い目の若者が、誰かが持ってきた水を顔面にぶっかけられて、がばっと起き上がった。

 本当に、よくもまあ死ななかったものだ、とカルキノスは思った。

 ナルテークスの腕に絞め上げられたら、自分なら、首の骨が折れている。


「なかなかの策だったな」


「うお!」


 また急に横から出てきたゼノンに、カルキノスは竪琴を抱えたまま転びそうになった。


「まったくだ!」


 グラウコスもやってきて、太い腕を組み、満足そうに唸る。


「死んだら死んだで、後がややこしい。お前のおかげで、いいところで切り・・がついた。エフェイオスの野郎、ここのところ、だいぶ調子に乗っていやがったからな! しめる機会になって、ちょうどよかった」


「え」


 では、あれは、ナルテークスをかばうためではなかったのか。

 思わずがっかりした顔を見せたカルキノスに、


「エフェイオスは、少し……そうだな、何というか、相手をむやみに痛めつけようとするところがあるからな。時には自分がやられるというのも、いい薬になるだろう」


 ゼノンが淡々とした調子で言い、グラウコスが、鼻息も荒く頷く。


「ナルテークスの奴は、何しろ、喋らんからなッ! あなどられやすい。こういう機会に、がつんと力を見せつけておかんと、すぐに、昔のつまらぬ話を持ち出す奴が出る――」


「昔の?」


 細い目の若者、エフェイオスが『臆病者の一家』と言っていたのは、その「昔のつまらぬ話」とやらと、何か関係があるのだろうか。


「それって……」


「おい。そこの君!」


 急に誰かから呼びかけられ、カルキノスは、グラウコスに疑問をぶつける機を逸した。

 まるで極めて狙いの正確な矢のように、よくとおる、響きのいい声だった。

 名前を呼ばれたわけでもないのに、間違いなく自分に呼びかける声だと、はっきりと分かった。


「は……い?」


 振り向いたカルキノスは、思わず絶句した。

 まず目に入ったのは、珍しいほどきれいな金髪だ。

 ゆるやかに波打つ黄金色の巻き毛が、陽光にきらきらと輝いている。

 その髪にとりまかれた顔も、ものすごい美貌だった。

 背丈はカルキノスと同じくらいだったが、その体つきの均整のとれていることといったら、惚れぼれするほどで、名匠の手になる像が生きて動き出したのだと言われたら、ああそうかと信じてしまいそうな美しさである。


「あんた……」


 カルキノスは、思わず言った。


「ものすごく、きれいな顔してるなあ!」


「よく言われる」


 急に現れ、カルキノスに呼びかけた男は、ふふん、と笑った。

 讃美されることに慣れ切った者の余裕がありありと見えるが、それが嫌味だとさえ感じないほどの美男子だ。

 実際、彼の美しさを認めない者などいないだろうし、彼を見れば必ずや、絵描きは絵を、彫刻家は像を、そして、詩人は詩を作りたくなることだろう――


(俺も、ちょっと作りたい! ここまでの美形はなかなかいないぞ……)


 だからこそ、あまりにも自信たっぷりな態度にも、カルキノスはまったく驚かなかったのだが――

 男の、次の言葉には、腰が抜けるほど驚かされることとなる。


「ぼくの名は、テルパンドロス」


 金の巻き毛をふわりとかき上げた指先で、彼は、びしりとカルキノスを指さした。


「レスボス島から来た詩人・・さ。君、このぼくと、勝負したまえ!」


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