夜明け
* * *
* * *
今、白髪の老人たちが、まだ黒髪もつややかな青年だった頃のことである――
スパルタとメッセニアのあいだで戦われた、第一次の戦争が終わったのは。
二十年にもわたる戦の末、第十四オリュンピア紀のはじめの年に、スパルタが勝利をおさめたのだ。
スパルタ人たちは、まず敵の本拠地であったイトメの砦を徹底的に破壊すると、メッセニア地方の各市を攻撃し、占領していった。
メッセニアの住人たちは男も女も老人も子供も、スパルタ人の奴隷となった。
彼らは昔から住んでいた土地に住みつくことを許されたが、先祖代々の畑からあがる収穫の半分は、スパルタに納めなくてはならなかった。
それだけではない。
メッセニア人たちは、スパルタの王や有力者が死ぬと、故郷からスパルタまで黒い衣を着て歩いて向かい、葬送の儀式に参加し、泣き悲しんで弔意を示すことを強制された。
あの戦いの終結から、40年。
メッセニアの若者たちは、いまだ、自由民としての暮らしを知らぬ。
「俺たちの祖国は、死に瀕している」
と、誰かが呟いただろう。
「いいや、俺たちのメッセニアは、すでに死んでいるのだ」
と、誰かが応じただろう。
「ならば、俺たちも、生きながらにして死んでいるようなものだ」
「――それならば」
と、誰かが、口にしただろう。
「どうせ、死んだも同然の命なら……ひとつ、運命の軛を振り切ることができるかどうか、賭けてみるのもいいかもしれん」
「もしも、戦って、自由を取り戻した故郷で死ぬことができるのなら」
と、誰かが言っただろう。
「奴隷として、自由を奪われたままで生き続けるよりも、そのほうが、遥かに幸せだ――」
彼らはスパルタ人たちの監視の目を盗み、仲間同士ひそかに語らって同志を集め、食糧を集め、武器を集めた。
「自由を」
呟きの声は、叫びに変わり、大群衆の喚声に変わった。
「我らが故郷、メッセニアに自由を!」
こうして、二度目の戦争が始まった。
第二十三オリュンピア紀、第四年目。
つまり、今年である。
* * *
* * *
カルキノスは、横になったまま、すんすんと鼻をうごめかせた。
旨そうなにおいがかすかに漂ってくる。
肉と野菜が入った、澄んだスープのにおいだ。
(うっ)
豚の血と肉がどろどろに煮込まれた、真っ黒な酸っぱいスープを思い出し、カルキノスは目をつぶったままで顔をしかめた。
昨日の晩、一人でほとんど全部飲まされた気がする。
いや、さすがにそれは言い過ぎだが、それくらいきつかった。
一晩眠った今でも、まだ喉の奥に黒スープの風味が残っている気がするくらいだ。
『おまえ、よわそうだから、もっともっと、くって、ちからをつけろ!』
と、アクシネにすすめられ、断り切れなかったのである。
(やっぱり、二杯目まででやめとけばよかった……)
げっぷをしたら、ちょっと出てきそうである。
さらに恐ろしいことには、あの不気味な黒いスープはアクシネによる創作げてもの料理ではなく、スパルタの由緒正しき伝統料理なのだそうだ。
男たちは毎日のようにあれを食べ、老人たちは、特に汁を好んで飲むという。
(あれが毎晩……今夜も出るのか!?)
もはや拷問に近い。
いや、今晩の心配以前に、はたして今、朝食が食べられるだろうか?
カルキノスはゆっくりと目を開き、寝台の上に起き上がった。
部屋の入り口から、朝の光が射しこんでいる。
今まさに夜が明けたのだ。
カルキノスはゆっくりと首を左右に倒し、肩を回し、うんと伸びをした。
ゆっくりと深く眠ったおかげで、心も体も軽い。
アクシネが塗ってくれた薬草油が効いたのか、尻の痛みも、強く触れさえしなければほとんど気にならない程度に治っている。
赤い外衣をはおって、部屋を出た。
「おはよう、テオン」
「おはようございます」
居間に入ると、テオンがさっそく食卓に朝食を並べはじめる。
昨日の残りのパンと、無花果の実。
器に注がれたスープは、黒くない普通のスープだったので、心の底からほっとした。
「アクシネは?」
「分かりません」
テオンは、困ったように答えた。
「いつも、こうです。夜明け前にはもう、どこかへ出かけておしまいになるのです。あちこちの野山を駆け回って、昼前にはお戻りになります。しとめた獲物を持って」
アテナイの若い娘には考えられない日常だ。
結婚前の娘は家の奥深くにいて、糸を紡ぎ、機を織り、将来子供たちにきかせるための物語と歌と、家事一切をとりしきることを母親から習う。
野山を駆け回り、あまつさえ狩りをするなど、ほとんどの娘たちは夢にも思ったことがないに違いない。
いや、それよりも。
(アルテミス女神が、お怒りにならないんだろうか)
鳥や獣の暮らす森や山は、アルテミス女神の領域である。
人が不用意に踏み込めば、女神はその傲慢を怒り、不埒な侵入者を金の矢で射倒してしまうのだ。
(でも、まあ、アクシネ自体、野生の生き物みたいなものだから、女神さまも見逃してくださってるのかもな……)
音もなく駆け寄り、相手に飛びかかって地面に打ち倒す。
生態が、ほとんど豹だ。
「そういえば、ナルテークスもいないじゃないか。彼、昨日の晩、帰ってないんじゃないか?」
スープをすすりながらカルキノスが言うと、テオンは、不思議そうな顔でこちらを見た。
カルキノスも思わず見返し、居間に、奇妙な沈黙が横たわる。
ややあって、テオンは、よく分からないことを言った。
「ええ、あの方は、まだ若者ですから」
「エイレン?」
「この家には、めったにお戻りになりません」
「……ん?」
若者だから家に戻ってこない、という説明の意味が分からない。
同じ年ごろの仲間たちと遊び歩いている、ということか?
あるいは、想いをかけた相手の家の前で、一晩じゅう竪琴をかき鳴らしている……? いやまさか。
「あなたも、エイレンの年頃かとお見受けします。アテナイには、若者組制度はないのですか?」
「ないな。何だい、それは?」
それに答えてテオンが説明した内容は、カルキノスを驚かせた。
スパルタの男たちは、七歳から、三十歳になるまでのあいだ、家族から離れて過ごす。
幼いうちから兵舎に入り、年齢別に共同生活をおくりながら徹底した訓練を受け、スパルタ市民としてのあり方を叩き込まれるのだ。
「そんな」
カルキノスは、思わず言った。
「そんな、ものの分別もつかない小さな子供を、ずっと親から引き離しておくなんて!」
「監督官の管理のもとに、年上の少年が、年少の者を教えるという制度になっているのです」
「でも、日が暮れても、家に帰れないなんて……」
「スパルタでは、それが普通なのですよ」
訓練の内容は、最低限の読み書きと、詩歌の暗唱、要点だけを簡潔に述べる話し方――
その他はすべて、精神と肉体とを鍛錬すること、ひいては軍事に関わることばかりだ。
短距離走、長距離走、球技、戦踊り、幅跳び、レスリング、拳闘。
年齢が上がるにつれて、訓練の内容は次第に高度になってゆく。
野営や偵察行動、槍や短剣を使った戦闘訓練も行われるそうだ。
彼らはいくつかの組に分けられ、互いに熾烈な競いあいを繰り広げながら、より逞しく、より強い戦士となるべく自らを鍛え上げてゆく。
(聞いただけぞっとする)
カルキノスは、思わず顔をしかめてしまうのを抑えることができなかった。
自分は、運動競技にはとっとと見切りをつけ、体育訓練場へもめったに出向かなかったが……
もしも、それが許されなかったとしたら?
集団のなかに無理やり組み込まれ、課された訓練を絶対にやり遂げなくてはならず、失敗するたびに仲間たちから馬鹿にされ、罵られ、厄介者扱いされるとしたら――?
(そんなの、拷問じゃないか)
そもそもこの脚では、三日、いや、二日……いや、一日も、もつとは思えない。
「じゃあ、俺みたいな奴は、相当、苦労してるんだろうな」
重苦しい気分を振り払おうと、カルキノスは自分の右脚をぱんぱんと叩きながら、わざと軽い口調で言った。
テオンは、黙ってカルキノスを見返した。
さっきの沈黙とは少し違う、固い表情で。
「……何だい?」
「いいえ」
テオンはさっと顔を背けると、何か仕事をしに、部屋を出ていった。
(どうしたんだ、急に)
カルキノスは首を傾げながら最後のパンを飲みこむと、
「ごちそうさま」
声をかけて、席を立った。
ひょこひょこと忙しく脚を動かして、部屋に戻る。
床に置かれた荷物のうち、大きな包みを取り上げ、まるで赤子を抱くようにして寝台に運び、ゆっくりと腰かけてから包みを開いた。
(昨日の夜は、これのことをすっかり忘れていたからな……)
あらわれたのは、竪琴だ。
弦にそっと指をふれる。
背筋を伸ばし、すうっと息を吸う。
竪琴を爪弾きながら、気に入りの短い詩をいくつか、朗々と歌った。
(今日も、よく声が出る)
竪琴を背にかついで、カルキノスは勢いよく立ち上がった。
立ち上がりながら、もう、心に決めている。
(行こう、体育訓練場へ!)
むろん、運動競技に加わるためではない。
体育訓練場は男たちの一大社交場であり、十代の少年たちから、すでに老境にさしかかった者たちまで、ありとあらゆる年齢層が集まる場所なのだ。
(将軍だか、何だか知らないが……俺は、このスパルタで、俺にできることをやるだけだ。
俺は、詩人として、詩を作り、それを人々の前で歌う!)
そのためには、まず、聴衆がいる場所におもむかなくてはならない。
自分の歌を聴いてもらうためばかりではなく、スパルタではどんな歌が好まれるのか、どんな曲が流行っているのか、そのあたりの調査も必要である。
「よし!」
カルキノスは勇んで竪琴を背負いなおすと、杖をつきながら、ひょこひょこと歩き出した。