テオン
「ちょちょ、ちょ……!」
アクシネの足取りは大股で軽やかで、とてもカルキノスについていける速さではない。
ばたばたと妙な踊りをおどっているようなかっこうで飛びはねながら、必死に叫んだ。
「ちょっと待ってくれ、転ぶ! 転ぶから!」
アクシネはぴたりと止まり、ふしぎそうにカルキノスを見た。
「けが、してるのかあ?」
カルキノスの右脚を指さして言う。
「いや、これは、けがじゃなくて」
どう説明すればアクシネに理解してもらえるだろうかと言葉を選びながら、カルキノスは続けた。
「生まれたときから、こうなってた。ほとんど曲がらないんだ。ここと、ここが」
自分の膝と、くるぶしとを示しながら言って、相手の反応をうかがう。
「へえ」
アクシネは、分かったような分からないような顔で相槌をうった。
それから、急にくるりとカルキノスに背を向け、道の真ん中で屈みこんだ。
そのまま、地面をじっと見つめている。
(珍しい虫でもいたのか?)
カルキノスが理解できずに見つめていると、彼女は、屈んだままの姿勢から、首だけくるりと振り返ってきた。
「おぶされ」
「え?」
「わたしが、かついでいってやる! さ、おぶされ」
満面の笑みである。
「いやいやいやいや」
女におんぶされて道を歩く男など、スパルタ広しといえども、赤ん坊以外にいるはずがない。
そんな姿を人に見られたら、自分は社会的に死ぬ。
「いい、いい! ありがたいが、遠慮するよ。ロバが――」
そこまで言ってから、尻がものすごく痛かったことを思い出したが、
「ロバがいるから、乗っていく!」
おんぶで運ばれるよりは、尻が擦り切れるほうがまだました。
カルキノスは、勢いよく振り返った。
だが、そこには、もうロバはいなかった。
一人ぽつんと、痩せて小柄な奴隷の男――ナルテークスの従卒――が、カルキノスの竪琴やその他の大荷物を抱えて立っているだけだ。
(しまったあああ!)
あのロバは、カルキノスをスパルタ市に連れてくる任務のために貸し出されていたものだったらしい。
仕事が終わったので、元の持ち主が連れていったのだろう。
「ロバ、いないぞ? さ、おぶされ」
アクシネはあいかわらず満面の笑顔だ。
純粋な親切心で言ってくれていることは疑いがない。
だが、女におんぶされて道を歩いている姿など見られたりしたら、自分はもう二度と、スパルタの男たちから、男とは見なされなくなる。
「いい、いい! ほんとに大丈夫! 俺、重いし!」
「へいきだ! おまえ、かるそうだから。さ、さ、おぶされ!」
ついにアクシネは立ち上がり、後ずさろうとしたカルキノスの腕をものすごい速さで掴んだ。
「ぎゃあああ誰かああああ!」
もはや恥も外聞もなくカルキノスが叫んだ、そのときだ。
「アクシネさん」
急にそう呼ぶ声がして、アクシネと、涙目のカルキノスは同時に振り返った。
声を発したのは、大荷物を抱えた、例の奴隷の男だった。
五十がらみの、体格は貧相だが、どことなく分別ありげな男だ。
「家に、無花果、まだありましたか」
男は、表情をほとんど動かさないまま、そんなことを言った。
「いちじくかあ? ……しらない」
「無花果、美味しいですね」
「うん!」
「お客人にも、食べていただきたいですね」
「うん!」
アクシネは顔を輝かせ、カルキノスの腕からぱっと手を放した。
渾身の力で身を引いていたところで、急に手を放され、カルキノスは悲鳴をあげながら引っくり返った。
アクシネはそれにも構わず、ぴょんぴょんと跳びはねながら言う。
「それから、それから、うさぎもなっ!」
「いいですね」
「くろいスープにして!」
「美味しいですね」
「うん、うん、うん! ちょっと、とってくる!」
アクシネはそう叫ぶや、後も振り返らずにどこかへ走り去っていった。
引っくり返ったカルキノスは、そのまま放置である。
(俺の尻、もう、だめかもしれない……)
またもやひどく打ち付けた尻をさすりながら、よろよろと立ち上がったカルキノスを、奴隷の男が、じっと見つめてくる。
カルキノスも思わず目を合わせて見返し、しばし、男二人のあいだに何とも奇妙な沈黙が漂った。
奴隷の男は、あわてたように目を伏せると、すっと何かを差し出してきた。
カルキノスの杖だ。
「おっ……ありがとう」
渡された杖にすがって、ようやく体をまっすぐに支える。
さて、と辺りを見回すが、当然、道はまったく分からない。
「なあ、君、ナルテークスのところの奴隷だよな?」
「はい」
「じゃあ、家まで案内してくれ」
「はい」
男は従順に言ったが、歩き出すそぶりを見せない。
何だろう、とカルキノスが見つめていると、
「あなたが、先に立って歩いてください」
と、彼は言った。
極力、口を動かさない、独特の喋り方だ。
「わたしは後からついていきます。右とか、左とか申しますから、その通りに進んでください。まずは、このまま、まっすぐに」
「あ、うん」
カルキノスは、言われた通り、杖をつきながらひょこひょこと歩き出した。
男が、すぐ後からついてくる気配がする。
カルキノスを追いこさないよう、わざとゆっくり歩いているようだ。
大荷物を担いでいるとはいえ、この足取りなら、普通に歩けば、カルキノスよりも速いだろうに。
(ゆっくり歩くほうが、かえって疲れるんじゃないか? 俺の先に立って、案内してくれればいいのに)
胸中で首を傾げたカルキノスだったが、ふと、ずっと気になっていたことを、この男にならば訊けるではないかと気がついた。
「そうだ。なあ、君」
カルキノスが振り向いて話しかけると、
「前を向いて進んでください」
男は、地面を見つめたまま、あいかわらず口をほとんど動かさずにそう言った。
「なんで?」
「わたしが、困るんです」
「…………?」
言っている意味がまったく分からない。
男は、早口でぼそぼそと言った。
「おたずねになりたいことがあるのでしたら、答えられることには、答えます。ですが、前を向いて進みながら、わたしのほうを見ずに質問なさってください。なるべく口を動かさずに」
「なん……」
なんで、と再度訊き返そうとして、カルキノスは口を閉じ、男が言うように前を向いた。
杖をつき、ふたたび歩き出しながら、唇をほんの少しだけ開けて、そのすきまから声を出した。
「聞こえるかい?」
「はい」
背後から、ほとんど吐息と区別のつかないような男の声が答えた。
すぐ後ろからおっさんの囁き声が聞こえてくるというのは、あまり気持ちのいいものではなかったが、問題なのはそこではない。
「なんで、普通に話すと、君が困るんだ?」
「アテナイ市では、市民は、奴隷と話しますか?」
「えっ? ……まあ、用事があれば、話すこともあるかな」、
「スパルタでは、そうじゃありません」
と、奴隷の男は言った。
「わたしたちは、ちょうど、荷役用のロバみたいなものです。ロバと話をしようとする人間がいたら、その人間は、周りの人間から笑われるでしょう。ロバを先に歩かせて道案内をさせようとする人間がいたら、その人間は、馬鹿にされるでしょう。そういうことです」
「……なるほど」
ときどき、離れたところを足早に歩いてゆくスパルタ人たちを意識しながら、カルキノスは言葉を続けた。
「でも、君が困るというのは?」
「あなたは、スパルタの市民ではない。ですが、スパルタに招かれた客人です。そんな方の前に立って歩いたり、言葉を交わしているところを見られたら、わたしは、生意気な奴隷だと思われます。そんなことになったら……」
男は、そこまでで言葉を切った。
そんなことになったら……何だというのだろう?
カルキノスはもう少しで振り返りそうになったが、男の言葉を思い出し、辛うじてこらえた。
ついさっきは、意外と熱いものを持っているのだなと親しみのようなものさえ感じた周囲のスパルタ人たちの姿が、急に、冷酷で不気味なものに見えてくる。
「でも……君、さっき、アクシネとは堂々としゃべってたじゃないか」
「あの方は、他とは、ちがっていますから」
男の声が、そう囁いた一瞬だけ、ふと和らいだような気がした。
「ああ、そこで、右です」
二人はしばらく、黙々と歩いた。
広場を離れると、急に建物はまばらになり、造りもいっそう簡素なものばかりになる。
人通りも、ほとんどなくなった。
「なあ、君」
カルキノスは、用心して前を向いたまま、再び男に話しかけた。
「名前は?」
そこからしばし、続いた沈黙は、男の戸惑いを示すものだっただろうか。
「テオン、と申します」
「そうか。なあテオン、教えてもらいたいんだが……あの二人の名前のことだ。ナルテークスと、アクシネというのは、本名なのかな?」
「違うと思います。わたしは、十年前からあの家におりますが、そのときにはもう、人から、そのように呼ばれておいででした。ですが、ナルテークスとアクシネというのは、普通の市民の名前とは違いますから」
「だよな……」
大ういきょうと斧女。
普通の市民どころか、人間の呼び名ですらない。
それを言うなら、自分も蟹ということになってしまっているのだが。
「ん? ……待てよ。『違うと思う』って、どういうことだ? 君は、二人の本名を知らないのか?」
「存じません」
「なんで?」
思わず振り向きそうになる。
いくら市民と奴隷とが言葉を交わさない土地柄だからといって、市民同士が喋っているのを小耳にはさむ機会くらいはあるだろう。
家の中で十年間も働きながら、主人たちの本名を知らない、などということが、ありえるだろうか。
「アクシネさんは、あの通り、幼児のような方です。人からアクシネ、アクシネと呼ばれるので、自分の名前をアクシネだと思っておられるのですよ」
「ああ……」
大いにありそうなことだ。
「でも、他の家族は? まず、兄貴がいるだろ?」
「兄上以外の御家族は、みな、亡くなりました」
(そうなのか)
先ほどのキュニスカの憎まれ口によれば、二人は、結婚もしていないらしい。
兄と妹、たった二人の所帯ということか。
「じゃあ、その兄貴は、妹をなんて呼んでるんだ? まさか、兄貴まで、アクシネって呼んでるんじゃ……」
「いいえ」
「じゃあ、何て……いや、第一、大ういきょうってのもおかしいだろ。まわりの連中が勝手につけたあだ名だよな? あんな変なあだ名をつけられて、よく黙って我慢してるな!」
「あの方は、口がきけません」
そのテオンの答えに、カルキノスがとっさに思ったことは、
(かわいそうに)
だった。
自分も、右脚が不自由である。
だが、自分は、馬鹿にされれば言い返すことができる。
アテナイでアポロニオスに仕掛けたように、人々のあいだに自分の言葉を広め、漁師の網のように相手を囲んでしめあげることだってできる。
(そのための言葉を、持っていないなんて)
道理で、まわりから失礼なことを言われても、ずっと黙ったままだったはずだ。
まるで、戦場に槍も持たずに来た男がいると聞いたように、カルキノスの心は、気の毒さでいっぱいになった。
(必ず、近いうちに、ナルテークスのことを詩に作ってやろう)
おのれを詩人と自負する者のくせで、一足飛びに、そう思いついた。
自分の言葉を持たない彼を、俺の詩で、皆から一目置かれるようにしてやろう。
屋根と食事を提供してくれることへの返礼として、それくらいは当然だ。
「アクシネさんは、いつも斧を持ち歩いておいでですから、そう呼ばれるようになったのだと存じます。旦那さまのは……」
カルキノスが自分の思いつきに鼻息も荒く拳をかためているあいだ、テオンは、ぼそぼそと語り続けていた。
特に思い入れがある事柄について問いかけられた――それも、そういう機会はめったにない――人間に特有の反応だ。
主人の悪口しか言わない奴隷も多いが、彼は、あのおかしな兄妹に忠実であるようだった。
「おそらく、馬鹿にしたあだ名かと思います。ほら、『中空の大ういきょうに入れて』と申しますでしょう。つまり、頭の中身のないやつ、と――わたしではありませんよ? ――人が、そう言いますので」
「ちょっと、待てよ!?」
カルキノスは思わず振り返った。
ぎょっとした表情のテオンに、その肩をつかまんばかりに詰め寄る。
「今の、大ういきょうのくだり……ヘシオドスの『神統記』の一節じゃないか!? 君、詩が分かるのか!」
「わ、分かりません」
テオンは必死に「声を抑えて」という手ぶりをしながら後ずさった。
「詩など、市民だけが学ぶものです。わたしには、分かりません。聞いたこともありません」
「あ……そう?」
スパルタでは一介の奴隷までが詩を諳んじるのかと、つい興奮してしまったが、こんなふうに騒いでいては、自分にとっても、テオンにとっても、まずいことになるおそれがある。
カルキノスは咳払いをして衣を正すと、きょろきょろと用心深く辺りを見回し、ふたたび歩きはじめた。
「じゃあ、とりあえずは俺も、ナルテークスとアクシネって呼ぶしかないかな」
「わたしも、アクシネさんとお呼びしております。そうでなければ、御自分のことだと分かっていただけませんので。旦那さまのことは、旦那さまとお呼びしております」
「うーん」
それはそうだ。
主人に対して『頭からっぽ』などとは、さすがに言いづらいだろう。
経緯を聞いた今となっては、自分だって言いづらい。
だが、彼の本名のことを、アクシネに尋ねても、あまり意味がなさそうだ。
どうにかして、ナルテークス本人と意思の疎通ができれば、正しい名前を知ることができるのだが……
「あっ! そうだ! 口で喋れなくても、文字に書けば、話ができるんじゃないか!?」
「文、字……ですか?」
「あ」
テオンの声の固い調子から、カルキノスはただちに察した。
「ナルテークスは、字が書けない? まあ、普通はそうか」
「さあ……少なくとも、わたしは、旦那さまが文字をお書きになっているところは見たことがありません」
字の読み書きができるという者のほうが、圧倒的に少数派なのだ。
Αの一文字すらも書かずに一生を終える人間がほとんどなのである。
そこからは、特にいい考えも浮かばず、カルキノスも、テオンも、黙々と歩いていった。
「もうすぐ、見えてきます」
テオンが不意にそう呟いたとき、カルキノスはひたすら一定の調子で脚を動かしながら考えこんでいたので、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「あれです」
ナルテークスとアクシネの家が見えてきたのだ。




