スパルタのスープ
ナルテークスとアクシネの家は、非常に簡素なたたずまいであった。
「旦那さまからお許しも出ておりましたので、どうぞ、お入りください」
「あ、じゃあ失礼し……」
テオンに促され、一歩、家の中に踏み込んだところで、カルキノスは、口を開けたまま絶句した。
一瞬、自分自身の目を疑う。
まさか。こんなことがあってよいものか。
だが、目の前に広がる光景は、紛れもない現実だ。
「テオン……大変だ」
動揺を極限まで押し殺し、それでも声が上ずることまではとうてい抑えきれず、カルキノスは叫んだ。
「この家、泥棒に入られてるぞっ!」
ナルテークスが任務でアテナイ市におもむいているあいだ、この家には、テオンをはじめとした奴隷たちと、アクシネしかいなかったはずだ。
その隙を狙った犯行に違いない。
(待てよ)
これは、ナルテークスの不在を知っていた者の仕業なのか?
だとすれば、内部の者――奴隷たちの中に犯人がいる可能性もある。
(まさか)
あたりには、人通りがほとんどない。
真後ろに立っているテオンの存在が急に不気味になり、カルキノスは反射的に振り返ろうとした。
これが奴隷たちの犯行であるとすれば、まさか、テオンも――
「泥棒!?」
そのテオンが悲鳴のような声を上げ、カルキノスを押しのけて中へと飛びこんでいった。
あまりの勢いに、カルキノスは跳ねとばされ、
「ぎゃあああああ」
再び尻を強打して、地面を転げ回った。
もはや、誰かが彼の尻を呪っているとしか思えない。
「申し訳ありません!」
カルキノスを悲鳴を聞きつけ、テオンが血相を変えて戻ってきた。
「慌ててしまって……! お怪我はありませんか!?」
お怪我もなにも、大怪我である。尻がだ。
「い……いや、いいんだ! それよりも、すぐに、人を呼んだ方がいい!」
「いえ、あの、ですが」
立ち上がろうともがくカルキノスに肩を貸しながら、テオンは、歯切れ悪く言った。
「申し訳ありません。ですが、その……わたしには、特に変わったことはないように見えるのですが」
「え!?」
その部屋の中には、何もなかった。
卓もない。
椅子もない。
寝台も、衣装を入れる箱も、壁掛けの織物も、床に敷く敷物や藁さえもない。
(空き家か!?)
「ここは、客間ですので……」
ですのでの意味がまったく分からない。
客をもてなそうという意識が皆無に見えるのだが、気のせいだろうか。
「普段は使っていない部屋なのです。あなたがおいでになるなどとは考えてもおりませんでしたので、まだ何の準備もできておりませんが、後ほど、部屋のしつらえをしておきます。まずは、風呂の用意をいたしますので、少しお待ちを」
そう言い残し、テオンは部屋から出ていった。
入口から射しこむ陽光の中で、細かい埃の粒がきらきらと光っている。
尻が痛いので地面に座ることもできず、がらんとした部屋に立ち尽くしたまま、これはとんでもないところへ来てしまったぞ、とカルキノスは思った。
(まあ、屋根と壁があるだけ、ありがたいと思うしかないか……)
カルキノスは慎重に体のつりあいをとりながら、片手で衣のすそをつかみ、顔や首筋の汗を拭いた。
肌を突き刺し、熱を叩きつけてくるような直射日光がさえぎられただけで、だいぶ、体が楽になった気がする。
ずいぶん長いこと、杖にすがったまま、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
「お待たせしました。風呂の用意がととのいました」
テオンに呼ばれて中庭へ行くと、そこでは、テオンの他にあとふたり、男女の奴隷が働いていた。
中庭そのものはほぼ長方形で、細い木が一本植わっている。
そのそばに、桶が置かれ、三分の一ほど水が溜まっていた。
「どうぞ」
「え!?」
テオンが丁重に指し示した桶を思わず二度見しながら、カルキノスは声をあげた。
足を洗うための水かと思ったが、まさか。
「これ……風呂?」
「はい。風呂をお使いになった後は、これを」
言って、テオンが細い木の枝にかけたのは、色褪せた赤い外衣だった。
どう見てもナルテークスの古着だったが、もっと気になることがある。
「あの……肌着は?」
「この季節、スパルタでは、多くの市民が外衣しか身に着けません。あなたもそうなさったほうが、なじむかと思います」
そういえばナルテークスも、他の若者たちも、長老会の老人たちでさえ、素肌の上に外衣一枚しかまとっていなかった。
鍛え上げた筋肉を披露したいのかもしれないが、それにしても、あんまりである。
「じゃあ、オリーブオイルは? 肌に塗る……」
「スパルタでは、肌に油を塗るのは、祭りと戦争のときだけです」
「……俺、帰っていいかな?」
カルキノスは思わず言ったが、テオンはとりあわず、そのまま立ち去っていった。
(まあ、ひとまず、水を浴びるか)
ここで呆然としていてもしかたがない。
カルキノスはゆっくりと身を屈めて杖を地面に置くと、左脚だけでつりあいを保ちながら、衣を脱ぎはじめた。
市民は、奴隷の前で――それが女であっても――裸になることなど、何とも思わない。
市民の女性の前でいきなり脱いだら大事件だが。
衣を脱いだカルキノスの体は、だいぶ色白で、貧相な――というのは、比較対象がスパルタの男たちであったからかもしれない。
色こそ白いが、体つきは、引き締まった無駄のないものだった。
特に上半身、肩や二の腕が発達している。
右脚が不自由な分、体を支えるために上半身を使うからだ。
左脚は、右と比べて太腿がひと回り、いや、ふた回りは太い。
その左脚で体重の大部分を支えているため、右肩が上がり、体が全体的に左に傾いている。
「何か?」
男と女、ふたりの奴隷たちが仕事の手を止めてこちらを注視していることに気付き、カルキノスは、つとめて鷹揚に声をかけた。
ふたりはびくりとして、慌てて目を逸らし、それぞれの作業に戻った。
(俺、ちょっと、色白すぎるかなあ)
ふだん運動競技をしないために、裸になる機会がなく、衣におおわれていた部分の色の白さが特に目立つ。
全身浅黒く日焼けしたスパルタの男たちばかりを見慣れた奴隷たちの目には、カルキノスの色の白さが、いかにも柔弱に映るのかもしれない。
見た目の押し出しをよくするために、少しばかり、日焼けでもしたほうがいいだろうか。
「よっ、と」
あまり曲がらない右脚を円規の要領でくるりと回し、カルキノスは、桶のかたわらに左膝をついた。
右手ですくった水を、まずは左腕にかけて、桶の横に置いてあった垢掻きを手に取り、ぞりぞりと肌を擦る。
(あぁ……気持ちがいい!)
五日間の旅の埃と垢が、疲れとともにこそげ落とされていくようだ。
思わず一曲できそうな気持ちよさである。
両手ですくった水を勢いよく左肩にかけたカルキノスは、
「ぎゃああああああ」
垂れ落ちた水滴が尻に触れた強烈な刺激に、真っ裸のままであられもない悲鳴をあげた。
体をねじって見ると、尻が、まるで猿のように真っ赤に腫れ上がっている。
尻だけでなく、腿の内側もだ。
涙目になりながら振り返って見ると、男女の奴隷たちが向こうをむき、ぶるぶると肩を震わせているのが目に入った。
彼らが注視していたのは、カルキノスの色白さよりも何よりも、この、真っ赤に腫れてふくれあがった尻だったのだ。
(何だ、おまえら! 人の苦労も知らないで、人の尻を笑うなあああ!)
内心でわめくものの、どうしようもない。
最初は、男のほうを呼んで背中を流させようと思っていたのだが、真後ろでくすくす笑われたりした日には、腹が立ってぶん殴ってしまうおそれがある。
結局、尻に極力刺激を与えないよう、すべて自力で、そろそろと水浴びをすませるしかなかった。
しかも、最後のほうは水が足りなくなり、日照りに渇く人のように桶をひっくり返して、ぽとぽとと垂れてくる水滴を頭に受け止めるという情けなさだ。
(やっぱり俺、帰ろうかなあ)
肌に残る水滴を指先ではらい落としながら、カルキノスは、すっかりげっそりとしていた。
しかも、悲劇はそれだけでは終わらない。
「ぎゃああああああああ」
ナルテークスの古着は、着古されているくせにやけにごわごわした毛織で、慎重に洗い清めた尻に新たな刺激をもたらした。
とてもではないが、このまま身につけることはできそうにない。
完全に拷問である。
「おすみになりましたか」
「うん……」
なぜか真っ裸のままで赤い衣を握りしめ、よろよろと戻ってきたカルキノスを、テオンが部屋の入り口で迎えた。
あの悲鳴が聞こえなかったはずもないが、平然としている。
この男も、どうも、よく分からない。
「どうぞ」
促されて、先ほどの「客間」に入ると、
「おっ……」
いつのまにか、壁際に寝台が置かれ、そばには物入れのかごと、彼の荷物が置かれていた。
簡素な卓と椅子も据えてある。
どれも実用一辺倒の、何の飾りけもない代物だったが、先ほどの「空き家」同然の状態と比較すれば、一気に「人の住む場所」という雰囲気が出てきた。
(この短時間で、まともな部屋になったじゃないか)
はじめの評価が低ければ低いほど、人は、多少ましになった程度でも「良くなった」と判断してしまうものだ。
カルキノスもまた、すっかりだまされている。
もちろん、テオンには、だましているなどという意識はまったくないようだった。
「寝台は、アクシネさんのものですが」
「ええっ!?」
では、彼女は今夜どこに寝るのというのか。
添い寝か。いやまさか。
「申し訳ありませんが、ひとまず、それをお使いください。アクシネさんの寝台は、これから作ります」
「作るの!?」
「アイトーンとグナタイナと、三人でかかれば、アクシネさんが帰ってくるまでには、どうにか間に合うかと」
アイトーンとグナタイナというのは、おそらく中庭にいた奴隷たちのことだろう。
「ひとまず、こちらでお休みください。アテナイ市からの長旅で、さぞお疲れでしょう」
「うーん……」
気になる点はいろいろあったが、こうして寝台を目の前にすると、あらがいがたい眠気が、どっとのしかかってきた。
ここまでは、気が張っていたのと、戸惑いや驚きの連続で、疲労を感じる暇もなかったのだ。
「テオン? ねえ、これ」
「おお」
女の奴隷――多分、グナタイナ――がすばやくやってきて、テオンの手に陶器のカップを渡し、そそくさと去っていった。
「お休みの前に、こちらをどうぞ。お口に合えばいいのですが」
テオンが差し出した飲み物からは、たちじゃこう草の芳しい香りがした。
乳に葡萄酒を混ぜ、すりつぶした香草を加えたものだ。アテナイ市にも、同様の飲み物はある。
「ありがとう」
ぐっと飲み干すと、渇いた体に水気と滋養がしみわたるような、えもいわれぬ快さが広がった。
体がゆるみ、ますます眠気が増してくる。
大きなあくびが出そうになって、カルキノスは慌てて顔をそむけた。
「おやすみなさいませ」
テオンが部屋から出ていくと、カルキノスは真っ裸のまま、ごわごわの赤い衣を寝台の板の上に敷き、そろりとうつぶせになってみた。
寝心地がいいとはお世辞にも言えない寝床だったが、空腹こそ至高の味付けであるように、肉体疲労こそ最高の快眠のもとだ。
カルキノスは、うつぶせになって数呼吸もしないうちに、深い眠りに落ちこんでいった。
――それから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。
最初に感じたのは、冷たさだった。
不快な冷たさではなく、熱をもった肌にひんやりとした手を当てられたときのような、心地良い感触だ。
(尻……?)
ちょうど、尻のあたりである。
とろりと油のようなものが垂らされて、それを、誰かの指が、優しく塗り広げてくれている。
沁みることもなく、塗られた部分から熱っぽさが消え、痛みが和らぐ感じがした。
(腫れたところを、手当てしてくれている……)
幼いころ、怪我をして泣いていると、母親が優しく撫でてくれたことを思い出した。
誰だろう。
カルキノスはうっとりと夢心地のまま首をひねり、
「ぎゃああああああああ」
もうちょっとで首の筋を致命的に違えるところだった。
「おうっ! おきたかあ!」
アクシネだった。
薬草を漬け込んであるらしい油の壺を手にして、にこにこしながらこっちを見下ろしている。
もはや夕方なのだろう。
入口からさす金色の光に照らされた彼女は、ふしぎに美しく見えたが、それどころではない。
カルキノスは、真っ裸のままだ。
「アクシネー! 向こうをむけ、見ちゃだめだ! うわあああああ!」
思わず飛び起きてしまい、もろ出しになった前を両手で隠しながら、必死に叫ぶ。
「おー、カルキノス、げんきになったなあ! よかった、よかった! さあ、いこう!」
「きゃああああああ」
前を隠している腕をとってぐいぐい引っ張られ、カルキノスは無理やり帯を解かれようとする乙女のような悲鳴をあげた。
「申し訳ありません!」
入口から顔を出し、テオンがしきりに謝っている。
「お止めしたのですが、どうしても自分が手当てするとおっしゃって聞かず、……さあ、アクシネさん! 食事ですよ! こっちで、食事の用意をしましょう!」
「おうっ!」
そうだった、という顔で、アクシネはぱっと手を放した。
昼間の出来事を忠実に再現するように、カルキノスはまたもやひっくり返り、せっかく薬草油を塗ってもらった尻をぶつけて転げ回った。
いったい何の因果で、ここまで尻を痛めつけられなければならないというのだろう。
(おお、輝けるアポロン神よ、なぜ――!)
思わず胸中で祈ったカルキノスだったが、声に出して言おうものなら「この私が人間如きの尻の面倒まで見られるか、愚か者め!」と銀の弓で射倒されてしまいそうだ。
これをどうぞ、とテオンが渡してくれた比較的やわらかな布を包帯がわりに腰に巻きつけて、どうにか衣をまとったカルキノスは、よろよろと居間に向かった。
「おお……!」
そこに広がっていた光景に、カルキノスは思わず息を飲んだ。
香ばしいにおいを漂わせる黒いパン。
チーズのかたまり。ウサギの丸焼き。
隙間から豊かな湯気の立つ、蓋つきのスープの器。
よく熟れた無花果。
「すごい! 旨そうだ!」
スパルタ市に着いて初めて、まっとうな市民の暮らしと言えるものを目にした気がする。
「このうさぎは、わたしがとった。えらいな! わたしは、とってもえらいなあ!」
「うんうん」
がくがくとアクシネに揺さぶられるのも、だいぶ慣れてきた感がある。
カルキノスがうなずいたので納得したのか、アクシネは急に神妙な顔になって、うさぎの肉片を切り取って、神々への捧げものとして炎の中に投げた。
カルキノスは、驚いてその様子を見守った。
神々への捧げものは、一家の主人の役目だ。
つまり、この家ではナルテークスの役目であるはずなのだ。
「ナルテークスは?」
「いないぞ?」
それは、見れば分かる。
カルキノスが聞きたいのはどうして今この場に彼がいないのか、ということだったのだが、
「さあ、たべよう!」
アクシネが強引に食事を始めてしまったので、その件はうやむやになった。
椅子を引き寄せ、尻をかばいつつ慎重に腰を下ろしたカルキノスの目の前で、スープの器の蓋がとられ――
「……暗黒ッ!?」
「スパルタの、くろいスープだ! わたしがつくった。すごーく、おいしい!」
謎の真っ黒なスープも、なみなみと取り分けられる。
(いや……これ……食い物?)
よく言えば夜の闇のよう、悪く言えば泥流にそっくりな液体だ。
素晴らしいごちそうの中、異様な存在感を放つ黒いスープを前にして、カルキノスはごくりと唾をのみこんだ。
立ちのぼってくる湯気からは、何やら酢のようなにおいがする。
アクシネを見ると、彼女はまだ食事に手もつけず、にこにことこちらを見つめていた。
手作りのスープである。
しかも自信作らしい。
少しでも残したら、斧でばらばらにされかねない。
(おお、アポロン神よ、お守りください……!)
カルキノスの前途は、まだまだ多難であった。




