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ギュムナシオン

 一見して分かるほど体が斜めに傾いた男が、杖をつき、ひょこひょこと歩いていく。

 通りにいたスパルタ人たちは皆、足を止めてその男――カルキノスを指さし、ひそひそと囁き合った。


(ふん!)


 カルキノスは、そんな連中のことはまったく無視し、曲がらない右脚が許すかぎりの速さで体育訓練場ギュムナシオンに向かっていった。

 昨日、ナルテークスたちの家に向かうあいだに、場所は見て覚えている。


(くだらない連中の相手をしている暇はない。俺には、やるべきことがあるんだ! ……でも、やっぱり、もうちょっと日焼けはしといたほうがいいかもな)


 スパルタの男たちの体つきを見ていると、自分のひょろりとした生白い姿が、どうにも軟弱に思えてくる。

 若者たちは、テオンが言っていた若者組エイレネス制度とやらのせいで、どこかに集められているのだろう。ほとんど姿が見られない。

 今、目に入ってくる男たちは皆、若く見えても三十歳以上、あるいは壮年、老年の者たちばかりだ。

 その全員が、ヘラクレスの末裔ヘラクレイダイの名に恥じぬ筋骨を誇っている。


(確かに、美しい光景だ。でも……)


 どこか、多彩さに欠けている。

 そのように、カルキノスには思えた。

 ギリシアヘラスの男と生まれたからには、己の力の及ぶかぎり、より「美しくカロス善くカガトス」あろうとするのが当然のことである。

 だが、人間の「多様さ」が土台としてあってこそ、その中で「美」も「善」も光り輝くのではないか?


(いや、思わず、哲学者みたいなことを考えてしまった……おっと)


 ぐっと寄っていたカルキノスの眉が、不意に開いた。

 考えに沈んでいてもはっきりと意識に届くほどの歓声が、前方から聞こえてきたからだ。


(着いたぞ、体育訓練場ギュムナシオン!)


 その外観は、アテナイ市にあるいくつもの体育訓練場と、さほど違っていなかった。

 そこで、男たちはさまざまな運動競技を行い、互いの肉体と技とを競い合う。

 それだけではない。

 詩の朗誦や、討論なども含め、ありとあらゆる競争と社交が行われる場、それが体育訓練場ギュムナシオンなのだ。


(ここで、今日こそ、俺の詩歌の力を見せつけてやる!)


「見ろよ……カルキノスだ」


「あのアテナイ人、体育訓練場ギュムナシオンに入る気らしいぞ」


「馬鹿め。死ぬ気か?」


「分をわきまえぬとは、まさにこのことだな」


「まったく、愚かな……」


 背後の野次馬たちのひそひそ話が、全部丸聞こえだ。

 カルキノスは、鼻息も荒く固めていた両拳を、静かに下ろすと、


「諸君!」


 不意にくるりと振り返って、叫んだ。

 彼の背後に集まってきていた男たちが、思わず「うお」と一歩さがる。

 スパルタ市民スパルティアタイは、容易なことでは恐れをあらわしたりしない。ただ単に、びっくりしたのである。

 カルキノスは、そんな彼らにまっすぐに指をつきつけると、


「どうやら諸君は、俺に対して、何か文句があるようだが……この俺に文句をつけるということは、俺をこのスパルタ市へとお呼びになった、輝けるフォイボス・アポロン神アポローンに文句をつけるということに他ならない! みんな、その覚悟があってのことなんだろうな!?」


 堂々と言い放った。

 男たちのあいだに、動揺のさざなみが走る。

 地上の何者をも恐れぬ、と豪語するスパルタの戦士たちだが、相手が神々となれば話は別だ。

 神々を怒らせれば、どのような災厄が振りかかるか、ギリシャの大地ヘラスに知らぬ者はいない。

 罰として急に視力を奪われるなどというのはまだやさしい方で、いきなり矢で撃ち殺されたり、雷霆で撃ち殺されたり、もっとひどければその影響は個人にとどまらず、旱魃かんばつで畑をすべて干上がらされたり、市全体に疫病を流行らされたりする。


(ふふふ……決まったな)


 神々に愛されるということは、人間の重要な「実力」のひとつと見なされる。

 野次馬たちを黙らせて、カルキノスは意気揚々と踵を返し、体育訓練場ギュムナシオンの中へと踏みこんでいった。

 その瞬間、彼は、全身を正面から押し返されるような、異様な感覚をおぼえた。


「行け! 行け! 行け! 行け!」


「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」


(な……ん)


 凄まじい音量の声援が、まったく同時に左右から飛ぶ。

 今まで、何と言っているか分からなかったのは、双方の声が完全に重なり、打ち消し合っていたからだ。

 その声の真ん中で、二人の少年が拳闘の試合を繰り広げていた。

 革紐を巻きつけた拳を振るっての凄まじい殴り合いだ。

 どちらも、顔つきが変わるほど顔面が腫れ上がっている。

 一方の少年はだらだらと鼻血を流しているし、もう一方の少年は、片目が塞がりそうなほどに眉の部分が膨れ上がっていた。


(いかん!)


 人生をかけたオリュンピア競技ならともかく、体育訓練場ギュムナシオンでの練習で、ここまでやるなど言語道断だ。

 体つきから見て、少年たちは十代のはじめごろだろう。


(どういうことなんだ! 監督者もなしに、子供にこんなことをさせて!)


 大人の監督者がいれば、子供らが大怪我をする前に、すぐにでも引き分けてやめさせているところだ。

 少年たちは、顔も拳も血みどろになり、ずたずたになりながらも、互いに向かっていくことをやめようとしなかった。

 二手に分かれた仲間たちが、助けようとも引き分けようともせず、それぞれの少年を応援し続けているのも異様だった。

 彼らは横一列に並んで立ち、一糸乱れぬ調子で声援を送り続けている。


(狂ってる)


 そうとしか思えなかった。


「おい、やめろ」


 カルキノスは思わず知らず、声を発していた。


「そこの二人、もうやめろ!」


 一人の少年が繰り出した拳が、もう一人のあごをとらえる。

 殴られたほうは、斧で一撃された若木のように砂の上に倒れた。

 強烈な打撃を決めた少年は、倒れた相手に馬乗りになると、両手で顔面を殴り続けた。

 血が飛び散り、砂にしみ込んでいく。


「やめろ、やめろ! 馬鹿、殺す気か!」


 カルキノスは思わず怒鳴り、砂の上に飛び出した。

 その左脚に、何かが、びしりと巻きつく。


(えっ)


 と思ったときには、カルキノスの体は飛び出した勢いのまま、つんのめり、べしゃりと砂の上に叩きつけられた。


「ぶべっ」


 手から杖が吹っ飛び、口の中に苦い砂が入った。

 だが、それどころではない。

 一刻もはやく、二人を止めなくては――


「おい。あんた」


 両腕の力だけで身を起こしたカルキノスの背に、ひどく冷ややかな声がかけられた。

 首をねじって振り向くと、鞭を手にしたひとりの若者が立っている。

 冷酷そうな細い目をした、やけに肩幅の広い若者だ。

 彼が、鞭の先で、カルキノスの左脚をひっかけたのだ。


「訓練中だ。邪魔をするなよ」


「訓練だって!?」


 カルキノスは声を張り上げ、若者に詰め寄っていった。


「君が、この子らの監督者か! 馬鹿じゃないのか、今すぐやめさせろ! 死んでしまうじゃないか!」


 若者は、細い目をもっと細くしてカルキノスを見返し、にやっと笑った。


「断る」


「何だと!?」


「あんた、昨日アテナイから来たばかりの、よそ者じゃないか。俺たちのやり方に口を出すなよ。……そうだ、いいぞ、やれ!」


 若者が急に怒鳴ったので、カルキノスははっとして背後を振り向いた。

 倒れたまま為すすべもなく殴られていた少年が、急に息を吹き返し、不意の一撃で相手のあごを突き上げたのだ。

 自分の上から転げ落ちた相手に、今度は彼の方が馬乗りになって、めちゃくちゃに殴りつけ始めた。


「これが、俺たちのやり方だ」


 呆然としているカルキノスに、若者は薄笑いをうかべながら言った。


「相手が動かなくなるまでやる・・んだ。降参は認められない。逃げ癖をつけないようにな」


 言いながら、ゆっくりと人差し指を立ててみせる。

 降参をあらわす仕草だ。

 オリュンピアの競技祭でも、選手がこの仕草をすれば、そこで試合終了となる。


「戦場で、これ・・は、通用しないからな」


「そんな……」


「おい、もういいぞ!」


 若者が怒鳴り、激しく肩を上下させながら、一人の少年が立ちあがった。

 その拳からは、どちらのものともつかない血が滴り落ちている。

 倒れたほうの少年は、ぴくりとも動かない。


「連れていけ」


 若者が座ったまま顎をしゃくると、控えていた少年たちのうち数人が飛び出して、仲間の体を引きずっていった。


「次」


「次、じゃないだろっ!」


 カルキノスは、思わず若者の胸倉を掴んでいた。


「こんなのは、教育じゃない! おまえは闘鶏を眺めて楽しんでる連中と同じだ! 残酷なことをさせて、楽しんでるだけじゃないか!」


 若者の瞳孔が、針の先で突いたようにすぼまった。


「これが、スパルタのやり方だ。よそ者は黙れよ。……あんた、俺の衣をつかんだな。ゼウス神にかけて言うが、あんたが長老会ゲルーシアの客じゃなかったら、俺は今ごろ、あんたの指を全部、手の甲にくっつくまで折り曲げてたぜ。指だけじゃない。その役立たずの右脚もな……」


 脅しではない。

 そのことがはっきりと分かる、舌なめずりするような口調だった。

 カルキノスは、手を放した。


「それでいい」


 若者はゆっくりと外衣ヒマティオンのひだをととのえ、カルキノスを見下ろした。

 カルキノスよりも背が高く、腕も脚も、ずっと太い。


(こいつに殴られたら、俺は、本当に死ぬ。こいつは、殺しに来る……)


 不意に、生々しい恐怖がカルキノスをとらえた。

 腹の底が痺れていくような感覚。

 カルキノスの怯えを感じ取ったのか、若者は満足そうに唇の端を上げた。


「あんた、ナルテークスの預かりになったんだってな。何を聞いたか知らんが、臆病者の一家の考え方を、俺たちスパルタ人の流儀だと勘違いしてもらっちゃ困るぜ。……ああ、そんな心配はないか。あの家で、何かを聞く・・なんてことは、ないんだからな!」


 何がおかしいのか、げらげらと笑う。

 若者の言葉の一部分が、カルキノスの意識に、強く引っかかった。


臆病者の・・・・一家・・だって?)


 あの家には、ナルテークスとアクシネの二人しかいない。

 奴隷たちは「家族」には含まれないからだ。

 だが、あのアクシネを「臆病者」とは、誰も呼ぶまい。


(じゃあ、ナルテークスのことなのか……?)


 そのときだ。


「何だってえーッ!?」


 何者かが大声を上げながら、ものすごい勢いで体育訓練場ギュムナシオンを突っ切り、こちらに向かってきた。

 ものすごい棒読み、かつ、どら声だ。

 大げさに腕を振り回し、派手に砂を蹴立てて止まったその姿には、はっきりと見覚えがあった。


「あっ! グラグラ……ゴロ……グラウコス!?」


 思わずアクシネのような声を発したカルキノスだが、グラウコスは、まったくカルキノスのほうを見ていない。

 細い目の若者を、真正面から指さして、がなり立てた。


「臆病者の一家だって!? ……おーい、ナルテークス! 聞いたかッ!? こいつ、おまえんとこは、臆病者の一家だってよおッ!」

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