一夜だけでも会いに来て
この作品は大切なお友達のイラストから生まれたものです。
―――ねえねえ、みーしゃ!知ってる?
下弦の三日月の夜、丘の上で願うとお迎えが来て、会いたい人に会えるんだって!
すてきなお話、だよね。
みーしゃは会いたい人、いる?
……やっぱり…おかあさん?
*―*―*―*―*
丘上の木々がざわめいている。春の終わりを告げるように、生い茂った葉がぬるい風に揺られている。葉ずれの音は、その存在を主張するかのように大きく、夜の町に響いた。
人気のない丘に、誘われたような足どりの猫が影を落とした。地に伸びる影よりも真っ黒な猫だった。元々は綺麗であっただろう毛並みは薄汚れていて、肉付きは悪く骨ばった身体をしていた。
黒猫は木の根元に座ると、仄明るい空を見上げた。雲一つない月夜だったが、新月が過ぎたばかりの三日月は町を照らすには少々心許なかった。しかしそのお陰で、目を細めることなく真っ直ぐに月を見つめることが出来る。黒猫は――ミーシャは、桜色の瞳に三日月を映したまま、ぴくりとも動かなかった。暫くそうしていたかと思うと、今度はゆっくりと瞼を閉じた。
ひときわ強い風が吹き、ミーシャのひげを揺らす。木々も何かに応えるように葉を鳴らした。再び丘上に静寂が戻る頃、ミーシャの傍にもう1匹の猫が現れた。まるで月の光から生まれたような、綺麗な白猫だった。
「ミーシャ、迎えに来たよ」
すぐ側で聞こえた声に、ミーシャは耳をぴくりとさせた。ゆっくりと瞼を開き、顔を右側に向ける。ミーシャは大して驚きもせずに、ただ白猫を見つめた。白猫もその反応が当然のように、目を細めて微笑んだ。
「私の名前を知っているのね。それなら、貴方の名前も教えてちょうだい?」
「僕かい?……ふふ、名前を聞かれたのなんて初めてだよ。うーん、そうだな…ルナ、とでも呼んでくれ」
「ふざけてるの?」
「ふざけてなんかいないさ。そもそも猫に呼ばれることが珍しいんだ。それに皆、僕に興味なんてないよ」
“ 会いたい誰かさん”のことで頭がいっぱいだからね、と白猫ルナはわらった。それがミーシャには何故か少し寂しそうに見えた。この猫は、孤独なのだ。ミーシャにはそう思えた。
「さて、そろそろ出発しようか。君は誰に会いたいの?桜色のミーシャ」
その言葉を聞いたミーシャは嫌悪感を顔に示した。ルナはきっと自分の瞳のことを言っているのだろうと思ったからだ。ミーシャは自分の瞳が嫌いだった。黒猫はふつう金色の瞳で、おぼろげな記憶の中の母親もきっとそうだったはずで…兄妹もきっと金色のはずで…“ ふつう”じゃない自分の瞳が大嫌いなのだ。
「…やめて。私、自分の瞳が大嫌いなのよ」
「え、どうして?桜の花びらみたいでとっても綺麗なのに。お揃いの首輪もよく似合ってるよ」
「え…?」
ルナの言葉に思わず自分の首元を見ると、瞳と同じ桜色の首輪が黒い毛皮の隙間から顔を覗かせている。ミーシャは大きな瞳をいっそう大きくした。綺麗な桜色の、前にリボンがついた首輪……それはミーシャがかつての飼い主につけてもらったものだ。野良猫になってからしばらくして、いつの間にかなくしてしまったものだ。それがどうして、自分の首に…?
「君が逢いたいのは、それを君にくれた人だね?」
ミーシャの心を覗いたかのようにルナは言った。はっと我に帰り顔を上げると、ルナのすぐ後ろで、さっき自分が見上げていた三日月が眩い光を放っている。逆光でルナの表情は読み取れないが、余裕そうな顔をしているのだろうな、とミーシャは思った。
「…そうよ」
これはおとぎ話だ。月が降りてきて、心を読み取る猫がいて、なくしたはずのものが此処にある。素敵なおとぎ話だ。そして私は望んでおとぎ話に入り込んだのだ。だから、何故なんて聞く必要もないようにミーシャには感じられた。
彼だけ全てをわかっているのが、彼だけ余裕なのが、そしてそんな彼に聞くのが悔しいからじゃないわ、と心で言い訳をしながらミーシャは腰を上げた。
「貴方の首輪も綺麗ね。瞳の色と同じ、月の色」
強がりが少し声色に出ていた。ルナはそれに気付いているのかいないのか、嬉しそうに目を細めて、ありがとう、と言った。
「それじゃあ今度こそ行こうか。時間は限られているからね」
三日月を船にして、2匹は旅立った。だんだんと丘が、家が、街が小さくなっていく。不思議と恐怖感はなかった。ひげを風に揺らし、しっぽを垂らして星の海を眺める。ルナは船長のように三日月の先でぴんとしっぽを立て、前を見据えている。
行きは何も言葉を交わさなかった。
「ミーシャ、着いたよ」
声をかけられて初めて、月が再び地上に降りていることに気付いた。見知らぬ街だ。ミーシャがいたところより建物が多く、高いような気がする。
ルナはぴょんと地面に飛び降りてミーシャを見上げた。ミーシャはそっと前足を地面に下ろし、ゆっくりルナと同じ目線に立った。
「ここ、は…?」
「きみのかつての主人がいる街だよ。ほら、あそこ…マンションが見えるだろ?あの1階の、明かりがついているところに、きみの逢いたい人がいる」
ミーシャはじっと明かりを見つめた。会いたかったはずなのに、いざ目の前にするとよくわからなくなってくる。
「僕はここで待ってるから、行っておいでよ。ただし、月が沈む時間までにはきみの街に帰らなきゃいけないから、それを忘れずにね」
それは彼の中でお決まりの台詞なのだろうか、少し機械的に言うとその場に腰を下ろした。ミーシャが足を踏み出してから1度振り返ると、ルナは部屋に入るところを見届けるかのようにじっとこちらを見つめていた。
月は光を失って、暗闇に紛れていた。
かりかり、窓を引っかく。それでも気付かないので、窓の向こうに聞こえるように、みゃあと鳴いた。
「みーしゃ!」
部屋の中で本を読みながらうとうとしていた少年は、ミーシャの鳴き声に反応してそう叫んだ。両親の姿はないが、同じ部屋にはいないようだ。ミーシャにとっては好都合だった。
「みーしゃ、みーしゃだよね!どうしてここに…僕に、あいに来てくれたの?」
躊躇なく窓を開けて、少年はミーシャを抱き上げた。ミーシャが汚れていることなんて気にもとめず、前のようにぎゅっと抱きしめた。
「みーしゃ、何だかちっちゃくなったね…毛並みもぼろぼろ。ごめんね、みーしゃ…ごめんね…。ぼく、引っ越す前の日までお母さんにお願いしたんだけど…だめだったんだ。ここ、猫はいっしょにいられないって……ぼくが寝てる間に、みーしゃ捨てられちゃって…ごめん、ごめんね…」
最後は泣きながら話していた。ミーシャの毛を撫でながら、何度も何度も、ミーシャに謝ってくれた。ミーシャは懸命に少年の涙を舐めた。
「みーしゃ、会いに来てくれて、ありがと」
ミーシャは丘の上で願った。少年に会いたいと。少年が教えてくれたおとぎ話を信じて。捨てられてもなお、幼い頃に別れた母親よりも逢いたいと思った。
「みーしゃ、だいすきだよ…!」
それは、記憶。
母よりも確かな。
愛した。そして、愛してくれた。
それだけだった。しかし、ミーシャは確かに幸せだったのだ。
*―*―*―*―*
もうすぐ夜明けだ。月が沈み、陽が昇る。
ミーシャはあの丘の上にいた。
「それじゃあ、お別れだね」
帰り道は行きよりも短く感じた。少しの沈黙もないくらいにおしゃべりしていたからだ。ルナがこれまでに“ 運んだ”人の話、ミーシャのお気に入りの散歩道、飽きることなく話し続けた。
「…ありがとう。会えて、よかったわ」
誰に、というのは口にしなかった。
「僕も楽しかったよ」
ルナも、それを聞くことはしなかった。
「「さようなら」」
日の出と同時に、一夜限りの夢は終わりを告げた。
そういえば夏は夜が短いのね…ミーシャは少し損をしたような気分だった。
*―*―*―*―*
丘の上で、夜桜が舞っている。
枯れ枝のようにやせ細った黒猫が木の根元に横たわっている。
もう目を開けるのもやっとのはずなのに、黒猫はじっと月を見つめていた。
黒猫の瞬きと同時に、桜の花びらを全てさらってしまいそうなほど強い風が吹いた。
「ミーシャ、迎えに来たよ」
「……待ちくたびれたわ」
その夜、ある街の少年は、夜空を駆けるふたつの流れ星を見つけた。桜色と月色の流星が、寄り添うように月へ向かって駆けて行った。
少年はその星に、そっと願いをのせたのだった。