リベラルじいちゃん
三浦徳蔵、七十七歳が特別養護老人ホームから出奔したのは、九月七日の残暑の厳しい日の午前中だった。
徳蔵出奔の報を聞いた娘の佐和子は、パート先の食品加工会社を早退し、原付で自宅に急行した。
徳蔵は軽い認知症をわずらっており、徘徊して万が一ということもありうる。事態は急を告げていた。
佐和子が戸建ての自宅に戻ると、時計の針は丁度十一時を指している。
佐和子は、今年四十二歳、夫と高校生の息子二人の四人で暮らし。
夫は住宅メーカーの営業職を勤め、阪神ファンの野球狂だ。家族は四十代で出世の見込みのない彼に、幾分冷ややかに接している。
家の扉は、すんなり佐和子を受け入れた。徳蔵の姿は一階には見あたらない。
すると、佐和子の悩みの種の息子たちが在宅していることになる。今日は平日だ。異なことは言うまでもない。
二人の息子のうち、弟の部屋からマイケルジャクソンのスリラーが大音量で漏れ聞こえてきた。
激情のまま佐和子は階段を駆け上がり、ノックせずにドアを開けた。
「大変よ! おじいちゃんがいなくなったわ」
洋服ダンスの前で、シャツ、スラックス姿の体格のいい少年が、ネクタイを締めているところだった。身長百八十センチを超え、髪を茶髪に染めているものの、佐和子に似て目が垂れており、どこか穏和な印象を与える。次男の和也だ。
「じいちゃん、またかあ。この間は公園にいたよね。探した? 母さん」
「探したわよ、町内。でもいないのよー、どうしたらいいかわからなくて」
佐和子の目は、自然とベッドに向かう。ベッドにもう一人の少年が腰掛けている。和也とは対照的に、痩身、尖った輪郭にシルバーフレームの眼鏡をしているのは、長男の達也だ。こっちは父親似なのか、普段から無口でなにを考えているのかわからない。夏の間も室内にずっといるため、青白い肌をしている。白いシャツを第二ボタンまで開けて、サルトルの文庫本なんぞを読む姿は、昭和の文学青年を彷彿とさせた。
兄弟仲は比較的よく、二人が部屋にいること自体は珍しいことではなかった。
達也は高校二年生だが、不登校ぎみで和也もそれに付き添って、部屋にいると思われる。
佐和子はそのことを注意しようとして、それよりも徳蔵の行方の方が重要だとを思い出す。
「どうしよう、警察に連絡した方がいい?」
前にも徳蔵が一度徘徊をして、交番のお世話になったことがあるため、佐和子はためらっていた。
「俺、本屋に行ってくる」
達也がそっけなく言って、腰を上げる。
佐和子は顔に血が上るのを感じた。
「あ、僕も行くよ!」
和也が佐和子の逆鱗をいなすように目の前を横切った。
「大丈夫、兄貴もじいちゃんを気にしてるよ。素直じゃないだけさ」
達也は既に階段を降りた後だ。佐和子は半信半疑で、この兄弟に徳蔵の行方を託すことにした。
「一応、パパにも連絡しないとね」
佐和子が意を決すると、階下で飼い犬のカネモトが一吠えした。
2
佐和子が帰宅したのと時を同じくして、三浦家から一キロ離れたコンビニの前に、一人の少女が座り込んでいた。
白のブラウスにゆるめたタイ、学校指定のチェックのスカートを履いている。
滝のように汗を流しながら、鬼気迫る表情でスマートフォンを睨んでいる。耳には白いイヤフォンから音漏れしている。
「あーつい……」
天を仰ぎ口をついたのは、少しかすれたハスキーな声だ。手で扇げば涼むと思っているのか、熱気にむなしい抵抗をしている。
通りを横切り、赤のラコステのポロシャツ、リーバイスのジーンズ、ビルケンのサンダルを履いた七十過ぎの男が、コンビニの方向に足を向けていた。
年を重ねているものの背筋は伸び、肩で風を切るその姿は勇壮で、ワーグナーの曲が似合いそうであった。少し面長で、頭髪は生え際が薄くなっていたが、口に蓄えた白い髭はピンと上を向いていた。
彼は少女を目標に直進してくる。少女はスマホに意識を奪われ、気づかない。
「君は、リベラルか?」
少女はおもむろに面を上げ、息を飲んだ。ワーグナーの似合いそうな矍鑠たる老人が自分を見下ろしている。
「儂は、リベラルだ。リベラルのはずだが、どうにもしっくりこん。そこでどうだ、一緒にリベラルを探さないか、君」
奇天烈爺のナンパだと思った。少女はウブだから、うまい口実が浮かんでこない。
「あー、ダチが呼んでるから行かないと」
わざとらしく腰を上げ、スカートをはたく。ずっと携帯を操作していたのは、ゲームアプリをしていたからで、友達は彼女を呼んでいない。
老人はその機微を見抜き、腕を掴む。
「待ちなさい!」
「な、何なんですか! ひ、人呼びますよ」
未知との遭遇。老人も、少女も戸惑っていた。
「探さないのか、リベラルを」
「だ、だから何だよ、リベラルって。意味わかんねえから」
「リベラルは自由という意味だ。さあ、行こう」
老人に手を引かれ、少女はコンビニを離れることになる。
徒に力を行使されたわけではなかった。老人の指は骨がごつかったけれど、たおやかにエスコートしてくれ、ふりほどこうとすれば可能だったし、コンビニに助けを求めることもできただろう。
少女がそうしなかったのは好奇心からで、場合を間違えれば、身の危険は避けられなかった。
運が良かった。少女も、老人も。
商店街のアーケードの庇護の元に二人は参じた。手を握ったまま立ち止まり、少女が老人を見上げる。
「ねえ、おじいさんは誰なの?」
「儂は徳蔵というものだ。趣味は折り紙」
少女は一度頷き、自分の聞きたかったことが全て聞けなかったことに少し不満そうに頬を膨らませる。
「わたし、フミカ。高一です」
徳蔵は怪訝に眉を曲げた。
来るぞと、フミカは身構える。雷の準備。
「そうか、高校生なのだな」
徳蔵は、フミカをしからなかった。それは意外であった。白昼、学校にも行かず、時間を潰していた彼女を咎めるのが普通であろう。フミカはだいぶ彼に気を許し始めていた。
「話わかるじゃん、徳蔵さん。ねえ、カフェでなんか、飲もうよ」
「そうだな」
二人は連れだって近場のカフェに足を踏み入れる。客は少ない。営業のサラリーマンがタバコをふかしていたが、徳蔵たちが現れて目つきが変わる。
フミカは、クリームソーダを頼み、徳蔵はアイスカフェを所望した。
「暑いよねー、徳蔵さんは散歩? 元気だね」
徳蔵は腕を組んで、厳格な顔のまま黙ってしまった。フミカは話しかける機会を失ったが、丁度、注文した飲み物が来たので、そちらに気を取られた。
「あっ、あのリーマンまたこっち見てる。ウチらどういう風に見えてるんだろ」
クリームソーダのアイス部分をスプーンでせっつきながらだから、フミカは注意が散漫になっている。
「フミカ、折り紙はあるか?」
ハードボイルド映画で、相棒に拳銃の確認をする刑事のように徳蔵は訊ねた。
フミカが徳蔵に気を遣わなくてすむのは、彼のそういうどこか一歩引いた感じが新鮮だったからだ。
「折り紙はないけど、小さい紙ならあるかも。ちょっと待ってて」
結局、手頃な紙がなかったため、A4サイズのルーズリーフを折りたたみ、小さく切って渡した。
「ここ、サンドイッチがあるよ。お腹すいたなあ」
フミカは朝食を食べていなかったので、思わず催促してしまった。浅慮を恥じる。
「あれ?」
テーブルの上に小さい折り鶴が載せられていた。徳蔵は再び瞑想に耽っている。少し目を離した隙に、完成させたのだろうか。
「すごーい、あたし不器用だからこんなの絶対無理だわ。ねえ、他にもなんか作れるの?」
興味本位でフミカが訊ねると、徳蔵は皺の刻まれた大きな手で紙をいじって、カバを作った。所要時間三分ほどで、テーブルの上に動物園ができた。
「すごいすごい、ねえ、これもらってもいい?」
「ああ、かまわん」
二人はカフェを出た。冷めかけた体を熱気に晒すことに抵抗がある。再びあてもない旅が始まる。
徳蔵が八百屋から檸檬を手にとって行こうとしたので、フミカが代金を支払った。カフェでの代金もフミカ持ちだ。徳蔵はお金を持っていなかった。
「あたしね、人の出会いって、運命だと思うの。それは引力だから、イヤな人間関係でも我慢しなくちゃいけないと思ってた」
フミカは学校で孤立していた。新学期に入ると、仲のよかった子によそよそしくされて、知らない間にLINEも外されていた。自分に非があったと、フミカは思ったけれど、理由は思い至らなくて、聞くのも恐かった。夏休みの間に自分を排除する企みが行われていたというのは、考えるだけで、恐ろしい。
「学校サボってみたら、何か変わるかもって思ったけど、そうでもない。みんな普段通りだし……、あれ? 徳蔵さん?」
徳蔵はフミカを放置いて、古本屋の前で立ち話をし始めたていた。フミカも渋々近づいていく。
店先では腰の曲がった店主が、興奮ぎみに唾を飛ばしている。
「徳蔵さん、ご無沙汰してます! どうです、三島由紀夫の稀覯本が入りましたよ、お好きでしょう? 三島」
「あ、ああ……」
徳蔵は苦笑いのようなものを浮かべて、古本屋に入った。
ビルの一階に居を構える古本屋の店内は、薄暗く奥行きもあまりなかった。ホコリの積もった本が床にまで積まれていたし、天井すれすれの高さの本棚は倒れてきそうな錯覚を起こさせた。胸焼けするような本の臭いに、フミカはすぐ店を出たくなった。
徳蔵は檸檬を床に積まれた本の上に置き、店主と三島について話している。フミカにはチンプンカンプンで、どうして男って、所有することにこだわるのかしらと、距離を置いていた。
それでも、徳蔵が店を出るときには連れだった。相変わらず厳しい表情の徳蔵が何となく心配になる。
「三島ってあれでしょ? あたし知ってる、”セップク”した人でしょ。ヤバイよね」
「男は、時として理想と現実の狭間で引き裂かれることがある。覚えておけ」
フミカはあまり深く話に立ち入らない。難しい話についていけないのだ。話題を変える。
「なんか怒ってる? 徳蔵さん」
「ああ? そんなことはないぞ」
本屋を出た途端、徳蔵の足取りが早くなった。フミカは遅れないようについていく。
「花屋に行こう、花屋に……」
譫言を呟きながら徳蔵は、何かに追われているかのように早足で歩いた。この老人のどこにそんな筋力があるのだろう。
商店街で近々祭りをするらしい。赤や緑の幟がはためいている。
通行人を押し退けるようにして、徳蔵は前へ進む。
この人は船みたいだ。フミカは思った。でも、羅針盤を持っていない危うい船だ。
「徳蔵さん!」
フミカは、とっさに彼の腕を掴んだ。腕は枯れ木のように細くて、フミカにも苦もなく掴むことができた。
「花屋はこっちだよ」
我を忘れていたような徳蔵の目に、理知の光が戻る。肩で息をしていたが、元の頑健そうな爺だ。
「花を買わなくては。お前にも買ってやろう」
「ええ? 嬉しいけど、さっきお金ないって……」
徳蔵はくしゃとした笑みを見せた。
「紳士は、ポケットに小銭とレディに対する礼儀を持ち合わせているものだ。儂も例外ではない」
3
家を出た達也と和也だったが、意見の相違に苦しんだ。当事者同士にも関わらず、兄弟の足並みは一向にそろわない。
「暑い。もうやめだ。あの爺なら多分そのうち帰ってくるよ」
体力のない達也が根を上げた。
「無責任なこと言ってないで、じいちゃんを探しに行くよ! 近くに線路があるし、もし中に入ったら」
和也は、一刻も早く徳蔵を確保したかった。母の手前、動揺を隠していたが、不安な気持ちは彼も同じかそれ以上だった。
「そうなっちまったらことだな。うちに賠償金が払えるわけがない」
兄の達也は、あくまで自分の損益に関することにしか言及しなかった。
「二手に分かれよう。僕は公園の方に行ってみるから、兄さんは駅の方を頼むよ」
「オーライ」
不景気に背を丸めて、達也は動きだした。右肩が下がっているし、頼りない。
「待って! やっぱり一緒に行こう」
「効率悪くないか? 分かれた方が」
「あ、やっぱり探してくれるんだ」
ふんと、達也は鼻を鳴らした。彼は道中、中原中也の詩を口ずさみ、倦怠感を漂わせた。
彼らは以前、徳蔵がいた公園をはじめ、徒歩で行ける範囲を回ってコンビニにたどり着いた。店員に駄目元で徳蔵のことを訊いてみる。
「さあ……、見てませんね」
兄弟は落胆せざるを得なかった。そんなに簡単に消息がわかれば苦労しない。
店を出ようとした時、床の掃除をしていた女性店員が兄弟に声をかけてきた。
「あのー、もしかしたら関係ないかもしれないんですけど」
と、女性は前置きして、徳蔵らしき人物がコンビニ前に現れたと教えてくれた。
「コンビニの前に女子高生が座ってて、ずっとそこにいるから注意しようとしたら、おじいさんがやってきて、さらっていったんです!」
女性は興奮ぎみに兄弟に詰め寄った。
「じいちゃんが、誘拐!」
兄弟は顔を見合わせ、驚きを露わにした。
「警察に通報した方がいいでしょうか?」
和也は女性の行く手を遮り、誤魔化しをかける。
「あー、よく考えたら、それは僕らの妹です。名前は南っていいます。よかったなぁ、南がいれば安心だ。なあ? 兄貴」
「……ああ」
兄が適当に話を合わせると、なんとか店員は納得したようだった。
コンビニを出ると、二人は同時に息をついた。
「何やってるんだよ、じいちゃん」
和也は何とか平静を保とうとしたが、不可能に思えた。
普段感情をあまり露わにしない達也ですら、青ざめた顔をしている。
「まずいことになったな、これはもう悠長に構えていられないぞ」
不測の事態に兄弟の意志が固まる。第三者が関わったことで、さらに緊張の度合いが増したのである。
兄弟は、徳蔵が懇意にしていた店を一軒一軒回った。三軒目で古本屋にぶちあたった。
「徳蔵さんなら、ついさっき来ましたよ」
和也が徳蔵の話を店主から聞く間、達也は積まれている本に目を走らせた。床に積まれた本の上に、檸檬が置かれているのを見いだす。
「これは?」
「ああ、それね、徳蔵さんが忘れていったんだよ。梶井基次郎のつもりかな。そういえば、女子高生と連れ立ってたね。徳蔵さんも隅に置けないねえ」
古本屋を出た兄弟だったが、その後、花屋での情報を最後に徳蔵の行方は途絶えた。
そこで得た情報は、徳蔵は何かに焦っていたということだ。女子高生が何者かもわからないまま、時間だけが過ぎていった。
「じいちゃん、本当に認知症なのかな」
和也が群青色の空を仰いでつぶやいた。
二人は自販機前で小休止をとっている。
徳蔵の認知症発覚のきっかけは、些細な行き違いのようなものだった。
妻を五年前に亡くしてから、徳蔵はあまり口を利かなくなったし、趣味のゴルフも疎かになった。日がな一日家に籠もり、時折庭に出ては、咲いているガーベラにじっと目を注いでいた。
達也が文学の話を振った時は、苦もなく何時間でも付き合った。
それでも時折、徳蔵は物をなくしたと言っては家中探し回り、思うにならない体に苛立つようになっていった。
ある日、徳蔵は夕飯を食べていないと、佐和子をなじった。三時間前、家族で夕飯をとったことを覚えていなかったのだ。
気丈だった徳蔵だったが、その時ばかりは打ちひしがれ、部屋に籠もり、声をかけるのもはばかられた。
次の日、徳蔵は自分で老人ホームに入ると打ち明けた。以前からその腹づもりがあり、資料も取り寄せていたらしい。
家族は彼に寄り添うことを希望したが、彼の気持ちは変わらなかった。
気が向いたらすぐに会えるから。徳蔵の一言に、家族は頭を垂れるように頷くしかなかった。
4
フミカは一基の墓の前でひざまずき、手を合わせて故人を偲んだ。その隣では徳蔵も同じ姿勢で目を閉じている。
広い霊園の一角、線香香り、慕情が呼び起こされた。
「奥さん、幸せだったのね」
「どうだろうな」
徳蔵は目を細める。
墓で眠るのは、徳蔵の妻である。徳蔵は花屋で買ったガーベラを供えた。ガーベラは妻の好きな花で、家の庭でも育てていたほどだ。
フミカは軽く墓周辺を掃除し、徳蔵と霊園を歩いた。盆をとうにすぎていたため、人気はない。姿の見えない蝉の声が、残響のように耳の裏にこびりつく。
「儂があいつと会ったのは、五十年以上前のことだ。儂は上京して商社に就職してな。あいつと出会ったのはキャバレーだった」
フミカは、目を丸くした。
「キャバレーって、いかがわしいところ?」
「ははは、そういう見方もできるな。酒を飲んで楽しい時を過ごす。大人の社交場だ」
徳蔵の妻は、キャバレーの歌手だった。彼女また、歌手を夢見て、地方から上京したのである。
「歌、うまかった?」
「いいや」
徳蔵は即答する。彼女に歌い手としての才が果たしてあったのか。少なくとも彼はそれを事実として認じなかった。
「じゃあどうして、好きになったの?」
「顔が好みだったからさ」
「あはは、それ最低かも」
「だろ」
徳蔵はよく彼女の仕事が終わるまで、キャバレーの外で待った。雨の日も風の日も、彼女が好きだというガーベラを持って。
「そうさな、あいつは愛想がなかった。いっつも、陰気にぼそぼそと、シャンソンなんか歌っててなあ、誰も聞いちゃいなかったよ」
「なんか、かわいそう」
フミカは眉をひそめた。
「レコード出たら買うとか、お愛想言ってた奴もいたけど、儂は無理だと思ってたね」
彼女も本心では叶わぬ夢だと悟っていたのか、徳蔵のプロポーズを受けると素直に歌手の道を断ち、専業主婦になった。
「儂は、あいつに歌手をあきらめさせた。だからこそ、絶対に幸せにしなくちゃならんとがむしゃらに働いたのさ」
それから、四十年余り。二人の道は平坦ではなかった。家族が二人から三人になり、四人にもなり、仕事で躓き、軽いも重いも病を患い、そして彼女は一人で逝ってしまった。
「あいつは、癌を告知された後、”私が死んだら私のことは忘れてください”って言いおった。わけがわからぬ」
徳三は足を止め、顔を手で覆った。
「儂は、あいつに何をしてやれたのだろう。あいつは幸せだったのだろうか? 不満を抱えていたのだろうか。儂は夫として勤めを果たせていたのかと、急に不安になってな。どうにもならんことをくよくよと女々しい奴だよ、儂は」
フミカは、労うように徳三の背中に手を置いた。
「そんなことない。奥さんリベラルで幸せだったからこそ、そういうことが言えたんじゃないかな。もし憎かったら、絶対忘れるなとか言いそう」
「忘れることができたらいいのだがな。そうもいかんらしい」
霊園の出口につくと、徳蔵はフミカに握手を求めた。
「儂の人生最後のリベラルに付き合わせてすまなかった。ここでお別れだ」
フミカは照れ隠しのように頭をかいた。
「もういいよ。色々お話聞けて楽しかったし」
徳蔵が意気をなくしたような背中を見せると、フミカはたまらず呼び止める。
「あのさ!」
「うん」
「どうして、大人は自由じゃないの? リベラルって自由って意味なんでしょ」
「それは……」
言葉に詰まる徳蔵。
「最後なんて言わないで。もっと好きに生きろ、ジジイ!」
フミカはその場から走り去った。まっすぐ学校に向かったのである。
徳蔵は一度真上を向き、それから妻の墓の方向に振り返ってから、力強い足取りで歩き始めた。
5
佐和子は自宅前で首を長くして待ちかねていたが、兄弟だけが戻ってきて、悲鳴を上げかけた。
徳蔵の行方がわからなくなってから、三時間以上が経過していた。佐和子は、すぐに警察に通報できるように携帯を握って待っていた。
だがダイヤルコールをした途端、和也が大声で徳蔵の名前を呼ぶ。
やがて一人の男が地平に登場した。
「やあ! 待たせたな」
若者のような軽い足取りで、家族の前に姿を現した徳蔵。佐和子は携帯を握ったまま、その場でくずおれた。
兄弟は言葉少なく、お帰りと彼の帰還を静かに喜んだ。
「話がある」
家に入る前に、徳蔵がおもむろに口を開いた。
「奇遇だね、僕らも。じいちゃんに話があるんだ。ね? 兄さん」
「ああ……」
「何よ、あんたたち、母さんを差し置いて。私も言いたいことが山ほどあるんですからね」
佐和子がすかさず首をつっこむ。
その日、家族会議が開かれた。
徳蔵のリベラルを決めるための話合いだ。夜遅くまで、家の電気が遅くまで点いていたものの、最後には和やかな笑い声が聞かれたという。
(了)




