トリップ 23 帰りたい場所、守りたい者
その空間は、星空の中を彷徨っているみたいだった。周囲は漆黒の闇で、遠くには小さな光の煌めきがあり、凄く速い速度で動いているはずなのに風圧は感じなかった。だが、ビアンカの精神は驚く程に安定していた。
ビアンカが安心していられる理由は只一つ。それは、強く握り締めた十四郎の手の温もりだった。脚元も見えなくて、視線を逸らせば吸い込まれそうな闇も恐怖の対象にはならない、だって直ぐ傍に確かに十四郎がいるのだから。
やがて視界の先に光が現れ、そこには見覚えのある猫が必死で十四郎の腕を引っ張っていた。
「やっぱりビアンカだ!」
ふいにボーイソプラノが、ビアンカの耳に届いた。
「あなた、メグの所の猫ね?」
「えっ?」
アミラはポカンとした表情でビアンカを見た。確かにビアンカの言葉が分かる、まるで十四郎と話してる時の様に。
「アンタも話せる様になったのか?」
「多分……」
驚くアミラが聞くと、ビアンカは少し笑って首を傾げた。
「まあ、いい。それより早く、こっちに来いよ。もう腕がパンパンだ」
腕を伸ばしたアミラは苦しそうな顔で言うが、ビアンカは嫌そうな顔をした。
「だって、爪を立てるんでしょ?」
「いいから来い!」
アミラはビアンカの袖を思い切り引っ張った。一瞬、視界の天地が逆転し、そのまま物凄い勢いで回転すると十四郎の顔がアップになった。勢い余って十四郎は後ろ向きに倒れ、その上にビアンカが覆い被さる形になった。
「お帰りなさい」
顔が近すぎて焦点が合わないが、十四郎の穏やかな声はビアンカの胸の奥に響き渡る。意志を通り越した衝動、ビアンカは思い切り十四郎の首筋に抱き付いた。胸が破裂しそうな動悸と、全身を覆う震えで言葉が出ない。
「苦しい……ちょっと待って……」
十四郎とビアンカに挟まれたアミラが息も絶え絶えな声を出し、ビアンカは思わず力を緩めた。
「お嬢様!!」
その時、遠くからエミリーが大声で走って来るのが目に入った。慌てて十四郎から離れるビアンカには、エミリーがとても懐かしく感じた。そして、傍にやって来たエミリーを思い切り抱き締めた。
「お嬢様……今まで、何処にいらしてたのですか? 昼前からお探しして……」
抱き締められる理由が分からず、エミリーは不思議そうに聞いた。
「朝から?」
ビアンカにも意味が分からない、小夜達の所で何日も過ぎたはずだった。
「でも、安心しました。奥様もお待ちです、パーティーの準備も整っています。早く、帰りましょう……それと、エミリーは何も見ていませんので」
エミリーは明るい笑顔でスカートを翻し、ビアンカの手を引っ張った。その様子を微笑みながら見守る十四郎に、アミラは溜息交じりの声を掛けた。
「全く……正直、今度は無理だと思ったが……お前は、本物の魔法使いかもな」
「そうですか?」
微笑みを絶やさない十四郎は、無理やりに連れて行かれるビアンカの背中を見詰めた。アミラは大きく背伸びすると、同じ様に笑顔になった。
エミリーに腕は引かれるが、まだ十四郎とまともに話していない、話したい事が山ほどある。
だが、例え二人きりになったとしても思い切り話す勇気はなが、今は胸の内を全て話すチャンスでもある。ビアンカは葛藤を繰り返し、何度も振り返りながら帰って行った。
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屋敷に着くなりビアンカはエミリーの手を離れ、馬小屋に向かった。確かめたい、その衝動は止められなかった。
「シルフィー……私の言葉が分かる?」
驚いたのはシルフィーで、隣にいるアルフィンも目を丸くした。
「どうして……分かる……ビアンカの言葉が分かる」
声を震わせ、シルフィーは身体を震わせる。直ぐに首元に抱き付いたビアンカは、愛おしそうにシルフィーを撫ぜた。
「大好きよシルフィー……」
「私も……」
シルフィーは嬉しくて堪らなかった。言葉が通じる、相手の気持ちがダイレクトに伝わる。それは当たり前の事だが、今までは人と動物という壁が隔てていた。信じている者同士なら、例え言葉が通じなくても分かり合える。
だが、言葉が通じるのならば距離は、もっと近く、もっと身近になる……抱き合ったまま、ビアンカとシルフィーはお互いに感じる体温以上に、相手の気持ちの奥深くに触れていた。
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十四郎が目覚めたお祝いを兼ね、砦遠征の勝利記念パーティーがビアンカの屋敷で行われた。身内だけの小さなパーティーだったが、ビアンカは帰れた事と、もう一度十四郎に会えた事に気持ちは舞い上がっていた。
例によってリルとノインツェーンは喧嘩を始め、ゼクスが止めに入る。ココとツヴァイは、お互いの健闘を祝し乾杯を繰り返していた。
リズはビアンカの隣で例によって十四郎との仲を冷やかし、ヘンリエッタやガリレウスはそんな様子を暖かく見守っていた。
ケイトやメグも初めての貴族のパーティーに最初は戸惑うが、暖かい周囲の雰囲気に次第に打ち解けて、ケイトなどは途中から忙しく働くエミリーを手伝っていた。
「なぁ、もう大丈夫なのか?」
十四郎の足元で、アミラが少し心配そうに見上げた。
「はい……もう、大丈夫です」
微笑み返す十四郎の笑顔は、前と少し違う感じがしてアミラは戸惑った。どこが違うのかと言われても、はっきりは言葉に出来ないが、確かに違うと確信みたいなものは感じていた。
だが、和やかに進んでいたパーティーも、マルコスの登場で雰囲気は一変した。やって来たマルコスはテーブルのグラスを一気に飲み干すと、真剣な顔を十四郎に向けた。
「アルマンニがフランクルに侵攻を開始した。我がモネコストロは、イタストロアの妨害でフランクル支援に向かえない。何より、中立であるはずのエスペリアムに不穏な動きがある」
「今、そんな報告をしなくても……」
割って入ったビアンカは、悲しそうな顔をマルコスに向けた。
「申し訳ありません、ビアンカ様。砦での戦いからお帰りになって直ぐに、この様な事を……」
マルコスにも分かっていたが、事態は深刻な状況に陥っていた。万が一、エスペリアムがアルマンニ側に付けば、イタストロアとの連合軍を相手にする事になり、モネコストロは存亡の危機に晒される。
「私にどうしろと仰るのですか?」
十四郎は真剣な顔をマルコスに向けた。今までの十四郎からは想像も出来ない前向きな姿勢に、アミラは元よりビアンカも驚きを隠せなかった。
「一緒にエスペリアムに行って、国王エイブラハムの説得に協力して欲しい」
マリコスも十四郎に真っ直ぐな視線を返した。
「エイブラハムは賢い男じゃ。アルマンニとイタストロアの連合が、自国に与える影響は計算済みじゃろう……じゃが、エスペリアムを味方に付ければイアタストロアを挟み撃ちに出来るのも確かじゃ」
直ぐに理解したガリレウスは、簡単に要点を説明した。
「しかし、エイブラハムは噂に聞く知恵者。そして、自国の利益を一番に考える賢王、説得は困難かと……」
ツヴァイ知り得る情報で、話の輪に入る。
「しかも、エスペリアムに行くには、交戦中のイアタストロアを通るしか道はありません。海路なら、イタストロアを避ける事も可能でしょうが、イタストロアの海域は多くの海賊達の巣窟です……むしろ、陸路より危険かもしれません」
ココの情報は確かだった。イタストロアの海賊は、その数と凶悪性では類を見なかった。
「ですが、行かなければ国の危機なんですね?」
十四郎はまた、マルコスに視線を向けた。
「聞いたでしょう、十四郎。行くなら陸路、ですが敵の真っ只中なんですよ」
ビアンカも、まさか十四郎が行くと言うとは思わないが、否定的な意見で十四郎の目を見ると、十四郎の目には初めて見る意気と信念があった。
「誰かが行かないと、この国の人々が危険に晒されます」
十四郎は、ビアンカを優しく見詰めた。
「誰かって……また、お前が行くのか?」
呆れ顔のアミラは、足元から十四郎を見上げた。
「交渉は出来ませんが、マルコス殿の護衛くらいならお役に立てます」
アミラに微笑む十四郎の言葉には、迷いなんて存在しなかった。
「我々もお供致します」
ツヴァイ達は跪いて同行を懇願した。当然リルやココも直ぐに賛同し、リズも席を立ち同行を宣言した。
「あんたはどうする?」
今度はビアンカに、アミラが真剣な目を向けた。
「私は……」
ビアンカの胸の中では、繰り返される十四郎の苦悩が巡る。行けば少なからず、戦闘と出くわすだろう……十四郎は仲間を助ける為に、また人を殺め、そしてまた……。
ビアンカは即答出来ずに、そっと十四郎を見た。その真っ直ぐな瞳は、ビアンカの胸に突き刺さる。
「今度は、あんたが十四郎を守る番だ」
さっと、ビアンカの肩に乗ったアミラは耳元で囁いた。胸の中の霧が一瞬で晴れる、モヤモヤしたネガティブの思考が、一瞬でポジティブに変わった。顔を上げたビアンカは凛とした表情で、マルコスを見詰めた。
「良い作戦はお有りですか?」
「勿論です」
マルコスは胸を張ると、笑顔でビアンカを見詰め返した。頷いたビアンカは、部屋の隅で泣きそうな顔になるメグに近付き、腰を落とし同じ目線になった。
「大丈夫、今度は私が十四郎を守るから」
「本当……」
メグは涙を滲ませ、真っ直ぐな瞳でビアンカを見た。その視線を正面から受け止め、ビアンカは優しく微笑んだ。
「ええ、本当……約束する」
そんなビアンカを優しい面持で見守っていた十四郎は、確かに以前とは様子がちがっていた。微笑みの中にある、強い決意と信念みたいなもの……”大切な人達を守り抜く、例え自分がどうなっても”。
それが、十四郎の出した答えだった。
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「ビアンカさんは?」
尋ねて来たエルヴィンは、様子が違う屋敷内を見回した。
「帰られ、ました……」
迎えた小夜の言葉は沈み、勇之進は何も言わなかった。
「何処にですか?」
驚いた顔のエルヴィンは、小夜の沈む表情に不思議な予感に包まれた。
「帰るべき、場所に……」
更に俯いた小夜の肩を、勇之進は優しく抱いた。
「そうだ、ビアンカさんが一番望んだ事だ」
「せっかく手掛かりを見付けたのに」
そう言ってエルヴィンは古い本を取り出した。
「この本は、女騎士と異国の騎士との冒険物語です。この中の国名や、世界観などがビアンカさんの話と酷似しているのです。結末は……」
エルヴィンが結末を話そうとした瞬間、小夜が途中で遮った。胸の中に閃光が煌めく、考える前に言葉が出た。
「待って下さい! その本を私に貸して頂けませんか?」
「これはフランス語で書かれていて……」
困った様な表情で、エルヴィンは首を傾げた。
小夜はまた途中で遮る、その表情は決意に満ちていた。
「勉強します。必ず読める様になって、自分で結末を知ります」
「分かりました」
エルヴィンは穏やかな表情を浮かべると、本を小夜に手渡した。小夜は目を閉じ、大事そうに本を胸に抱いた。
物語の冒頭は、こうだった……。
『女騎士は、ある日突然現れた異国の騎士と出会った。異国の騎士は青いマントを羽織り、その背中には”蝶”の紋章が輝いていた……』
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第二章 完




